このブログを検索

マイ ブログリスト

  • ストーキングは「心理的テロリズム」である - [image: イメージ 1] 1 「被害者にも非がある」という偏見に満ちた決めつけ アメリカ・カリフォルニア州に、リチャード・ファーレーという男がいた。 システムや技術開発を行う最先端企業に入社し、7年目になる海軍出身のエリート社員だが、そこで知り合った女性に想いを寄せ、執拗に誘い、丁...
    4 日前
  • とうふ屋うかい(芝) ―― その日本庭園の美 - 公式ホームページより 「日常の喧騒から離れ、長屋門をくぐると、四季折々に豊かな表情をみせる、広大な日本庭園が目の前に。ゆったりとした数寄屋造りの個室に、和の建築の魅力に触れる、漆塗りの美しい回廊。二百年の時を紡いだ伝統を受け継ぐ、安らぎとおもてなしの空間がここにあります」 これが、東京タワーの膝元に構える、...
    5 日前

2008年11月1日土曜日

ライフ・イズ・ビューティフル('98)    ロベルト・ベニーニ


 <究極なる給仕の美学> 




1  軽快な映像の色調の変容



一人の陽気なユダヤ人給仕が恋をして、一人の姫を白馬に乗せて連れ去った。

映画の前半は、それ以外にない大人のお伽話だった。

お伽話だから映像の彩りは華やかであり、そこに時代の翳(かげ)りは殆ど見られない。

姫を求める男の軽快なステップが、ミュージカルの律動で銀幕を駆けていく。

男は姫を奪ったのではない。

「卒業」の青年のように、秩序破壊のメッセージの含みもそこにはない。

男はただ、姫をお伽の国に運んだに過ぎないのだ。

だから前半のテーマは、「お伽の国へ」というフレーズこそ相応しいだろう。

このような軽快な映像の色調が、後半に入って突然変貌する。

少しずつ映像が褪せてきて、時代の陰翳を写しとっていく。

変わらないのは、姫に対する男の愛情だけである。

男は姫との間に一粒種を儲けていて、家族が自転車で坂を下る微笑ましい描写の中に、時代の澱みと無縁にステップするお伽の住人たちの明朗さだけが浮き上がっていた。

そこに一片の衒(てら)いも虚勢もない家族の明朗が、映像をずっと救ってきたのだが、当局のユダヤ人狩りの難に遭う瞬間から、映像は明らかな変調を示していく。



2  妻子から収容所のリアリティを削り取る男の孤軍奮闘



男と愛児は絶滅収容所行きの貨車に乗せられ、男は愛児をガードするだけの余裕しか与えられないのだ。

貨車の中で、男はひたすら我が子をガードする。

ユダヤ人でない妻も二人を追い、貨車に跳び乗った。

家族を乗せた貨車が復路のない旅を終え、閉ざされた空間に呑み込まれたとき、「愛する者を守る男の物語」が開かれたのである。

絶滅収容所には生活がなかった。

多くの人々の群れはあったが、当然そこには希望がなく、時間がなく、繋がりすらなかった。

苛酷な強制労働以外にない地獄の中で、男は愛児に「日常生活」を保証しようとした。

地獄を遊技場に読み替えて、そこに希望と時間と繋がりを仮構したのである。

妻と切り離された男にとって、今はただ、我が子を守ることだけが人生の全てであった。

男の視線には、妻子の像しか捕捉されないのである。

こうして、男と我が子の綱渡りのようなゲームが始まったのだ。

男は愛児の自我に、収容所のリアリティを刻印するわけにはいかなかった。

愛児がそろそろ、過去をリアルに記憶できる年齢に達しつつあったからである。

収容所が内包するであろう地獄の様相を、愛児の自我に外傷化させないため、男はゲームを寸時でも中断させるわけにはいかなかったのだ。

男もまた、そこに生活を得たのである。

希望を得たのである。ウィナーになったら戦車をもらえるというゲームの中で、男は繋がりを確保したのである。

房を隔てた舎内にいる妻に、妻の好きな音楽を、男が届ける描写はひどく胸を打つ。

ショーシャンクの空に」(注)をパクったかのようなこの描写は、しかし「ショーシャンク」のスーパーマン氏に溢れていた、普遍的なヒューマニズムを衒(てら)ったものではない。

男は唯、妻に生活の律動を失って欲しくなかっただけである。

地獄の中で、家族の繋がりの可能性を一途に確認したかったのである。

男は収容所にあってさえも、家族の時間を継続させずにはいられなかったのだ。



3  絶滅収容所という名の負の極点をカジノに替えた男



男の綱渡りのゲームにも、終焉の瞬間(とき)がやって来た。

連合軍の進撃によって絶滅収容所の自壊の危機が高まったとき、男は愛する妻を奪回するための挙に打って出たのだ。

しかし愛児を守りつつ、姫を探すという、男が最後に放ったゲームでの博打はあまりに危う過ぎた。

男の露出は過剰過ぎたのだ。

男は残った兵に捕捉され、射殺されてしまったのである。

男によって隠された愛児は、男の死を知らない。

だからゲームの終りを知らない。

敵兵の去った収容所の束の間の静寂に、愛児は立った。静寂を破ったのは戦車の足音だった。

愛児はゲームの終りを確信した。父は間違っていなかったのだ。

ゲームを勝利に導いた報酬が、遂に届いたのである。

戦車が止まって、米兵が降りて来た。

そして愛児を抱えて同乗させ、ビクトリーロードを駆け抜けていく。

戦争とゲームの勝利が重なって、夢心地の中で戦車は駆ける。

そして、母との劇的な再会。

ゲームオーバーの向うに待つ報酬の大きさに、父の死を知らない愛児は束の間酔っていた。

ゲームを達成した満足感の中に、未だ不幸なる認知がヒットしてきていないのだ。


父は我が子に、まるでゲームに酔う時間を残しておいたと言わんばかりだった。

映像が閉じ、余情が広がった。

愛児をゲームのウィナーにすることによって、この受難劇は完結したのである。

ゲームの始まりに父がいて、ゲームの終りに愛児が残った。

愛児を残すためのゲームの本当のウィナーは、愛児の父だった。

人類史上最も苛酷な経験をステージにした、際どいゲームを突き抜けた映像の覚悟は潔く、印象的なまでに切なかった。

滑稽と哀切の繊細なる振り子の中で、饒舌と諧謔で抜け切った男の生きざまに集合する、「愛する者を守り抜く」という堅固な感情が、一筋の強靭な意志のうちに束ねられて、映像は何か言い知れぬ重量感をそこに残していった。

男の意志を通して映像が残したイメージを勝手読みすると、極限状況下に置かれた子供へのトラウマを回避させることだけが、無力な大人たちの唯一の倫理的義務であると把握できなくもない。

男は愛児の現在を守り、その未来をも救済しようとしたのではないか。

愛児の未来にトラウマを残さないという一点によって、絶滅収容所という名の負の極点を、男は少々厳しい試練含みのカジノに替える必要があったのだ。

愛児の未来まで網羅した父の、その愛の守備範囲の広さに、私たちは、節榑(ふしくれ)立った時代の航海に向かう男たちの括りのさまを読みとることが可能であるだろう。



4  究極の給仕の美学



「ライフ・イズ・ビューティフル」は、守るべきものを固く持つ男の映画であった。

守るべきものを持つ男の愛はあまりに深く、まるで給仕であった男の人生が、愛する妻子を守るためだけに、この世に存在するかのような異様な輝きを放つ。

妻子を守れずして、どこに男の在り処があるのか。ここぞというときに退路を断って、ここぞという何かをそこに放つ。

男の給仕人生は、男の死によって完結した。

これは、「究極の給仕の美学」を描き切った映像でもあったのだ。

然るに、男の在り処を問うような映像は、もう喜劇仕立ての寓話にでもしない限り、消費社会の気忙しい隙間に侵入できないようである。

それでもスーパーマンを量産して止まない、ハリウッドの突き抜けて過剰なラインの中では、切り口の鮮度を愉しむことができるだろうか。

歴史の重量感にそぐわないような、軽快なステップによって犠牲にされたリアリズム。

それが生み残した危うい緊張が、まさにその不均衡の故に鮮烈な余情を残す。

守るべきものを持つ者の脆さではなく、その強(したた)かさと健気さを滑稽含みで描き切った覚悟が凄みを生んで、一定の映像的達成を導いたと言える、そんな快作だった。

良くも悪くもそれ以上でもないし、また、それ以下でもない快作として、一見の余地が少しばかりはあるだろうか。


(注)1994年・フランク・ダラボン監督。原作はホラー作品の多いスティーヴン・キングだが、映画の内容は、冤罪によって刑務所に収監された主人公が、度肝を抜くような脱出行を成功させるヒューマンドラマに仕上がっていた。

(2006年2月)

0 件のコメント: