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2010年1月31日日曜日

処女の泉('60)   イングマール・ベルイマン


<「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>




 1  「大罪」を背負い切れない者が最後に縋りつくもの



 独りよがりの観念論を声高に叫んだり、或いは、不毛な神学論争に決して流れたりすることなく、人間の心の奥にあるものを容赦なく抉り出し、キリスト教的で言う、神の主権への背反を意味する、所謂、「原罪」概念に集合する衝迫で、「邪悪」なる感情世界の破壊的暴力性を、ここまで描き切った映像の鮮烈な表現力に、私はただ打ち震えるだけである。

 無辜(むこ)の罪で殺害される幼気(いたいけ)な少年の凄惨なエピソードに象徴されるように、本作は人間ドラマとしても秀逸なのだ。

 また本作には、カトリック信仰の中で言われる「七つの大罪」が全て包含されていて、それぞれの人物が、それぞれの「大罪」を背負って、その「大罪」による「罰」への認知から逃避できない薄皮一枚の危うい心理を、自分の力で支配し切れない運命に流されていく物語の陰惨さは、殆ど類例がないほど抜きん出ていた。

 因みに、カトリック教会のカテキズム(公教要理)で言う伝統的な「七つの大罪」とは、「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「貪欲」、「暴食」、「色欲」のこと。

 物語の主要な人物、とりわけ、豪農の敬虔深い夫婦(テーレとメレータ)と、「身重の召使」と蔑まれる下女(インゲリ)は、この「大罪」を背負い切れないで、彼らが最後に縋りつくのは、一神教としての絶対神であったというオチがついていたが、その辺りの背景についての言及こそが本稿の基幹テーマになるだろう。


 後述するが、北欧神話をベースにした、ウラ・イザクソンとの共同脚本による89分の物語は、テーマ性に関わらない一切の不要な描写を削り取るという、作り手の問題意識を堂々と開陳したあまりに簡潔な映像であった。



 2  「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格によるプロットラインの貫流



 その簡潔な物語は、数行で説明できるだろう。

 舞台は、近世を間近にした中世のスウェーデン。

 母親のメレータの熱心な督促もあって、信仰深い豪農の娘カーリンが、ローソクの寄進に向かわせる教会への旅程で、親のいない山羊飼いの兄弟たちに凌辱された挙句、撲殺され、その娘の父であるテーレが復讐するというだけの話である。

 ただ映像の最後に、娘の両親が、その亡骸を抱き上げた場所に泉が湧いてくるという、そこだけは、ベルイマン信者による熱心な論議を呼びそうなラストシーンが用意されていた。

 以下、本作のテーマ性に即して映像をまとめてみたい。

 キリスト教化以前に存在した土着信仰を集約した北欧神話をベースにした本作で描かれた、件の神話の最高神であり、「戦闘神」でもあるオーディンの存在は、キリスト教にとって排除すべき異教神である。

インゲリ(左)とカーリン
その象徴が、豪農である両親の命を受けて、教会にローソクの寄進に行くことになった一人娘のカーリンを呪詛する、父なし子で淫乱な下女のインゲリ。

 本作の中で、教会への遥かな旅程の中で、インゲリをオーディン神信奉の仲間であると見抜いた男が登場する場面に見られるように、彼女は明らかにキリスト教と対立する異教神の具現的人格として描かれている。

 「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格が本作を支えていて、この形而上学的な問題提起こそが物語のプロットラインを貫流していると言っていい。


 即ち、長旅の過程で出来したカーリンのレイプ事件と無惨な死、更に、その事件を目撃しながら何もできないインゲリと、「大罪」を多く背負う、事件の主謀者である山羊飼いの兄弟たち(「山羊」は、「七つの大罪」の中で「色欲」を象徴すると言われる)が、敬虔なキリスト教徒(豪農)との敵対関係の中で、遂に、カーリンの父親であるテーレによって犯人の3兄弟が殺害されるという陰惨な構図が、物語の基幹を支え切っている。

 
  深い森の藪の中の悲劇を描いた「羅生門」の模倣ともとれる本作が、「羅生門」と別れるのは、ヒューマニズムを基調とした黒澤の映像世界と異なって、ここでは、明瞭に「キリスト教」という、一神教の在り処を巡る形而上学的なテーマが基調となっているという点にあるだろう。

 「神の沈黙」の問題を世に問うたイングマール・ベルイマンの本来の問題意識が、本作では、「処女の泉」の描写に象徴されるように、異教神を征伐するキリスト教の勝利とも思えるラストシーンに流れていったのは、彼の映画に親しんできた者に混乱を与えたかも知れない。

 因みに本作には、異教神の具現的人格としてインゲリが、敬虔なキリスト教であるテーレの前で懺悔する象徴的なシーンがあった。

 以下、殺害されたカーリンを置き去りにして、館に戻ったインゲリの懺悔。

 「殺して下さい。悪いのは私です。憎かった、カーリンのことがずっと。だから、オーディンに災いを祈った。あの3人は悪くないわ。オーディンに操られて、あんなことをしただけ。カーリンを抑えつけて、辱めた。犯されればいいと思った。あいつらが彼女を犯して、棒で打ち殺すのを、黙って、ただ見ていた・・・」

 それまで悪態をついていたインゲリは、映像のラストにおいて、打って変ったようにキリスト教徒の前で従順になっていくが、まだこのときは、懺悔を吐露するネガティブな感情を超えるものではなかった。

 彼女は、翌日、豪農夫婦と召使たちを随伴して、カーリンの遺体探しの旅を先導させられる羽目になった。

 インゲリの従順と敗北の象徴的シーンは、ラストシーンで、「泉」にシンボライズされた「聖水」を、繰り返し顔を拭う描写の内に自己完結するに至ったのだ。



 3  「贖罪の拒絶」 ―― 「神の沈黙」に対峙した映像作家の真骨頂



 インゲリと同様に、神の主権への背反を濃厚に記録した「嫉妬」についての「大罪」については、信心深いメレータの、夫への懺悔の中でも拾われていた。

 「あの子を独り占めしたかった。あなたに甘えるのを見て、嫉妬したわ。だから罰が加わったのよ。私のせいよ」
 「罪の在り処は、神だけがご存じだ」

 妻の懺悔を受容するテーレは、なお神に全面依拠する言葉を返すのみ。


 その前夜、彼は無辜(むこ)の少年(注)を投げ飛ばして、殺害した後、「神よ、赦したまえ」と言い放ったのである。


(注)3兄弟の末弟で、カーリンへのレイプと殺害に全く加担していなかったどころか、事件を目撃したばかりに恐怖で震え慄いていた。偶然、宿となったテーレの邸での食事にも手を付けられず、吐き下すだけ。その不自然さに、凶暴な兄たちに折檻されるという不幸を味わった挙句、眠りに就けない早暁に、復讐の鬼と化したテーレに殺害されてしまうのだ。


 インゲリの先導によって娘の遺体の場所に辿り着いたメレータは、カーリンンの亡骸を抱き締めて、いつまでも号泣していた。

 そして、二人から離れたテーレは、大地に平伏(ひれふ)した後、本作の掉尾(とうび)を飾る決定的な言葉を結んだのである。

 「神よ、なぜです。見ておられたはずだ。罪なき子の死と、私の復讐を。だが、黙っておられた。なぜなのです。私には分からない。だが、私は赦しを乞います。でないと、私の行いに耐えられない。生きていけない。ここに誓います。我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます。罪を償うために、必ず建てます。私のこの手で・・・」

 映像のラストシーン。

 両親が娘の亡骸を持ち上げたところから、泉が湧いてきて、前述したように、インゲリがその聖水で顔を拭う描写を挿入することで、テーマ性の言及が完結するに至ったのである。

 しかし、この鮮烈な映像を、このようにも把握できるだろう。


 
 無辜の少年を殺害するに至ったテーレが犯した罪が、安易な贖罪によって神の赦しを得るという一連の行為それ自身を、本作は柔らかに拒絶する含意を持つ映像であったと見ることも可能である。

 
ある意味で、「贖罪の拒絶」こそ、「神の沈黙」に向き合い、対峙する作品を発表し続けて来たイングマール・ベルイマンの真骨頂と言えるからだ。


 「我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます」と誓った男が、神の恩寵を目の当たりにしたという幻想を信じるレベルの精神構造を持つ男の未来には、恐らく、悠久の平和など訪れないであろう。


 ベルイマン(画像)は、そこまでの含みをラストシーンに持たせたか否か知らないが、少なくとも、私はそのように読解した次第である。

 そうでなければ、「神の安売り」を許容する文化の欺瞞性こそが問われてしまうのだ。

 そういう映画ではなかったのか。

 「過剰なる復讐の爆発」を許容する宗教の有難さを認知する、突き抜けて厄介な精神的風土に身ぐるみ搦め捕られた状態で、イングマール・ベルイマンという類稀な映像作家が〈神〉との内面的闘争を継続させてきた訳がないからだ。

(2010年1月)

1 件のコメント:

ルミちゃん さんのコメント...

悪魔を信仰するインゲリと、神様を信仰する父親.
父親は天を見上げてこう言った.「私にはわからない」
父親は、インゲリがなぜ許されたのか良く知っていた.だからこそ、自分がどうしたら許されるのか、わからなくて当然です.