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    1 日前

2010年10月27日水曜日

バグダッド・カフェ('87)       パーシー・アドロン


<「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂>



  1  疲弊し切った二人の女の邂逅の象徴的構図



 
本作の作り手が、構図に拘る事実を印象付ける象徴的なシーンがあった。

 
ブレンダとジャスミンの、初対面のシーンである。


まるで商売っ気がなく、鈍重な夫を追い出し、ハンカチで涙を拭うブレンダと、反りが合わないのか、喧嘩ばかりの夫を見限って、一人夜の砂漠を歩き果てた疲労感で、ハンカチで汗を拭くジャスミン。


 
疲弊し切った二人の女が、画面一杯にシンメトリーに向き合って、奇妙な均衡を保持する構図こそ、そこから開かれる「砂漠の奇跡」の物語のシグナルになっていくのだ。

 そこは、色彩と光と風の自然の造形美を映像構築して見せた、乾いた砂漠の中枢に位置する唯一のオアシス。

ジャスミン(左)とブレンダ
その名は「バグダッド・カフェ」。

 しかし、唯一のオアシスであるはずの「バグダッド・カフェ」は、砂漠に生きる者の厳しさを内化し、そこで充分な「潤い」を自給する場所としての機能を果たしていなかった。

 働く意欲のない店員、遊び盛りの女の子、生まれたばかりの子供の面倒を母に押し付け、自分はバッハの肖像の前で、一日中ピアノを弾く息子、そして、そこにやって来る疎らな客もどこか風変わりな御仁たち。

 全く役立たずの夫を持つミストレスのブレンダだけが、「バグダッド・カフェ」を切り盛りしているが、一日中、不平不満のシャワーを浴びせて、彼女のストレス瓶は今や飽和状態と化し、突沸(とっぷつ)寸前だった。

 ワースレスな夫を追い出した女と、夫から逃れた女の初対面の象徴的構図は、彼女らにとって殆ど最悪の状況下での邂逅だったのである。



 2  「自由の国」での、「異邦人」に対するミストレスの受容



 はち切れんばかりのストレスに疲弊する女と、空疎な心を潤沢にしたいと願う二人の女がクロスしても、折り合うことは全くない。

 それに加えて、誤って夫のスーツケースを持って来たばかりに、「バグダッド・カフェ」のミストレスから疑われ、保安官の簡易訪問を受ける始末。

 「法律を破りさえしなければ、自由の国だ」

 ネイティブの保安官が、ブレンダに放った一言である。

ロケ地となった「バグダッドカフェ」
その一件によって、法的に庇護された安心感からか、「潤い」を求めるドイツ女は、少しずつ、「バグダッド・カフェ」を本物のオアシスに変えていく。

 ドイツ女のジャスミンは、初めからそのような目途を持って「オアシス革命」を開いた訳ではないが、夫の元に帰還する意志を持たない彼女には、そこで自分の能力の及ぶ範囲で、自分の理想とするイメージの世界を現実に移していくのだ。

 まず、他人の店のオフィスを勝手に掃除することで、その場所を、自分で思い描いた「バグダッド・カフェ」に近いイメージに変えようと試みるが、当然、ミストレスからの怒りを買う。

 それに懲りないジャスミンは、ブレンダの子供たちの曇りを知らない心のうちに、持前の天然性を発揮してナチュラルに入り込んでいく。

 砂漠の中枢にあって、恰もその砂漠の風景にフィットしたかのような関係を形成している、この「バグダッド・カフェ」の中で潤いを求めるドイツ女には、その心が子供たちに通じる能力を持つのだろう。

 
ジャスミンの闊達な気性が功を奏して、「バグダッド・カフェ」に集う面々から受容されていくが、そんな彼女を受容した最後の人物がブレンダだったのは、交叉の経緯から言えば当然至極の流れであった。

 「自分の子と遊びな」とブレンダ。
 「いないの・・・」とジャスミン。

 ジャスミンのこの一言は、「異邦人」に対するブレンダの受容を決定づけた。

 「言い過ぎたよ。仕事に追われて、それに子供たち・・・亭主は出て行くし・・・」

 ブレンダの受容の一言もまた、彼女の本来的な包括力を検証したのである。



 3  「この世の何処にもない場所」としての、「バグダッド・カフェ」での「オアシス革命」の成就



 ジャスミンは自分に好意を持つ、ハリウッドで背景画家を務めていたと言う、ルーディの絵のモデルになる傍ら、マジックのレッスンに励んでいた。

 まもなく、それをマスターしたジャスミンは、間髪を容れず実践に移していくことで、「バグダッド・カフェ」をオアシスに変容させる「オアシス革命」に着手した。

 ジャスミン自身の自覚とは無縁に、彼女は「女マジシャン」を立ち上げて、この「オアシス革命」の推進力になっていったのである。

 風景が変容することで、そこに集う者たちの活力が引き出されていく。

 本来的に、「この世の何処にもない場所」としての「バグダッド・カフェ」は、光と風と色彩の見事な自然の造形美に囲繞され、そこだけが特別に切り取られた幻想のスポットだった。

 乾燥し切った「潤い」のない場所に、適度な湿潤性を与える映像は、その中で、「自分充分」という律動感で生きてきた者たちの日常性に、「人生はゲームである」と思わせる余裕を作り出したのである。

 「オアシス革命」の成就である。

 これは、「この世の何処にもない場所」を、人間が「遊び気分」で生きるに足る「潤い」を自給する場所に変容するマジックの映像なのだ。

 そこには、シビアなリアリズムが侵入する余地はない。

パーシー・アドロン監督
本作の作り手は、そういう映画を構築したのである。



 4  気怠くも、暑苦しくない心理的距離感に馴染んでいた女の離脱



 この映画で興味深いのは、女刺青師のデビの存在である。

 彼女は、「女マジシャン」としてのジャスミンが「バグダッド・カフェ」に出現して以来、物理的距離を最近接させながらも、心理的距離感において遥かに隔たっていた。

 従って、ジャスミンの推進力によって成就した「オアシス革命」で仮構された共同体に馴染めなくなった彼女は、必然的に「バグダッド・カフェ」を去る運命になったのである。

 「仲良し過ぎる」

 共同体からの離脱を知って、慌てて駆け付けた仲間に放った、デビの一言である。

 デビの存在によって相対化されることで、「この世の何処にもない場所」としての「バグダッド・カフェ」の共同体の仮構性が、却って露呈されていたとも言えるのだ。

 更にこの事実は、デビがジャスミンが出現する以前の「バグダッド・カフェ」の、気怠(けだる)くも、暑苦しくない心理的距離感に馴染んでいたということを意味するだろう。

 恐らく彼女は、件の「バグダッド・カフェ」の無秩序性の中で延長させてきた関係性を、ジャスミンが捨ててきた超高層の林立する近代都市の片隅等のうちに、再び潜入するために移動したのではないか。


 このような物語の設定を予想させるが故に、本作は限りなくファンタジー以外の何ものでもないのだ

 ギトギトしたリアリズムが削られたファンタジーだからこそ、このハートフルムービーの柔和感によって癒されると吐露する数多の人々の支持を結んだのだろう。



 5  「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂



 本作は、マジックを駆使することで風景が変ることをテーマにした映像でもあった。

 それ故、こんな読解も可能ではないだろうか。

 見よう見真似でマジックを駆使することを覚えて、それを「営業」に役立てることに成就した「女マジシャン」が、観光ビザの期限が切れて祖国ドイツに帰還してしまったら、途端に「熱狂が去った祭りのあと」のように、「バグダッド・カフェ」の風景は振り出しに逆戻りしてしまった。

 これは、マジックを駆使することで風景を変える能力を保持する者が消えてしまえば、もうそこには風景の変容が出来しない現実を意味するだろう。

 マジックを駆使することで風景を変える能力を保持する者と、その能力を保持しない者たちの差は、恐らく、「オアシス革命」への熱情の差であると同時に、「日常性」の変りにくさの差であると言っていい。

 それは、自分の身体に存分に馴染み過ぎてきた、「自分サイズの相応の日常性」の変りにくさであるだろう。

 マジックを駆使することで風景を変えることへの飛翔は、「日常性」の変りにくさを限りなく砕いていく熱情と覚悟こそ求められる。

 マジックを駆使することで変えられた風景は、「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちには、限りなく「非日常」に近い風景なのだ。

 だから、彼らは「女マジシャン」を、「アメリカ市民」に変容させる必要があったのである。


 「アメリカ市民」に変容させた「女マジシャン」が、再び構築する「第二次オアシス革命」は、少しずつ、 「日常性」の変りにくさの中で呼吸を繋いできた者たちが開いていく「非日常」の時間を、新しく改造された「日常性」のうちに立ち上げていくだろう。

 しかし、そこに至るまでは、「女マジシャン」の能力を借用する必要がある。


 だから暫くは、ホリー・コールによる、「CALLING YOU」という主題歌で歌われた世界を必要とするのだ。 

 この砂漠の道は、ベガスからどこへ?
 今までよりきっとマシな所
 修理の必要なコーヒー・マシーン
 ハイウェイ沿いの小さなカフェ

 聞こえる?あなたを呼ぶわたしの声が
 聞こえるでしょ?
 熱くかわいた風が 身体を通り抜ける
 赤ん坊の泣き声が 眠りを妨げる
 感じるでしょう?何かが変る
 すぐそこに 新しい幸せが              (「日本コロンビア株式会社 ビデオ版より)


 「聞こえる?あなたを呼ぶわたしの声が」と誘(いざな)て止まない、「女マジシャン」という名の「奇跡を起こす現代の神」を必要とする面々が構築するだろう、ゲーム感覚で愉悦し得るに足る、新しく改造された「日常性」の立ち上げまでの行程の困難さが、ハッピーエンドのラストシーンのうちに既に予約されていたのである。

 「第二次オアシス革命」への、そんな斜め読みも可能な物語の括りではなかったか。

 「浮世の悩みはマジックで消える」


 或いは、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂を想像するに難くない、マジックショーでのブレンダのハイテンションな歌声が、ラスベガスとロサンゼルスを結ぶ砂漠の中枢のスポットで木霊するとき、改造された「日常性」の立ち上げまでの行程の困難さを、相応に希釈化させるに足る身体表現であると読むべきなのか。

 一切は、観る者の自由であるだろう。

(2010年11月)

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