2008年10月27日月曜日

息子のまなざし('02)       ダルデンヌ兄弟


<男の哀切な表情を凝視して―― 或いは、くすんだ天井の広がり>



序  「イデオロギー性の濃度」から距離を置き、一切の映像的装飾を剥ぎ取った秀作



「息子のまなざし」という映画を観終わったときのあの感動を、どう表現したらいいのだろうか。

寡黙な映画に相応しく、電動ベッドの上を覆う「くすんだ天井」の広がりを、私はただ漠然と見つめていた。その後からゆっくり、冷たいものが数滴頬を濡らした。それだけだった。しかし私の心は、何か深いところに束の間侵入できたような感動に充たされていた。

明らかにその深さは、驚くほど台詞が少ない映像が、本来的に持ち得た表現力の深さに因っていたのである。

ダルデンヌ兄弟。ベルギーの俊英な監督である。

この人の作品を観るのは三度目だが、本作は作り手の他の作品とどこかで一線を画する内容を含んでいて、正直、完全に圧倒された。

空疎で、独善的な左翼系の監督が蝟集(いしゅう)する文化フィールドにあって、明らかにその空気を感じさせるテーマを映像化させながらも、その中で呼吸する者のリアルな感情を深々と表現することに成就した数少ない作家、それがダルデンヌ兄弟であると言っていい。

そんな彼らの問題意識を支えていると思われる、言わば、「イデオロギー性の濃度」から相対的に距離を置いて作り上げた作品こそ、「息子のまなざし」という名の秀作だった。そう思うのだ。

自分が最も憎むべき者を、人間は果たしてどこまで受容できるのか。

非日常的だが、人の一生の中で決して起こり得ないとは言えない最も人間的なテーマを、殆ど真っ向勝負のような形で、この作品は観る者に問いかけてくるのだ。

この作品が凄いのは、テーマに直接関らないような、一切の映像的装飾を剥ぎ取っているところである。

ハリウッド映画を例にとるまでもなく、いつも余計なものが映像に侵入してきて、その不必要な賑やかさが確実に映像の純度を汚くしてしまう何かが、この作品にはないのだ。余計なものが入り込んでしまう分、肝心なものが劣化してしまうことによる拙劣さから、本作は決定的に解放されていたのである。少なくとも、趣味の問題から言えば、本作は私自身の了解ラインを充分に充たす一篇だった。



1  腹部に巻いたコルセットを取って、腹筋を繰り返す男



―― 以下、「息子」というシンプルな原題を持つ映像の、シンプルなストーリーラインを追っていこう。


職業訓練所で木工を指導する中年男がいる。名はオリヴィエ。

彼のもとに新人が入所して来ることになった。勿論、少年たちばかり。彼はその名簿を見て、「もう4人いる。こっちは無理だ」と断った。手持ちのカメラは、彼の後姿か横顔を映すのみで、その表情を伝えない。

しかし、一瞬振り向いたその顔には、動揺が見え隠れしていた。

彼は喫煙しながら、新人たちの様子を覗いに行く。

彼は映像に映らない少年の姿を見て、慌てて教室に戻って来た。走って来たのである。教室に戻った彼は、いつものように少年たちへの指導を続けていく。その態度は、既に職業訓練所の指導教官の普通の振舞いを見せていて、そこに特段の感情の乱れを窺わせるものは微塵もなかった。

「次は窓枠だ。縦横6.5センチの木材を使え」

オリヴィエの的確な指示で、少年たちは作業を続けていく。突然、彼は教室を離れて、何かを覗うような素振りで別の教室に出向いたが、映像はそれ以上語らない。

恐らく昨日もそうであったように、彼は定刻どおりに帰宅した。

オリヴィエ
そこには、誰も待つ者はいなかった。代わりに多くの留守電が、彼を迎えてくれる。その中には、職業訓練所の少年の声も混じっていた。それは、彼が訓練所で信頼されている様子を示すようにも思われる。

そこに一人の訪問客。女性である。

「さっき下で見かけたわ」
「そうか、気づかなかった・・・コーヒー飲むか?」
「いらない」 
「スープは?」
「いいの・・・まだ勤めてたのね・・・背中は痛む?」

円滑に進まない会話。理由は判然としない。

「座れよ」とオリヴィエ
「いいの」と女性。
「再婚するの。やり直そうと思って・・・」

彼女は、男にそう言った。

「良かった」

男の答えは一言。感情が殺されているのか、その心理を窺うことができない。

「あなたは誰かいないの?」
「ああ・・・まだスタンドで?」
「ええ・・・それと・・・子供が生まれるの」

女性はそう答えた後、場面は一瞬にして変わった。男はアパートの階段を走り降りて、女が運転する車の発進を止めた。

「なぜ、今日来たんだ?」
「話そうと思って・・・」
「なぜ、今日なんだ?」
「水曜定休だから」
「なぜ、今週なんだ?」
「検診の結果が出たからよ」
「そうか・・・」

男は一言呟くのみ。車は発進されて行った。

その夜、男は職場に電話した。

「今朝、言ってた木工クラス志願の子は?溶接クラスに?また明日」

電話を切った男は、自室で懸命に体を鍛えている。腹部に巻いたコルセットを取って、腹筋を繰り返すのだ。何かが、寡黙な男を突き動かしているようにも見える。



2  引き受ける男、動揺する女



翌朝、コルセットを閉めた男は訓練所の中で落ち着かないでいる。定まることのない男の視線は、一人の少年に向けられているようだった。彼は訓練所の事務室に出向き、昨日の電話の用件を伝えたのである。

「昨日の新入生、良ければウチのクラスで」
「そう、直接話して」
「すぐに?」
「溶接は合わないみたいだから」
「分った」

教室に戻ったオリヴィエは、一心不乱に一人の少年を見つめている。見つめ続けている。全く視線を切らないその先に映った少年の身体は、疲れて横になっている姿のみ。

「木工をやりたいか?起きろ。俺と一緒に来い」

少年は、オリヴィエの後を黙々とついていく。

「ロッカーだ。錠前は自分で買って、荷物を入れろ。身長は168か、169か」
「69」と少年。寡黙である。
「着てみろ」とオリヴィエ。

教師もまた寡黙である。それ以外の会話は出てこないのだ。

オリヴィエは、少年を大工姿に着替えさせた。

少年に道具を与えて、少しずつ木工仕事の要領を教えていくが、相変わらず余計な会話は出てこない。教室でのオリヴィエの指導は的確で、厳しくもあった。しかし他の四人の少年たちは、彼の指導を当然のように受け入れていて、信頼し切っているようにも見える。

その日の夕方、オリヴィエは昨日の女性が働いている店を訪ねた。

「子供ができて良かったな・・・子供の性別は分ってるのか?」
「知りたくないから」
「あいつが出所した。訓練生として学校に来た」

オリヴィエのこの言葉が意味するものの内容は、映像を観る者には充分に想像できるものであった。しかし相手の女性には、この言葉は切っ先鋭い刃物のように、その心を突き刺す危うさを持っていた。

「どうして・・・彼と分ったの?」
「願書を見たんだ」
「それで学校には?」
「話してない。クラスが満員で採らなかったから」
「また来るわ」
「よそへ行った」
「どこへ?」
「知らん」 
「会ったの?」
「採るべきか悩んだ」
「なぜ?」
「木工を」
「教えるの?息子を殺した男よ!」
「少し思っただけだ」

男は「悪かった。すまん」と言って、女の店を後にした。

女は「もう二度と来ないで」と答えたのみ。

オリヴィエとマガリ
男と女は、かつて夫婦だったのである。妻の名はマガリ。

そして少年の名は、フランシス。このフランシスが、オリヴィエとマガリ夫妻の幼児を殺害した犯人であって、恐らく少年院を退院して、オリヴィエの働く職業訓練所に新人として入所して来たのである。

オリヴィエは、そのことを伝えに元妻の働く店にやって来たが、話の途中で激しく動揺する相手を見て、巧みに嘘をついたのだ。マガリには不安がよぎったのか、店を出たオリヴィエの後を追って、厳しい口調で促した。

「訓練校を辞めて!なぜ弟さんと働かないの?」
「教えるのが好きなんだ」
「また来たら?」
「来ないさ。心配するな」
「オリヴィエ、大丈夫なの?」

会話はそれだけだった。

オリヴィエは、ここでも嘘を貫き通した。マガリの精神状態を確かめたからである。

彼は恐らく、マガリの心的外傷の状態を確認するために、元妻の店を訪れたに違いない。そこで得た結論は、フランシス少年の問題を自分の内側にのみ抱え込むというものだったと思われる。



3  匠の技を披露する男、憧憬する少年 



立ち寄ったハンバーガーショップを出たところで、オリヴィエは偶然少年と出会った。

「先生も夜食ですか?」

少年もハンバーガーを買いに来たのである。オリヴィエは車の中から出て来て、バーガーを頬張っている。 少年が近づいて来た。

「パッと見ただけで身長を当てた・・・不思議でした」

バーガーを頬張る二人の沈黙を破ったのは、フランシス少年だった。

「慣れだ」とオリヴィエの一言。
「この白い敷石から、赤い車のタイヤまで長さは?」
「3メートル51」

オリヴィエはこのとき、指導教官になっていた。

暫く地面を見つめた後、彼は明瞭に言い切ったのである。不思議がった少年は、自分のメジャーでその長さを測った。

「3メートル52」

少年は驚きの表情の中で、他の計測をも求めていく。

オリヴィエは、それに難なく答えを出す。少年はプロの大工の匠の技を見た思いであった。このような感動は、かつて一度も見聞きしたことがないと思われるような少年の反応が印象的だった。



4  動顛し、自己を失った女、それを抑えるだけの男



翌日、少年は作業中に初歩的なミスを犯し、自らを恥じていた。オリヴィエの少年に対する指導には手加減がない。しかしそこに、特段の感情が含まれているようには見えなかった。

その日の午後、オリヴィエは授業中、欠勤生徒の家を訪問した。

その帰路、彼はあるアパートの部屋に入り込んだ。その中で生活の様子を窺うように辺りを見回し、ベッドに体を横たえた。それだけだった。

しかしそこは、職業訓練所の新たな生徒になったばかりの、フランシス少年ののアパートだった。オリヴィエは無断で生徒の部屋を開け、その狭い空間を深々と覗き込んだのである。この異常な行動も、寡黙で常識的な印象を存分に醸し出す男の描写の中では、特別な緊張感を生み出す空気とは無縁であった。

翌日、オリヴィエは作業中、何気なしにフランシスに尋ねた。

「週末は何を?」
「決めてない」

そんな会話の後、作業は続く。作業中にも、オリヴィエは少年のプライバシーに侵入する。

「家族とは?」

この質問に、「ノン」と答える少年。オリヴィエは踏み込んでいく。

「どうして?」
「母親の彼に嫌われている」と少年。
「お父さんは?」
「居場所も知らない」と少年。

その受講態度は真摯である。その態度に安堵感が生まれたのか、オリヴィエは、少年を車で送って行くことにした。

少年を助手席に乗せたときだった。

突然、元妻のマガリが現われたのである。オリヴィエはそれに気づいて、マガリの突発的な行動を必死に押し留めた。

「あいつ?」とマガリ。

抑えつけるオリヴィエに、「放して!」と突き放す。

「落ち着け」とオリヴィエ。
「名前を聞くだけ」
「落ち着くんだ!・・・彼だ」

その瞬間、オリヴィエに倒れかかったマガリ。

明らかに、PTSDの反応が起っている。マガリを抱き上げて、オリヴィエは彼女の車に運び入れた。

「何をする気?・・・狂気の沙汰よ」とマガリ。

意識を戻した彼女は、オリヴィエから差し出されたコーヒーを飲みながら、男の行動を詰っている。

「ああ」とオリヴィエ。呼吸が荒い。
「なぜなの?」
「分らん・・・」

マガリを送り出したオリヴィエは、自分の車に待たせていた少年を送って行った。

「明日、材木を採りに製材所へ。材木の種類を勉強できるぞ」
「行きます」
「他の生徒は経験済みだ」

車内での会話は、それだけだった。



5  理性的抑制力の臨界点近くで



翌日、オリヴィエはフランシスを同乗させて製材所に向った。

車内では、木材についての会話があった。

オリヴィエは少年に、木材の知識をどこで教わったかを聞いていく。フランシスは、「少年院で」とポツリと答えた。会話の内容が、そこから少年のプライバシーの世界に踏み込んでいくのである。

「何歳のときに入った?」
「11かな」
「覚えてないのか?」
「覚えてる。曖昧に答えた。昔のことだから」

ここで会話は、材木の話題を挟んで中断する。

「11歳で少年院にいた理由は?」とオリヴィエ。

彼は会話を繋いでいこうとするが、眠気に襲われている少年は、質問を聞き逃した。オリヴィエは繰り返す。

「なぜ、11歳でぶち込まれた?」
「バカをやって」
「どんな?」
「盗み」
「ただの盗みか?」
「他にも・・・後ろで寝ていいかな?」と少年。

彼は会話を継続する意志を持たないでいる。その話題から逃避したいのであろう。

製材所までの距離は長い。

途中スタンドで休憩し、二人は腹拵えをした。そこでフランシスは、オリヴィエに向かって、それまで考えていたであろう思いを口に出したのである。

「後見人になって下さい」
「いないのか?」
「ええ」
「普通は保護司がなるんだろう」
「保護司でなく、他の人になってもらいたくて・・・」

沈黙が続く。恐らく予想だにしない少年の、唐突な申し出に当惑するオリヴィエは、明らかに自分の中の迷いの感情を、音を立ててコーヒーをがぶ飲みする仕草のうちに乗せている。

「なってくれます?」とフランシス。

少年は、オリヴィエという模範的な大人を、自分の後見人に望んでいるのだ。だからその気持ちを、更に押し出していく。

「よく考えないと・・・」とオリヴィエ。

彼には即答できるわけがない。少年だけがそれを知らない。

「サッカーゲームを?」と少年。話題を変えてきた。
「なぜ、私を後見人に?」とオリヴィエ。話題を戻した。
「仕事を教わってるから」と少年。

サッカーゲームを共に興じることを促し、二人はゲームを始めていく。

以下、ゲーム中での会話。

「オリヴィエと呼んでも?」
「なぜ?」
「皆が、そう呼ぶから」
「構わんよ」
「盗み以外に何をした?」とオリヴィエ。

彼はゲーム中でも、肝心なテーマから頭が離れないでいる。恐らく、この肝心なテーマに一定のケジメをつけるために、少年を誘って長いドライブの旅に打って出たのである。当然、覚悟を括った旅であった。

「人が死んだ」とフランシス。

遂に自分の中で隠していたものを、少年は曝け出した。眼の前の大人に対する信頼感が少年の心を解きほぐしたに違いない。

「殺したのか?」
「うん・・・少年院でも無敵だった」

この少年の言葉に、オリヴィエの表情が更に厳しさを増していった。

彼は休憩所のトイレに入り、自分の顔を鏡に映し出す。そこで映し出されたものは、昨日までの自分の抑制的な表情とは、明らかに切れているような尖りを見せていた。

二人のドライブが、再び開かれた。

「なぜ、殺した?」とオリヴィエ。

もはや、彼には抑制すべき何ものもなかった。その問いに答えないフランシスに、オリヴィエは畳み掛ける。

「後見人なら、知る権利がある」

それでも少年は答えない。オリヴィエはもう引き下がらない。

「盗んだものは?」
「カー・ラジオ」とフランシス。ようやく重い口を開いた。
「ラジオで、人殺しか」とオリヴィエ。攻撃性が増してきている。
「後ろの子供に気づかなくて・・・手を放さないから、喉を掴んだんだ」
「絞め殺したか?」
「手を放さ・・・」

フランシスが答える間もなく、オリヴィエの言葉がその答えを裂いた。

「絞め殺したか」
「殺す気はなかった」
「だが、現実に死んでいる。口答えするな!殺したんだ!」

オリヴィエの感情の噴出は、あまりに唐突だった。しかしそれは、流れの中での不可避な噴出でもあった。

「ああ」とフランシス。それ以外に答えようがなかった。

オリヴィエの車は製材所を行き過ぎてしまった。彼の理性の抑制力は臨界点を示しつつあった。

「後悔しているか?」とオリヴィエ。

彼はもう肝心な部分から逃げることはない。少年は追い詰められている。

「当然だよ」
「なぜ、当然だ」
「5年もいたら、そう思う・・・小便して来る」

少年は、そこに作り出された重苦しい状況から、一刻も脱出したい思いに大きく振れていた。しかしもう、その非自立的な状況からの逃避は難しくなっていた。

眼の前に、オリヴィエの弟の製材所があった。この製材所に導かれて、少年は自らの身体を、その未知のゾーンに放り投げていくしかなかったのである。



6  荒い呼吸だけが、湿った地面に痛々しく吸収されて



静かな材木置き場の中での、二人の会話。

「材木の間にあるのは?木片でしょ?」
「乾燥させるためだ・・・生乾きの木で作ると・・・」
「あとで反(そ)る」
「そうだ。隙間ができてしまう・・・この木は?」
「マツ」
「種類は?・・・手引きを見ろ」
「オレゴンマツ」とフランシス。

手引きを見ながら答えるが、木材に関する学習意欲は相当なものがある。

「よし、アメリカの州だ。柔らかいか、堅いか?・・・木を見るな」
「柔らかい」
「そうだ。触ってみろ。爪で押せる。分るな?・・・二段目の列に、山積みしてある奴、あれは?」
「これもマツ」とフランシス。

彼は山積みしてある木材に近づいて、自信をもって答えた。

「種類は?・・・木目を見るんだ」
「カロライナマツ」
「よし、カナダ産だ。それぞれ2本ずつ下ろす」

オリヴィエはそう言った後、木材の上に乗り込んで、フランシスに指示をした。

「床まで滑らせろ」

オリヴィエは山積みされた木材から下りて来て、作業を続ける。

フランシスも重い木材を右肩に担いで、必死に運んでいく。そこにはもう、車内での重苦しい会話の雰囲気がすっかり消えていた。働く男と、男の指示に従って学習する少年。その寡黙な構図は感動的ですらあった。

二人は木材を担いで、黙々と車の荷台に運び入れていく。その静寂な空間には、二人の靴音以外に響くものがなかった。

その静寂な空間を、男の唐突な言葉が切り裂いた。

「お前が殺したのは私の息子だ」

遂に放たれた男の言葉に、少年は反応できない。固まってしまっているのだ。少年は正気を取り戻したかのように、咄嗟にその場を走り去った。

「怖がらなくていい!戻って来い!」

オリヴィエは少年を追い駆けていく。

少年は狭い空間の中を走り回るだけ。その少年を、オリヴィエは必死に追い駆ける。

オリヴィエの荒い呼吸が映像に刻まれる。少年の姿を捕捉したオリヴィエは、積み上げた材木の上から声をかけた。

「見えてるぞ!下りて来い!何もしないから」
「ウソだ!」
「下りるんだ!・・・下りろ!話がしたいんだ、下りて来い!」

恐怖感に駆られた少年は、必死に抵抗を試みる。オリヴィエに向って材木を投げたのである。

「5年も罪を償ったんだ!」
「止めろ!下に置け!」

材木を投げ続ける少年。声を荒げるオリヴィエ。

少年はオリヴィエが屈んでいる隙に下に飛び下りて、一心不乱に逃げ走る。オリヴィエは少年を追い駆ける。

そして遂に、屋外に広がる林で彼の体を捕捉して、上から地面に抑えつけたのである。

オリヴィエの大きな両手が少年の首にかかり、その首を絞めつけた。少年はもう抵抗できない。腕力の差があまりに大きかったのだ。

まもなく、オリヴィエの両手が少年の首から放された。

その間、少年は眼の前に揺れ動く男の哀切な表情を凝視している。

男の攻撃性は、それ以上のうねりを見せなかった。男は込み上げるものを必死で抑えているのだ。少年はそれを確かめていた。少年の瞳は、無垢な心の一端を滲ませているようだった。

男の体は少年の体からも放されて、その傍らにへたるように座り込んだ。

少年も起き上がり、その横に座り込んでいる。何も語られない。二人の荒い呼吸だけが、外の湿った地面に痛々しく吸収されていった。

この二人のあまりに痛ましい構図は、映像が辿り着いた心理劇の一つの極点を示していた。



7  一つの小さな共同作業が成立したとき



男は嗚咽に近い呼吸を整えた後、その場から静かに離れていく。

男は車に戻り、木材を一人で運び出していた。

その男の視界に、フランシスが捉えられた。少年は、自分が殺めた相手の父親の眼差しの中に、覚悟を決めて入り込んできたかのようだった。

少年は身じろぎもしないで、その場に立ち竦んでいる。

男は少年を一瞥した後、黙々と作業を継続するだけである。

少年は一歩一歩、男に近づいて来る。

そして積みかけの材木を手にして、それをトラックの荷台に運び入れた。

男は少年を凝視する。二人は何も語らない。

男はもう、少年の作業を拒絶しない。二人は材木をビニールシートで包(くる)んで、それをロープで縛り付けた。そこにはいつしか、一つの小さな共同作業が成立していたのである。

男は少しずつ、少年に対する感情を解(ほぐ)していく。作業を通して解していく。共同作業を通して解していくのだ。

そのような印象を観る者に与えて止まない静謐な描写が、最も寡黙なる映画の括りとなったのである。


*       *       *      *



8  くすんだ天井の広がりを仰いで



この映画は、鑑賞後の雑感やレトリック含みの感懐で逃げ切れるような作品ではない。正直、そう思った。

そこに提示された問題の深遠さは、誤解を恐れずに書けば、何かドストエフスキー的世界への誘(いざな)いを随伴して止まないほどの、ある種の哲学的省察が求められる何かであった。

だから手強い映画を観たなという思いが、深い感動の余韻とはクロスしない辺りで、いつまでも私の心の澱となって淀んでいたのである。

イメージ画像・ブログより
自らの不自由な身体の多くの時間を預けている、一台の精密な電動ベッド。私の命を留めるその絶対的な利器から仰ぎ見る、「くすんだ天井の広がり」。

私はこの狭隘なミクロコスモスのうちに、「これがあるから今の自分がいる」と思えるような精神世界の構築を、半ばゲーム感覚で愉しんでいる。それだけが、今、私を生かせている最も強靭な何かである。

「くすんだ天井の広がり」は、私はかつて最も好んで止まなかった、ドストエフスキー的世界の誘導口でもあるのだ。その誘導口から忍び寄って垣間見る世界の向こうに、観念の堆(うずたか)く積まれた残骸や、その命の芽吹きの胎動が混交していて、しばしば心地良いほどに刺激的なのである。

良質な映画を観たときの充実感を、単に脆弱なる魂が情緒的にクロスした記憶のみに流さないほんの少しの覚悟によって、私はそんな世界の仮構にその固有なる時間を侵入させていく。

後述するが、そんな世界の仮構の継続が少しずつ危うくなってきたとき、私はこの一本の、決定的な映像と巡り会った。それはまさに、僥倖と呼ぶ以外のない出来事だったのである。

勿論、以上の印象は当時の私自身が、「くすんだ天井の広がり」と向き合うだけの鬱屈した日常性を常態化しているが故に、澱んだ空気感を封印し切れない内面世界を殆ど持て余していたことと多いに関係するだろう。

「地下室の手記」に代表されるドストエフスキー的世界への傾斜を抑えられない心的状況に、私は紛う方なく捕縛されていたのである。

現に、私は「地下の小宇宙」に閉じこもった恒久感覚で、「世界」と「人間」をペシミスティックなまでに斜視していたし、「崩されゆく明日」という名の私小説を書き終えてもいた。

そんな心境下で、私は周囲のあまりに異質な空気を感じさせる世俗的日常性に対して、しばしば黒々とした牙を剥いて、このちっぽけな攻撃的身体を晒すこともあった。そのときその魂は、紛れもなく、「地下室の手記」の当の主体の自我と同化する思いを乗せていたのである。

そんな厄介な時間の中で出会った一本の映画に、恐らく私は過剰な気分を重ねてしまったのだ。

ドストエフスキー
殆ど名状し難いほどに決定的な映像であった、「息子のまなざし」という作品を観終わってから、私は「くすんだ天井の広がり」に張り付いて、そこから開かれる世界の、不思議や恐怖や戦慄というようなものを過剰に感じ取って、、そこにドストエフスキー的世界の体臭を必要以上に嗅いでしまったようである。

無論、この映画はドストエフスキー的世界の焼き直しでも何でもなく、敢えて言えば、対象喪失によって蒙った自我のダメージを克服する内面的プロセスを、その本来的な社会的日常性の構築とその継続力によって、辛うじて時間に繋いでいくときの緊張感を淡々とした筆致で記録するものであった。

それは「モーニングワーク」(「喪の仕事」とも言う)、「グリーフワーク」(「愛する者を喪った時間を繋ぐ悲嘆のプロセス」という意味)とも言うべき、極めて現代的なテーマを問題意識の中枢に据えた映像であって、そこにはドストエフスキー的世界に濃密な黒々とした実存、ニヒリズム、或いは、「人間と世界の根源的救済」などという重厚なテーマが、特定的に切り取った問題意識によって描出されているわけではない。

それでも私には、そこで映像化された表現世界の圧倒的描写力に大きく振れていくものがあり、あらためて人間の内面を丹念に描き切っていくことの重要性を認知した思いであった。

ダルデンヌ兄弟はドストエフスキーではなかったが、一篇の重々しくも寡黙な映像のうちに、人間の根源的問題を省察させ得る役割を担う表現者として彼らが立ち現れたとき、既に観念の澱となっていた「くすんだ天井の広がり」の負性的イメージを媒介項にして、私の脆弱な自我は、何か底の方から突き抜けていくような震撼を身体化させてしまったのである。

それでもう、私には充分だった。

そこから私の中の何かが抉(こ)じ開けられて、ただ惰性的に累積されていっただけの、空洞でフラットな「時間」の感覚が自立性を失ってもなお、そこだけは弱々しくも固有の輝きを放つであろう小さな表出の繋がりが拾われたことで、それでも「時間」を意識する自我の営為を保証するに足るちっぽけな継続力を、辛うじて私は開くに至ったのである。



9  赦しの心理学



私にそのような思いを抱かせた件(くだん)の映画とは、一体何ものだったのか。

「ロゼッタ」より
少なくとも、「イゴールの約束」、「ロゼッタ」とは一線を画する形而上学的な問いかけが、そこには詰まっていた。

然るにそれは、どのような把握によってまとめるべきなのか。

長く天井のくすぶりに張り付く私の自我から零れ出たのは、愚にも付かない感懐ばかり。そんな中で、私がようやく辿り着いたと幻想させてくれた把握は、結局はシンプルな、予約されたかのような結論だった。

それは、「赦しと受容」という概念で説明できるシンプルさだ。

詰まるところ、それ以外ないなと思った私がテーマ設定した標題は、「赦しの心理学」。これについては、昔書いた未発表の拙稿があるので、それをここに加筆修正して引用してみる。

―― 以下、「赦しの心理学」と題する小論の一部である。

人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。

人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。これがとても由々しきことなのだ。

相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。

相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。

赦しとは、自我が空間を処理することではない。自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。

空間で効率よく処理される安直な赦しには、安直な赦しに見合っただけのリアルな返報が待っている。子供の重なる非行すらも、悪戯のカテゴリーで処理してしまえば、非行の抑制力が衰弱し、簡単に危機ラインを突破してしまうだろう。親の安直な赦しが、却って非行をアシストしてしまうのだ。

まして、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。

笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。

赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだ。

ゲーム感覚で日常に流される赦しの非自立性と没個性が巷に溢れ、関係に漂う空気から緊張を奪い、リアリズムを限りなく無化しつつあるのだろうか。

人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっている。この赦し難さを内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。

もう少し掘り下げて分析してみよう。

この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。

これを図示すると、以下のようになる。

 
 (感情ライン)   赦せない    ⇔     赦したい
                ↑       X      ↓
   (道徳ライン)  赦してはならない ⇔  赦さなくてはならない
 



感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。

次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。

赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。

赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文法の内に収斂されていくであろう。

しかし、その感情の軌道は直線的ではない。

時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱んだ感情がしばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、またぞろ内側で反復されていくだろう。時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮まり、そして又、何かが噴き上がっていくのだ。

厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文法に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。

赦しの行程では、赦せないという感情の処理が最も手強いのだ。赦せないと思わせるほどの感情の澱みは、何ものによっても中和化しづらいからである。トラウマを負った自我が、果たして自らをどこまで相対化できると言うのだろうか。

赦しの行程を永久に開かない自我が、まさに開かないことによってのみ生きてしまう様態もまた、「赦しの心理学」の奥行きの深さを物語るもの以外ではない。それも仕方のないことだろう。強いられて開いた行程の向こうに、眩い輝きが待っていると語ること自体、既に充分に傲慢なのだから。

この辺に、赦しの困難さがある。重さがある。辛さがある。それでも多くの場合、赦しの行程を開くことなしには秩序を手に入れられない人々の、溢れるような切なさ、哀しさが虚空に舞って、鎮まれないでいる。赦す他ない辛さを抱える自我が、最も厳しいのかも知れない。身の竦む思いがする。(以上、1999年4月 脱稿)                                 



10  「絶対否定」の心の鎧を解除することの難儀さ   



―― ここで、映像の世界に潜入していこう。

大事な一人息子を喪ったばかりか、愛妻との離婚を余議なくされ、苛烈なまでに厳しい現実を生きてきた主人公オリヴィエにとって、偶然出会ったフランシス少年は簡単に赦せるような存在ではなかったはずだ。当然のことである。

しかし彼は迷った末に、彼の木工指導を受け入れた。

映像はそのモチーフを説明しないが、心理学的に考えてみれば、恐らくオリヴィエは、少年の「更生の現状」を、自らの眼で確認したかったに違いない。

このことは、彼の中に既に先述したラインの葛藤が、抜き差しならない辺りにまで噴き上がっていたという心理が形成されていたことを意味するだろう。

しかし、人間の心は単純ではない。

彼の中に、少年に対する復讐心が、明らかに存在したであろうことは容易に想像できることである。

ただ復讐心を暴力に変えていくには、相当のエネルギーを必要とするのだ。それは理性の壁を打ち破って、後戻りできない危うい地平にまで自我を抑え付ける熱量と言っていい。

果たしてオリヴィエという男に、その爆発的なエネルギーが内蔵されていたかどうか、疑問の残るところである。

だからこそ彼は、長く内面的葛藤を余儀なくされていたのであろう。「更正の現状」の確認と、暴力的復讐の暗い情念がせめぎあって、男は最後まで、映像に心地良い感情を映し出さなかったのである。

これは、彼の妻のケースと比較すれば瞭然とする。

彼の妻は、「絶対否定」の心の鎧を全く解除していないのだ。

彼女の中には、道徳ラインの形成も覚束ないものであったに違いない。彼女はいつまでも、「赦しの心理学」の扉を開くことはないのである。それもまた当然のことだ。

たとえ相手の犯罪が、非行児童期の不可抗力的な犯行の結果であったとしても、我が子を喪った心的外傷の深さは尋常ではないはずである。

実は最も辛い時間を生きている者こそ、映像の中に僅かにしか登場しなかったにも拘らず、このシビアなる映像の心理的文脈をを根柢に於いて支える役割を果たしたと思われる、オリヴィエの元妻だったと言えるだろう。

彼女の中では、「我が子を殺めた犯行少年」というネガティブな認知を、自我の奥深くまで固めて止まない心的現象からの解放の瞬間は、もはや永遠に訪れないかも知れないからである。

人間の心の問題の難しさは、とうてい言葉では説明できないものがあるということ、私たちはこのことを、できるだけ早く経験的に学習する必要があるだろう。



11  「防衛的苦悩」と「攻撃的苦悩」



オリヴィエの苦悩を、私たちはどのように把握したらいいのか。

私は、映像の元夫婦のように辛い経験を負った者の苦悩について、便宜的に二種類に分けて考えている。

その一つ。

これは煩悶を充分に引き受け切れずに、PTSDの世界に囚われてしまうケースなどである。

「あんな事件は存在しなかった」などと思い込むなどで、自らの感覚を鈍磨させたり、或いは、逆に過剰反応したり、過覚醒という形で、必要以上に日常性を引き千切られてしまったり等という対応にしか辿り着けない場合である。しばしばフラッシュバックが起って、自我の撹乱をも随伴するであろう。

二つ目は、もう少し理性的に自らの苦悩に対応するケース。

苦悩のルーツを認知し、それに対峙し、それを観念的操作などで限りなく中和化することで手に入れられる相対的安定感。そこに束の間自我を横臥(おうが)させることで、自我の破綻とその進行を抑止し得るような防御網を構築しようとする試みだが、問題の根源に対峙する分だけ言い知れない危うさを内包することになる。

因みに、『暴露療法』とも言われる心理療法が近年注目されているが、これはPTSDと正攻法に向き合い、最も辛い日々を再現させることで、その恐怖に心が馴れていくプロセスを重視する精神療法である。

恐怖刺激と直接対峙するこの療法の是非については分れるだろうが、素人の私の経験則で言えば、人の心が負った記憶の重量感はその人自身にしか感受しようがないのだから、その対応もまたケースバイケースという以外にないということだ。

ともあれ、この危うさの中での際どい相克や葛藤が、煩悶をより深める事態に流れていく時間に耐えるだけの、自我のそれなりのしなやかさが要求されるが、それ自身の破綻の危機とも共存してしまうので、自我の抑制的臨界点というのが常に緊要な問題となるに違いない。

その間、自らの自我が削られて、予想もつかない尖りを示す危うさをも随伴してしまう恐怖を否定できないのである。

一応、前者を「防衛的苦悩」と呼び、後者を「攻撃的苦悩」と呼ぶことにする。

時として人は、「防衛的苦悩」を不可避とするが、そのことによって自我を相対的安定感に導けず、却って苦悩を深める方向にしかいかないことを認知するとき、人はしばしば攻撃的苦悩者として事態の根源に向っていかざるを得ないだろう。それは、「恐怖突入」であると言っていい。

「恐怖突入」によってしか突破できない煩悶の暴力性は、時として相手に対してのみならず、自らをも攻撃の標的にする場合もあるが、そこまで膨張し切れない内側の氾濫に沈み込んで、攻撃性を身体化させないギリギリの辺りで、薄皮一枚の日常性に戻っていく可能性も多々あるだろう。

望むべくは、どのような苦悩の襲来にも壊されない自我を作るための免疫を形成し、これが後の「大苦悩」を突破する貯金となることを信じ込ませ、「今、このときの辛さ」を生き切ること。明日を捨て、今このときを生き切って、生き切った宵の晩酌に流れ込むこと。

生き切った自己像の確保の中で、束の間酩酊すればいい。攻撃的なイメージの繋がりが、その自我をギリギリに守り切るだろう。

しかし、これはあくまでも理念系の文脈による解釈に過ぎない。人間の心はそれほど単純ではないのだ。本作の流れが、そのことを観る者に切に教えてくれるのである。

思うに、オリヴィエの妻の場合は前者で、オリヴィエ自身は後者のケースに当て嵌ると言える。しかしオリヴィエ自身の葛藤のさまは、映像を通して嫌というほど伝わってきて、観る者の哀切感を強く揺さぶって止まないものだった。そのことの把握は、極めて重要である。

彼の激しい筋トレの描写には、寒気すら覚えるほどだ。

それは復讐に向う情念が、彼の中で死んでいなかったことを意味するだろう。

しかし彼は、自分が「殺人者」という別の役割を負っていくことを不安視していたようにも感じられる。彼は自分が、「復讐者」の役割を一定程度演じ切ることに対しては躊躇(ためら)わなかったが、しかしその役割が、「殺人者」という戦慄すべき未知なる人格にまで及ぶことを、明らかに恐れていた節があるのだ。

彼は少年を憎悪していたが、彼の首を絞め切れなかったのである。この逡巡が意味するものは何か。

普通に考えれば、職業訓練を通して生まれた細(ささ)やかな情緒的関係と、少年の「更生の現状」の検証によって手に入れた一定の安堵感が、彼を「殺人者」に仕立て上げることを抑制する力になったと言えるだろうが、果たしてそうだろうか。

私にはその説明だけでは、どうしても納得できないのである。結論を言えば、彼は「殺人者」というあまりに苛烈な役割を負うほどの能力を持っていなかった、と考えた方が自然なのである。

勿論、彼の中に激しい葛藤が存在した。

そして彼は少年を追い詰めた。少年の首に手をかけた。しかしそこまでだった。

彼にはそこまでの能力しかなかったのである。憎悪が無化されたのではない。彼は少年を赦してはいないのだ。受容すらもしていないだろう。

彼は単に、少年を一人の訓練生として認知したに過ぎないのである。私はそう思う。人間の憎悪は、簡単に無化されるものではないのだ。

先述した私のラインの説明では、彼の自我は「赦さなくてはならない」という道徳ラインにまで辿り着いていただろうが、しかし感情ラインに於いては、どこかで未だ「赦せない」という思いが、「赦したい」という思いを少しずつ上回っているようにも思えるのだ。だからこそ、そこに葛藤が生まれてしまうのである。彼はもう少年に暴力を振るわないが、しかし「息子を殺した少年」への赦し難き感情が、完全に無化されていないのである。そう考えるのが自然なのだ。



12  憎悪の美学



物語から少し離れる。

「愛と憎悪」の問題について一言。

人は皆、愛し合わなければならないという説教ほど胡散臭く、虫酸が走るものもない。現実にあり得ないことだからだ。

現実にあり得ないことを理念にしてしまうから、そこに無理が生じる。無理な理想を追求するのは自由だが、それを倫理や宗教のフィールドで、いかにも起り得る現象のような空気を過剰に作ってしまうと、しばしば現実が理念に引き摺られて、そこに極端な物語が飛び出すことがあるから厄介なのだ。

「愛の不毛」の現代状況とか、「都市の砂漠」とか、「暗黒の近代」等々という一点拡大の不確かな時代像によって、平気で十字軍に組することができてしまう短絡性こそ、多くの「愛の戦士」の喰えない厚顔さである。

人が憎み合うことが、なぜ悪いのか。

単に同盟を結ばないことによって貫徹し得る憎悪こそ、人間の高度な知恵の結晶ではないか。「憎いけど殴らない」という学習もまた、そんなスキルの一つである。「憎悪の美学」の成立もまた、充分に可能なのである。



13  「受容の心理」の困難さ、或いは、「仮想危機トレーニング」について



―― 再び、物語の世界に戻る。

オリヴィエの、少年に対するスタンスの問題について。

繰り返すが、オリヴィエは少年を認知した。訓練校の一人の生徒として、彼は少年を認知したのである。だから彼は、少年の保証人になるだろう。しかし「認知の心理」は、必ずしも「受容の心理」と重ならないのだ。

受容とは、相手の人格を肯定的に受け取ることである。

オリヴィエはフランシス少年を、その固有なる人格として、そのまま肯定的に受け入れてはいない。受容の心理を形成できないものに、「赦しの心理学」が肯定的に発生するわけがないのである。

オリヴィエは少年を赦していないのだ。観る者は、この事実を歪曲してはならないだろう。

彼はその固有の人格によって、少年に対する復讐の念を断つことはできた。少年の首を絞めなかった。と言うより、絞められなかった。

「殺人者」になるという人生の選択肢を断念したというより、その戦慄すべき選択肢に身を預け入れる勇気と覚悟を持たなかったのだ。(この点については、ダルデンヌ兄弟がインタビューで語っている)

その覚悟の欠如は、単なる憎悪感の欠如ではない。

再び繰り返すが、それは「殺人者」として後半性を生き抜く能力の欠如であった。男はその能力の欠如を認知していたのである。しかし同時にそれは、そのような不条理な運命を選択することの愚を正確に認知し得る理性的判断が、決して男の内面世界で破綻していなかった事実を検証するものでもあったと言えようか。

オリヴィエは、大工を切望する職業訓練生としての一人の生徒の存在を認知したが、フランシスという固有の人格を受容し、彼の犯した罪を感情ラインで赦すことはしなかったのである。

道徳ラインで赦せても、感情ラインで赦すことの困難な行程は、映像を括った後の時間の中で開かれていく可能性はあるが、決して容易ではないはずだ。

自分の愛児を殺した相手の人格を肯定的に受け入れていくことの難しさは、恐らくその、名状し難い深い闇のような世界を通過した者でなければ理解できないであろう。

私も想像の限りでしか語れないのだ。

だから作り手は、「希望」の可能性を提示するだけで映像を括るしかなかったのである。そう思わざるを得ないのだ。

従って、本作を観る者は、甘美なヒューマニズムや浮薄な感傷によって、この二人の関係の未来の希望について声高に語らない方が無難だろう。

私たちはかくも繊細なテーマについて綺麗に語り切れるほど、人間や人生のことを学習できていないのである。ここで突き付けられた重いテーマを、自分なりに消化していくのはあまりに困難過ぎるのだ。

だから私も、自分の最も苛酷なる経験をイメージ化して、それを言語化するのが精一杯というところなのである。

それでも私たちは、このような問題を考察することから決して逃げてはならないであろう。

一種、ドストエフスキー的世界への侵入は、単なる観念のゲームの次元を超えて、一つの人生の「仮想危機トレーニング」という把握のうちに、それなりの重量感を持った有効性を内包するに違いないからである。

勿論、この重量感は観念の重量感である。

たとえ観念の重量感であろうとも、自我の防御壁をよりしなやかな作り物にするためには、確実に有益なものであるに違いないのだ。だからこそ私たちは、かつて一度も、「哲学」を全く不要とする時代を作ってこなかったのである。

私たちの現代は、「哲学」が省みられなくなった時代であるが故に、「哲学」が切に求められていると言えるだろうか。本作は私たちに、人間の根源的問題についての「哲学」の復権を求めるに足るメッセージを随伴するものであった。少なくとも、私はそう考えている。



14  煩悶する男の嗚咽を視認したとき



次に、フランシス少年について。

彼はなぜあのとき、オリヴィエの前に立ち現われたのであろうか。

それに言及する前に、私たちは、「オリヴィエがなぜ、少年を製材所への長いドライブに連れ出したのか」という問いに答えなければならない。この映像で描かれた最も尖った状況の描写は、全てはそこから開かれたからである。

オリヴィエがフランシスを製材所に連れ出した名目的理由は、「訓練生への木材の学習のため」。

しかしそれは、別にその週末でなくても良かったのだ。

明らかに彼は、何かに駆られていた。その前日、フランシスのアパートの部屋に無断で忍んで、少年のベッドに横たわり、「くすんだ天井の広がり」を仰ぎ見る男の心情は、その淡々とした描写には似合わず、何かもう飽和点に達した者の思いを澱ませていたのだろうか。

元妻のマガリからの激しい拒絶反応を宥(なだ)めすかし、その感情を抑え切るオリヴィエの孤独もまた極まっていたと言える。彼は早急に、少年を把握する必要に駆られたのである。少年に対して、恐らく、贖罪意識を含む「更生の現状」を、早急に確認せずにはいられなかったのである。

それをしなければ、彼の少年に対する何某かの復讐への暗い情念が、どのような形であるにせよ唐突に噴出してしまいかねなかったのだ。

だから彼は、フランシスを製材所に連れ出した。

そこには誰もいない。少年に対する決定的な意思表示をする機会は、もうそこにしか存在しなかったのである。

いや、その意思表示をするか否かについても、少年の反応如何であると考えていたかも知れない。いずれにせよオリヴィエは、最初にして最後になるかも知れない決定的チャンスを自ら作り出してしまったのである。

車内の空気が澱んできて、オリヴィエは少年に畳み掛けようとする。そこで一旦空気を変えて、休憩所に立ち寄った。しかしそこでもオリヴィエは、肝心のテーマから離れられない。そして遂に、あの言葉を吐いたのだ。

「殺したのか?」

それに対する少年の答えは、「うん・・・少年院でも無敵だった」

オリヴィエは、少年のこの簡潔なレスポンスに対して、激しく噴き上がってくる感情をクールダウンさせる必要があった。

彼は休憩所のトイレに入り、そこで鏡を見た。そこに映されたオリヴィエの顔は、内側から噴き上がってきたものを、自らの手で表出させねばならないと覚悟した男の切迫感を炙り出していた。

オリヴィエはドライブを再開させるや、その思いを、より刺激的な口調で車内で吐き出していく。

「殺す気はなかった」と反駁する少年に、オリヴィエは、「口答えするな!殺したんだぞ」と感情を荒げて見せた。男の中の理性の抑制機構が、その均衡を失ってしまっていたのだ。だから彼は、製材所を行き過ぎてしまうのである。

このミスリードによっても、オリヴィエには、本来の自我のあるべき場所への回帰に努める気配が全く見えなかった。彼の容赦のない質問が、少年に向って放たれていくのだ。

少年の方がその空気の重さに耐え切れず、「小便して来る」と言って、状況離脱を図ったのである。

オリヴィエの自我が相対的に落ち着くのは、この時点で生まれた時間の空白からであると思われる。

製材所に着いてからの二人の会話は、訓練所での「教師」と「生徒」との役割関係のうちに戻っていた。しかしこの「材木問答」も、オリヴィエの理性を束の間軌道修正しただけだった。

「お前が殺したのは私の息子だ」というオリヴィエの一言が、二人の役割関係を壊し、そこに全く異なった関係の現実を引き摺り出してしまったのである。即ち、息子を殺された父親と、その息子を殺した殺人犯という異様な関係が、そこに晒されたのである。

因みに、この映画の原題となった「息子」という意味には、映像には登場することのない、天国にいる「息子」を中枢的な媒介項にした、決してクロスしてはならない二人の関係を際立たせるためのイメージとして仮託されているようにも見える。

ともあれ、関係の劇的な転化によって、二人は追う者と追われる者の関係を開いていく。そして追う者は追われる者を捕捉し、その首を絞めにかかる。

しかしより腕力に勝る男の圧力は、その男の自我の臨界辺りで決定的に中断された。

少年の首を絞める男の脳裏に、その少年によって喉を掴まれて絶命した愛児の悲痛が刻まれたのかも知れない。

少年の犯した愚をなぞる蛮行を走り抜けるほど、男は攻撃的ではなかったのだ。既に無抵抗な少年の首を絞めるには、相当の飛躍を必要とする。狂気のサポートか、決して浄化されることのない憎悪を必要とするのだ。

男にはそれがなかったのである。

「もう、これで充分だ」と思ったのだろうか。

圧力をかけていた男の表情には、嗚咽を必死で抑える哀切が炙り出されていた。

映像はそれを映し出さなかったが、男の表情を見詰める少年の眼差しのうちに、男の悲痛が捉えられたのである。全ては、それで終ったのだ。

男は少年から離れて、地面にへたり込む。

そこでも、男は懸命に嗚咽を抑えていている。

少年は男の横に座り込んで、男の感情の奥にある最も悲痛な世界と出会ってしまったのだ。このカットこそ、この映像が最大の勝負を賭けた描写であったと思われる。

その直後、少年が男を追い駆けて、共同作業に加わる意志を示したのは、自分の上に覆い被さってくる重い身体から零れ出た、揺動する感情の悲哀を凝視したことで、相手の思いの一端にその心が初めて届いてしまったからである。少年はそこで、男に自分を殺す意志がないことを悟ったばかりか、男がそのような極限的な世界で煩悶する現実を垣間見てしまったのである。

勿論、年少のフランシスには、大人の苦悩の奥にまでは入り込めない。それでも何かを感じ取ることができたのだ。少年フランシスは、人間の最も大切な心理的文脈を、少しは学習できるまでの成長を果たしていたのである。

男を救ったのは、大工として社会的に自立しようと真剣に考えている少年の、その「更生の現状」を知ったからであろう。

また少年を救ったのは、自分が犯した罪によって煩悶する男の嗚咽が自分の前で開かれて、自分の首を絞めるその手を相手が放してくれたという、一連の人間的な振る舞いと劇的に出会ってしまったからであると思われる。

「男の哀切な表情」こそが、少年の心を、男のもとに向って共同作業を継続させる分だけ溶かした何かであった。

そこで溶かされたのは、少年の卑屈なる魂であったかも知れないし、またその孤独なる尖りの、過剰なまでの意識であったかも知れなかった。そこで何かがゆっくりと溶かされて、それまで見えなかった肝心な世界との不思議な触感が、いつの日か決して失いたくないものの価値を手に入れられる地平を、強(したた)かに抉(こ)じ開けていくかも知れないであろう。

然るに、人生はそれほど甘くない。

日常的な勤勉をどれほど繋いでいっても、その勤勉なる時間に見合った分の返報が、いつでも待機しているとは限らないのだ。

オリヴィエの日常性が、少年フランシスのそれとクロスしなくなってからの二人の希望の未来は、全く予約されていないのである。とりわけ、少年の未来に待機する負性なる社会的因子は、少年が培ってきた自我の能力で払拭し得るほどに柔和なものではないだろう。

映像はそこまで描く必要は勿論ないが、しかし観る者の想像力は、彼らの未来の時間の可能性にまで及んでしまうほど、その精緻な心理描写は圧倒的にリアルであった。

この映画は、オリビエが少年を受容できるギリギリの辺りまで、一つの可能性としての描写を刻んでいるが、それは監督の願望であり、祈りであるように見える。

最も憎むべき人間を赦せるとしたら、その人間の内部に自らの過去を重く受けとめる時間が生まれ、少なくとも、その時間に表現された汎人格的文脈を感情のレベルで認知できるかどうか、それが最大のハードルとなるだろう。

オリビエが少年フランシスを受容するためには、まだまだ多くの時間を必要とするに違いない。確かに受容したという幻想によって逃げることもできる。実際のところ、死ぬまで受容できないかも知れない。その可能性も濃厚である。

しかしオリビエの視線が、今後の少年の成長の様態に集中的に注がれてしまうこと。それだけは否定し難い現実なのである。

これは双方の視線がクロスする現在と、そして簡単に予見されない未来の不安含みの可能性を暗示した映画だった。余計なものを削って、削って、ここに最も良質なる映画の一つが誕生したのである。         



15  ダルデンヌの、ダルデンヌによる、オリヴィエ・グルメのための映画



―― 最後に、この映画についての作り手のモチーフを紹介しておこう。

ダルデンヌ兄弟
「『息子のまなざし』は、主役を決めてからストーリーを考えました。オリヴィエが主人公の映画を作ると約束していました。彼の身体や彼の利点を生かそうとしたら、この作品が生まれました。人を恨んだり、殺したりできるが、その勇気がない人物を描きました。復讐という感情を乗り越えた人間を描いた作品です。若い青年を演じたモルガン・マリンヌと出会いました。当時16歳でしたが、素晴らしい演技を披露しました・・・」(リュック・ダルデンヌの発言/「ダルデンヌ兄弟の来日会見」より)

本作は、「ダルデンヌの、ダルデンヌによる、オリヴィエ・グルメのための映画」だったのである。

オリヴィエ・グルメの寡黙な演技は、想像を越えるほどに抜きん出ていた。その演出もまた抜きん出ていた。これ程シンプルで、映像表現力に満ちた作品と出会うことができた僥倖を、私は今、つくづくと噛みしめている次第である。



【余稿1】  〈アンチ・ヒーローとして立ち上げられた「攻撃的苦悩者」の衰退〉



本稿にも触れたが、本作から受けた感動の深さは、私にとってある意味で、一冊のドストエフスキーを読み終えたときの名状し難い感情の振れ方と似ていた。

極めて宗教的濃度の深かったドストエフスキーは、繰り返し人間の奥深い苦悩について思索を巡らし、それを言語化した優れた文学者であったが、本作を観ていて、改めて「苦悩する人間の実存性」について深々と省察することができたのである。私にとって、それが最も大きな収穫だった。

思えば、現代ほど「苦悩」という言葉と縁遠い時代はないように思う。

「苦悩」ではなく、「愛」とか「優しさ」という言葉の氾濫が現代をより多く駄目にしている、と私は考えている。

「苦悩」という言葉の隠され方は、「人生論」の衰退に繋がっている。

しかし人間の苦悩は無化されようがないから、言葉を隠すことによって、何かそこに前向きで、能動的な思考が絶対的な価値として不必要なまでに立ち上げられ、恰も、「明朗さ」と「剽軽(ひょうきん)さ」のポーズを意識的にセールスする態度のうちに、どのような人間でも擦過する負性なる内的状況を巧みに封印したつもりになっても、いずれどこかで遭遇する不幸な事態に搦(から)め捕られたとき、その脆弱なる内面世界を自ら仕切る能力を表現できないで、多くの場合、情けないほど醜悪に崩れ去ってしまうように思われるのである。

いや、事態はそれ以上に深刻かも知れない。

「悩む」という能力の衰弱が、現代を広く覆っている危惧すら感じられるのである。まさにその悩む能力の衰弱こそが、人生論が解体したかに見える時代の根柢にあるのではないか。

若者にこそ切実であったはずの人生論の需要が、今や一部の中高年の軽鬱的な症状を掬(すく)い取る何かとして機能するだけなのか。

「悩む」という能力の衰弱は、現代を覆い尽くす様々な不快処理のマニュアルと、その要求充足度の高さにも起因するが、それ以上に「悩むこと」それ自体に対する負性的イメージの圧倒的な集合がある。「クヨクヨ悩むなんてダサいぞ」という浮薄な空気の蔓延が、明らかに根源的テーマの継続を困難にさせているように見えるのだ。

こそこそと隠れて悩む時代の到来を、かつて誰が予測し得たであろうか。

人生の根源的テーマを引き受けざるを得ない切迫感が、人間を苦悩に向わせたのである。切迫感の済し崩しが、人生論を安楽死させたのだ。もうそこには、「攻撃的苦悩者」がアンチ・ヒーローとして立ち上げた時代の息吹きは失われてしまったのか。

苦悩するオリヴィエは、苦悩すべくして、深い闇の世界に拉致されてしまっていた。

彼はその固有なる苦悩の最終的解決を、非合法なる暴力に求めなかった。彼は製材所の敷地の林で、少年にその重い身体を被せたが、嗚咽を必死で堪える自我を少年の眼の前に晒して見せた。

それだけだった。

彼は一人の大人としての、親としての、男としての苦悩を、そこで決定的に表現したのである。そして、そこで表現された苦悩によって、少年の魂がほんの少し救われたのである。人間の真実の苦悩は、それを知らない自我を救いとる可能性がある。

映像はその辺りを、圧倒的に寡黙な表現によって描き出した。寡黙な映像は、人間の苦悩を映し出す決定的な表現技法だったのである。



【余稿2】  〈確信的に屠ることができた、日常性の呆れるほどの受動性〉



この映画との出会いが、実は私に、このような表現活動を作り出す決定的な契機になった。

私は爾来、昔観た記憶の襞(ひだ)になお張りつく作品群を繰り返し鑑賞し、それを舐め尽くすように内側で体感させながら、現代の不自由な日々との付き合いを継続させるに足る糧にしてきたと言える。

その意味で「息子のまなざし」は、私にとって極めて重要な映像だった。無視し難い映像だったのである。

ますますハリウッド化する邦画の、その情緒過多の流れが止まるところを知らないような空疎な映像とのクロスに辟易し、私の憂鬱な日々を少しでも緩和する役割を果たしていると信じたい気分も絶え絶えになってきて、もう映画自体、観ることをキッパリ止めてしまおうかと真剣に考えていたとき、まさにそんな絶妙なタイミングを測るかのようにして、私の憂鬱な気分の中に侵入してきた作品との遭遇は、自らの日常性の危うさを救いとってくれるような経験になったと思っている。

この作り手の表現スタイルや、映像を介してのダイレクトなメッセージに対して、私は必ずしも共感するわけではないが、しかしこの寡黙な作品の持つ力強さは、それだけは描きたいと思っている者が持つ表現者の、圧倒的な気迫に淵源される力強さであったと想像されるが故に、私にとって特別な何かであった。

いつでも、それだけは描きたいと思っている者が放つ表現は、それが一人相撲を取って過度に暴れ回らない限り、観る者の心を打って止まない特段の感銘を保証するのである。それ以外ではないのだ。

私は今も、この作品と出会うことができた有り難さを実感している。僥倖だったとも思っている。

そこから、現在に繋がる時間の占有感を感じ取ることが可能になり、それまでの自分の日常性の呆れるほどの受動性をキッパリと、且つ確信的に屠ることができたからである。覚悟を括った時間を、ほんの少し開くことができたのだ。

(2007年10月)

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