<「予約された残酷さ」―― 異文化侵入が破綻して>
序 歴史博物館的な作品イメージを超えて
「The Blue Angel」。
「青い天使」という原題である。
1930年の古典的作品だ。原作はハインリッヒ・マンの「ウンラート教授」。
ドイツの文豪、トーマス・マンの兄であるハインリッヒの原作だが、映像は原作の社会性を削り取っているので、殆んど、オリジナルな一篇として本作と付き合っていかねばならないだろう。
主演は、当時の名優として知られたエミール・ヤニングス。その名優に、本作で一躍脚光を浴びたマレーネ・ディートリッヒが、「嘆きの天使」として絡んでいく。
その内容はあまりに陰鬱で、ペシミスティックである。
そのような類の作品をとりわけ好む傾向を持つ私には、本作は、そこにナチス政権成立以前の作品とは思えないほど、歴史博物館的な作品イメージを感じさせない、とても心情的にフィットする映像だった。
1 新しい人生を発見できたと覚悟する者のように
―― そのストーリー・ラインを追っていく。
港町として名高い、ハンブルグにあるギムナジウム(ドイツの中等教育機関で、大学進学を目的とする)。
そこに、一人の初老の教授がいる。
その名はラート。とても厳格な英語教師である。
その日も彼は、表面的には静寂な教室で教鞭を執っていた。
その彼が、一人の生徒が落としたブロマイドを拾ったことから、生徒たちの中で規律が乱れている現実を知ることになった。
それは一人の若い女の、些か淫乱なポーズをしたブロマイドだったのである。およそ女性とは縁のない生活を送る独身の教授には、その現実は許し難いものだった。
ラート教授は、早速、ブロマイドの女がいるキャバレーに足を運んだ。
案の定、キャバレーにはギムナジウムの教え子たちが遊興に耽っていた。
生徒たちはラートの顔を見て、慌てて逃げ出した。それを追うラート。
ローラ |
ラートは女に尋ねた。
「君がローラ、ローラとかいう芸人だな」
「警察の方?」
「違う。私はドクター・イマヌエル・ラート。当地の高校教師だ」
「帽子くらい脱いだら?ご用件は?」
「君は本校の生徒を誘惑している」
「私は保母じゃありません・・・それだけですの?」
「迷惑のようだから、帰る」
「邪魔にならなきゃ、いいわ」
ローラはその一言を残して、ステージに上っていった。
一人残されたラートは、居心地の悪いその部屋でしばらく座っていたが、そこに一座の団長がやってきて、相手が教授であると知って、事情を勝手に飲み込んだかのような態度で、ラートを引止めにかかってきた。
「さすが先生は、お目が高い」
「何を言ってる!」
「口外しませんよ。お任せ下さい」
「私は抗議に来た。学生を隠したろ。嘘つきめ!」
そこに部屋の隅に隠れていた生徒たちが慌てて逃げ出し、ラートは彼らを追っていく。
労も空しく、学生を捕捉できなかったラートは、その夜、自室の陰鬱な部屋で、学生が悪戯でポケットに押し込んだローラの下着を手に取って、それをしみじみ眺めながら、何か思い詰めたような表情を浮かべていた。
翌日、ラートはいつものように教鞭を執り、学生たちも昨夜のことがなかったかのように振舞っていた。
その夜、ラートは小奇麗な仕度をして、再びキャバレーに顔を出したのである。その視線の先にローラの肢体が捉えられた。
彼女もまたそれを意識し、反応した。
「また来て下さると思ってたわ」
「どうも昨日は・・・急いで帰ったので、これ(下着)を帽子と間違えて持って出てしまった」
「そのためだけ?」
それに答えられないラートは、ローラに完全に見透かされていたのである。
彼はローラの部屋で、彼女の歓待を受けていた。その部屋の地下に潜り込んでいる学生たちの存在は、無論ラートの知るところではない。
「今夜は公用できたんじゃないでしょ?」
「昨日は済まなかった。失礼したね」
「そうよ。今夜の方が優しいわ」
煽(おだ)てられ、髪を梳(と)かされて、悦に入るラート。
盗み見るギムナジウムの生徒たち |
まもなく団長が、ローラ目当ての客と共に彼女の部屋に入って来て、客の相手をするように強く促した。
それを嫌がるローラの気持ちを汲み取ったラートは、ローラの客に乱暴を振るって警察沙汰になってしまったのである。
この町の名士であるラートに対し、警官は彼の側に立つことで一件落着となった。
ラートの弱みを視認したた生徒たちは、そこで姿を現わすが、余裕をもった彼らは教授の前でタバコを吸って、反抗のポーズを確信的に崩さないのだ。
「ここへ何しに来た?」
「先生と同じです」
その瞬間、ラートは生徒たちを殴りつけて、店から追放した。
「悪ガキ相手じゃ、先生も大変ね」
一座の女性に慰められるラートは、まだこの時点では、「人徳の教師」のイメージをギリギリに保っていたのである。
その後ラートは、ローラの誘いもあって、彼女の歌を心地良さそうに聴き入っていく。
相当量の酒を飲まされたラートは、いつの間にかローラの部屋で寝込んでしまい、そこで朝を迎えることになった。
「学校があった!早く行かんと」
ラートは思わず叫んで、急いで学校に向っていく。
そんなラートの相手をして楽しむローラと別れて、彼はキャバレーから出勤したのである。
ラートが教室に入って来たとき、黒板には、教授をからかう生徒たちの悪戯書きで埋め尽くされていた。
「先生、女臭いですよ!」
生徒たちにからかわれるラート教授 |
そこに他の教師たちが駆けつけて来て、事態が大きくなっていく。
「お前ら皆、少年院に送ってやる!」
生徒たちへのラートの威嚇の後に、校長からのフォローがあった。
「皆、外へ出て校庭に並べ!出るんだ!」
生徒たちがいなくなった教室に、ラートと校長が残った。
校長は黒板の悪戯書きの絵を見て、ラートに皮肉を言った。
「上手いもんだな。そんな女のために、信用を落とすのは損ではないですかな?」
そんな皮肉たっぷりな校長の言葉を否定するように、ラートはきっぱりと言い切った。
「失礼ですぞ、校長。私の未来の妻です」
「まさか本気では・・・」
「本気で言っております。どうぞ、そのつもりで・・・」
「では残念ですが、辞職して頂きましょう」
誰もいない静かな部屋に一人残されたラートは、自分の究極的な決断に後悔しているようでもあり、或いは、その決断によって自分の新しい人生を発見できたと覚悟する者のようでもあった。
その夜、彼は花束を持ってローラを訪ねた。
ラートとローラ |
彼女の一座は、この町を引き上げる準備をしていたのであった。
「ミス・ローラ。私は・・・」
「きれいなお花、ありがとう」
ローラは、沈鬱な表情を崩さないラートに近づいて、言葉を添えた。
「そんな顔しないでよ。来年また来るわよ」
「もう一つあげたい物がある。これを受け取ってくれないか」
ラートはローラにそう言って、指輪をプレゼントした後、明瞭に言葉を繋いだのだ。
「あなたに結婚を申し込みたい」
「私と結婚を?」と不思議がるローラ。
頷くラート。ローラはここで思わず吹き出して、笑い転げてしまった。
「あなたって、いい人ね」
「お願いだ。どうか、まじめに考えて欲しい」
この真剣なラートの言葉に、ローラはそのプロポーズを受容したのである。
まもなく一座の中で、二人の結婚式が執り行われた。
ラートは今、まさに至福の絶頂期にあって、深々と酩酊していたのである。
2 ステージの一角に作り出した、言い知れぬ恐怖のゾーンの果てに
一座は巡業の旅を続けていく。
やがてラートの貯えも底が尽きてきて、彼の財力に縋っていた周囲の視線は冷たいものに変わっていった。
ラートはローラの絵葉書を、彼女目当ての客に売り捌(さば)く仕事くらいしかできなかった。彼には元々、客を喜ばせるプロの芸など持っていなかったからだ。
「売れた?」とローラ。
「2枚だけだ。無学な連中め!」とラート。
「それはないだろう!顔を見たまえ。売り子の顔じゃない。ヒゲなんか剃った方がいい」
ラートの暴言に、傍らにいた団長が手厳しく非難して、部屋を出て行った。
うな垂れるラートに、ローラは静かに言葉を添えた。しかしその言葉には棘があった。
「そうよ。きれいに剃りなさい。誰のお陰で、暮らしてられると思うの?あの人たちよ」
「そうだ。あの連中のお陰だ。情けない」
「嫌なら出て行って」
「ああ、出て行くとも。出て行くさ。こんな暮らしを続けるより、野垂れ死にする方がマシだ!」
ラートはそれまで溜まっていた感情を噴き上げて、咄嗟に部屋を出て行くが、すぐに舞い戻って来た。
彼にはもう、戻るべき場所がなかったのである。
ローラはそんな男の気持ちを見透かしていて、彼の帰還を受容する代わりに、彼を顎で使う立場になっていた。
「そこの靴下とって」
黙々と若い妻の指示に従うラートは、その妻の足に靴下を履かせたのである。
やがて月日は経ち、二、三年もの時間が流れていった。
ラートは今、ピエロの格好をして、ドーランを塗っていた。そこに団長が、ご機嫌な表情で入ってきた。
「喜べ。あんたが一座の花形になるんだ」
「純情な人をからかわないで」とローラ。
「お前の亭主にお呼びがかかった。見ろよ。電報で契約を申し込んできている。“嘆きの天使”の店だぞ」
「嘆きの天使?」とラート。
「あんたの故郷のさ。いい宣伝になるよ、ラート教授」
「嫌だ。あの町へは戻らん」
「そう言うな」
「絶対に戻らない!」
「呆れたもんだ。5年も女に養われた教授先生が、金の稼げる所へは行かんとおっしゃる」
「止めて」
「明日の朝、出発だ」
「私は絶対に行かない。それだけは許してくれ。あの町だけは絶対に行けない」
しかし、ラートの強硬な反対にも拘らず、団長の企画は実現されていった。
1890~1900年のハンブルク(ウィキ)
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「ラート教授 来演!」
一座の巡業は、このポスターのお陰で、多くの観客を集めることに成功した。ローラがいつものように歌い、踊る。
その間、ラートは団長によって、楽屋でいつものピエロの格好の厚化粧をされている。
「今夜で、お前さんの運命は決まる。上手くいったら大スターだぞ。ベルリン、ロンドン、ニューヨークだ」
「それは先のこと。今夜はまだ嘆きの天使よ・・・落ち着くのよ。私だって初舞台の時はガタガタ震えたけど・・・」
一座の団長夫人がラートを励ましている。
そこに「市長まで来た」という報告があり、更にラートにとって、最も屈辱的な報告を受けることになった。
「ご同僚の先生たちも、生徒たちも皆、来てますよ。どうぞ、しっかりやって下さい」
そこに団長からのプレッシャーが加えられた。
「いいか、しっかりやるんだ。俺のように落ち着いてやるんだ」
ここで舞台の出番を知らせるベルが鳴った。
「始まるぞ」
団長はその一言を残して、舞台に上っていった。
一人残されたラートの楽屋に、ローラが新しい恋人らしき男を連れて入って来た。再びベルが鳴った。
「何してんの?早く出なさいよ」とローラ。
その口調は冷淡である。しかしそれでもラートは動かない。じっと一点を見据えて座っていた。
ピエロの格好の厚化粧をされているラート |
「今になって、無茶なことを言うな!」と団長。
「何を言ってるの?出たくないって?出るのよ!」とローラ。
結局、一座の者に押されるように、ラートは舞台に出ることになった。
舞台では、団長が挨拶をしている。
「皆さま。大変、お待たせしました。ちょっとした故障で・・・」
「先生の腰痛か?」
観客から野次が飛び、その後から品性を欠いた哄笑が渦巻いた。
「さて、これから充分にお楽しみ頂きます。国際的な奇術でありますが、その中で特別なアトラクションとしたしまして、ある人物を登場させます。当地の高等学校で長年に渡り、教育に携わった有名な教授先生でございます」
「早く出せ!」と直截な野次。
「今さら説明にも及びますまい。これ以上お待たせもできません。イマヌエル・ラート大先生です」
奇術師である団長の紹介で舞台に押し出されたラートは、助手の役割を負わされて、舞台にその姿を露出させている。
団長の奇術が始まった。
「さて皆さん、種も仕掛けもございません。私の使いますのは両手だけ。このシルクハットは、イギリス製のごく普通のもの・・・」
そう言って、ラートが被っていた帽子を手に取った団長は、奇術を演じていく。その帽子に仕掛けがないことをアナウンスした後、奇術の常套句を言い放った。
「これを彼に被せますと、生きた鳩を出してご覧にいれます」
団長の傍らには、一貫して表情を変えないラートが、団長によって被された帽子を身につけて、呆然と立っている。
「帽子に鳩が入ってると、皆さんはお考えでしょう。どうぞ見て下さい。何も入っておりません。空っぽです」
その帽子を取って、更にラートの頭に被せたとき、鈍い音がした。
ラートは呆然とするばかり。その違和感に、観客から爆笑が渦巻いた。
「もう一度、念のために短刀で」
団長は次に、ラートの帽子に短刀で何度も突き刺していく。
「拳銃まで持ち出しましたが、ご心配には及びません」
団長が取り出した拳銃を上に向けて発射した瞬間、ラートの帽子の中から白い鳩が飛び出してきたのである。
「どうせ、空っぽの頭ですから」
このきつい団長のジョークに、ある観客から「いい加減にしろ!」という激しい野次が飛び出した。
その観客は単に、団長の助手をして立っているだけのラートに不満なのだ。それに奇術の内容も凡庸過ぎるものだったからであろう。
しかし、多くの観客は拍手喝采して、そのショーを明らかに愉悦していた。
今度は「卵を出してくれ」という観客の注文に、団長は「アウグスト(ラートの芸名)の鼻から卵を出して見せましょう」と言い放ち、観客の声援をより多く受けることになった。
それを嫌がるラートに、団長は「おとなしく立ってろ。元教授だろ!」と命じた。団長は鳩を出した後、生卵をすぐに出して見せたのだ。更にその卵をラートの頭にぶつけて、それを割って見せたのである。
観客は興奮の坩堝となって、「もっと卵を産ませろ!」の大合唱。団長はそれに呼応して、二つ目の生卵を同じように割っていく。
「コケコッコと鳴け。コケコッコだ」
この団長の命令をラートは拒み、ステージから離れていった。
「今すぐ鳴かないと殺すぞ!」
その直後のラートの振舞いは、あまりに悲痛過ぎるものである。
彼は狂ったように、「コケコッコ!」と呻いたのだ。
ステージの一角に、何か言い知れない恐怖のゾーンを作り出して、無芸なる初老の元教授の狂気が空気を支配し切ったのである。
「狂ったぞ!」という観客の声を無視して、ラートが向った先は、若妻ローラの元だった。彼の視界には、先の男と睦み合っている女房の姿だけが、はっきりと捉えられていたのである。
「何よ!私は何もしてないわ」
弁明する妻に向って、ラートは突進し、その首を締め上げた。ローラは夫の暴力から逃げていく。一座の者が集まって来て、ラートを捕捉した。団長は縛り上げられたラートの縄を解いて、静かな口調で言葉を添えた。
「しようがないな。お前さんほどの男が、女のために。静養して元気になってくれ」
ラートは一座から離れて、寂しい夜の町の中を、まるで夢遊病者のように歩いていく。
彼が辿り着いた場所は、自分がかつてプロフェッサーとして、威厳を持って教鞭を執っていたギムナジウムであった。
まもなく彼は英語教室の教壇の上で、その息絶えた体を学校の用務員によって発見されることになったのである。
映像のラストは、いつもと全く変わらない様子でステージに立つローラの姿。
彼女はいつもの歌を、いつもの軽快な律動で、まるでその歌詞のままに生きているように歌い上げていく。
“恋するために生まれた私。恋だけが私の生きがい。私はそういう女なの。私は恋しかできない女。寄ってくる男たちは火傷する。焔に群がる蛾のように。恋するために生まれた私。私は恋しかできない女”
* * * *
3 鬼気迫るエミール・ヤニングス
この映画の、殆んど救いのないようなペシミズム。
映画の出来は出色なものではなかったが、私は何より、その黒々としたペシミズムに慄然とする思いを抱いてしまった。
いつまでも本作の遣り切れないペシミズムが私の記憶に張り付いて、容易にフェードアウトしてくれないのだ。
マレーネ・ディートリッヒの印象は殆んど稀薄で、常に本作を想起するとき、記憶の残像から零れてくるのは、ラート教授を演じ切ったエミール・ヤニングスの鬼気迫る表情以外ではない。
エミール・ヤニングス(左)とマレーネ・ディートリッヒ |
本作は、彼のその壮絶な演技なしに成り立たないのだ。
これは、彼のための映像であって、そこで演じられた初老の独身教授の心情世界の表現こそが、本作を映画史に刻む決定力になったものなのである。
だから本稿も、彼の心情世界の分析のみに言及を限定することになる。
4 人間は皆、おのれ自身をどこまで正確に把握して生きているのか
―― 本作のテーマを、作り手がどこに据えたかについて、私は不分明である。
しかし、本作を繰り返し観るたびに、私の中で形成されるイメージ・ラインは二点に絞られる。
その一点は、「人間は皆、おのれ自身をどこまで正確に把握して生きているのか」という、常に古くて新しいテーマである。
本作は、自分自身を把握できない男が招いた悲劇であると言っていい。
自分自身を把握するとは、単に自分の能力や気質や感情傾向を把握することではない。実はそのレベルの自己像も、人間にとって簡単なことではないであろう。
人間は常にどこかで、自分を甘めに見てしまうところがあるからだ。そうすることで、自分の未知の可能性を担保できるのである。
それは、人間の自我の防衛戦略の普通のスキルと言っていいかも知れない。
しかし、自己像把握の範疇には、もう一つ重要なテーマがある。
それは、自分に意識を向ける「私的自己意識」ではなく、他人が自分をどのように見ているかという点についての把握である。
日本人に特有な感情傾向とも言える、「公的自己意識」のことである。
言わずもがなのことだが、それぞれの経験則に照らしてみれば分るように、この把握もそれほど簡単ではない。多くの場合、自分を少しずつどこかで甘めに見てしまう分だけ、自分に対する他者の評価をも甘めに見てしまうところがある。
そうすることで自我の安定も図られるし、他者に対する不必要な攻撃性も削られていくのである。
たいてい人並みに育てられれば、それぞれに人並みの愛情を被浴しているという柔和な記憶が、その後の自我に張り付いてしまっているので、そのような人並みの愛情経験が固有の「内的ワーキングモデル」(注1)を形成し、自己に対する他者の視線を自分に都合のいいように考える傾向を生んでしまうと言えるだろう。
このことは、乳幼児時代の愛情欠損を経験した自我が思春期を迎える辺りで、その歪んだ様態を晒すに至るケースを想起すれば瞭然とする。
ヨシフ・スターリン(ウィキ) |
だから、彼らの問題は、単に「独裁者の心理学」というテーマに収斂されるものではないのである。
(注1)幼少期に於ける母親等のアタッチメント(愛着関係)の内実が、その後に於ける自我の社会的適応の様態や、愛情関係の性質に大きな影響を与えるという仮説。
以上の事柄を考慮する限り、自己像把握という内的作業の想像以上の困難さが了解されるであろう。
自らを知るということは、まさにその自己の存在を理解する他者の心情をも把握するということなのである。
自己の能力や感情傾向を把握した上で、その自己を認識する他者のその認識の許容範囲を正確に把握すること。それが正確に捕捉されれば、人は自らが冒す誤りの多くの部分を修復し得るであろう。
本作の主人公の初老の独身男には、その能力が相当程度欠如していた。
彼の能力の及ぶ範囲は、彼が長い年月をかけて習得してきたであろう、その学問的教養の守備範囲に収斂されるものに限定されていたのである。
彼はその中で、いつしか、「謹厳で、有徳なる教授」という自己像を育んできて、その自己像に合わせて限定的な身体表現をなぞっていくしかなかったということだ。
生徒たちから、「強面(こわもて)の教授」という恐れられ方をしていること自体、彼の自我が、その自己像のイメージラインに重ね合わせていたことと矛盾するものではなかったはずである。
生徒たちから恐れられている事実は、彼にとって自己像を些かも貶める何かではなかったのである。
彼は町の名士であり、有能なるプロフェッサーであったのだ。
現にキャバレーに乗り込んだ際も一座の団長はおろか、騒ぎで駆けつけて来た警官も、彼に応分な敬意を払うことを忘れなかった。
そこにおいて既に、彼の決定的な「抵抗虚弱点」(人にとって最も弱い部分)が胚胎してしいたのである。
5 「異文化摩擦」という名の魔境、或いは、「予約された残酷さ」
そして、彼の人格像についての第二のテーマが、ここに重厚に絡んでいく。
それは、「異文化摩擦」という由々しきテーマである。このテーマこそが、彼の晩年の人生を決定づける役割を担ってしまったのである。
「謹厳実直」で生き抜いてきた男の視界に、煌(きら)びやかな色彩を放つ異文化の光線が唐突に侵入してきて、全く免疫力を持たない男の非武装なる自我を泡立たせ、過剰なまでに刺激してしまった。
恰も、それが魔境への誘(いざな)いであるかのように、男の乾燥した感情世界に心地良い潤いを与えてしまったとき、男はもうその未知なる文化ゾーンに殆んど搦(から)め捕られてしまったのである。
その男は、脚線美を誇る若い人気歌手の思いもかけない柔和なアプローチに、まるで落雷にでも遭ったかのようにして、その謹厳なだけの鎧の仮装を解き放たれてしまった。
男がなぜ、今日まで独身を貫いてきたかについて、映像は一切の説明を省いてしまったが、男にとって「異性」の存在は、特段に宗教的、倫理的タブーの対象となっていなかったであろうことは容易に推測し得る。
男は単に、「女の肌」と濃密な関係を継続するに足る縁がなかっただけであるに違いない。
年輪を加えてきて、いつしかそんな自己の存在性に空洞感を作ってしまったのであろう。
その空洞感を埋めるべく、脚線美を誇る女の柔和な視線が、まさにある種の危険な出会いの偶発的な流れの内に、最大限の刺激性をたっぷり含んだ空気感によって運ばれて来てしまったのである。
男は尊敬の対象となる役割的存在を長く演じ続けてきて、既に自分に向かって放たれる視線の棘を見抜けなくなるほどに、解毒化された自我を形成させてしまったのだ。
男の自己像把握の内実は、非常に狭隘な文化世界の中で肯定的に捕捉されてしまっていたから、自己を見る他者の視線の迎合のポーズすらも識別できないほど、表層的な了解性の内に固まっていたのであろう。
それが、男の不幸の全ての始まりであったと言えるかも知れないのである。
男は自分に内在する能力が作り出した、現在の社会的ポジションについての自己認知を、いつしかそこに、余分な付加価値を加えていくことで不必要なまでに肥大させてしまったのだろう。
評価と把握の微妙な落差が、男をして虚構の自己像を作り出させた陥穽だったのではないか。
そんな男の心情ラインが、単に女からの営業用のハニートラップでしかないアプローチを、何か落雷にも似た快感情報として受容する、「異文化侵入」への免疫力の脆弱さを晒すに及んで、極めつけの陥穽に嵌ってしまったのである。
男は女に求婚した。
女の好奇心も手伝って、男の思いは受容されることになった。男は全てを捨ててきたのである。
町の名士であるプロフェッサーとしての地位を自ら放擲することは、男に張り付いていた決定的な権威の全てを削り取ってしまうことであった。
男にとって、そんな冒険行が何を意味するものかについて見えなくなるほどに、男が経験した異文化クロスの衝撃の大きさを、それは端的に物語るものである。
しかし男だけが、失ったものの大きさの意味を知らない。
男は自分に張り付いていた権威の威力が、既に自分の人格の、その日常的な様態の内に分娩されていたものであると錯覚してしまったのだ。
しかし肩書きを持たない男を、一座の者がこれまでと同じ視線で捕捉する訳がないのである。
女もまた、同様だった。
「純粋な教授」というイメージから「教授」の肩書きが削られたら、そこには単に一座のお荷物でしかない、「女狂いの老人」という人格像だけが露呈されてしまったという訳だ。
男だけが、それを正確に認知できない。だからそこに、起るべきして起った悲劇が出来してしまったのである。
一座の団長は、男が既に捨ててきた、「教授」という過去の肩書きを利用することで、彼を奇術の格好の出し物として売り出そうと企画し、それを拒絶する彼を説き伏せて、あろうことか、彼が教鞭を執っていた町の只中で、「ラート教授 来演!」というポスターを張り巡らせて、その残酷なる公演に打って出たのである。
そして、それは興行的には成功した。
その成功の裏側で、自分の置かれた惨めな立場を決定的に認知されることになった男の悲劇が決定的に極まったのである。
男の身をどこかで案じながらも、自分に擦り寄って来る、好色漢の相手を厭わない若妻の感情世界の内側に、遂に融合できないと認知した男の終着点は、自分が確信的に捨て切ったはずの権威の象徴である教壇以外ではなかった。
男はそこに、呼吸を繋ぐことを止めた自らの孤独なる身体を埋めたのである。
その悲劇はまさに、高度な蓋然性の内に遭遇した男の自我の狭隘さが、そこに流れ着く以外になかった殆んど必然的な帰結だった。
男が侵入した異文化の悦楽のイメージが、どれほど刺激的な臭気を放ったものであったにせよ、その時点で、既に男の無謀なる選択の流れ行く先は、「予約された残酷さ」と呼べる何かでしかなかったのである。
この男は、そのような決定的な選択の中で、或いは、自己再生を図ろうとしていたのかも知れない。しかし初老の、世間知らずな男の自己再生の選択域は、残念ながら限定的なものでしかなかったであろう。
男はその認知を誤ったのである。
詰まるところ、自分が何者であり、そこで手に入れた心地良き権威の虚構性を洞察できなかった能力の、その決定的な欠如こそが、男の「予約された残酷さ」を保証してしまったということなのだ。
ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督 |
「ドイツ表現主義」(注2)の個人主義的で、脱規範的な幻想怪奇な映像(注3)と明らかに切れているが、しかし、そこに描かれた濃厚なペシミズムは、まさに、表現主義文化の最後の血の滴でもあるかのようであった。
(注2)二〇世紀初頭のドイツで展開された広範な芸術運動。それまでの自然主義や、印象主義芸術に対するリバウンドとして、芸術家の内面的な感情表現に重点を置き、鮮烈な表現が重視された。
(注3)シュールな描写で、人間の狂気や不安をテーマに描いた怪奇色の強い映像。「カリガリ博士」(1919年)、「巨人ゴーレム」(1920年)、「ノスフェラトゥ」(1922年)が有名。
(2006年10月)
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