<特定的に選択された、「無垢なる障害者」>
1 禍福に富んだ運命の時間が開かれて
時は19世紀末。場所は、英国ロンドンの見世物小屋。
そこに、「エレファント・マン」と呼ばれる容貌怪異な人間がいた。
警察の取締りで見世物小屋の小屋主が、厳重な注意を受けている現場に、そこを訪ねたトリーブスは立ち合った。
彼はロンドン病院の外科医であり、「エレファント・マン」に強い関心を抱いていたのである。
後日、再訪した彼は、「礼は充分にする」という約束で、小屋主のバイツから「エレファント・マン」の観察を許された。
「この化け物の哀れな母親が辿りし運命や、まさに然り。妊娠4ヶ月の身重で、野性の象に撥(は)ねられたのです。アフリカ某所の出来事でありました。その結果はご覧の通り。皆さん、忌まわしき『エレファント・マン』です・・・」
この小屋主の口上で、「エレファント・マン」と呼ばれる男の姿が映し出されて、それをまじまじと見たトリーブスの眼から、自然に涙の粒が流れ落ちてきた。
トリーブスはバイツと話をつけて、学術的な研究目的のために、「エレファント・マン」を一時(いっとき)譲り受けることになったのである。
頭からマスクを被された男が、小さな唸り声を上げて、ロンドン病院のトリーブスの元に連れられて来た。
トリーブスはマスクの相手に自分の目的を話したが、相手からの反応は見られなかった。
その部屋を訪れた同僚の医師に、トリーブスは、「学会で発表するよ。絶対口外しないでくれ」と念を押し、再びマスクの男の元に戻って来た。男は相変わらず唸り声を上げるのみだった。
学会の発表の日。
トリーブスは出席した医師たちの前で、本人の体を指し示しながら研究発表を進めていく。
しかし映像を観る者には、まだカーテン越しのシルエットしか見えないが、その奇形の現実を、却ってより重々しく想像させるものとなった。
「彼は英国人です。21歳。名はジョン・メリック。職業柄私は、病気や外傷で変形した顔を沢山見てきましたし、同様の原因で切断された肉体も知っております。しかしこの男性ほどの悲惨な変形例は初めてです。では患者の具体的な症状を説明しましょう。
まず頭蓋骨の極度の肥大。使用不能の右上膊(はく=上腕)部。大きく湾曲した脊柱。たるんだ皮膚。身体の90%を覆った様々な腫瘍。これらは出生の時から見受けられ、悪化してきたのです。
また気管支炎も患っています。更に興味あることに、この異様な状態にも拘らず、患者の生殖器は完全無欠です。また左腕も正常です。これらの諸症状、即ち、先天性頭蓋骨肥大、皮膚全面を覆った巨大な腫瘍、右上膊部の極端な肥大、頭部の巨大な変形、冠状腫瘍などにより、患者は『エレファント・マン』と呼ばれてきました」
トリーブスは講演後、同僚に「彼の精神面は?」と聞かれ、「知能はない。多分、先天性の白痴だ」と答えている。
ジョン・メリック。
これが、「エレファント・マン」と呼ばれた男の本名だった。
そのメリックは再び見世物小屋に戻されたが、バイツの殴打が原因で発病したことで、トリーブスの病院に引き取られることになった。
治療の見込みのない入院に疑問を持つ院長の質問に対して、トリーブスは「慢性的な気管支炎と、殴打による身体疾患」を理由にして、何とか例外的に入院の継続を認めさせようと努めたのである。
しかし、一時的な秘密の入院は、看護婦を恐怖に陥れ、トリーブスがフォローするというエピソードを生むが、彼以外の庇護がない状態は変わらなかった。
苛立つトリーブスは、メリックと必死にコミュニケーションをとろうとして、次々に発問していく。
その結果、頷くメリックに最低限の理解能力があると考えたトリーブスは、はっきりと言い放ったのである。
「何か喋って、人間だということを証明するんだ。何か喋って、聞かせてくれ。私は君を殴ったりしない。君の声を聞きたいんだ。ゆっくり“はい”と言って。“はい”だ」
「はい」
メリックは、初めて言葉を放ったのである。
更に、トリーブスは、メリックに自分の言葉を真似るように要求し、「こんにちは。僕は」と言ってみた。
「こんにちは。僕は・・・」とメリックはゆっくり答え、次に自分の名を答えて見せたのである。メリックに会話能力があることが検証されたのだ。
「御名のために、正しき道に導きたもう。正しき・・・」
メリックは、トリーブスによって聖書を暗誦している。院長との初対面のためである。
まもなく院長が、メリックの部屋に入って来た。
「こんにちは、メリックです。お会いできて嬉しいです」
「具合はどうだね?」
「よ、良くなりました」
「居心地は?」
「皆さん、とても親切で・・・」
「気管支炎は?」
「良くなりました」
そこに形式的な会話が交わされたが、院長は、メリックの反応がトリーブスによる練習の成果であることを見抜いて、指摘した。
「どの位、練習したんだね?」
院長は同じ言葉を繰り返すメリックに失望して、部屋を出て行った。
院長を追いかけたトリーブスは、必死に弁明を繰り返すが、「ここには置いておけない」と返された。トリーブスが諦めて、部屋に入ろうとしたときだった。
部屋の中から、彼が教えてもいない聖書の言葉が聞こえてきたのだ。メリックは既に、聖書を読み込んでいたのである。
トリーブスは院長を呼び戻して、二人で部屋に入っていく。
「なぜ、後(あと)を知っているんだ?」とトリーブス。
「どうしてだろう?」と院長。
「毎日、聖書を読んでいました。祈祷書もよく知っています。23篇は美しいので好きです」とメリック。
「なぜ黙っていた?」とトリーブス。
「喋るのが怖かったんです・・・済みません」とメリック。
まもなく院長室に呼ばれたトリーブスは、院長に尋ねられた。
「彼の人生を想像できるかね?」
「できます」
「できるもんか。どこの誰にもできる訳がない」
トリーブス医師(右) |
まさにそれは、メリックの振幅の大きい、禍福に富んだ運命の時間が開かれた瞬間だった。
2 「私は善人か、偽善者なのか」
まもなく、メリックの存在が新聞に踊った。
「“その醜悪な容姿に、女性や気の弱い者は、一見して悲鳴を上げるほどで、職を得て生活するのは困難だが、豊かな知性を備え、読み書きもできるし、その心は清く美しい”是非お会いしたいわ」
ロンドン・タイムスを読んでメリックに関心を持ったのは、舞台女優のケンドール夫人だった。
更に、トリーブス家に招かれたメリックに優しい愛情を注いだトリーブス夫人も、新聞に影響を受けた者の一人だった。
メリックは夫人の優しさに触れて、思わず落涙した。
「どうした?」とトリーブス。
「いえ、あのう、美しい女性に、優しくされたのは初めてなんです?」
お茶の接待を受けたメリックは、まだその涙を引き摺っていた。
「このひと時に、感謝しています。お招き頂いてありがとう。失態を演じてごめんなさい」
すっかり打ち解けたメリックは、トリーブス家の居間に飾ってある写真を見て感激し、自分の母の写真を夫婦に見せたのである。
「お美しい方!」とトリーブス夫人。
「天使のような顔をしています・・・僕には大いに失望したでしょう」
メリックは美しい母を自慢した後、元気なくそう語った。
宥めるトリーブス夫人の思いの中には善意が溢れていて、それが夫人の嗚咽に繋がったのである。
今や時の人となったメリックを、今度はケンドール夫人が訪ねて、「ロミオとジュリエット」の本を贈呈し、「あなたはロミオよ」と言い添えた。メリックの瞳から、またしても涙の筋が光っていた。
ケンドール夫人のメリック訪問は、忽ちニュースになり、社交界に大きな影響を与えることになった。
上流階級の者たちは、明らかに、その空気感の中でメリックと接触していく。しかし、彼らの態度は上辺だけの触れ合いであり、その偽善性は瞭然としていた。
「彼はまた、見世物に成り下がりましたわ」
トリーブスに抗議した婦長のこの言葉が、メリックを取り巻く状況を的確に言い当てていたのである。
婦長から事態の本質を直裁に指摘されたトリーブスは、その夜、妻にしみじみと語った。
「バイツと同じ穴の狢(むじな)かも知れない。私もメリックを興味の対象にしてしまった。変わらんよ。場所が病院に移っただけさ。私は新聞にもてはやされ、有頂天で、患者は門前市をなしている」
「あなたが名医だからよ。メリックは生まれて初めて、幸せを掴んだわ。あなたのお陰で」
「何のためなんだ。何故したんだ」
「何を言いたいのよ」
「私は善人か、偽善者なのか」
トリーブスは、世間に大きく喧伝されて有名になったメリックにとって、自分が為したことの意味の大きさについて深々と省察していたようにも見える。
メリックの処遇について、ロンドン病院で、医療スタッフによる会議が開かれた。その中で、一人の初老の医師が、きっぱりと反対意見を述べた。その口調には差別的言辞がべったりと張り付いている。
「私はこんな化け物に用はない。奇形人間狩りにはうんざりしているんだ。これは若い医者どもの売名行為に過ぎん。学会で見世物小屋を開くのもいいだろう。しかし化け物を匿うとなると、話は別だ。結論はもう出てるよ。患者として収容するか否かではなく、あの病室を有益に使うために、いつ明け渡すかだ。早急に奴を追い出すべきだ。病人の治療が務めだ。動物には用はない」
「考慮する余地はないですかな?」と院長。ここでは議長を務めている。
「耳がないのか、議長には!絶対に反対だ!気持ちは変わらん。無駄だよ。早く決を採ってもらいたい」
会議の空気が沸騰しつつあったその場に、この国の女王陛下の使者が訪問し、議論は中断した。彼女は女王陛下の書面を携えて来て、それを読み上げていく。
「“ジョン・メリック氏に対し、皆さんの示された厚意を称えます。皆さんは、最も恵まれぬ子弟の一人に、安息の港、家を与えました。皆さんの慈悲溢れる幾多の行為は、院長から報告を受けており、感謝いたします―― ヴィクトリア”温情ある決断を期待します」
「添えるように努力します。ではメリック氏が、当病院に無期限に収容され、その費用は一般ベッドと同額にする動議を提出します」
ここで、議長である院長の決議の採択が執り行われ、結局、満場一致で可決することになった。今やメリックは、国を挙げて庇護されるべき対象になったのである。
その評議会の決議の結果を、院長はトリーブスと共にメリックに伝えたとき、メリックの感謝の気持ちが、ここでも涙となって表現されていた。メリックは、当病院で永久入院されることが決定されたのである。
3 「僕は象じゃない!動物じゃない!人間だ!」
メリックが恐らく、生涯で至福の時間を迎えていたそのとき、しばしばメリックの部屋を訪れては、女たちを同行させ、そこで金銭を稼いでいた病院勤務のボイラーマンが、大掛かりな商売を当て込んで、女や酔っ払い連中を連れて、メリックの至福の部屋に侵入して来た。
男は、手鏡をメリックの顔に当てるという横暴ぶりを示し、自分の顔を見て叫ぶメリックの哀しさが捨てられた。ならず者たちが引き上げた後、バイツがメリックの部屋に入って来て、彼をさらって行ったのだ。
小屋主のバイツ |
しかしメリックには、ショーを見せる体力も気持ちも全くなかった。
彼はショーの中で卒倒して、大衆の二重の蔑視をまともに受けてしまったのである。
二重の蔑視とは、その生来的な奇形の醜悪さと、その醜悪さを商品価値に替えられない者が受ける苛酷なる蔑視である。
そんなメリックを、バイツは動物のケージに入れることで、折檻を加えていくばかりだった。
メリックの置かれた苛酷な現実に同情した小屋の仲間たちは、ケージからメリックを救い出し、密かに逃亡させたのである。
頭からマスクを被ったメリックは船に乗り、ヨーロッパから英国に戻って来た。更に列車に乗り替えて、辿り着いた先はロンドン駅。
駅のプラットホームに降り立って、単身構内を歩いて行くメリックの周囲を、少年たちの露骨な振る舞いが絡みついてきた。
更に、メリックを知らない大人たちの恐怖感が過剰防衛に走って、遂に、メリックのマスクが頭部から外されてしまうのだ。
全貌を表したメリックを見る一般大衆の叫びがそこに轟いて、今やメリックは、国家から庇護される対象から外された者の悲劇を晒すだけだった。
メリックが最後に辿り着いた場所は、駅のトイレ以外になかった。そこに大勢の大人たちが雪崩れ込んで来た。
追い詰められたメリックは、それ以外にない叫びを刻んだ。
「僕は象じゃない!動物じゃない!人間だ!人間だ!」
好奇の視線でメリックを見る大衆を分け入って、警官隊が入って来た。切っ先鋭い差別の最前線の場で、メリックは危うく救われたのである。
彼はまもなくロンドン病院に戻されて、トリーブスと再会することになった。謝罪するトリーブスに対して、メリックははっきりと答えた。
「先生の責任ではありません。どうぞ、ご心配なく。私は今、幸せに浸って生きています。愛を与えられ、充実しているんです。生きています。全て先生のお陰ですよ」
「私も大いに学ばせてもらった。ありがとう・・・」
メリックの、あまりに短い至福の晩年が開かれたのである。
4 確信的に旅を終えた者のように
彼はトリーブス夫妻と共に、ケンドール婦人に招かれて、舞台を観劇することになった。観劇しながら、メリックには様々な思いが込上げてきた。それは、筆舌し難い忌まわしい過去を浄化するような体験だった。
公演後、ケンドール婦人が挨拶した。
「今夜の公演は、特別な意味を持っています。愛する劇場に、今夜初めて見えた方にご覧いただきました。今夜の公演は、その方に捧げたいのです。ジョン・メリック氏に。私の親友に」
会場は、割れんばかりの拍手で埋まった。
メリックはトリーブスに促されて、静かに立ち上がり、観衆に頭を下げた。そこに、スタンディング・オベーションの嵐。
至福に包まれたメリックはその夜、トリーブスに思いを語った。
「人食い鬼が、牢から出るとは思いませんでしたよ」
「楽しかったかい?」
「ええ、とでも」
「じゃ、また行こうか?」
「ええ、是非」
「よし行こう。約束だ。楽しくて良かった・・・」
部屋に一人残されたメリックは、物思いに耽っている。
「終った・・・」
そう呟いて、メリックは静かに動いていく。
それしか使えない左手でベッドの枕を全て外して、そのベッドに身を横たえていく。頭が重いから、当然彼は自力で起きることができないのだ。
メリックは確信的に旅を終えた者のように、別の世界に新たな旅立ちを選択したのである。
別の世界には、幼いときに亡くなった美しい母がいる。
自分の自我を柔和に育ててくれた優しい母がいる。
その母の元に、メリックは旅立ったのである。
メリックの新たな旅立ちを祈るかのように、今、母の優しい声が届いてきた。
「命はすべて永遠よ。川は流れ、風は吹き、雲は漂い、胸は鼓動を打ち・・・果てることはないわ」
映像は、メリックの母の美しい顔を大きく映し出して、閉じていった。
* * * *
5 フリークスが内包する客観的な存在感の大きさ
デビット・リンチ監督 |
それ故、私は論考の中心に、メリックそれ自身ではなく、メリックを囲繞する視線と、彼の身体を規定する様々な「差別行為」についての把握を措定してみた。
つまり、本作の主人公であるメリックに対して直接的、間接的に関わった者たちの意識を、二つの概念の導入によって把握してみたのだ。
その一つは「商品価値性」であり、もう一つは「差別意識と差別行為」である。以下、それらを脈絡させながら言及していく。
6 メリックの商品価値性
―― まず、「商品価値性」について。
私はメリックに何らかの形で関わった者たちの意識を、「商品価値性」という概念で把握した。
これは、ジョン・メリックという先天的な障害を持つ薄幸な男を、既に、一つの固有なる商品価値を持つ存在としてのみ把握することで、それを利用し、その商品価値に見合った等価を享受しようとする者と、それを観賞することで消費しようとする多くの者たち、或いは、それに代価を払うことなく、直接的に彼の身体に侵入することで、特異な彼の存在性を消費する者たちである。
メリックを商品価値として金儲けを企む者の代表に、見世物小屋のバイツと、病院のボイラーマンだった男が挙げられる。彼らの行為のおぞましさについての直接的な描写には、映像を際物的な作品に堕ちかねない醜悪さが張り付いていたが、しかし、作り手がこれをモノクロフィルムに刻んだところに、ホラー的な感覚で流し込まない抑制的配慮が垣間見えるだろう。
バイツとボイラーマンの行為の直接性は、分りやすいが故に醜悪だったのである。それは、彼らの意識の醜悪さを代弁するというよりも、人間の「差別意識」(後述する)をあまりにダイレクトに身体表現した者が放つ体臭の醜悪さである。
逃げ惑うメリックの顔の前に鏡を突きつけて、メリックの叫びを作り出し、そのさまの観賞をも商品としてセールスする男の直接性は、不平を託つ者のフラストレーションの解消でもあったが、そこには、醜悪なる状況を愉悦するサディズムの領域にも踏み込んでいく、ある種の世俗世界の端的な反映とも無縁ではなかったであろう。
然るに、ボイラーマンの行為の歪み方に比べれば、バイツの行為は確信的であり、遥かに目的的でもあった。彼にとってメリックの存在は、他の見世物の対象となる商品より抜きん出て絶対的な売り物であった。共に、人間の「差別意識」をかなり肥大させた形でベースにしない限り、決して届き得なかった振舞いであった。
それ故、彼らについての描写はあまりに生々しく、過激でもあったが、人権意識のレベルの浸透が限定的だった時代の下では、特段に犯罪的な認知と捉えられるものではなかったに違いない。なぜならば、彼らが商品としてセールスする仕掛けに、多くの大衆が普通に呼吸する空気が違和感なく囲繞していたからである。
次に、商品価値としてのメリックの観賞に、金銭を払って侵入した一般大衆の意識について言及する。
メリックを商品価値として消費する大衆の意識は瞭然としている。
人間に内在する「怖いもの見たさ」の感情が、見世物小屋の枠組みの内に限定されていて、そこから小出しにされる商品を観賞して愉悦する着地点には、一回見たらそれでお仕舞いという、極めつけの好奇心の自己完結が待っている。
その好奇心は、小出しにされる商品が、それ自身の価値を持って表現されることによって充たされるが、本作の後半では、金を払った見物人の不満が見世物に唾を吐きかけるという描写があった。これは、このような大衆の感情を示す最も直接的で分りやすい描写であると言える。
即ちこの時代、このような大衆が匿名性の陰にその身を潜入させることなく、その内在的な「差別意識」を容易に表現できる場所も時間も、そして、それを容認する圧倒的な空気の力が存在していたということである。
然るに、この見世物小屋のショーは、特定の枠組みの中で商品取引された典型的なケースだったが、この枠組みから商品価値としてのメリックが離脱した瞬間に、無防備なメリックという、固有な存在性に襲いかかる大衆の恐怖と好奇で繋がれた歪んだ暴力が、一つの悲劇を作り出していった。
このエピソードが物語るものは、メリックを商品価値として、一つの枠組みの中に抱え込んだ見世物小屋のシステムの方が、メリックを少しでもより保護し得る可能性を孕んでいたという事実であろうか。
しかし、そのシステムの中で、既に、許容臨界点を超えていたメリックの逃走が不可避であるならば、どれ程偽善に充ちたシステムであったにしても、彼を一人の人間として表面的に庇護しようとした、ロンドン病院の価値の存在性は否定し難いであろう。
では、メリックを終始、庇護しようとしたトリーブス夫妻や、ケンドール婦人の意識のあり方をどう把握したらいいのか。
トリーブス医師 |
彼は映像の冒頭で見世物小屋に入り、メリックを初めて視界に収める。
そのとき彼の瞳から濡れるものが滲んでいたが、そこに、彼の振舞いを通して描き出される人間性の一端が垣間見えると言えようか。
しかしその彼が、バイツからメリックを治療の故に引き受けたとき、彼のその最大の目的がメリックの保護それ自身にあるのではなく、あくまでも、学術研究の発表のためであることは明瞭だった。
そして、彼の思惑通りに事態は進展し、彼の学術研究の発表がセンセーショナルな話題となって、メディアでも誇張含みで紹介されるに至ったのである。
然るに、彼のメリックに対する感情の振れ方は、一貫して学術研究の枠を逸脱していなかったと言えるのか。映像で見る限り、それは否であると答えざるを得ない。彼はまもなく、メリックの無垢な心に深い感銘を受け、その思いは確かな幹を形成するに足る硬質度を高めていった。
その意味で、彼の態度には一貫性が見られるのである。そんな彼の思いにメリックが心を開き、その身を預けた事実は特筆すべきものであったろう。トリーブスの存在なしに、メリックの救出は具現しなかったのであるが故に。
メリックがメディアで注目を浴び、ロンドン病院の彼の病室に、引きも切らず社交界の連中が押しかけて来て、その儀礼的な訪問の偽善性が極まったとき、トリーブスは自らを責め立てた。それを否定するトリーブス夫人の慰めに、彼自身納得できない思いを明らかに置き去りにしたのである。
映像で見る限り、彼の煩悶は「自虐のナルシズム」(注)の心理を逸脱しているようにも見えた。恐らく、彼はメリックとの邂逅と、その心理的交流を通して何かを学習し、何かを捨てようとしたのかも知れない。
そこで学習したものは、メリックを自分の研究素材としての商品価値として把握しようとした初期のアプローチの反省であり、そこで捨てたものは、そのような思いの根底に伏在していたバイツとの同根感情であったと言えようか。
(注)責任意識を過剰に駆り立てることで、却って、その責任の所在を稀薄化させるような心理プロセスの内に生まれた快感の感情、という風に私は把握する。
以上のトリーブスの心理の軌跡に、偽善性がたっぷりと張り付いていた事実、これは否定し難いところである。
この偽善性に関しては、ケンドール婦人やトリーブス夫人もまた、同様の脈絡を持つであろう。彼女たちの場合は、トリーブスと異なって、「善」を遂行したことによって得られる自己満足感と、社交界からの人格評価のレベルアップという風に言えようか。勿論、彼女たちには、その意識は稀薄であった。稀薄であったからこそ、彼女たちは煩悶することから免れたのである。
ここに偽善が蔓延(はびこ)る土壌があるのだが、これが過剰にならない限り、多くの人々はそこそこに自己満足を手に入れて、自分の「善性」に酩酊することさえできるのだ。
しかしそれは唾棄すべき悪徳なのだろうか。そうではあるまい。それはどこまでも倫理学的文脈の範疇の問題であり、それ以外の何ものでもないのだ。
大体、私たちは他者の偽善を責めたてることができるほど、「善」なる存在であるというのか。人間だけが一人、偽善に走る。その行為によって自分の立場を少しでも良くしようとして、それを確認し、検証し得る自我が存在する限り、私たちはそのような心地良い行為を捨てる訳がないのである。まずそのことを、シビアに認知しておこう。
その意味で、私は相手に不必要な心理的債務感情を与えることなく、本人がその対応に満足感を示し、且つ、その行為に外的強制力が媒介しないレベルの偽善を全く否定しない。それが他者の眼にはどれほど胡散臭く見えようとも、そのことによって相手が手に入れるメリットの方が遥かに大きいならば、そのような善の遂行は全て良し、と考えているのである。
考えてもみよう。
ジョン・メリックがあのとき、トリーブスと彼を支持するスタッフによって庇護されることなしに放置されていたら、メリックの人生は、見世物小屋の一つの商品として消費され続け、それ以外にない苛酷な人生を閉ざしていったに違いないのである。トリーブスと、そのスタッフのとった行動は絶対的に正しかったのである。
それにも拘らず、私にはなお気がかりな点がある。
それは、なぜ彼らがあれほどメリックに思い入れ、しばしば入れ込むようにして彼の庇護に走ったのかという点である。
それは、彼が単に「不幸な障害者」であったという理由だけでは説明できないであろう。
障害者はいつの時代でも、どこの国にでも、その時代状況下で、医学の顕著な進歩の歩みをあざ笑うかのようにして、ある一定の確率で出現してしまうのは不可避なのである。あの時代のロンドンでも、多くの障害者が不遇を託っていた事実は否定できないであろう。
では、メリックだけがなぜ、あのような庇護の対象になり得たのか。
そこにはトリーブスという医者の重厚な媒介があったにしても、その一回的な偶然性によって、幸いにもメリックは救出されたと言うのだろうか。否である。
恐らく、彼は特定的に庇護されたのである。
それは、あのような容貌を晒され続けけた男が、医師を含む圧倒的多数なる人々の先入観によって、動物のカテゴリーか、良くても知的障害者同然の扱いを受けていた、映像序盤での描写の現実を、私たちは決して忘れてはならないのだ。
トリーブスもまた、同僚の医師にそのことを指摘していた。従って、そのとき彼は、明らかに治癒の見込みのない患者を、研究目的で入院させたのである。その彼が、メリックに対するスタンスを変えたのは、彼が聖書を暗誦するほどの知能を持ち、人の親切を素朴に受容する感性を持つことを認知したからである。そこから全てが変わったのだ。
もう一度繰り返すが、メリックを積極的に受容したのは、動物扱いされていたほどの醜悪な容貌を持つ障害者と、その障害者がその固有の人格の内に形成してきた知的、感性的次元の落差の圧倒的な大きさが、そこに存在したからである。
しかも、メリックという人格が際立って純真な心を持ち、美しい母の写真を大切に守ってきたその精神の無垢さにこそ、彼らは瞠目したのである。
だから、彼らのメリックに対する思いの根底には、メリックがその身体表現に於いて顕在化させた「純真無垢なる障害者」であるという点にあることを、決して看過できないのである。
そのメリック観の見えない部分にこそ、私たちは注目しなければならない。
実は、その見えない部分に横臥(おうが)しているのは、「純粋無垢な障害者であるメリック」だからこそ、切に庇護しなければならないという「差別意識」である。
果たして、本作に登場した人物の中で、「差別意識」を全く持ち得なかった者がいるだろうか。それもまた、否である。人間が自我によって生きている限り、「差別意識」と無縁に生きていける訳がないからである。
人間は全ての事象や固有名詞に、何某かの優劣意識を被せて生きている。
「差別意識」の出発点には、優劣意識が重厚に介在しているということ、それ以外ではないのだ。
7 差別意識と差別行為
―― 以下、「差別意識と差別行為」についての言及にシフトしていこう。
例えば、知人の子弟が東大に合格したとき、その子弟を賞賛する者の儀礼的な言葉のうちには、既に大学のレベルを序列化する優劣意識が含まれている。或いは、自分の瞳の美しさを褒められても、少し鼻が上向きであることをからかわれて怒ったとすれば、その者は自分の身体の器官に対してすらも優劣感情を抱いていることを暴露してしまうのだ。
思うに、自我によって生きる人間は、森羅万象に優劣の価値づけを措定して生きていかない限り、自分が守るべき文化的、経済的、物理的、そして何よりも自分の拠って立つ精神世界を維持して生きていけないのである。
私たちは、その人格的なるもの、内面的なものにまで、実は眼に見えない商品価値性を被せて、その日常性を繋いでいるということ。まずこれを把握しておくことである。
もっとも、以上の意識を「差別意識」という大きな概念の枠組みで括るには、確かに問題があるだろう。しかし、要はそのような優劣意識が、偏見や狭隘な信仰、思想等と結びついて膨れ上がってしまうと、それが明らかな「差別意識」となって、身体表現に繋がる危険性を大いに孕んでしまうということだ。
人は皆、それぞれの意識の個人差があっても、何らかの形で「差別意識」を持ってしまうことは認めざるを得ないのである。ただそれが、過剰なほど膨張しているか、或いは、理性的に抑制されているかによって、そこに決定的な分岐点が発生するということなのである。
だから「差別意識」が抑制されず、集団的にそれが解放されて身体化されてしまうと、それは既に、圧倒的に暴力性を含んだ「差別行為」に流れ込んでしまう怖さを持っているだろう。それこそが人類史の醜悪さを晒す事態として、私たちの歴史に刻まれてしまうのだ。
ここで、本作の主役とも言えるトリーブスの場合について考えてみよう。
彼の中に「差別意識」があったことは明瞭である。それは本人自身が映像の中で語っていることでもあった。彼はメリックを研究材料としてしか見ていなかった。
見世物小屋での彼の涙は、彼の人間的な感情の露呈でもあったが、しかしそれは、彼の目的的行為と矛盾するものではない。人間は、このような感情を抱きながらも、そのような感情とは切れた行為をパラレルに遂行し得る存在性を、本人の無意識下でも容易に晒す何者かであるのだ。
そんな彼が、やがてメリックに思い入れを深めていくことに至って、彼の涙がようやく状況のリアリティに追いついたということなのである。しかしトリーブスがメリックを、特定的に選択した事実を否定することは難しいだろう。
彼は、「聖書を暗誦し、人の好意を受容する素朴さを失わなかった、純粋無垢なる障害者」、それも「醜悪な容貌とは裏腹に、攻撃性のない無害なる障害者」であるメリックを、間違いなく特定的に選択したのである。
このことは逆に、メリックがその正反対の行動、感情傾向を示すキャラクターであり、且つ無知で、意志伝達を表現できない障害者であったとするならば、トリーブスという医師が、その研究発表後なおメリックを庇護したかどうかについて考えたとき、極めて疑わしいと言わざるを得ない。
そこには紛れもなく、理性の被膜に包まれた何某かの「差別意識」が媒介していたと見るべきである。
勿論、この意識は、彼の中では特段に尖った感情とリンクしていた訳ではないので、限りなく抑制的であった。それ故に、彼の行動の軌跡から明白なる「差別行為」を読み取るのは困難であったし、まして、それを重箱の隅を突付くような糾明の対象にするのは見当外れというものだろう。ここでは、彼の「差別意識」の検証的確認をすることで充分なのである。
ついでに言えば、ケンドール婦人の「差別意識」の検証的確認も、例証するに及ばない事実である。彼女もまた、トリーブスと同様に、しかしその目的を違えども、メリックを特定的に選択したのである。その辺の言及は、既に論述してきた把握によって足りると考える。
重要なのは、彼らの「差別意識」の検証ではない。
彼らの「差別意識」のレベルは、殆んど取るに足らない偽善のカテゴリーに収まるものであって、決して有害な身体表現に繋がり得る、おぞましき悪徳のラインと並ぶものではないだろう。言ってみれば、彼らの行為や意識は許容し得る偽善であり、特段に問題とすべきではない「差別意識」であるということだ。
彼らのそのレベルの「差別意識」は、より尖った偏見や狭隘な信仰などと結びついて、継続的で日常的な「差別行為」に流れ込むものでは決してなく、少なくとも、一人の薄幸の障害者の生存と生活権、更に、その心の慰安を保障した事実は、それ自体賞賛すべき何かであったと言えようか。
ただ私が指摘したかったのは、殆んど無意識のレベルをも視野に入れた場合、「差別意識」というものの、その底知れぬ広がりについての慄然とすべき現実である。これは自我を持って生きる人間が本来的に抱えた宿痾(しゅくあ)であると言えるだろう。
私たちは限りなく、その自我の社会的バランス感覚を恒常的に維持していく努力を、自覚的に遂行していく必要があるのだが、しかし、私たちのそのような能力など、高が知れているのだ。
私たちは時代に動かされ、状況に動かされ、そこに束の間現出した空気に動かされる。
私たちの自我は生得的なものではないから、その未成熟な能力を社会化し、人並みの生存戦略と適応戦略を、自立的に発動し得るに足る能力を作り上げていかねばならない。
しかし残念ながら、その形成能力も生得的なものではないから、自分に先立つ世代の成人によって形成される外はないということだ。私たちの個我の出発点は、言わずもがな、自己選択的な決定力を持たないので、その個我の原型は、私たちを、「世界」と「世間」に放り出した運命に委ねるばかりなのである。
だから当然、その個我に様々な教育的な刷り込みが行われて、思春期を迎える辺りには顕著な落差が現出する。
しかし、思春期後期を迎える頃には、個我は前世代から自立を迫られて、その自我の確立運動を、自らの手によって遂行していかねばならなくなる。
そこに既に、能力的落差が厳然と存在してしまうので、それぞれの自我の確立運動は極めて曲線的な展開を顕在化させていく。
多くの場合、それぞれの自我の確立運動の航跡の中で軌道修正し得る臨界内状況下に置かれているので、それなりに社会化を果たしていくのだが、しかししばしば、思春期の旋回を円滑に遂行し得ないほど、その自我が歪みを貼り付けてしまうとき、自我の自立走行のリスクは過重になり過ぎて、キャパオーバーの状況を常態化してしまうのである。
全ては、その個我が出会った環境との運不運の問題に尽きると言う外はないのである。
「差別意識」の濃度の差は、当然の如く形成的なものなのである。
その意識の稀薄な者と、その意識を剥き出しにする者の差は、それぞれの自我の抑制能力の落差の問題であると考えていい。
本作に於けるトリーブスとバイツの差は、まさに、その抑制能力の差にあった。トリーブスが煩悶する時間を持つことによって、その落差は既に歴然としている。彼らは必ずしも、同じ穴の狢(むじな)ではないのである。
「差別意識」を身体表現化した者の暴走は、倫理学のカテゴリーを突き抜けて、単に悪徳的な行為であるというのに留まらず、例外なく犯罪的である。
一人の障害者に過分なほどの商品価値を貼り付けて、それをサディスティックなまでに弄(もてあそ)んだ者の犯罪性と、内面に届き得る省察を媒介させた者の偽善性との落差は決定的である。
その意味で本作は、後者に該当するトリーブス医師の、その静かなる煩悶の描写の自然性に於いて、浮薄なヒューマニズムに流れ込む欺瞞性を、ギリギリのところで乗り越えたと言えるのである。
8 メリックの無垢なる魂のルーツ
―― 最後に一言。
メリックのあの無垢なる魂のルーツが、彼を生んだ母親の深い愛情に求められることは言うまでもない。
奇跡的な確率でこの世界に放り出されて、世間の風に晒され続けながらも、その自我に修復不能なほどの卑屈や歪みが見られなかったのは、一人メリックの生母が、そのような自我を、恰も神の贈り物のように作り出したからに他ならないと把握すべきである。
それ故に本作は、奇跡的な環境下で形成された奇跡的な自我の、その自己表現の奇跡的な展開の物語であった。そう把握するしかないのである。
因みに、その奇跡的な物語のモデルとなった、ジョン・メリックという実在人物についてのデータを、以下に紹介して稿を閉じる。
プロテウス症候群 |
現在では,プロテウスシンドローム罹患率はもっと高いと考えられている。Merrick氏は成長とともに身体の形態異常と同様な頭部形態異常が増加し,頭部がゾウのようになった。そのためほかの子供たちからあざけられ,一般社会から避けられ,友達もいなかった。
母の死後,Merrick氏は10代までに奇人の見世物として有名になり,Frederick Treves卿に助けられるまで英国中を旅し,同卿が外科医として勤める王立ロンドン病院で余生を過ごした。
Merrick氏は同氏を題材とした舞台“エレファントマン”が1979年に賞を受け,80年に同題の映画が上映されてから,より多くの人に知られるようになった。Sharma博士らは『1884年以来,Merrick氏の奇形の原因に関して多くの議論が医学会と医学誌で行われており,多くの診断が示唆された。
しかし,われわれが同氏の頭蓋骨に行ったX線撮影とコンピュータ断層撮影(CT)ではプロテウスシンドロームの可能性が最も高いことが分かった』と述べた」(Medical Tribune HP「“エレファント・マン”再診断、まれな罹患プロテウスシンドロームと判明」1997年3月27日 より/筆者段落構成)
(2006年8月)
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