<寒風に身を晒す旅 ー― 「旅」「恨」、そして「忘れ物」>
1 「恨」の映画であり、その「恨」を見えないところに隠して生きる民族の魂を表現した映画
朝鮮の人々の間には、「恨の歴史」があるという。
字義通りに言えば、「恨」とは恨みのことであるが、ここではそんな単純なことではないらしい。
「恨」を基本感情とする、韓国の伝統音楽であるパンソリを例にとると、それは以下の説明に要約されるようだ。
「第三者に対する『うらみ』だけではなく、自分自身が果たせなかった無念感や自責の念としての恨もあります。 パンソリの世界では、これらの恨をありのままに自分の内に迎え入れてそれと向かい合い、そして最後はそれを乗り越える事によって自らに打ち勝とうとする世界なのです」(MAFNET KOREA HP:韓国の伝統芸術「パンソリ」より引用)
朝鮮の歴史に疎い私にとって、とても参考になる説明である。
ただ「恨の歴史」と言うとき、それを私なりに解釈すると―― 朝鮮の人々でも説明が困難な「恨」という言葉が包摂する複雑な感情の形成には、間違いなく、大陸の片隅で暮らす民族が長い歴史の中で味わってきた抑圧と屈折の思いが重厚に関わっていて、それは厳しい状況下で正面突破できにくい民衆感情の脈々とした流れが収斂された、一つの「負の精神文化」という風に把握されるだろう。
従って、「恨」の根柢には第三者からの抑圧に対する恨みがあると言っていい。
それを民衆レべルで言えば、モンゴル、明や清、更に、近代に於ける日本からの属国支配に対する感情と、李氏朝鮮(注1)王朝の民衆統治に対する感情が複雑に融合する中で形成された、極めて屈折性の高い精神文化であると考えられる。
李氏朝鮮の宮殿・昌徳宮 (しょうとくきゅう) |
(注1)1392年に、李成桂(高麗の武将で、「太祖」と称される)が建国した朝鮮の王朝のことで、1910年の韓国併合で滅亡するまで続く。朱子学を国教として仏教を弾圧したが、ハングル文字の制定など文化政策に於いて安定した基盤を築いた。基本的に鎖国政策を国是としたが、江戸時代の朝鮮通信使など、日本との関係も続いていた。
朝鮮の歴史は、様々な支配に対する叛乱の歴史でもあった。
しかし、その叛乱が継続力を失うとき、民衆はそのやり場のない感情や無念な思いを内閉化するしかない。内閉化された感情が出口を失って、自分の内側にプールされてしまうとき、そこに「恨」が生まれるのである。
一言で要約すれば、「恨」とは、出口を求めて彷徨(さまよ)う屈折した攻撃性ではないか。
強大な敵を前にして、そこに向かえない攻撃性を自我が上手に包み込んでガス抜きした後で、その屈折を意識しないで済むような物語を作り出してしまうことで、狭隘な土地に閉縛されたかのような人々が程ほどに心地良く生きていける心理 ―― それこそ「恨」の根柢にある感情文脈ではないのだろうか。
「恨の歴史」とは、出口を失った攻撃性が、格好の出口を求めて彷徨う鬱積した情念の歴史であると言っていい。
鬱積した情念はマグマとなって、必ずその内側に膨大なエネルギーをプールする。そこで噴き上げたエネルギーが、高度に洗練された文化に昇華されたとき、そこにパンソリという独特な伝統音楽が生まれたとは言えまいか。
―― そのパンソリについて、ここに詳細に解説した文章がある。
その中枢の箇所を、本作の背景の参考になる程度に抜粋してみる。
パンソリの熱唱① |
パンソリは18世紀の初頭、朝鮮中部以南地域に始まる。社会の一大変革期であったこの時代。商業が盛んで富裕な平民層が台頭していた。彼らは儒教の束縛から逃れようとする一方で、型にはまらない自由でユニークな芸能を求めた。パンソリの出現にはこのような背景があった。
『喉を壊さねばパンソリの歌い手にはなれない』という言葉がある。パンソリの歌い手たちはその声を得るために死にものぐるいで練習した。練習場に選ばれるのは決まって大滝のある所。滝の轟音を前に声を張り上げる。血のにじむ喉を塩水でうがいし、そしてまた大声で叫んで血を吐く。声帯を壊すまで数年の歳月を要したという。こうして彼らはパンソリの発声術をものにしていった。
パンソリの歌い手は広大と言った。広大は賎民階級の出身で、パンソリの歌い手になる以前は巫女の手伝いをする傍らで、人形劇や仮面劇、その他の雑技をこなしていた。ところがパンソリが出現し大衆の人気が高まると、歌い手としての素質を身につけていた彼らはいち早く時流に乗った。喉に自信のあるものは歌い手に、そうでないものは鼓手となって各地に出向いた。
彼らは身軽であった。小道具といえば扇子と太鼓のみ。一般庶民を相手に市場の隅で演じた。パンソリが来ると聞けば、市場は人波をなしてごった返すほどだった。実学者・丁茶山はその様子を次のように書いた。
『全国津々浦々、広大一座のとどまる村では彼らの歌声が聞こえ、軽業師の曲芸にヤンヤの拍手が湧いた。口に出しては言えない抑えられた庶民のうっ憤を、彼らが歌にかこつけて吐露してくれるので、その拍手は熱烈きわまりなかった』
パンソリの公演は連日連夜繰り返され、聴衆は釘づけで見守った。当時の記録には聴衆の表情が克明に描かれている。
『横暴な悪代官・卞学道の無法ぶりが歌われるときは、聴衆は歯ぎしりして口惜しがり、春香が獄門に捕らえられてため息をつくくだりでは、聴衆は親を亡くした喪主のようにさめざめと涙を流すのであった。
しかし、ついに暗行御使となって李夢龍が登場する場面になると、拍手喝さいがわき起こり足を踏み鳴らす音で歌い手の声はかき消された。
そして、最後の再会の場面を迎える。聴衆は老若男女が総立ちとなって嵐のような歓声が山野にこだました。歌い手と鼓手のもとに葉銭(銅貨)が蝿の舞うように投げられ、時には米袋や野菜、果物までが投げられた』」(朝鮮新報2004.5.8「朝鮮歴史民俗の旅」より抜粋/筆者段落構成)
プサンカルチャーセンターにおけるパンソリの演奏
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その気迫の圧倒性に、聞く者は感涙し、同化する。
それは辛酸を舐めた民族の、「恨」をたっぷり込めた強かな生命の、見事なる音楽的表現であると言っていい。
そのパンソリを現代に甦らせた映像こそ、「風の丘を越えて」だった。
この作品は、朝鮮の人々の根底に潜むメンタリティを理解する上で最も重要な芸術的表現であると言っていいだろう。
「風の丘を越えて」―― それはパンソリの映画であり、それを表現する壮絶な自我の映画であり、その自我が包み込んだ「恨」の映画であり、その「恨」を見えないところに隠して生きる民族の魂を表現した映画であった。
2 陽光が燦燦と輝く田舎の丘の至福
―― 極めて陰惨な内容を含みつつも、決して自壊的な物語に流れなかったその感銘深いストーリーラインを、筆者の感懐を挿入しながら簡潔に追っていこう。
一人の芸人が、二人の義理の子供と旅をする。
子供の一人は、芸人に養女として引き取られた孤児。もう一人は、自分が愛した女の連れ子。女は難産の末逝去し、そこに一人の男の子が残された。芸人は男の子を引き取って、養父となった。
パンソリの名手である養父は二人の子に、西洋音楽の急速な広がりの中で、今や廃れつつある伝統芸能を厳しく教え込んでいく。その教えによって、姉はパンソリの唄い手となり、弟は鼓の奏者となった。
彼らは朝鮮各地を旅をして、パンソリの芸で日銭を稼いで、日々の糧を繋いでいた。
しかし彼らの芸に耳を傾ける者は少なく、三人の生活は困窮を極めるだけだった。パンソリの優れた芸を聴くために市場に人が集まったり、上流階級の豪族や両班(ヤンバン=高麗、李氏朝鮮時代の特権身分階級的な官僚組織)という名士がパンソリの芸人を自宅に呼んだりして、密かにそれを聴いたという面影は、今やそこにはない。
それ故、彼らの生活の流れ方は、もうそれ以外に考えられない風景を作り出していた。
その昔、被差別民が起こした芸能の放浪性の世界との親和力を保持して、芸の狂気の本道を生きる父親の圧倒的な把握の下で、乞食風情の三人の身体は、何か約束された軌道をなぞるようにして下降していったのである。
それでも彼らは旅を捨てない。パンソリを捨てない。
捨ててはならない壮絶な覚悟が、二人の子供を連れてさすらう男の自我に張りついているからだ。
それは殆んど、パンソリという名の伝統芸が安楽死していくかのような歴史的瞬間に立会い、その無残なる時間の呻吟のうちに確信的に同化し、そのプロセスに殉教する者の狂気とも言っていい何かだった。
その狂気に娘は同化しつあったが、しかし息子の反発は頂点に達しつつあった。
そんな三人の緊張含みの関係が破裂しかかろうとしていた、そのほんの少し手前で、微妙な温度差を見せる異なった魂は、束の間、芸によって繋がれた関係のうちに奇跡的に融合したのである。
季節を越え、山河を越える三人の芸能放浪は、陽光が燦燦(さんさん)と輝く田舎の丘で、遂に表現のエクスタシーに達したかのようだった。
彼らの複雑な感情の縺(もつ)れはそこで見事に繋がって、陶酔し、至福の芸の境地に達したのか。
それは、伝統芸能の底力を見せつける最も重要な場面と言って良かった。
季節の陽光を存分に浴びた丘に広がる、広大な畑を曲線的に走る路傍で、父が歌い、娘が舞い、そして息子が奏でるのだ。(トップ画像)
パンソリの熱唱② |
しみったれた世の中ながら ほいほいと生きてみよう
ムンギョンセ峠の なんたる険しいことよ
くねくねと 曲がりくねっては涙を誘う
唄とともに流れゆく放浪人生
積もり積もりし この“恨”をいかに晴らさん
天空は小さな星に満ちあふれ
わが心は憂いに 満ちあふれたり
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
去ってしまったか 情を交わした愛する人よ
雁の群れとともに 永遠に去ってしまったか
そこを飛びゆく雁に問わん
われらの向かう道は いずこであろうか
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
金のごとく玉のごとく 愛しきわが娘よ
唄に精を出して 名人になるのだぞ
かわいい弟の太鼓の調べに乗って
遥か遠い唄の道を 歩んでまいります
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
戯れていかれよ 戯れていかれよ
月が浮かんで沈むまで 戯れていかれよ
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
寒いか暑いか 私の腕にお入りなさい
枕は高いか低いか 私の胸を枕になさい
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
西の山に沈む夕陽は 沈みたくして沈むのか
私を残して去る君は 去りたくして去るのか
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
果てしなき大海原に ぽっかり浮かんだ船
えんやら やあ えんや こらと櫓を漕がん
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ
アリラン ンンン アラリガナンネ
5分間にも及ぶ長回しのカメラが、「珍島(ちんど)アリラン」(注2)を演じる親子の至福の世界を、まるでそれが、映画のラストシーンのように鮮やかに映し出す。
それは、この描写に勝負を賭けた作り手の気迫が伝わってくる、決して忘れ得ぬ、映画史に残る名場面だった。
(注2)韓国の代表的民謡であるアリランは、土地によって歌詞や唱法が分かれていて、この「珍島アリラン」は全羅道のアリランとして有名である。
3 確信的失踪、失語、失明、そして今際の際の重い遺言
映像が記録した物語は、この描写を境に一気に暗転していく。
パンソリに殉教するが如き、養父の芸に対する異様な情熱や、酒に溺れる淫らな生活態度に対して、急速に不満を高めていった息子は遂に出奔する。
それは、およそ人並みの生活から逸脱して作り上げた擬似家族への最終的な決別宣言だった。
弟との別離 |
弟を追わなかった娘を案じる父は、その治療に漢方薬を煎じて与えた。
しかし、唄い手としての上達著しい娘を手放せない父は、故意に漢方薬を過度に与えて娘を失明させてしまうのである。
娘に未だ足りない「恨」の心を植えつけるというのが、この狂気の行動の理由である。
この男の意識のコアには、自分が極めたパンソリの芸をいかに次世代に繋いでいくかというテーマが常に潜んでいて、娘の変調によってその達成が危ぶまれる現実に直面したとき、男の狂気は極まったのだ。
しかし、父の暴走に娘は抵抗しなかった。
抵抗できなかったとも言えるが、パンソリに殉教するかのような父の気迫に、娘の自我は呑み込まれてしまっていて、いつの日か娘もまた、パンソリの真髄を極める苛酷な旅に踏み込んでいたのである。
光を失った娘を引き連れて、光を奪った父が進む旅路は、闇を彷徨う殉教への迷走だったのか。
自然の造形美の極致を見せるかのような美しい晩秋の風景の中を、父の高らかな歌声の後に、盲目の娘が慣れない歩行を重ねていくのだ。
季節の変化を視界に収められない残酷さを、映像は印象的に映し出すのである。
しかし、それ以上に残酷なのは、失明してもなお「恨」を表現できない娘を、失明させた父がより厳しく叱咤する描写だった。
「お前は美しいだけで“恨”がない。人の“恨”とは生涯に渡って心に鬱積する感情のしこりだ。生きることは“恨”を積むこと。“恨”を積むことは生きることだ」
寒々とした、ある日のこと。
情念の境界を超えられない娘を嘆く父は、食うに困って鶏を盗んだ行為が発覚して、農家の主に怒鳴られ、激しく棒で叩かれた。
傍らで、動揺した娘が泣きながら許しを請うていた。
その直後、傷だらけの父が娘に言い放ったのだ。
「あの爺さん、声が凄い。聞いただろう?沈静の父親が怒る場面の声は、ああやって出すんだ」
「沈静」とは、パンソリの演目で名高い「沈静歌」に出てくる孝行娘のこと。因みに、これは盲目の父を救うために身を売った娘の話である。
正気のラインを踏み越えている父には、パンソリの世界しか頭にないのだ。自らの体験を通して、父は娘に「恨」の心を植え付けようとする。
その心を自立的に内化するために、娘はこの日もまた、峻険な冬の山河に向って声を張り上げていく。
光を失った娘の高らかな響きが大自然に木霊(こだま)し、融合していく風景は、奇跡的にクロスした異次元の秩序が重なって、そこに絶対的な宇宙と呼べる何かを作り上げていた。
それは、「恨」の心に近づいた唄い手の一つの頂点を示すに足る、非常に感銘深い映像だった。
長い時間をかけて娘の心に唄の魂を繋ぐという、最も重い宿題から解放された安堵感からか、狂気に生きた男の寿命は終焉に近づいていた。
「やっと、“恨”を唄に込められたな…」
娘の中に芸の達成を確認した父は、死の床で呟いた。
そして決して語ってはならない言葉を、喘ぐように吐き出したのだ。
「わしがお前の眼を見えなくしたんだ。知っていたな」
娘は黙って頷いた。
「じゃあ、許してくれたか?」
搾り出すような父の問いかけに、娘の反応はなかった。臨終の床にある男の言葉は終らない。
「わしに憎しみを感じたら、その思いが声に染み込むはずだが、お前の声には、その跡すらなかった。これからは、心のしこりとなった“情念(はん)”に埋もれずに、その“情念”を越える声を出してみろ…」
激しく咳き込みながら放たれる、今際(いまわ)の際の一言一言が重い遺言となって、闇の中で呼吸する娘の魂に、切っ先鋭く突き刺さっていく。
罪悪感を引き摺っても伝統芸に殉教する男の狂気がそこに晒されて、殉教のメンタリティに同化する娘の無力な身体だけが置き去りにされた。
4 伝統芸の鬼と化した狂気の父
―― 閑話休題。
映像の上での物語とはいえ、ここまで作品と付き合ってきた者に、この信じ難い親子の関係を果たして素直に受容できるだろうか。
“父の狂気と、娘の絶対的服従”という、極めて安直な把握で納得できない世界が、そこにあるのだ。
それを、少し私なりに考えてみる。
何よりも、血縁で繋がらずとも娘を失明させてまで男が拘り続けた、“芸の継承”の心理的背景の問題がある。
そのことを考えるとき、どうしても想起するのは、男が「卑賤」な放浪芸人に身をやつした原因に触れた描写のこと。
男が偶然、昔の朋輩と出会って、酒を酌み交わす。
そこで、パンソリの芸道に励んでいた頃の男の過去が明らかにされた。
男は師匠の妾と恋仲になったことで破門され、相手の女も、その後自殺したと言う。
結局、男はパンソリ芸の真髄の全てを会得できずに、追われるようにして流浪の旅に出たのである。
従って、男の芸には未完成の領域が随所にあって、それを過敏なまでに感受していた男は、恐らく自己流の努力で様々に補完しながら、自らが拠って立つ伝統芸の小宇宙に仕上げていったのではないか。
パンソリの熱唱③ |
男の芸は、次世代への継承によってのみ自己完結するのである。
それも極めて、純度の高い継承でなければならない。
男が養女にした娘に、男のあらん限りの才能を伝授する情熱が、殆んど狂気の世界と違わないように見えるのは、男の極端な一元的な価値観に拠っている。
男は破門によって受けた「恨」に、卑賤な流浪芸による「恨」を対峙させ、それをクロスさせることで「芸に生きる男の独自の宇宙」が形成されたのであろう。
更に、その宇宙を繋ぐ娘によって、自らの「恨」の歴史を自己完結しようとしたのだ。
男にとってそれが、「恨に埋もれず、恨を越える」という、自らを敢えて苛酷にした人生の展開のさまだったのではないか。
しかし、父の芸を幼児から厳しく仕込まれ続けてきた娘が、自らを失明させた父を果たして受容できるのだろうか。それが可能であるとすれば、二つの理由しか考えられないのである。
その一つは、孤児であった自分を、養女として育ててくれた義父に対する素朴な感謝の気持ち。これは家出する直前の弟との会話の中で、本人が語っていることだ。
二つ目は、単純にパンソリの演目を唄うことが好きだということ。それは同時に、自分の中に唄い手としての才能を感じ取っているからに他ならない。
弟との会話を引用する。
「こんな暮らしを続けて何になる。唄を習っても、馬鹿にされるのがオチだ!」
「でも私は唄が好き。全てを忘れて幸せになれるもの」
「稼いだ金が、あいつの飲み代になっても?」
その弟の挑発的言辞に対して、姉はキッパリと答えたのだ。
「辛いから飲むのよ。父さんも可愛そうだわ。孤児の私たちを育ててくれたのに」
父の狂気に対して弟が反逆し、姉が服従した心理のエッセンスがここにある。
そして、その心理の奥に流れている感情の違いも、その前後の描写から読みとることができるのだ。
即ち、早々と唄い手としての才能が否定され、更に鼓手としての才能も否定された弟にとって、父の存在は彼の「恨」の絶対的な対象以外ではなかった。
しかも彼は、実母の難産死の現場に立ち会っていた。幼い彼の自我に、実母を死に追いやった男=養父に対する芽吹きのような「恨」の残像が、刷り込まれていなかったとは言えないのである。
しかし、弟のこのような屈折した感情が姉には形成されなかった。
だから姉は、弟の後を追わなかったのである。
弟の家出の衝撃は姉の言葉を奪い、感情を削ったが、それでも彼女は唄を捨てなかった。
父によって失明に追い込まれても、それでも彼女は唄を捨てられなかったのである。既に、唄だけが彼女の全てだったのだ。
伝統芸の鬼と化した狂気の父は、自分が確信的に見込んだ娘を、それ以外にあり得ない何者かに育て上げてしまったということである。
5 汗を滴らせて絶唱する姉、それに引き込まれるように反応する鼓手
―― 映像の物語を繋いでいこう。
「恨」の心情を植えつけるために自分の視界を奪った養父の死後、三年の喪が明けて、娘は杖を片手に流浪の旅に出た。
光を失った娘が拓く旅路は、あまりに苛酷だった。
各地で人に頼り、時には囲われ、時には蔑まれた挙句の旅は、「恨」を内化し、それを超えるための旅でもあった。
決して唄を捨てない継続力の内に、「弱さの中の強さ」を生き抜いてゆく魂が、眩いまでの光を放っていた。
そんな姉を、懸命に探し続ける弟がいる。
弟の回想で語られる映像の随所に、かつて自ら捨てた擬似家族への思いが映し出されていた。
今や、父への憎しみの感情はほどほどに中和化していたが、姉を捨てたという罪悪感だけは消えていなかった。
その贖罪意識が弟を強迫的に駆り立てるのだ。
家族を探す旅の中で、弟は父の死と姉の失明を知った。
現在もその姉が流浪の唄い手となっている事実を伝え聞いて、弟はいよいよ姉を探し出さなければならなくなったのである。
遂に姉の居所を突き止めた弟は、その姉が厄介になっている、一軒のひなびた宿屋に辿り着いた。
盲目の姉が待つ部屋にその身を踏み入れた弟は、自分の正体を明かさずに、パンソリの競演を申し出る。
姉だけがまだ、弟を知らない。
何某かの予感はあっても、長く離別していた弟を特定するまでには至らなかったであろう。
姉を見つめる弟の前で、その唄い手の口から開かれたのは「沈静歌」。
ああ お父様
私は死にますが お父様は 目を開けて万物をご覧あれ
この親不孝な娘を どうかお忘れ下さい
死ぬことは恐れはせぬが お父様のお世話は 一体誰が
波を眺めたれば 万里の彼方に広がる海原
水平線まで届きたり 逆巻く波に船は ぐらぐら
烈風は ぴゅうぴゅう
荒波は ざぶりざぶり 船べりを打ちつけたり・・・
汗を滴らせて絶唱する姉と、それに引き込まれるように自然に反応する鼓手。
二人の呼吸がピタリと重なって、夜の静謐(せいひつ)さの中に溶け込んでいく。
姉は弟を感じ取り、自分を察知した弟の頬に、幾筋もの熱いものがラインを成して下っていく。
二人を隔てた年月の重みが、忽ちのうちに削られていくのだ。
その狭い宇宙を最後まで支配したのは、途切れることのない強靭なる表現爆発。
それだけだった。
語りを捨てた二人の中に、かつて苦労を共にした姉弟でなければ届き得ない、深い達成による見えない了解だけが静かに佇んでいた。
6 寒風に身を晒す旅へ
翌朝、贖罪の旅を終えた弟が、いま自分のいるべき場所に帰って行く。
二度と会うことのない兄弟の別離は、必要なだけの清々しさだけを残して、あっと言う間に完結したのである。
盲目の娘を世話していた宿屋の主は問いかけて、娘もまた答えていく。
「あれほど待っていたのに、なぜ黙って別れたんだ?」
「“過去(はん)”に触れたくなかったから」
「“過去”があまりにも重すぎて、晴らせずに呆気なく別れたと?」
「私たちは昨日、“恨”を越えました」
「どうやって?」
「私の唄と弟の太鼓で」
最も大切な仕事を成し遂げた安堵感が生まれたのか、或いは、その安堵感への恐怖からか、娘は幾度目かの旅に出た。
「恨」を越えるための娘の旅は未だ終わらないのか。
今度もまた娘は、「寒風に身を晒す旅」に入っていく。唄を捨てない娘の旅には、決して終りは来ないのだ。
* * * *
7 「旅」、「恨」、「忘れ物」
「寒風に身を晒す旅」―- これこそ、この映画の奥深いところにある基本情念を支えた、ある意味で最も重要な表現でもあった。
最後まで圧倒的な「描写のリアリティ」で押し切った、「風の丘を越えて」という魂を揺さぶって止まない映像を、どう把握したらいいのか。
この作品について多くの人が感動の讃辞を送り、様々な批評やコメントを寄せているが、私もまた、自分なりの勝手な読み方をしてみよう。
私はこの作品のキーワードとして、「旅」、「恨」、「忘れ物」という三つの概念を用意した。
それらは、この作品の三人の主要登場人物に全て共通するものであるが、その内実は異なっている。異なっているからこそ、三人の内側でそれらが微妙にクロスし、そこに一定の緊張関係を作り出したのである。
要するに、この映画は、それぞれに何某かの「恨」に繋がれた三人が、「寒風に身を晒す旅」を通して、自分たちの忘れ物を取り戻そうとする、その魂の記録である。
まず、父の旅―― それこそ自らを敢えて苛酷な状況に追い込むことによって、自分にとって最も大切なものを取り戻そうとする、まさに、「寒風に身を晒す旅」であった。
彼にとって忘れ物とは、遂に最後まで伝授されなかった、パンソリという伝統音楽。彼はかつて、師匠からこの大切なものを奪われた。破門されたからである。
破門の理由は、彼が師匠の愛人と懇ろな関係になったことにあるらしい。唯一、その一件が語られる場面では、実際には、彼に対する愛人からの一方的なラブコールだったらしいが、事情はどうであれ、二人の関係を知った師匠の嫉妬感が愛弟子の破門に繋がったようだ。
しかし、若き日の希望を断ち切る破門という現実に直面したとき、恐らく若者の心の中に、師匠の非情な振舞いに対する恨みの感情が形成されたはずだ。
なぜなら、彼はまだ芸を極める途上にあり、まさにその修養の過程の内に、若者の自我の拠り所が確保されていたと考えられるからである。
その大切なものを失った若者が、敢えて「寒風に身を晒す旅」に打って出たのは、彼の中に決して捨てようがない「恨」が残されていて、寧ろ、それを芸のうちに昇華することで自己超克しようと考えたからではないか。
まさに彼の旅は、「恨に埋もれず、恨を越える」ことを目指した覚悟の旅だった。
では、娘の旅は何だったのか。
それは父から継いだパンソリの芸を絶やすことなく内化し、それを発展させるための旅だった。そのことは同時に、自分を育ててくれた父への報恩となり、更に、それは父の芸を自らの手で完結させる役割を持つものだった。
従って、父に対する彼女の「恨」の感情は極めて稀薄である。
恐らく、彼女の「恨」の対象は、男女関係のそれに近いほど最も親愛なる間柄だった弟の存在以外に考えられない。
彼女は弟から見捨てられたという意識を断ち難く、それが、その直後に始まる失語症に繋がって、その繊細な自我が壊れかかってしまったのである。彼女の自我の回復は、弟に対する「恨」を克服する以外に考えられないのだ。
彼女の旅は、弟を待ち続ける旅でもあった。
つまり彼女の忘れ物とは、弟との間に哀しく寝そべっている、「恨」の感情を取り除く行為そのものなのである。彼女の旅は「過去」という時間を克服し、それを超える何かでもあった。
そして、弟の旅。
映像で紹介される彼の旅は、二つある。
一つ目は、父によって強制的に導かれた苛酷なる放浪芸の旅。
幼少期から青春前期まで続くこの旅で味わった辛酸は、基礎教育の機会すら与えられなかった男の子の幼い自我に、父に対する「恨」の感情を植えつけるのに充分すぎるものだった。
その感情が飽和点に達したとき、彼の旅は終焉を遂げたのである。そこに残されたのは遺棄された姉の無念と、それを思う弟自身の無視し難い罪悪感情以外の何ものでもなかったのだ。
その感情を清算するために、彼は第二の旅に出る。
その旅こそ、彼にとって最も重要な、決して素通りできない贖罪の旅だった。その感情は姉の失明を知って、いよいよ深まるばかりとなったのである。
自分に対する姉の「恨」を解きたいという大仕事、それが彼の忘れ物だったのだ。
映画『風の丘を越えて』撮影地 |
そうしなければ、近代社会の端くれで生きる自分のアイデンティティが、恐らく充分な満足度を持って自立していかないのだろう。そう思われるのである。
8 伝統芸能に固執して生きる者たちの復権
以上見てきたように、三人の「恨」に繋がる固有の旅は充分に自立的だった。そして彼らの忘れ物の大きさが相互にクロスすることで、そこに映像の切迫感と重々しい感動を、鮮烈に映し出す傑作を生み出したのである。
この作品での「弟」の存在は、恐らく、近代化著しい韓国社会に呼吸する普通の人々のそれと重なっているに違いない。
急速で抑制力の持ちにくい近代化は、当然の如く文化に波及する。過剰に刺激的な西洋文化のうねりは、相対的にシンプルで地味な伝統文化の脈々とした流れを削り取り、呑み込んだのだ。
しかし近代化を経験した多くの国がそうであったように、殆ど絶え絶えになった伝統文化の中に、それでも民族の琴線に触れる輝きを放つ文化はしぶとく生き残るだろう。その文化のエキスを必死に守り伝える者たちが存在するからである。
この作品の作り手は、そんな伝統芸能に固執して生きる者たちの復権を、弟の第二の旅を通して訴えたかったのであろう。
姉弟の再開が意味するものは、伝統と近代との温和な和解であるに違いない。
「寒風に身を晒す旅」は、今はもう必要ない。
その旅に「恨」を塗り込める必要もない。
しかし、「寒風に身を晒す旅」を生きた者たちの魂だけは理解しなければならない。映像は、私にそう語っていた。
9 自ら選び取った一つの生き方を鮮烈に暗示して
最後に、補足的な一言。
国家的保護とは無縁に、人間国宝級の伝統芸能を個人が任意に守り伝えていく場合、その極限的様態のイメージを、この映画は包み隠さず語っている。即ちそれは、「狂死か殉教か」という、すれすれのラインを踏み越えてしまう危うさと同居しているということである。
税金で手厚く保護されて、名士の階梯を昇り切ってしまうか、或いは、保護を嫌って「寒風に身を晒す旅」を選ぶかは、「志」の高低の問題であるというより、「生き方」の問題であると言っていい。
盲目の娘が自ら選び取った一つの生き方を鮮烈に暗示して、映像は完結する。その圧倒的な意志に身震いするばかりであった。
この秀逸な韓国映画の公開後、韓国の若者の間で「パンソリブーム」が起こったと言う。些かリスクを伴う、厄介なテーマで勝負した映像の作り手たちは、その勝負をほぼ完璧に制したのである。
(2005年11月)
【余稿】 〈イデオロギーは人間を踏み台にする〉
「イデオロギーは実現のために、人間を踏み台にするものなんです。だからイデオロギーを実現させようとする努力は、絶対にしてななりません。父や家族は、熾烈なあの時代を生きていましたが、私は映画を鎮魂の儀式で終わらせています。もう、あの怨恨から解放される時が来たという思いを込めました。今なお、社会はその考えを持てずにいます」(「NHK『ETV特集・韓流シネマ 抵抗の系譜』2009年6月14日放送)
イム・グォンテク監督 |
光州広域市で生まれ、「第二次世界大戦直後の左右抗争の時代、イム・グォンテク一族の多くは左翼的だったため大変な苦労をしており、彼が後年『太白山脈』を映画化したのも、幼少時代の体験と関係があるという。
左右抗争の混乱期を舞台にした彼の作品には、他に『旗のない旗手』、『チャッコ』などがある。朝鮮戦争中、17歳で家を出、釜山の国際市場で靴修繕などをしていたが、休戦後の映画ブームで知り合いの靴屋グループが映画に投資を始め、彼らに誘われる形で、ソウルで小道具助手・照明助手など映画製作の下働きをするようになる」(「CINEM KOREA」HPより)という略歴でも分るように、「連座制」によって不利益を被ってきたイム・グォンテク監督の半生は、この国の最も厳しい時代を生き抜いてきた者の、それ以外に辿り着きようがない社会観・人間観を多分に滲ませるリアリストの軌跡そのものだったと言える。
彼が逢着した世界の中で、自ら紡ぎ出した「人生知」が、この何気ないが、とてつもなく重量感のある言葉の内に集約されていた。
「イデオロギーは実現のために、人間を踏み台にするものなんです。だからイデオロギーを実現させようとする努力は、絶対にしてななりません」
苦労知らずの学者が放ったら、殆ど振れることのないその言葉の軽量感に、「分ったようなことを言うな」と一顧だにしなかったに違いないが、成瀬巳喜男とか、イム・グォンテクのような男がしみじみ語るだけで、単純な言葉に含まれる人生の重みは相当の説得力を持ってしまうのである。
この言葉の決定力に、私の内側は、ただただ共振するばかりであった。
(2009年6月)
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