1 陽光眩しい田舎の日曜日
1912年、樹木がその色彩を鮮やかに染めつつある、初秋のパリ郊外。
およそ第一次大戦前夜の、暗雲垂れ込めつつあるヨーロッパの風景とは思えないような、長閑(のどか)なる田舎の日曜日。
その日、既に老境に入った画家のラドミラルの邸に、パリから息子の家族が訪ねて来る予定になっていた。
息子ゴンザーグの訪問を心待ちにしているラドミラルは、永年、自分の面倒を見てくれる家政婦のメルセデスと共に、訪問の準備に余念がない。駅まで歩いて10分の距離にあるという老画家の豪邸は、その日、ひと際季節の輝きに包まれているように見えた。
ラドミラルは恐らくいつもそうであるように、メルセデスとの軽妙な会話をクロスさせている。そんな日常がさり気なく映し出されて、いかにも心地良さそうな描写にナレーションが追っていく。
「ラドミラル氏にとって、妻亡き後、メルセデスはかけがえのない存在だった。彼女の機嫌を損ねて、出て行かれたらお終いだ。しかし、メルセデスも年老いた主人を慕っていた。いつか捨てられるかもなどと想像して、昔のように女性との駆け引きを楽しんでいるのだ」
ラドミラルは、息子の家族を迎えに行くために自邸を出た。
白い服が眩い二人の少女が、邸の前で縄跳びをしている。元気な子供の姿を一瞥して、スーツで身を固めた老画家は、いかにも紳士然として、長閑な未舗装の道を歩いていく。それは、陽光眩しい田舎の日曜日に最も相応しい光景のようであった。
矍鑠(かくしゃく)とした足取りで駅に向かう途中の道で、息子の家族と遭遇した。恐らく、それがいつものパターンなのであろう。
「どうやら、また早く汽車が着いたようだな」とラドミラル。
「時間通りでしたわ」とマリー・テレーズ。息子の夫人である。
「11分前に出たのに、時計の故障だ」とラドミラル。
この反応も、いつものパターンなのであろう。それは矍鑠としていながらも、年々足の衰えを隠せない老画家の、精一杯の見栄でもあった。
ラドミラル(中央) |
「喧嘩しないで、田舎の空気を吸いなさい」
二人の男の子の孫たちを、祖父は、これもいつものように深々と受容している。僅か数分間の道のりの中での大人たちの会話は弾んでいる。映像が伝えるイメージは、どこまでも情愛を込めた団欒の空気感に充ちていた。
そんな中での、父子の会話。
「お前たちに会うのも2週間ぶりだな。忙しいんだろう?」と父。
「先週は・・・」
そう言いかけた息子に、父はすぐフォローする。
「言い訳はしなくていい。わしは待つだけだ」
「そうだね」と息子。
「わしの場合、いつでも出かけられると思うと、却って決められない。でも、お前たちは日曜が休みと決まっているから簡単だ。それに旅慣れている。人数が多い方が何かとまとまりやすい」
「まあね」
「絵も同じだ」
父と息子の会話には毒気がない。
それでも毎週、家政婦と二人暮しの父を訪ねる息子夫婦には、少しずつ精神的リスクが累積されてきているようにも思える。孫たちも成長するに連れ、自分の世界を広げていくだろうし、田舎の日曜日にその身を無垢な心で預ける時間にも臨界点が出てくるだろう。
この日も、既に遊びつかれた孫の男の子二人は、真っ先に邸に着くや、ソファに寝そべって、そのエネルギーを繋げられない思いを捨てていた。それを見た父は、彼らを戸外に出して、自由に遊ばせた。
2 父子の思考と生き方の微妙な差異を浮き彫りにして
邸に残った大人たち。
そこには老画家と、息子のゴンザーグとマリー・テレーズ、それに家政婦のメルセデスの4人。更に病弱な孫娘のミレイユが残って、メルセデスの食事の仕度を手伝っている。
映像は、老画家とマリー・テレーズのさり気ない日常会話を映し出し、そこに、老画家の視線によるナレーションが追いかけていく。
「マリー・テレーズにも、昔は長所が沢山あった。しかし結婚してからは、外で働かなくていいという気楽さを満喫していた。夫と子供たちの世話はそれなりに大変だったが、苦にするほどではない。それどころか、暇な専業主婦の座に胡坐(あぐら)をかいていた。息子がこの女と結婚すると聞いたときは驚いた。ラドミラル氏は、考えた末に結論を出した。彼らは皆が結婚するから同じようにしただけだと。そう解釈すれば、それ以上追及せずに済むと思ったのだ」
そこに、屋敷のガラスに物が当たる音が響いた。孫二人の、遊びの結果によるものである。
それを見て怒る父を、母が老画家に弁明した。
「パリの家には庭がないので、遊び方を知らないんです。わざとじゃないわ」
「構わん。何も壊れてない」とラドミラル。
「石を投げた訳ではないのよ。乱暴なことはしないわ」と母。
「この間も、チーズ入れの蓋にひびを入れた」と父。
「ルシアンのせいじゃないわ。前の家政婦が不真面目なので替えたんです。新しい家政婦が置き場所を・・・」
マリー・テレーズはゴンザーグの夫人の立場ではなく、息子の母の立場として、必死に弁明する。その視線は、明らかに養父のラドミラルに向かっている。その養父は、孫たちの悪戯を気にするなと制するばかり。
「少しずつではあるが、息子や嫁と話が通じ始めた。年老いた父親は、キャンバスの赤い色に神秘を求めている。貪欲な探究心には若さを感じるが、無難にまとめてしまうところに老いを感じていた」
ナレーションは少しずつ、老画家の内面世界に入り込んでいく。息子夫婦を相手にしての会話の内容も、老画家の内面に踏み込んでいた。
ラドミラルは、広大な邸の一角に作られた屋根付きのベンチに坐って、静かに語っていく。
「わしが絵の勉強をしていた頃、教師はいつも言ってた。“絵というものは難しい”口を開くと同じ台詞だ。こうも言ってた。“時間の無駄遣いだ。絵では食っていけないぞ”その教師は花や風俗画を描いて暮らしていた。でも、写真に比べたら稼げん。彼の言うとおりだと思う。写真は好きかね?」
そこまで語った後、老画家はマリー・テレーズに感想を求めた。
「いいえ」とマリー・テレーズ。
老画家の話は続く。
「写真の方がずっと簡単だ。わしは好きなように生きてきたが、日に日に壁にぶつかることが多くなってきた。新しい壁にぶつかると、怖くて震える」
「神経質だな」とゴンザーグ。
「昔は怖いと思ったことはなかった」
「運が良かった」とゴンザーグ。
「妹のイレーヌを見てみろ。怖いもの知らずだ。お前と違う」
「あいつは物事を深く考えない」
「考えては、行動できん。髭を生やすとわしにそっくりだ。考え方もわしに似ている。考え方も時代遅れだ」
「似ていますわ」とマリー・テレーズ。
会話の途中から、その内実は老画家と息子のクロスにシフトし、父子の思考と生き方の微妙な差異を浮き彫りにしていった。
昼食の団欒は邸内で開かれて、そこにも陽光が降り注ぐ風景は、何も起こらない普通の日常性を映し出していた。破綻も亀裂もない団欒の後の描写は、午睡の時間に溶け込んでいく、老画家の自然体を淡々とスケッチするものだった。
ゴンザーグと妻マリー・テレーズ |
「絵を続けたかったが、仕方ない。それに失敗すれば、父を悲しませたろう。きっと父の真似しかできなかったと思う。でも成功したら、ライバルになってた。僕も結構、上手だった・・・」
3 邸内の空気を変化させたイレーヌの訪問
ゴンザーグの独り言は、思わぬ事態の出来によって切断されてしまった。
彼の妹のイレ-ヌが闖入(ちんにゅう)して来たのである。
新型自動車に乗って、キャビアと呼ぶ小犬を連れて、午睡のひと時にハイテンションんで侵入した女は、それまで邸内で形成されていた温和だが、遠慮げな空気を殆ど無自覚に壊していく。
イレーヌは、広い庭の一角で微睡む老画家の下に走り寄り、その甲高い音声を響かせていく。
「時間ができたから、パパに会いに来ちゃった。たまにはパリに来たら?夏は田舎よりいいわよ。夕食までいられないの」
「さっき、聞いた」
「また、今度ね」
その性格を表すかのような淡白な娘の反応に、ナレーションが被さっていく。
「彼は急に胸が締め付けられた。切なくて、心臓が苦しくなってくる。娘が帰るときのことを想像して、たまらなくなるのだ。彼は必死に周りの景色に眼を向けた。何も考えなくて済むように・・・」
3時を告げる鐘の音が、邸内に伝えられた。
イレーヌはその時間を意識するかのように邸内に戻り、電話をかけている。その声は、先ほどまでのテンションとは程遠い沈鬱な印象を刻んでいた。電話を切った後、見るからに悄然とした彼女は、邸内の一室に静かに入り込んだ。そこには、ミレイユがまるで動かない人形のように忍んでいた。
「早死にの手相が出ていた。15歳まで生きられないであろう。イレーヌは姪の手を握り、しっかり抱きしめた。彼女は愛と同じくらい、手相占いを信じた。人間の運命は生まれながらに決まっていると」(ナレーション)
病弱なミレイユのことが、イレーヌには愛しくてならないようである、その後のイレーヌについての描写は、まるで別の人格が彷徨しているようだった。
まもなく、ミレイユが木に登って降りられなくなるという騒動が起こった。慌てふためく家族は、何とか皆で協力してミレイユを救い出し、一件落着。病弱なミレイユに対する家族の者の配慮の深さが、そこに映し出されていた。
イレーヌはいつの間にか元気を取り戻していて、活発な甥や姪と無邪気に戯れている。そこにナレーションが追いかけていく。
「イレーヌは一人暮らしほど自由なものはないと思った。自由が欲しい大抵の娘は家を出る。ラドミラル氏が娘との別れを受け入れるには、相当の決心がいった。イレーヌは、たまにしか来ない。子供は恩を忘れるものだ。対照的にゴンザーグは頻繁に会いに来たが、息子が帰っても父は寂しくない。娘が来ないことを悲しむだけだ。息子の代わりに娘が来たら良かったのにと、父はいつも思う。ゴンザーグにはよく分っていた。振られた恋人のように行き場がなかった。誰もが悲しい」
イレーヌが邸に現れてから、明らかに邸内の空気は変化した。
息子のゴンザーグは寡黙になり、代わって彼の子供たちが、より元気を取り戻したかのようだ。口煩い父から解放された子供たちの前に、イレーヌという異質の文化が侵入してきて、思春期を前にした子供たちには、そこに束の間の解放空間を作り上げることができたのである。
老画家も、元気を自然に発散させていた。一人の人格の侵入が空気を変えてしまう典型的なパターンが、そこにあった。
4 森のカフェの静かな賑わいの中で
老画家は娘に、自分の絵画を見せるためにアトリエに案内した。
「どうせ気に入らんだろう。お前の眼は正しい」
「またアトリエ?何度目かしら」
「いつか気に入る」
父は娘の感想を、常に求めているかのようだ。
「正統派すぎるのよ。情熱に欠けるの」
「だから、私の絵を飾らないのか」
「売ればいいわ」と娘。父の絵を丹念に見ている様子はない。
「わしが死んだら、持っていくか?」
「子供をからかわないで」
父はどこかで真剣に、そんなことを考えていた。
屋根裏部屋に娘を案内するが、娘はレースのショールに関心を持って、そこに沢山あるものの中から、気に入ったものを物色している。ショールを物色する娘の背後から、父の柔和な視線が見守っている。
その柔和な構図に、ナレーションが重なっていく。
「“恋人はいるのか?”父は娘に聞いたことはないし、これからもないだろう。どんな人間でも、心に傷を負うことがある。身を守るためには拒絶するしかない。もし娘に恋人がいると知ったら辛いだろう。父親は皆、そうである。娘が処女であることを願っている。娘も父には異性関係を隠す。娘も父親と同じくらい賢かった。しかし、今日の娘の様子を見て、恋人がいると確信した。だが決して口には出さないだろう。お互いに嘘をつき通すのだ」
ショールを物色していた娘がそこで見たものは、一枚の絵画。
「素敵ね。誰の絵?」
「40年前の画家の作品だ。1865年ごろだと思う」
「魅力があるわ。感動的。綱渡りの芸人が、バランスをとってる。風と雨と太陽と・・・」
「無関心な通行人の表情が、よく描けている。高く売れるだろう」
「売らないわ」
娘は陶然とした表情で、その絵を手にしたのである。勿論、その腕の中に物色した多くのショールが収まっていた。娘は手持ちの金を出し、それをショールの代金として父に無理に手渡した。
「彼はこの金で孫たちにに、何か買ってやろうと思った。でも、何もしないかも知れない」(ナレーション)
まもなく娘は、自家用車に父を乗せて、長閑な屋外のカフェに連れて行った。森の中のカフェで憩う父は、娘に自分の過去を語っていく。
「わしは教わった通りに絵を描いてきた。伝統を重んじてきたが、度が過ぎたかも知れん。オリジナリティは他の画家に任せた。セザンヌの大展覧会が1896年頃にあった。面白かったが、わしの進む道とは違うと思った。ゴッホの絵もそうだった。彼とは会ったことがある。アルルでひと夏過ごしたときだ。ママと一緒だ。年寄りの思い出話はつまらんだろうな・・・勇気がなかったんだ。何年か前に絵の手法を変えようと真剣に考えた。でもお前のママは、わしがこの年で迷っているのを見て辛かったようだ。勲章をもらって、地位もあったから・・・」
「可哀想に」
「他の画家のオリジナリティを真似してみようとも思った。モネやルノワール・・・でも、ますます自分らしさを失うだけだろう?どうやっても、わしの絵だ。自分が感じるまま正直に描いた。もし失敗しても、それが限界だと悟るだけだ。さっきお前が起こしに来たとき、夢見てた。笑うだろうが、モーゼの夢だ。モーゼが死ぬところだ。約束の地を目前にして、この世に別れを告げるが、後悔はしていない。なぜなら、彼は愛するものを理解し、心から愛していたからだ。分るか?安心して死ねる・・・酒場で預言者の話をするなんて、無作法だな。正直に言ってくれ。わしも年をとったのかな?」
父の話を真剣に聞く娘が、そこにいる。
その娘は父に笑顔を返して、ダンスに誘った。
父と娘が森のカフェの静かな賑わいの中で、心を込めて踊っている。いつしか他の客たちは遠慮して、自分のダンスを捨てていった。そこには老いた父と、決して若くない青春を続けている、最愛の娘とのダンスの宴が続いていた。
「私は思い通りに生きるわ」
父を相手に踊る娘は、一言そう言い切った。
それが映像で見せる娘の、確信的な人生観の吐露でもあった。しかし、そんな娘の内面世界は、思うようにならない人生に遭遇することで、呆気なく砕け散っていく何かでもあった。
5 瞑想し、凝視する老人の足音だけが響く静かなアトリエで
まもなく二人は邸に戻り、娘はパリからの電話を受け取った。その内容は、異性問題で悩む娘の心を深く傷つけるものだった。そのとき、娘の心はもう父の住む世界とは無縁な場所にシフトしていたのである。
「娘の心はもう出発していた。さっきまでの自信に満ちた娘ではなかった。まるで逃亡だ。父は泣きたくなるほど、娘を引き止めたかった。やっとの思いで送り出す。娘はどうしても出発したいのだ」(ナレーション)
父は娘を送り出した。
「元気でな」
その父の一言に、娘は軽く頷くだけ。彼女の心は、パリで待つであろう男の問題に支配されていたのである。
「慌ててた」とゴンザーグ。
「いつもなら振り向いて、手を振るのに・・・」
悄然とする父の表情だけが、そこに置き去りにされたのである。
夜になり、イレーヌを除く家族の団欒が晩餐の中で結ばれた。
老画家の気分は少し萎えている。息子もまた、それを感受していた。それでも繊細な会話を回避する父と息子。
まもなく、その息子たちの家族も帰途に就いていった。
駅まで送ったラドミラルは、恐らくいつものように静かに、その歩を自邸のある方向に進めていく。まだ初秋の柔和な陽光が消えないでいた。
その緩慢な歩みが閉じる頃、白い服の二人の少女が縄跳びに興じる光景が、老画家の視界に入ってきた。
ファーストシーンで縄跳びをしていた、あの少女たちである。
それは、自分の記憶に棲み込んでいる、小さな天使のイメージを具現化した幻想であるのだろうか。老画家はそこに微かな笑みを投げ入れて、邸内に入っていった。
「どうして明るい内から、雨戸を閉めるんだ?アトリエにお茶を」
老画家は、メルセデス一人しかいない邸内に向かって、少しそこに感情を乗せて言葉を投げ入れた。
彼はそのままアトリエに入っていく。
老人の足音だけが響く静かなアトリエで、何かを思いつめたように瞑想し、やがてスーツ姿のまま立ち上がった。
そして自分の作品を凝視した後、その描きかけの絵をイーゼルから外し、そこに真っ新(まっさら)なキャンバスを載せた。老画家はその白地のキャンバスを、そこからほんの少し離れた距離に小さな身を沈めて、いつまでも凝視している。
それは、新しい何かを生み出していくための始まりを告げる、最も緊張した時間でもあるようだった。
* * * *
6 映画の重量感を決定づけた老画家の語り
「田舎の日曜日」は、私にとって究極の一作と言っていいほどの作品となっている。
パリ郊外に住む老画家の邸に、長男一家と、都会の華やかな生活感覚を漂わせたような娘が訪ねて来る。
晴天の日曜日での家族の交歓のひとときが描かれるだけの映画だが、ハリウッド映画の騒々しさに浸かってしまった者には、過激な台詞や動きが皆無で、内面描写で進行する映像に退屈を覚えるかも知れない。しかしこの種のテンポを愛好する者には、何より至福の映画である。
この映画の中に、私にとって一生忘れ難い台詞がある。恐らく、これが映画を特別なものに印象づけているように思える。
娘が父を誘ったドライブで、二人は森のレストランに立ち寄った。
そこで、父と娘はダンスを踊るのである。老画家は愛娘に向かって、静かに語っていく。印象派革命の只中で、その洗礼を受けた画家が迷った果てに、自分の画法を進めていく頃の述懐である。
「他の画家のオリジナリティを真似してみようとも思った。モネやルノワール・・・でも、ますます自分らしさを失うだけだろう?どうやっても、わしの絵だ。自分が感じるまま正直に描いた。もし失敗しても、それが限界だと悟るだけだ」
ただこれだけのことを、老画家は語った。他に何も語らない。
本篇を通しても、あまり語らない。語ってはいるが、本質的なことではない。本質的なことはこれだけなのだ。だからこの語りが際立つのだ。
この辺りに、映画の独自の表現技法がある。
たった一行の台詞によって、映画の重量感が決定してしまうことがあるからだ。
「田舎の日曜日」という小品の生命を、老画家のこの短い表現が支え切っている。
自分の才能の限界を悟り、その中で自分が納得する規範を作って、そこで悔いのない人生を全うしようという覚悟が、老境に最後の光を与えている。この光は眩しくないが、自ら作り出した秩序の内に、鈍いが、しかし清澄なまでの安寧をギリギリに保持し得る分だけは保証している。
それは、決して絶対的なものではない。絶対の光など、どこにもないのだ。そこに陰影がクロスしてくるから、光の価値が弥増(いやま)すのである。陰影によって相対化された眩しさだからこそ、人はそれを捨てないのだ。
忍び寄る死という陰影がその濃度を深くして、安らかなる秩序を食(は)んでくるとき、老境での括りがギリギリにその秩序をガードする。老境の光と影のゲームが、物語の終りを舞っていた。
7 優しい慈父が戦士に化ける瞬間(とき)
長男の家族と娘が帰った後の邸に、昨日と同じ静寂が戻って来た。
老画家はいつものように、一人でキャンバスに向かっていく。
光と影のゲームが振れていく。ここでも語りがない。必要ないからだ。
老画家は、自らが今存在することの根拠を、キャンバスとの対峙の中で検証する以外にない。鈍い光だが、繊細に振れるゲームの行方を万遍なく照らし出している。
老画家を囲繞する静寂は、老人の最後のステージに溶融するかのように空間を抑え込んでいた。
鈍い光が放つ継続力が、ラストの印象的な描写の中で、何か鮮烈な輝きを映し出していた。老画家がアトリエを暗くして、その継続力によって自らの表現に立ち会う緊張感は、戦場に向かう古武士の風格そのものだった。
優しい慈父が戦士に化ける瞬間(とき)である。
老画家は、忍び寄る死と闘うために戦場に踏み入れたのか。この強靭なラストシーンが、映像作家の志を深々と映し出し、映像全体に風格をもたらした。老境の日々をこれほどまでに昇華した描写を、私は知らない。
ブログ・冬入りの記憶より |
8 固有なる関係の垣根を簡単に越えられない息子の自我の、ある種の小さな屈折感
本作のテーマは、以上の言及の中で殆ど集約されるものであると考えるが、もう一点、「父子の情愛」の問題について繊細な筆致で描かれているので、それに対する言及をも加えておきたい。
本作での人間関係に於いて、最も中枢な構図を示すのは、老画家ラドミラルと、その二人の成人した息子と娘との関係である。描写の中で際立っているのは、殆ど毎週のようにパリから父の邸を訪ねる息子の家族と、何か問題がなければ殆ど訪ねることがない娘の、父に対するスタンスの差異である。
それについて書いていく。
息子のゴンザーグは保守的で堅実、言わば、常識的な思考の持主だが、その性格は抜きん出て誠実である。父を尊敬する気持ちも多分に含まれるだろうが、それ以上に日曜毎にパリ郊外の父の邸を家族五人揃って訪ねるというのは、普通に考えれば簡単な行為ではない。
病弱な娘の療養という目的や、二人の息子たちを自然の中で遊ばせるという目的がそこに介在したとしても、それらは副次的な理由でしかないだろう。息子ゴンザーグには、何よりも老境にあって、脚力の衰弱も目立つ父を、一人で広い邸に住まわせて置くことに対する後ろめたさの感情が、何某かあるに違いないのである。
彼はその意味で、特段に親孝行であると言えるのだが、しかし子供たちの成長が目立っていけばいくほど、家族ぐるみの訪問が困難になる現実をも、その視界に入っているだろう。
それでも息子は、訪問を継続する。
そして今回の訪問の中で、彼は「父の死」を想像してしまった。
その現実が近未来に出来することを、息子はどこかで覚悟しているのである。だからこそ彼は、父への訪問を止める訳にはいかないのか。
それにも拘らず、彼は父が自分よりも、妹のイレーヌの訪問を切望していることを感受している。嫌というほどそれを感受しつつも、彼はその思いを決して父の前で吐き出すことをしない。それが、苦労して子供たちを育ててくれて、功成り名遂げた芸術家への誠実な対応であると、とうに括っているかのようだった。
息子もまた、かつては芸術家を目指していたから、父の絵画世界の偉大さを知悉していた。本作でそれについて触れた描写が一箇所だけあったが、そこで彼は、傍らで微睡(まどろ)む妻に独白している。
「絵を続けたかったが、仕方ない。それに失敗すれば、父を悲しませたろう。きっと父の真似しかできなかったと思う。でも成功したら、ライバルになってた。僕も結構、上手だった・・・」
この独白を見る限り、自分の実力を正当に評価してもらえなかったという、息子なりの見栄や悔しさが窺えるが、それ以上に、格闘した果てに到達したであろう、父の絵画世界に対する尊敬の念を見出すことができる。
然るに、この尊敬の念が、娘のみを溺愛する父に対する明らかな不満を相殺にしてきたとは思えないが、或いは、そこに芸術のフィールドで叶わないと感じさせた相手への劣等感の媒介が、いつしか、「父に対して頭が上がらぬ息子」という人格を形成させてきた内面的文脈を生み出してしまったのであろうか。
それを象徴する最も印象的なシーンが、ラストに用意されていた。
この描写は、過去に画家志望の息子もまた、その自信作を無視された経験があることを暗示するものと言っていいだろう。
この息子と父との情愛の絆は、その固有なる関係の垣根を簡単に越えられない息子の自我の、ある種の小さな屈折感を昇華した、大いなる思いやりの感情の上に構築されていると言えなくもないのである。
9 複雑な心の振幅に翻弄される老画家の残り火
一方、娘のイレーヌは、あまりに奔放であった。
明らかに、そのキャラクターは父の溺愛の結実でもあったと思わせる。
しかし奔放な娘は、父の述懐に真剣な眼差しで受容できる心の優しい人格でもあった。森のカフェでの父子の語りと、それを聞いて、父にダンスのパートナーを求める娘の感受性の深さは、父の内面世界に通底するメンタリティを窺わせる。
娘は自分を溺愛した父に対して、リバウンド的な反抗を示す思春期を媒介させてきたかも知れないが、大人になった現在、父との自然な感情交歓を愉悦する関係を構築するに至っている。そんな娘を、老画家は常に愛しくてならないのだ。だから娘の突然の訪問は、父の歓喜を生み出すが、それ以上に、自分の邸を去っていくときの悲哀の感情を深めてしまうのである。
「娘の心はもう出発していた。さっきまでの自信に満ちた娘ではなかった。まるで逃亡だ。父は泣きたくなるほど、娘を引き止めたかった。やっとの思いで送り出す。娘はどうしても出発したいのだ」
この、言わずもがなのナレーションが全てだった。
甘美ではあるが、しかし当事者にとっては、苛烈なる青春を継続させる時間の只中にある娘にとって、より刺激的な世界にその心が執拗に囚われている分だけ、父の老化の現実をその視界に収められないのである。
従って、父に対する娘の情愛の包容力は限定的だった。だからしばしば、そんな娘との別離の際には、父親だけが置き去りにされるのだ。
とりわけ、今回の別離は、老画家にとってあまりに痛々しかった。父の心は、今までに増して裂けていくようであった。今後、このような時間を加えていく度に、父の心理的リスクは回避し難くなるというイメージを観る者に与えて、その後、あまりに寂しい老画家の帰路を映し出したのである。
しかし、そのような時間が深まっていくほどに、老画家はそれを自らの内で克服し、浄化していく流れを作り出していくのだ。
そんな複雑な心の振幅に翻弄される父が、それらの世俗的な感情を止揚する世界は唯一つ。未だ人生の残り時間になお消えないでいる芸術への熱い思いを、真っ新(まっさら)なキャンバスに鏤刻(るこく)していくことである。
老境の悲哀をたっぷり被浴するその自我を、ギリギリのところで立ち上げて、そこにプールされた感情の束を表現世界の内に、より新鮮なものに昇華させていく営為である。恐らくそれ以外にないであろう、一人の老画家の孤高な精神世界の、その達成感覚への固執に対して、観る者はただ感嘆するばかりであった。(画像は、ベルトラン・タヴェルニエ監督)
10 過剰なナレーションが壊した「想像力の戦争」
―― 最後に、この殆ど完璧な映画に対して今なお残る不満を一つ。
今回、本稿を起こすに当たって、ビデオの画像からその字幕を写し取っていったが、ナレーションが8箇所あって、その一つ一つを仔細に検証して見ると、明らかに不必要だと思われる挿入があり、極めて残念な思いが残った。
とりわけ、ラストの娘との別離の際のナレーションは不要であると思われる。なぜならそこで映し出された映像が、置き去りにされた父の心情を充分過ぎるほど説明していたからだ。
映像を含む芸術作品は、作り手とそれを鑑賞する者との「想像力の戦争」であると私は考えるので、本作に於ける過剰なナレーションの導入は、テレビドラマの平均的な視聴者に合わせるかのような次元の、言わば、受動的な娯楽性の中で蕩尽される何かと差異を感じさせない印象を受けてしまったのである。
蓋(けだ)し残念だったが、しかし、その程度の不満を払拭させるに充分なほどの出来栄えの作品であったことは疑いようがなかった。それもまた、言わずもがなのことだった。
(2006年11月)
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