2008年11月24日月曜日

人生は、時々晴れ('02)      マイク・リー


<空洞化された共同体が復元するとき>



序  空洞化された共同体 ―― その復元の可能性



これは、空洞化された共同体のその復元の可能性についての映画である。

人の心が最も安らぐミニ共同体、今やそれは、私たちが「家族」と呼ぶものが占有するはずの強力な価値空間だった。しかしそこに亀裂が生じ、いつの日か、その復元の困難さを晒すほどに空洞化されてしまったとき、そこに拠って立っていたはずの安寧を、人々は一体、どこで手に入れたらいいのであろうか。

本作は、そのような空洞化された家族の時間の復元の可能性について、その復元のコアとなるべきものの大切さを描くことで検証した一篇であった。

「人生は、時々晴れ」

これが、本作の邦題名だった。



1  寒々とした家族の風景



―― その詳細なストーリーから追っていこう。


老人ホームの薄暗い廊下で、一人の娘が黙々とモップで床を磨いている。まもなく、廊下の奥から杖を持った老人が現われて、滑りやすくなっている廊下を這うようにして歩いて来る。娘は老人に、「滑らないでね」と声をかけて、その通行の足場にスペースを空けた。その穏やかな口調から、娘の人柄の良さが想像される。

娘の名は、レイチェル。

その表情に感情をのせない印象のタクシードライバーが、一人の若者の客を乗せて街中を走っている。若者はバイクを盗まれたらしく、「ちくしょう!クソッタレ!」などと口汚く吐いて、車内で荒れている。

その態度に動揺を見せるドライバーの名は、フィル。

スーパーのレジであくせく働く中年女性。

多忙すぎて、同僚の声かけにも生半可な返事しかできない。ようやく仕事が終わって、彼女は自転車で帰路に就いた。その頭にはヘルメットが被されている。その姿は、通りの激しい道を縫って通勤する日常的な風景を想像させるものである。

彼女の名は、ベニー。

そのベニーが集合住宅の一角に自転車を止めたとき、一人の若者が「クソ野郎、邪魔するな!」などと叫んで、少年を相手に暴力を振るっていた。

その場に駆けつけたベニーは若者の暴行を止めて、アパートの自宅に急いで戻った。傍らには、その若者がいた。

かなり肥満気味のその若者の名は、ローリー。

激しくアパートの扉を叩くローリー。

やがて扉が開けられて、一人の娘が迎えに出た。彼女もまた、極めて肥満気味である。その娘はレイチェルだった。ローリーはレイチェルの弟であり、ベニーはその母である。

そのローリーは、今日も学校に行っていない様子だった。昼過ぎまで自室で寝ていて、そのストレスのはけ口を先の少年にぶつけていたらしい。

姉のレイチェルは自宅でも物静かであり、読書で時間を潰していた。既にこの描写を待つまでもなく、姉弟の性格の違いは瞭然としていた。

一方、タクシードライバーのフィルは、同僚が起した車の事故に同情し、相談に乗っている。彼の名はロン。フィルと同じ集合住宅に住んでいる。

「事故がなけりゃ、次の角で子供を轢いたかも知れん。一寸先は闇だ。どうなるか分らん。運命が分れば、怖くてベッドから出られない。それが人生だ。時は流れて地球は回り、潮が満ちたり引いたり、人間は生まれて死ぬ」

こんなことを、フィルは相棒に話している。その相棒はフィルの話を聞いている素振りも見せず、問いかけた。

「女房はスーパーで何してる?」とロン。
「知らん」とフィル。
「何係だ?」
「さあな。何とか飢えは凌いでる。俺の稼ぎで」

この何の変哲もないような短い会話の中に、フィルの家族の寒々とした風景が読み取れる。

以上の描写の導入で、この映画が集合住宅に住む労働者の家族の有りようを描く作品であることが想像される。

左からローリー、レイチェル、ベニー、フィル
勿論、作品の中枢を成すストーリーが、フィルを父とし、ベニーを母とし、そして、レイチェルとローリーの4人を家族とする物語であることは自明である。



2  様々な家族の、様々な振る舞い



場所は英国の首都、ロンドン南部。

その一角にある集合住宅の自宅に、客がチップ代わりに置いていったバーガー用のパン3ダースを抱えて、フィルはロンと共に帰宅した。

夕食の準備に余念がない母娘との短い会話を劈(つんざ)くようにして、居間から騒々しい機械音が侵入してきた。居間のソファで横になってテレビを観ている息子のローリーが、その元凶だった。

フィルは息子に近づいて、声をかける。

「元気か?今日は何をした?」
「喧嘩よ」と母のベニー。
「黙ってろよ」とローリー。
「悪態つかないで」
「殴ったのか?」とフィル。
「ママは分ってない」とローリー。横になったままである。
「毎日グータラして」と母。
「奴がけしかけた」と息子。
「近所迷惑よ」
「何もしてないだろ!」と息子。少し起き上がって叫んだ。
「職安に行けば?」と母。
「いつ行こうと勝手だろ!ガミガミ言うな!」と息子。更に起き上がって叫んだ。
「責めてないわ。力になりたいのよ」
「うるさい!」

既に、この母と息子の言い争いの中に、この家族が拠って立つものの脆弱さが浮き彫りにされている。

息子は、今で言う「ひきこもり」というのでもない。ここまで観る限り、自分の能力やその性格と、社会の需要が充分に適応していないことが分る。

そんな家族の風景の貧弱さが極まるのは、次のシーンにあった。

母と息子の言い争いを傍らで聞いていた父のフィルが、そのまま何も語らず、何も反応せず、その場から離れて黙々と上着を脱ぐ態度に終始し、それを妻のベニーが呆れたように見つめるシーン。

マイナースケールのメロディに繋がれた次のカットでは、食卓を囲む夕食のシーン。テレビを観ながら食事するローリーは、明らかに、他の家族に対して背を向けている。

勤務中の意味のない話で、座を保とうとする父のフィル。それにレイチェルだけが優しく反応する。

「いい天気ね。何年も散歩してないわ。散歩しない?」

ベニーは、娘に促した。

その言葉に感情が全く乗せられていないので、娘は「止めておくわ」と一言。

この会話に至るまで、家族の者たちの沈鬱な表情振りが際立っていて、観る者が物語の流れを汲み取ることは容易である。

ロンの家族も似たり寄ったりだった。

彼の妻キャロルはアル中で、ローリーのようにソファに横たわっている。その表情には、娘を持つ母親の活力が全く見えなかった。娘のサマンサは反抗的で、家に寄り付く気配を見せないのだ。このような家庭なら安住できないであろう思いが、ひしと伝わってくる描写だった。

同じ集合住宅に、ベニーの同僚のモーリンが娘と二人で住んでいる。

娘の名はドナ。そのドナは、ジェイソンという粗暴な男と付き合っている。

そのジェイソンがドナに会いにきた。ドナはジェイソンと連れ立って、集合住宅を後にした。それを廊下からサマンサが見つめている。

映像に出てくる若者たちは、皆どこかで吐き出したいストレスを抱えているように見える。

一方、フィルは、相変わらず寝転んでテレビを観ている息子に、あろうことか小銭を借りにいく。

更に二階に上がって、娘にも借財するのである。そして階下の妻のもとに出向いて、夫は借財を求めたのだ。

このフィルが、金を借りに行く順番は明らかに逆だった。

タクシードライバーのフィル
「今週は稼ぎが悪かったから」

フィルは妻に、それしか言わない。

妻も夫に、それしか聞かない。

しかし妻は夫に、「早朝から働けば」の一言を加えることを忘れなかった。彼の借財の理由は、「無線機の支払い」のため。この家族の主は、常に自分の小遣いにも事欠く経済事情を抱えているらしい。妻もそれを知っているが、夫婦間の会話はあまりに貧困なものだった。

夜の闇の中で、夫は眠れない時間を自分のベッドで過ごし、妻は物悲しい表情を浮かべて、ベランダでお茶を飲むだけ。

こんな風にして、今日もまた家族の一日が過ぎていくのだろうか。

ドナは恋人のジェイソンに、妊娠の事実を打ち明けた。

セックスを拒まれて、「お前とはおさらばだ」と口汚く罵る男に向かってその事実を告白したとき、男は狼狽するばかり。

「ピルは?」
「飲んだけど、できたの」
「バカな」
「あんたの子よ」
「悪い冗談はよせ」
「冗談じゃないわ」
「なぜだ」
「妊娠したか?」
「なぜ分った?」
「病院に」
「いつ?」
「二週間前」
「二週間前?分ってて隠してたのか?」 
「会えなくて」
「木曜に会ったろ!」
「喚かないで」
「地獄だぜ!勘弁しろよ!」

必ずしも珍しくない若い男女の会話だが、当人たちにとっては、自分たちの生活基盤が揺さぶられるほどの現実的な脅威だった。とりわけジェイソンは、ドナと結婚する意志を持たないような男だった。

そんな男が、殆ど半裸姿で階段に立つドナに向かって喚き散らすばかり。

「わざとピルを止めたな」
「違うわ」
「俺を繋ぎ止めるためだ」
「そう思う?」
「お袋の墓に誓え」 
「生きているわ」
「俺をハメる気なら、なぶり殺してやる!
「じゃ、殺してよ」
「クソ、妊娠なんて、どうってことないさ」
「重大よ」
「大騒ぎするな。よくあることだ。病院で始末してもらえ。金も少し出してやる。病院にも付いてってやる・・・子供を産むなら、お前と別れるぞ。それが嫌なら堕ろせ!」
「本音ね?」
「子供を産んでどうする!どうやって育てるんだよ!オヤジになるのは死んでもごめんだぜ。お前もごめんだ!」
「くたばれ!」

この後、こんな状況下で若い男女によくあるような醜悪な罵り合いが続いて、男は女のもとを去って行った。

印象的なのは、この二人の罵り合いの描写と並行するように、娘の母モーリンが、ベニーやキャロルと酒場でくだを捲いているシーンが断続的に繋がるアイロニカルな展開。

そこでモーリンやキャロルは、充分すぎる程ストレスを発散している。発させずにはいられない何かを、皆持っているのだ。

モーリン、キャロルとベニー(右)
しかしベニーだけが、その気分に乗り切れないでいた。彼女には今、内側で何かが噴き上げて、それを発散させるエネルギーすら枯渇しているようだった。

娘の告白から妊娠の事実を知ったモーリンは、当惑するばかりだった。

その母娘のもとに、電話で呼び出されたジェイソンがやって来た。

彼はドナが母に告白したことを知って、本人を面罵する。

「バカ女、頭がイカれてるぜ」
「帰って!」と母のモーリン。

必死に男の乱入を、扉を楯に食い止めている。

「こんなひどい娘は初めてだ」

男は身勝手な言葉を吐き出すだけ。

「あんたも男のカスよ!」

体を張った母の抵抗に、男は外に出された。

「お前のベッドで、ドナとやりまくったぜ!」

この下品な言葉が、男の捨て台詞になったのである。

モーリンとドナ
「最低の男ね。どこがいいの?」

母もまた、その捨て台詞を残して娘の元を一時(いっとき)離れていく。

映像はその後、母と娘の生産性のない会話を映し出していた。

集合住宅の中庭でサッカーをしていたローリーが、仲間が帰った後、突然胸の痛みを訴えて、その場に倒れ込んだ。

それを見ていたモーリンが駆けつけて、傍らにいたキャロルに救急車への連絡を促したのである。

しかしアル中のキャロルは、千鳥足で何とか戻った自宅で、受話器を片手に震えていた。そこに駆けつけた娘のサマンサによって、救急車への連絡がようやく取れたのである。役に立たない母親は、まだ酒を飲むことを止められないでいた。

それは、様々な家族の、様々な振る舞いが映し出された物語の展開が、いよいよ佳境に入っていくことを観る者に想像される出来事だった。




3  海辺行き ―― 物憂げに立ち竦んで






その頃、フィルはタクシーに乗せた婦人客との会話に付き合っていた。

「奥さんを愛してる?」

その唐突な質問に、フィルは噛みしめるようにゆっくりと答えていく。

「ああ、そうだ。変だな・・・愛はまるで、バケツに落ちる水の滴だ。独りの愛だと水は半分。満たされることはない。だから人間は孤独だ。人間は独りで生まれ、独りで死んでいく・・・仕方ないさ」

婦人をホテルに送ったフィルは、車に戻った後、何か思い詰めたような表情を浮かべながら、会社との無線と携帯のスイッチを切った。


一方、スーパーに連絡が入って、ベニーは病院に駆けつけようとして、携帯を片手に走りながら、必死に夫に連絡をとる。

しかし、夫の携帯は切れていた。彼はロンドンの郊外を走っている。

「出てよ・・・」と呟くベニーは、家族への連絡が取れないで焦るばかりだった。娘のレイチェルは、川沿いを散策している。その顔も思い詰めているようだった。

ベニーは夫の会社に連絡を取って、夫の同僚でもあり、キャロルの夫でもあるロンに迎えに来てもらった。しかしベニーを乗せたロンの車は、またしても他車との接触事故。焦るばかりのベニーは車から降りて、必死に病院まで走って行く。その表情は、我が子を案じる母親の不安感をまざまざと炙り出していた。

病室には、モーリンが付添っていてくれた。


そこに、「ローリー!」と叫ぶ母親の声が静寂を切り裂くように侵入してきた。チューブでがんじがらめになった息子に抱きつく母。甘える息子。

そこで展開された風景は、これまでの家庭でのシーンとは別の何ものかだった。

「大丈夫よ、看病するから。私の可愛い坊やよ」

その母の今までにない感情含みの振舞いに、息子はまるでそれを待っていたかのようにして甘えていく。

「パパは?」とローリー。

息子には家族の不在が気になるのである。 

「じきに来るわ」と母。

彼女には、そう答えるしかなかった。


肝心のフィルは、車を飛ばして海にやって来た。

水平線を鮮やかなまでに映し出す大海原を前に、男は物憂げに立ち竦んでいる。その表情には、思いつめた末の絶望感が滲んでいる。


恐らく男は、その大海原の中に、身を沈めることを考えている。

一つの家族にあって、父であり夫でもあるこの男には、もう、それぞれの役割を演じることに耐えられなくなった者の辛さが氾濫しているようだった。

しかし男は、まもなく落ち着いた表情を取り戻して、帰路に就いた。



4  病室での饒舌、そし小さな輝き



病院にレイチェルがやって来た。

そのレイチェルの前で、担当医がローリーの病状を説明していた。

病名はまだ不分明だが、心臓疾患であり、命に別状はないが一生投薬することの必要性を告げられた。狼狽するベニーは、ようやく携帯が繋がった夫のフィルにローリーのことを報告し、早く病院に来るように命令口調で訴えたのである。

夜になって、フィルが病院に辿り着く。ベニーから病状を聞いたフィルは、蚊の泣くような声で反応した。

「人生は分らんな。起きたことは受け入れるしかない。明日はいいことが。運命だよ」
「何を言ってるの?どこにいたの?」とベニー。感情の落差を感じているのだ。
「遠出してた」
「どこに?」
「長距離の客を乗せた」
「タクシーなのよ。無線も携帯も切って、連絡が取れないじゃないの」
「そうだな」
「何のつもり?」

夫婦の静かな言い争いを、ローリーの言葉が遮断した。

「止せよ、ママ。パパを責めるなよ」
「ローリー。責めてないわよ」とベニー。泣いている。
「大丈夫?」とローリー。

彼は父を案じているのである。

「どうだ。大変だったな・・・休暇を取ろう」とフィル。

いたわるように、息子に寄り添っていく。しかしベニーの反応は否定的だった。

「何て?」
「元気になったら休暇を取ろう。家族四人で、どうだ?ディズニー・ワールドへ・・・」

この言葉を放ったときのベニーの訝(いぶか)しがる表情に、フィルは「何だ?」と、些か挑発的に反応するのみ。未だ、病室内の空気は緊張含みである。

面会時間が終了となって、家族三人は静かに、そこだけは明るくなっている病院の廊下を寄り添うように歩いていく。

フィルの左腕が妻の左肩にかけられて、三人は、それが本来の家族のあるべき姿をイメージさせるようにして歩いていく。

三人が辿り着いたその場所は、紛れもなく集合住宅内の自宅だった。

しかしそこは、家族を温かく迎え入れる空間とは縁遠い、闇のような暗さに包まれていた。

「一晩中、傍にいたいわ」とベニー。
「朝まで薬でグッスリだ。だろ?明日、車で送ってやる」とフィル。

彼なりに、妻を配慮しているのである。

「いいの」とベニー。

夫の配慮が分っていながら、夫の言葉の末梢性に苛立っているのである。恐らく、この夫婦はその辺の会話の落差で、それぞれの感情を少しずつ潰しあってきたのであろう。しかし夫は、この夜ばかりは自らの感情を潰すことをしなかった。

「早起きして病院に送り、息子の顔を見て、その足でタクシーを流す。勝手に流せばクビかも知れんが、早朝出勤で、空港まで客を乗せる。もしダメなら、他の会社に移るさ」

夫は自分の決意を述べた。

恐らくそれは、彼の究極の海辺行きの行動の中で、自らを反転させることを誓った意思表示なのである。しかし、その辺の夫の心情は妻には理解できない。

「その話は止めて」
「働くぞ。やり直すと決めたんだ。働いて金を貯める。週に七日働くさ。早朝から深夜まで。終末も」

夫の決意表明は終わらなかった。それを、妻は遮断する。

「息子が入院中なのよ」
「すまん。だが約束した。守るぞ」
「約束って?」
「休暇を取る。ツアーに連れてく。ディズニー・ワールドだ。乗客が話してた。フロリダへ、、車つきのパック旅行だ」

夫は、その意思をなおも継続させる。しかし妻の中では、夫の意思表示が息子の発症に対する一回的な反応にしか思えないのだ。

「休暇どころじゃないわ。毎日の生活でキリキリ舞いなのよ。突然早起きして働くわけ?今まで何年も好きなだけ朝寝坊して。当然の決心をしただけよ。私もレイチェルも朝は起きてるわ。ウンザリよ・・・医者に聞かれたわ。あなたの心臓のこと。心臓発作の家系かと。叔父さんがそうね」
「祖母もそうだ」とフィル。 
「そうね」とベニー。
「母の母だ」とフィル。
「忘れてたわ」
「一番上の叔父も。何て名だっけ?オーストラリアにいる・・・」とフィル。

こんなどうでもいい会話を、妻はまたも遮断する。

「あなたの家系ばかり。ウチはゼロよ・・・」とベニー。

明らかに、妻の言葉には悪意が含まれていた。それにもう反応できないフィルが、そこにいる。

「明日は仕事?」とベニー。娘に尋ねた。

彼女には今、ローリーのことしか頭にない。それに反応しない娘に対して、「休んだら?」と促した。

「分らない」とレイチェル。
「私は休むわ」
「もし仕事に行くなら、帰るときに電話しろ。病院まで車で送るよ」とフィル。

娘に優しく声をかけた。またしても妻は、会話を遮断する。

「携帯を切らないでね。息子が入院しても連絡が取れないなんて。私は緊急連絡がつくのに、父親は行方知れず。一日中どこに行ってたのよ?」
「スイッチを切った」
「知ってるわ。どうして?」
「嫌気が差した」
「嫌気?5分働いて嫌になったら切るの?私の身にもなって!毎朝起きて仕事、買い物、料理、お茶の用意、掃除、アイロンがけ、衣類の整理。何のスイッチを切れと?何が嫌なのよ?」
「何もかも」
「何もかもって?いい気なもんね」

夫婦の会話は、本質的なところに侵入してしまった。

もう避けられない辺りにまで、二人は踏み込んでしまったのである。傍らで座っているレイチェルは、母の感情の激昂に反応するようにして、静かにその場を離れていく。夫婦の今までにない衝突が起きることが予想されたからであろう。 

「もう愛してないんだろう?」と夫。

これまで内側で抱えてきたであろう感情を、彼は遂に吐き出した。

「何を言ってるの?愛は関係ないわ」と妻。

信じ難い夫の言葉に、丁寧に反応できないでいる。

「関係は大ありだ」
「ローリーが、心臓発作に襲われたのよ」
「もう何年も愛してない・・・好きでさえない。尊敬もしていない。俺をカス呼ばわりだ」
「してないわ」 
「してる」
「あなたをカス呼ばわりしていないわ」
「無意識にしてる」
「バカ言わないで、あんまりよ!何でそんなこと言うの?」と妻。表情が涙で崩されている。
「それは・・・耐えられないからだ」
「何で耐えられないの?」
「もう愛してない・・・だろ?愛してるか?答えろ」と夫。

振り向いて、妻の反応を求めた。切実な感情が飽和点に達したのだ。すぐ反応しない妻に、夫は表情を濡らして強い決意を言葉に替えた。

「もう愛してないなら・・・俺は出ていく」
「どこに行くの?」

「分らない・・・君を不幸にするのが辛いんだ。俺は、何の取り柄もない。稼ぎも悪い。君を失望させて、苛立たせるだけだ。これじゃまるで、愛が死んだも同じだ。俺は心がカサカサの枯れた老木だ・・・初めて君と出会ったとき、信じられなかった。こんな可愛い娘がデブ男と付き合うなんて。俺は有頂天だった。金はなくても愛があった。だが愛が冷めたら、俺たちはおしまいだ。家族じゃない・・・そうさ・・・すまない。役立たずだった。息子が倒れたのに、つい泣き言を」

薄明かりの部屋が夫婦の涙で溢れていて、夫は、この機会を逃したらその心の奥にあるものを吐き出せないと思える決意で、全てをいま吐き出し尽くしたのである。傍らに、妻が寄り添って来た。

「カスなんて思ってないわ」
「だが、そう感じる」

涙を拭うためにテッシュを取りにいったベニーが階段を見上げると、そこに娘のレイチェルが座り込んでいた。

母は娘に寄り添っていく。娘は母の顔を見ない。うっすらと涙を浮かべている。それに気づいた母は娘を胸に抱く。

そこから離れるようにして、娘は一言呟いた。

「カス扱いしてるわ」
「私が?」と母。驚きで反応ができないでいる。
「たまに」と娘。

それ以上言わない。言う必要がないと思ったからである。娘にとって、それがせめてもの母に対する愛情であり、同時に、父に対する思いやりでもあった。

しかし、母はもう動けない。ようやく体を起して階下に下りて来た。その表情は、追い詰められた者の寂寥感に覆われていた。

まもなくベニーは、夫であるフィルの前に戻って来た。重苦しい沈黙の中から、ベニーは言葉を搾り出す。

「不思議な気持ちよ」
「何が?」と夫。
「私・・・疎外感を感じていたの。寂しくて。孤独だった」
「俺もだ」
「あなたも?」
「愛してる」と夫。沈黙の中から、彼も言葉を絞り出す。

もう二人に言葉は必要なかった。夫婦は固く抱擁しあった。

それが、この夜の大きな家族の心のうねりの逢着点だった。

翌日、家族三人は病院に行った。

フィルは早朝起きて、空港の客を運ぶ仕事を片付けてきている。既に彼の決意が行動になって現われていた。

家族の訪問にいつになく元気な息子の饒舌が、病室に輝きを与えていた。

そこに父のフィルの饒舌が絡んできて、家族四人の中に、遠慮のない笑いが空気を支配し切ったのである。それは映像が初めて見せた、家族の本来のあるべき風景だった。


*       *       *       *



5  「継続か喪失か」、もしくは、「再生か解体か」



この作品の原題名は、「All or Nothing」。これはどういう意味だろうか。

一体、作り手は、そこにどのようなイメージを仮託したのだろうか。しかし、この作品が邦題名になると、「人生は、時々晴れ」。

こうなると、もっと分らなくなる。

この二つのタイトルのあまりの落差に、私は驚きを禁じ得なかった。

とりわけ邦題のタイトルは、どう見ても、作品の内実が孕む深刻な問題性との距離感を覚えてしまうのだ。この作品は、そんな慇懃(いんぎん)な邦題名を被せられるほど、軽快なステップッで駆け抜ける類の甘い映画ではないからだ。

確かに感動はあった。

心を強く打つシーンや、その筆致の細やかさに頷く描写も多かった。

これもまた、どちらかと言えば、丹念に様々なエピソードを積みあげた末に、ラストシーンで勝負する作品だったが、そこに用意された感銘深い描写は、些か照れ臭い感傷を含んでいるものの、映像を綺麗に括っていくカタストロフィーとして充分過ぎるものであっただろう。

しかしそれでも、「人生は、時々晴れ」という脳天気なタイトルに馴染みにくい作品であったことは間違いない。

では、「All or Nothing」とはどういう意味か。

私の把握では、それは「継続か喪失か」、もしくは、「再生か解体か」というテーマこそ相応しいのである。

でも、このような表現は、作品のタイトルとしてはアウトであろう。しかし、この作品で描かれているテーマを要約すれば、このような表現に尽きると言える。恐らく作り手も、そのような問題意識で映像化したと思われるが、これは私の勝手な推測に過ぎない。

もし、破綻と亀裂の危機を示したこの家族が、あのような状況が設定されなかったら果たしてどうなったか。それは、父のフィルの「海辺行き」が象徴するように、まさに、「All or Nothing」であると想像できるような内的危機にまで追い詰められたに違いない。

そのとき家族は、「継続」はおろか、「再生」の一縷(いちる)の望みをも断たれたかも知れないのだ。

しかし、フィルは海に飛び込まなかった。

飛び込めなかったのであろう。

それは勇気の問題であると言うよりも、自分にもう一度最後のチャンスを与えるために、もう僅かしか残っていない感情を、「怒り」という形によって具現しようとしたようにも思えるのである。

何某かの方法で怒りを身体化できる家族は、少なくとも、その感情を抑圧して、単に相手に合わせるためだけの家族よりも、数段ましである。

なぜなら、自我を解放する空間こそが「家庭」であると考えるからだ。

それぞれの自我を抑圧して閉じ込める空気が家族内に蔓延すれば、その家族の継続力は劣化するばかりとなる。

それぞれの些細な怒りを、ルールなき攻撃性の暴発に発展させることさえしなければ、必ず時間という便利な仕掛けが、それぞれの感情を中和させていくのである。家族にはそのような中和力が本来的に備わっている、と私は思うのだ。



6  「パンと心の共同体」、或いは、「役割共同体」



―― 現代家族とは、「パンと心の共同体」であると私は考える。

勿論、家族には、分娩による育児と教育という、血縁の継承に関わる基本的役割があるが、しかし家族の成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉の内に形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。

そこで安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさにそれが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば過剰なまでに身を預けるのである。

解放された自我は、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを存分に吐き出すのである。そこではオナラやゲップが飛び交い、不必要な仮面が悉く剥ぎ取られていく。

言うまでもなく、そこには暗黙のタブーやルールがあるが、ルールをほんの少し突き抜けても、それを修復するだけの情緒的復元力が、いつでもそこに担保されているのである。

家族とは言わば、「中性共同体」であると言ってもいい。

夫婦間にのみ性交が認知されているが、それはあくまでも、家族の中枢としての父と母の、その親和力の強化と確認を保障する機能として、充分な有効性を持つからでもあると言えるだろう。

同時に、家族は「役割共同体」でもある。

一人の成熟した男は、「父親」や「夫」を演じ、一人の成熟した女は、「母親」や「妻」を演じ、未だ成熟に達しない男児や女児は、それぞれ「息子」や「娘」、或いは「兄」、「弟」や「姉」、「妹」という役割を演じている。それぞれの役割が相互に補完しあって、一つの空間内に、家族という血縁共同体を形成するのである。

然るに、このような共同体にあって、それぞれの役割を形式的にすら演じられなくなったとき、そこに裂け目が生まれ、それが本来持っているであろう求心力を劣化させていくのは自明である。

思うに、一夫一婦制の家族に於いて、そのミニ共同体の普遍的属性が、「中性性」と「役割性」によって維持されていることは否定し難いだろう。いずれにせよ、現代の家族的共同体の「中性性」と「役割性」の双方を保証するのは、家族成員間に於ける堅固な情緒性の紐帯といったものであるに違いない。

しかし、近代以前の普通の家族的共同体の結合力の中枢には、「情緒」よりも「パン」の方により比重が置かれていたと考えられる。家族が餓死せずに生きていくこと ―― それこそが一般大衆家族の最大の課題であった。乳児を除く家族の全てがパンの確保のためにギリギリまで身体を動かし、心を削っていた。そんな時代があったのだ。

そんな時代では、「七歳までは神の内」と言われたように、不幸にも七歳まで生き抜く子供でなかったら、家族の十全な保護の対象にならなかったのである。七歳を越えたら、その子供は、「小さな大人的存在」として、パンの確保のために家族の相互扶助の不可欠な一員として機能するのが当然であり、子供もまたそれを疑うことをしなかった。

家族の相互扶助の体制に少しでも不足が生じたら、そんな家族を包摂する村落共同体が必要に応じて補填していく機能も完備されていた。家族は独自の権利を主張するよりも、それを包む共同体内の規範に従属することになる。

従って、そんな時代では、何よりも「パン」の確保が優先順位の筆頭にあり、「心」の紐帯の結合力は、それを強力に補完するものとして存在価値を持っていたのである。

然るに、現代家族の多くは今、「パンの共同体」という役割が絶対的な価値を持たなくなっているように思われる。「格差社会」と言われながらも、ごく一部の特別な例外を除けば、飢えの問題が克服されてきたことを否定できようか。

路傍の餓死者を平気で許容する社会から完全に切れたとき、そこに国民国家による一定の福祉政策のサポートが内側から要請されて、一応、社会民主主義的な国民主権の社会システムが相対的な効果を生み出したと言えるのである。

そんな現代社会にあって、家族の求心力は「パン」の確保のためのものではなく、「情緒」の紐帯の継続的な安寧を確保する方向に流れていかざるを得ないだろう。

「心の共同体」の能力の有無こそが、現代家族の生命線となったのだ。

そこでは、気の合わない家族と共存する思いはより稀薄化されていく。

それがたとえ肉親と言えども、その絆の幻想によって、ぶれることなく自立し得る保障など殆どなくなったようにも思われる。血縁幻想の求心力の低下という問題こそが、現代家族が抱える見えない心理的圧力になってしまったのだ。

「相性が合わない」家族との共存が削りとられて、代わって、「相性が合う」友人、知人との共存による擬似家族が形成されていく未来のイメージが、今後より顕在化していくのだろうか。



7  生活の律動感を合わせることの困難さ



マイク・リー監督①
―― さて、本作で描かれた家族の話に戻す。

確かにこの家族には、「パンの共同体」の継続的維持に若干の不安が見られるものの、しかし、それは絶対的危機と呼べる何かではない。

この家族の最大の問題は、「心の共同体」の基盤の脆弱さの内にあると言える。

この家族の深い紐帯をイメージさせる映像描写は、初めから削り取られてしまっている。

それぞれ、ファーストシーンで紹介される家族の表情は、一様に精彩を欠いていた。何か、内側に溜め込んだ感情が季節外れのプールのように不透明の澱みを見せていて、それをストレートに吐き出していく熱量にすら、容易に届かない覇気の欠乏が、この家族にはあるのだ。

唯一、肥満な肉体を持て余し、集合住宅のサッカー仲間にも相手にされない息子のローリーだけが、しばしば母の忠告や叱責に尖って見せる。

母のベニーを除く三人の家族がいずれも肥満体であることから、ローリーの肥満が体質的なもの(「肥満遺伝子」の存在か?)であることは容易に想像し得るが、しかしその肥満体を、彼の日常的な過食が、更に加速させているであろうことは疑う余地がないところである。

過食の原因が適応障害的なストレスにあり、このストレスがより過食を促進するという悪循環が、遂に心臓発作に至ってしまう物語のラインはとても分りやすく、且つ、説得力もあった。

ローリーの発症
そしてローリーの発症が、家族の再生の可能性、即ち、この家族が解体の危機を克服し得るか否かという切実なテーマを、殆ど最終的に問いかけることになっていく。

作り手は、敢えて家族の内側に、「死」の危機にある状況を設定することで、この最も現代的なテーマの検証を試みようとしたのだろう。

フィルは海に行き、娘のレイチェルは川岸を彷徨(さまよ)っている。

彼らのこれらの行動は、恐らく、非日常的な切迫した内的状況の表現であった。そして、その「死」の危機に直接的に遭遇したのが、溜め込んだストレスが、殆ど臨界点に近づきつつあった息子のローリーだったという訳である。

このときの母ベニーの反応は、映像を通して最も鮮烈だった。

その感情の発露が劇的なまでに表現されていたからだ。彼女は友人たちと酒場に行っても、一人だけ浮いていた。家庭でも、眠りに就けない彼女が、一人テラスでお茶を飲むシーンが印像的だっただけに、ローリーの発症に対するリアクションの大きさは、「ベニーもまた、一人の母だった」と思わせる程の過剰さに溢れていた。

当然ながら、母は息子を深く案じていたのである。

そのことを確認したローリーの溢れんばかりのストレスは、もう半分くらい解消されている。

母に甘える息子の姿は、普通の等身大の母子の関係のそれと同質のものだった。甘えを求めるローリーの心情を充たすには、あとは父の変化への期待の確認という一点のみである。

同様に感情を表さない父が、ベッドに横たわる自分の前で、一人の親しき父親としての普通の感情表現をしてくれるかどうか、それが彼には気になっていた。だから彼は、「パパは?」と母に問いかけたのだ。

息子のこんな父への思いは、恐らく、娘が最も切実に把握できているラインであったに違いない。

それ故にこそ、彼女は父を庇って、母を批判したのである。

「カス扱いしてたわ」という娘の一言は、空気を決定づける力を持っていた。

母はそのとき、どうしようもない疎外感を存分に味わったはずだ。ベニーは全く悪くない。

しかしそれでも、そこに空気の微妙な誤差が生まれてしまった。それぞれの感情のクロスが、穏やかな調和の旋律を奏でることなく、その空気から大切なものが少しずつ削られていってしまったのである。

なぜ、そんな不調和が生まれてしまったのだろうか。それが、この映画を観た私の一つの問題意識に絡んできたのである。

この映画を観ていて、私がつくづく感じたことがある。

それは大袈裟に言えば、その人生観とか価値観と呼べる何かに於いて微妙な落差を生じ、それによって生活の律動感が異なる者たちが、「家族」の名の下で共存するとき、その共存を継続させていくのは容易ではないということである。

明らかに、ベニーとフィルの夫婦間、或いは、ベニーとローリー、レイチェルとの親子間には、生活の律動感の違いが見られるのである。

ベニーは本来的に、堅実で現実的な思考によって家族の生活設計をリードするが、他の三人の「肥満なる者たち」には、その日を無為に過ごすことに対して、特段な向上心による悔悟とか、自虐とかいうような感情が殆ど見られない。

この一対三の関係の内に横臥(おうが)する誤差は、感情の落差となってしばしば顕在化するが、常に声高で、しっかり者の妻であり、母でもあるベニーによって空気はリードされるが、「暖簾に腕押し」状態の空気をクリアにできないベニーの自我に、膨大なストレスが溜まっていくばかりなのだ。

そのベニーもまた、他の家族との空気感の落差に疎外感を感じていた。

ベニーと二人の子供との関係を俯瞰するとき、特段に悪化していない関係を保持していながらも、 ベニー自身は心のどこかで疎外感に近い感情を有していたように見える。

しかし、その疎外感は他の家族三人には感じとれないものになっていて、その落差を修復しようとする努力も萎えていくしかなかったのである。

そんなベニーのシニカルな態度に、妻としての、或いは、母としての愛情を実感できなくなった三人が、ローリーの発症を起点にして、それぞれのアイデンティティの在り処を表出することになったのは、蓋(けだ)し必然的だったのだ。

それは、起こるべくして起こった「家庭内トラブル」の現出であり、恐らくそれなしには、解体の危機に晒されたであろう平凡な一家族の、言わば、ギリギリの際での自己救出劇だったのである。

ベニーが悪いのではない。他の三人が特別に悪いのではない。

彼らの人生のペースの微妙な誤差を認知し合うことなく、「家族」を継続させようとする不必要な妥協と謙譲が問題なのである。

ローリーの社会的自立の遅滞には、確かに「父の不在」と「母の押し付け」が重厚に絡むが、ローリーは問題児でありながらも、自分の人生をモラトリアム化して、そこに一時(いっとき)逃げ込んでいるに過ぎないとも言える。それは、「親が変われば、子もまた変わる」という典型例かも知れないからである。

なぜなら、彼は発症によってベッド内で悶絶しているとき、明らかに母を求め、父を求めていたからだ。だからこそ、病室内での母の父に対する難詰に対して、彼は父を庇う態度を見せたのである。彼は父の緩慢な日暮生活の後継者になっていて、そこを突く母の小言に尖って見せるしかなかったのである。

確かに、この父と息子の生活ぶりは自堕落にも見えるし、独立自尊の精神にも決定的に欠如している。しかし、娘もまたそうであるように、この「肥満なる三者」には、三者なりのスローライフこそが相応しいとも思えるのである。

しかし、ベニーとの間に生まれた裂け目から、「家族の温もり感」を喪失したと感じる三人には、「家庭」の復元をどこかで望みながらも、それを作り出す熱量が不足していた。

それ故にこそ、ローリーの発症に象徴される変化の契機を必要とせざるを得なかったのである。

元々、愛情関係のレベルで欠損を顕在化させた家族でなかったからこそ、彼らは変化のうねりに乗ることができたのであり、また、そこでの再生の可能性を勝ち取ることができたのである。

ある意味で、ローリーとレイチェルは、父であるフィルの内面を、分裂的に表現したキャラクターであると考えることも可能である。

フィルはローリーの発症によってその意志を更に堅固にし、レイチェルのサポートによって本質的な表現を成就させたとみる見方も興味深いだろう。

マイク・リー監督②
詰まる所、この作品は、家族が「心の共同体」を確認し、それを復元させていく可能性を追求した映画であった。

更に言えば、「親が変われば、子もまた変わる」というテーマも、本作には多分に含まれているだろう。これは、フィルの家庭ばかりか、他の二家族に於いても説明できるるケースだった。

とりわけ、ロンとキャロル、サマンサの家庭の断面的映像は、悲惨極まる爛れ方を見せている。奔放な娘サマンサの振舞いは、男に対する関係規範の欠如を露呈しているが、それでも、アル中の母の「役割的な不在性」を補完できる自立性を示していて、明らかに、「親の不在性」を反面教師にした一応の自我の達成を検証するものであった。

このサマンサの例は、「親がなくても子は育つ」という反対命題に於いて検証できる例なのかも知れないのである。

或いは、以下のような見方も可能なので、提示してみる。

フリッツ・ハイダーのバランス理論の応用である。


フリッツ・ハイダーのバランス理論を援用すれば、この一対三の関係は、「+」(父と長男)、「+」(父と長女)、「+」(母と長男)、「+」(母と長女)、「+」(長男と長女)という、単に性格的な非社交性が目立ったりするだけで(母以外の関係様態)、特段に悪化していない関係を保持していながらも、最も重要な夫婦の関係が「-」になっているので、それぞれの積が「+」×「+」×「+」×「+」×「-」=「-」という結果に流れていってしまうのである。

一切は、夫婦の関係が「+」に転じるような復元こそが、この家族の喫緊のテーマであったことが自明だったということだ。

その夫婦の関係を「+」に転じる復元力を開いて見せたラストシークエンスこそ、本作の
肝であった所以である。


果たして作り手は、このような安直なメッセージで映像を綺麗に括ってみせる流し方で満足しているかどうか、それが少々気になるところである。

フィルの家族の再生の可能性を感動的に描くことで、重苦しい家族の暗鬱な日常性を大逆転のハッピーエンドに流していったが、そのことは、この家族の堅固な継続力を保障するものになったと言えるのか。

そのことこそが、映像の主題性と整合するが故に最も気になるところである。

フィルの生活は間違いなく変貌するであろう。

 彼にとって、妻ベニーからの愛情の被浴こそが最大の不安要因だったからだ。

娘のレイチェルも、変わらずに真摯な青春を繋いでいくだろう。彼女はフィルの非攻撃的なキャラクターの一方の表現様態だから、ストレスを彼女なりに中和化させていくに違いない。

母のベニーの場合は、一人で空転させてきた思いを確実に拡散させるだろうから、もう疎外感で苦しむことはないだろう。

では、ローリーの場合はどうか。

彼のストレッサーの一つであった、「母の押し付け」から解放される可能性は高いが、しかしこの若者が、疾病を抱えて社会的自立を果たすという緊要な課題を克服していくのは容易ではないだろう。

家族の未来は、なお不安含みの展開を想像するに難くない。

それこそ、現代家族が共通して抱える問題性であると言えるのである。

即ち、氾濫する私権の拡大的定着化によって、却って、「心の共同体」の堅固な継続力の保障が定まらないという現実がそこにあるからだ。然るに、「心の共同体」の一定の復元を果たしたであろうフィルの家族は、そこに依然として不安と緊張感を内包しつつも、映像的には恐らく、それ以外にない逢着点に収まったのである。これは、他の二家族に於いても同様であるだろう。

但し、現代家族の破綻を示す日常的な爛れを修復し、それを復元するためには、何が切実なテーマであるのかという問題提起だけは、その丹念な映像展開によって刻印したと言えるだろう。

繰り返すようだが、それは、「心の共同体」の継続力を失った現代家族が、一体、その「家族性」を何によって支え得るのかという根柢的な問題提起であったと思われる。そこに、多少の価値観や性格の相違があったとしても、それでもなお、コミュニケーションの相手を必要とする情緒的基盤があれば、様々な亀裂による家族の決定的解体は回避されるであろう。私に言わせれば、それ以外ではないのだ。

そこで、稿を括るにあたって、私の感懐を一言。

それは、「スローライフに生きる者の生活リズムを、本人のキャパシティを越えた速度で、その生活改変を性急に求めるな」ということである。

(2006年5月)



【余稿】  〈揺れ動いたものが、一筋の未だ力ない未練となって〉


それにしても、フィルのあの海辺での陰鬱極まる瞑想シーンは、私の心に深く刻まれた。それは、多くの作品の中でも、最も印象的な描写の一つだったと言える。

彼はあのとき、明らかに、「死」の観念に捕縛されていた。迷って、悩み抜いて、それでも彼の心の中で、どうしても吐き出したい何かが揺れ動いていて、その揺れ動いたものが、一筋の未だ力ない未練となって、彼を生還させるものになったに違いない。

そうでなければ、あの夜の彼の激白は生まれなかったであろう。

それは、息子ローリーの突然の疾病を契機にしているが、もしかしたら、仮にそれがなかったとしても、彼は妻への激白に向かったと思われる。

少なくとも、私はそのように理解することで、フィルの心のラインに並ぶことができたのである。                  

(2007年5月)


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