<「憎悪の共同体―その中枢に今まさに、身を埋めようとする男の残り火>
序 ドイツ表現主義
20世紀初頭に、ドイツ文化を一つの芸術運動が席巻した。「ドイツ表現主義」と呼ばれるものがそれである。
それは美術界を中心に、建築や文学、演劇、更に音楽のフィールドにまで及んだ。芸術界の一大ムーブメントであった。その特色は、人間の不安や葛藤、抑圧の感情を表現したものが多く、当時欧州で多大な影響力を誇示していた、いわゆる、「印象主義」の芸術に対するアンチ・テーゼ的な意味合いを含んでいた。
更に、既存の体制の矛盾に対する反逆的なメンタリティも内包することで、伝統的な文化表現を否定する多くの作品群も生み出されていったのである。
同時に、そこではリアリズムが拒まれて、より個人主義的な内面表出が尊重され、その自己実現的な強い志向が鮮烈な破壊的衝動と結びついたとき、そこにドイツ表現主義運動に流れ込むムーブメントの土壌が形成されたと言えるだろう。
それは、自由と革命のフランスの歴史の流れ方とは切れて、殆ど強烈なまでに人工的に仮構した、ドイツ統一(注1)による国民国家の成立の内側に根強く残された、文化的な権威主義やパターナリズム(家父長的な父権主義)に対する、その内側からの挑発的なムーブメントであるという見方もまた可能であった。
オットー・フォン・ビスマルク(ウイキ)
|
1 真っ新(まっさら)なキャンバスに対峙して
ここに一人の男がいる。
彼の名はマックス・ロスマン。
富豪である。ユダヤ人でもある。そして今や、若き画商として成功を収めている。
彼は先の大戦(第一次世界大戦)で右腕を喪って、画家になることを諦めていた。
しかし、工場跡地に画廊を開いていて、絵画との繋がりを彼なりに保持していた。
その鉄工所画廊の中に収集する作品の多くは、反規範的なメッセージを表出するドイツ表現主義の作品を含む、モダンアートのラインナップ。第一次大戦直後のミュンヘンが、彼の仕事のバックグラウンドであった。
失業者が其処彼処(そこかしこ)に屯(たむろ)する荒んだ風景が映像に映し出されて、そこに、時代背景を説明する字幕が重なっていく。
廃墟と化したイーペルの街並み(ウイキ)
|
キャプションの提示の後、開かれた映像はマックスの大画廊。
そこには様々なコレクターや若い画家が屯していて、愛人と戯れるマックスがインモラルな会話を繋いでいる。
そこに彼の妻が入って来て、夫はここでは緊張含みだが、それでも夫婦のフラットな会話を繋いでいく。そんなデカダンな風景の中に、その風景と全く不釣合いな男が、一人の女に誘(いざな)われるようにして侵入して来た。
彼の名は、アドルフ・ヒトラー。映像では、まだ紹介されていない。
その代わり、二人が復員兵であることは説明されていて、その縁で二人の会話が開かれていく。
アドルフは、自分が侵入した異様な空間に馴染めず、マックスに尋ねた。
「この建物は、クラブか何かなのか?」
「画廊だよ」
「ここが?」
「ああ。そこに絵が?」
マックスは、復員兵が持ち込んだものが絵画であると察知していた。
「ああ」
「見せて欲しい」
「売ってる絵は?」
「モダンアート」
「モダンか。それなら、キャンバスにクソを塗りつけて持って来る」
アドルフとマックス① |
「構わないさ。どんな絵も拒んだりしない・・・タバコは?」
「肺ガンにになる」
「医者なのか」
そこに愛人がやって来たところで、会話は中断した。
復員兵は、「アドルフ・ヒトラー」と自分の名を名乗って、帰って行った。
帰りがけ、二人はイーベルの戦いの前線にいたことを確かめ合った。こうして、大戦が縁を持つ二人の関係が開かれたのである。
伍長であったアドルフは、高級将校である大尉が反ユダヤ主義を議論している中で、はっきりと自分の意見を述べていた。
「感情論に基づく反ユダヤ主義は嫌いだ。ユダヤ人の大量虐殺に繋がるだけだ」
「だから、何なんだ」
「大尉殿。ユダヤ人の問題は市民にではなく、下水の問題のように国家に委ねるべきです」
アドルフはまだこのとき、「時代を洗脳する政治家」ではなく、画家を夢見る普通の青年のように見えた。
しかし、その潔癖な振舞いの内に隠された激しいものは、それが表現される格好のステージを得られないで揺動する魂の彷徨のようでもあった。
彷徨するアドルフは、マックスの鉄工所画廊に、自分の絵を小脇に抱えて再び姿を現した。
貧しい生活で貯めた金でスーツを新調したアドルフの訪問は、意を決してのそれのようでもあったし、或いは、鬱屈した思いを吐き出す相手を求める訪問のようでもあった。
ショーペンハウアー(ウィキ)
|
「人生そのものが抽象的だぞ」
「どうしてだ?」
「近頃では特に、人生を従来のような方法では説明できなくなっている」
アドルフも返していく。
「君の意見には反対だ。芸術は永遠の価値のみを反映すべきだぞ。特に近頃ではな」
「永遠の価値は今、流動的になっている。不変なものではない」
「あんたは頭でっかちの学者か?永遠の価値は、調和のある完全体だ。気高さと威厳を持ち、文化の進化を促している。つまり人は、次の世界に夢を託し、文化を進化させていくんだ。しかしあのような抽象画は10歩・・・いや、100歩の後退だ。先人たちの努力を無にしている。腐敗であり、血を毒するものだ」
アドルフのこの長広舌に嫌気がさしたのか、マックスはアドルフを、「現実から遊離している」と皮肉って、その場を離れた。アドルフの持ってきた絵を見るためである。
マックスは、彼の絵の批評をストレートに吐き出した。
「いい絵だが、もっと深みがほしい」
「深み?深みとは?」
「良く描けているが、表面だけを描いている気がする。描く技量は素晴らしい。だが君の肉声を感じ取れないんだ。何かじれったい。もっと踏み込まないとダメだ。肉声って奴は大事だぞ。お互い、同じものを見ていれば形の説明は不要だが、受けた感銘は違う。それを描くんだ。分るだろう?可能な限り、心の奥底まで自分を見つめて、こう言って欲しい。“心の深みを絵で表現したぞ”」
今度はマックスの長広舌。
自尊心の強いアドルフは、当然、それに反駁する。
「なあ、ロスマン。戦争から戻ったとき、私には何一つ残っていなかった。祖国は瓦礫の山で、家もなし。両親も親類もいなかった。婚約者もだ。仕事もなかったし、食べ物もなかった。ホッケーの道具も、テニスのラケットもなしだ。住所さえもなし。唯一、私にあったのは偉大な画家であり、建築家であるという確信だけだった。それを奪った。私に残された、確信というものをな。裕福な君がだ」
表現主義の作品を毛嫌いするアドルフ |
(注2)その人生観において厭世哲学を主唱した、19世紀のドイツ哲学を代表する一人で、ニーチェに多大な影響を与えた。主著は「意思と表象としての世界」。
兵舎内にある自分の寝座(ねぐら)に帰ったアドルフに、反ユダヤ主義の大尉が近づき、彼の絵を観察した後、語りかけてきた。
「君はユニークだ。芸術家なのに勇敢で、勲章をもらったろ?・・・演説のやり方を学びたくないか?」
「どんな演説?」とアドルフ。
「新たな科学。プロパガンダだ。要するに・・・」
「宣伝活動ですね」
「哲学や歴史、経済学も学べる・・・率直に言う。祖国の危機だ。どっちに傾くか。左派の方か、右派の方か・・・」
「軍の出方で決まります」
「先見の明があるな。仲間にならんか・・・軍が生活を保障する」
大尉のオルグに、アドルフは特別な反応をしなかった。
まもなく大尉が誘った集会に、アドルフは一人の聴衆として参加していた。そこでの一人の少佐(
ヒトラーを政治の世界に引き入れたカール・マイヤーのこと)の演説を聞き入るアドルフが、そこにいる。「ユダヤ人はユダヤ人と交わる。なぜかな?その理由は、民族の純潔を保つためだ。彼らが純潔を保つように、我々も純潔を保つならば、世界の本当の姿が見えてくるぞ。我々の祖先、アーリア人は、宇宙空間からやって来た。苛酷な戦いで鍛えられ、アーリア人は神聖なる戦士となった。だがアーリア人は、豊かな国から来た優しく浅黒い肌をした女に誘惑されたのだ・・・」
ここまで少佐が語ったとき、聴衆から哄笑が起こった。
少佐の背後で展開する人形劇の芝居が、レイプの場面を演じていたからだ。
しかし哄笑の中にあって、アドルフだけはそこに加わらなかった。満場に溢れる笑いを制して、皆に演説を真面目に聞くように求めたのである。
少佐の演説は続く。
「アーリア人の血は汚され、逞しさも失い、ユダヤ人の奴隷にされた。だが聖杯の騎士だ。君らも聖杯の騎士。純潔を守るため、超人のように世界を支配しなければならない」
そこで大尉の拍手に乗じて、聴衆たちの大きな拍手が一つになった。
まもなくマックスの豪邸の前を、銃声を鳴らしながら、檄を飛ばして行進するデモの一団があった。
「ベルサイユ条約(注3)反対!不公平な講和だ!ドイツをドイツ人に!国土を取り返そう!」
マックスの家族は、この檄に早速反応した。彼らはその情報をラジオで確かめたのである。
講和条約調印の場・ベルサイユ宮殿(ウィキ)
|
この信じ難い報道に、マックスの家族は動揺を隠せない。彼らはユダヤ人である以上に、ドイツ国民であったからだ。
「国民であることが恥だ・・・」
このマックスの父の言葉が、事態の深刻さを説明していた。
(注3)1919年、フランスのベルサイユ宮殿で調印された、第一次大戦の講和条約。ドイツはこの条約によって、領土の割譲と多額の賠償支払いを義務付けられて、その不満からナチスの台頭を招来したと言われる。
動揺を隠せずに表に出たマックスは、兵士に呼び止められ、集会に誘われた。彼は本意ではなかったが、集会の演説を聴くことになる。
ところが、マックスがそこで見たのは、激しく煽るアドルフの、いかにも素人っぽい姿だった。
その姿は叙情的な絵画を見せに来た若者の姿と、まだ地続きになっているように見えた。
「実に屈辱的だぞ!背中を刺されたんだ!」
アドルフの扇動的演説に茶々を入れる左派の兵士を無視して、彼はスピーチを続ける。
左からロイド・ジョージ、オルランド、クレマンソー、ウィルソン
|
ここまで聞いていたマックスは、「ユダヤ批判だ」と吐き捨てて、その場を後にした。そこにアドルフが追いかけて来た。
「演説を聴いてくれて光栄だ」
「通りがかりにな」
「この前は、怒って立ち去って悪かった・・・感想は?あの演説の」
「演説に注ぎ込むだけのエネルギーを、絵に注ぎ込めばいい画家になるだろう・・・それじゃ」
そう言って、マックスは立ち去ろうとした。
しかしアドルフは、いつまでもそこに立っている。
彼はユダヤ人のマックスの前で、ユダヤ批判をしながら、その感想を本人に求めるような浅薄な政治的感覚しかないのだ。
それは、反ユダヤ主義を批判した若者の急展開な変わり身の早さでもあった。アドルフの政治意識は、所詮、そのレベルのものだったのである。
しかし、そのような変化を起こさせた最大の原因が、ドイツを圧倒的に追い詰めるベルサイユ条約の存在にあることは明白だった。
それを理解するマックスであるが故に、そこに立ち尽くすアドルフをカフェに誘ったのである。
「反ユダヤ主義か?」とマックス。
「君らを尊敬している」とアドルフ。
「本当か?」
「とても知的な人々だ」
「中には・・・」
「皆、頭がいい。人種の純血を守っている」
「純血?」
「君たちの人種のだ。ユダヤ人の秘密はその純血にある。我々の最強のライバルだぞ」
「秘密って?」
「君の父親は?」
「ユダヤ」
「母親も?」
「“ドイツ人か?”と聞くべきだろ」
「勿論、ユダヤ人だ」
「君を何とか好きになってみたい。戦場にいた4年間で学んだのは、人間は同じということ。皆、同様に叫んで、皆、同様に死ぬ」
「君だけは、別格だろ」
「俺も含め戦場では皆、最低の人間になっていた。はっきり言うぞ。自分では否定しても、君は反ユダヤだ」
「違う」
「ちゃんと根拠があるんだぞ。“負け犬は反ユダヤになる”とニーチェは言った」
「私も負け犬だとでも?」
「言葉に表れている」
「負け犬じゃない」
「なら、恨み言は言うな。純血の秘密とやらを教えてくれ。昔から言われている。血液学とか優生学とか、あんなのはデタラメだ。忘れてしまえ。科学的じゃないし、芸術の障害になる。絵は描いているのか?なぜ、軍のために演説する」
アドルフとマックス② |
「練習って、何の?」
「軍のお陰で生活できる」
「お義理で演説だな」
「今回の講和で満足なのか?」
「最悪の講和だ。だがもう、残った左腕で戦う気はない。貢献はした」
「ああ、そうだな・・・政治の本を書くつもりだ」
「才能が多彩だな。絵を描く時間は?」
「考えてみてくれ。私はまだ軍人で、兵舎内の作業で忙しいし、絵の具を買う金もない」
「金ならやる・・・描いた絵は渡せよ。前金で払ってやる。好きなように使え。女や酒にな・・・」
そう言ってマックスは、テーブルに手持ちの紙幣を置いた。アドルフは迷いながらも、それを受け取ったのである。
「政治は止めろ」
「ロスマン、君は人生の恩人だ。言われたとおり、“肉声”を追求すべきかもな。モダンアートもだ。今だから正直に言っておく。立体主義(キュービズム)が好きなんだ」
「“主義”を好む男だな」
「ダメな絵描きという意味か?」
「話を否定的に捉えるのは止せ」
マックスの行きつけの高級カフェでの、二人の会話。
それは、絵画への道を断念しない意志を示したアドルフの正直な吐露の内に、その関係が修復されたことを示す重要な描写であった。
まもなく、自分の絵をマックスの画廊に勝手に持ち込んで、個展を開くというアドルフの勝手な展示の振舞いに、マックスは怒って見せた。
ユダヤ人画商マックス |
狭隘な偏見居士であるアドルフには、それが完全に理解できていない。良く言えば、彼の思考はあまりにピュアなのである。
画廊を去るとき、アドルフは思わず本音を吐き出した。
「時々、怖くなる。深い疑念に襲われるんだ」
「それを描け。疑念を描くんだ!」
マックスはそう叫んで、それこそが絵画の重要なモチーフになることを説き、ピュアな男を励ましたのである。
映像には、その後、必死に絵画に打ち込むアドルフの姿が紹介されていく。彼は真っ新(まっさら)なキャンバスに対峙し、煩悶していた。
2 鋭角的に顕在化してきた新しい世界の中に
その頃、マックスは商談に入っていた。
相手は有力なコレクター。
パウル・クレー(スイスの画家)の絵を勧めても反応しないそのコレクターに、マックスはヒトラーの絵を、「戦争芸術の画家」であると褒めて推薦したが、全く相手にされなかった。
マックス・エルンスト |
「私は野良犬のように、戸口で名前を知られずに死ぬ。私はもう30だぞ」
マックスも苛立ちを隠せない。
「本当のことを言ってやる。君は怠け者だ。エルンストは早朝から描いている」
そう言われて、アドルフはエルンストより自分の技術のほうが勝っていると声高に主張する。アドルフ自身、そう信じて疑わないのである。
そんな男に向かって、マックスはストレートに言い切った。
「良い絵と技術は関係ない。彼の絵が良いのは、彼自身の人間性が正直に表れているからだ。君にできるか?赤裸々に描くことが」
アドルフの顔は引き攣っていて、その眼光は鋭い。
「多分な・・・」
それがアドルフの答えだった。その言葉は余りに弱々しい。そんな心理を見透かしたマックスは、アドルフに問いかけた。
「君がこうして絵に拘るのは、なぜなんだ?」
「さあな・・・」
アドルフの表情は、明らかに追い詰められた者の焦燥感を映し出していた。
やがてアドルフは、キャンバスの代わりに原稿用紙、絵筆の代わりに鉛筆を手にしていた。
「芸術と政治が合体。即ち、権力」
これが、アドルフが書いたフレーズだった。
時代に受容されないアドルフは、その時代に中で、少しずつ鋭角的に顕在化してきた新しい世界に、その身を預けようとしていたのである。
アドルフは、第一次大戦を揶揄したマックスのシュールな寸劇を見たときの憎悪感を、大尉の前で吐き出した。第一次大戦が無意味であるというマックスを貶し、平気で愛人を持つその生活態度を詰るのだ。
アドルフの膨れ上がった不満を吸収するという明瞭な意図をもって、大尉は彼を賞賛した。
「失望するな。君には才能がある。それを開花させればいい」
しかし、アドルフの中に認める才能とは、芸術家としてのそれでないのは明らかだった。アドルフは今、政治と芸術の狭間で揺れ動いていたのである。
自分のキャンバスに戻ったアドルフは、マックスの新作への要請に必死に応えようとしていた。
しかし、彼は自分の絵画世界からどうしても脱却できないのだ。彼には、エルンストのような絵画が受容できないのである。
自分の好む絵画をどれほど描き続けても、それが商品化される望みは殆どないことを知りつつも、キャンバスに対峙する自分がそこにいる。
遂に何かが切れて、その苛立ちを真っ新なキャンバスに叩き付けてしまった。そこに突然、大尉が入り込んで来た。
「創作の邪魔になるから言いにくいが、党員として頼まれて欲しい。600名ほどの国家社会主義労働者党だ。所謂、社会主義と違うぞ。演説をするはずの者が、風邪で倒れた。それで君に代役を頼みたい。勿論、その気があるのならの話だが・・・」
「国家社会主義(ドイツ)労働者党」(NSDAP)―― 即ち、「ナチス党」のこと。
この小さな政党の集会での演説を、大尉はアドルフに依頼したのである。
それは明らかに、アジテーターの素質があると見込んだアドルフを、目的意識的な政治活動にインボルブしようとする大尉の勧誘だったが、30歳の画家志望の男はなお、それを確信的に拒絶できない精神状況に置かれていた。
やがて、ナチスの集会で激しくアジるアドルフが、周囲に独特の存在感を放っていた。
「我々は戦争に勝った。若者たちは勇敢に戦ったのだ。それなのにどうして、18万平方キロの領土を割譲し、600万の同胞を引き渡すのか。卑劣にも背中から刺されたからだ。刺したのは、不当利得者とかのクズどもだぞ。よく覚えていてくれ。ドイツ最大の敵は国内にいる。我が同胞たちよ!同胞たちよ!」
この演説を、マックスは聴いている。それに気づいたアドルフは、マックスに近づいて、言い放った。
「あれこそ新しいアートだぞ。気取った君らが、愛人とコーヒーを飲み、楽しんでいる間に、見落としたアートだ。芸術の復興を政治に頼る必要はない。君と私は暫く同じ畑を耕していたが、私だけがそこから飛躍した。政治自体が新しいアートだ。今日のために回り道をしてきた。苦労して学んだ絵やデザイン、色彩合成、演劇や建築を統合し、再生させるんだ」
「直感的な未来派の芸術家だな」
アドルフの長広舌は続く。
「君には失望したぞ。私を型に当て嵌めて考えるのか?我々は常識を嫌っていたはずだ。なぜ、急に考えが古くなった。“内面に踏み込め”と言ったな。踏み込んだ。どの芸術家より深く踏み込んだぞ」
「新作は描いたのか?内面への旅の証拠はどこだ」
「私は新たな前衛派だぞ!新しいアートを実践している!政治自体が新しいアートなんだ!」
アドルフは最後まで演説口調を崩さない。
マックスは反論する気力を失っていた。
それでも、アドルフを見捨て切れないマックスは、その後、アドルフの寝座を訪ねた。
そこで見たアドルフの絵に、マックスは驚いた。そこで描かれていたデッサンは、マックスが望むモダンアートのイメージに近いものだったからだ。
そして、そのデッサンの中に、マックスが今まで見たこともない軍服や軍帽が描かれていたのである。
「肉声を感じるぞ。未来だ。過去と融合した」
マックスの賞賛に、アドルフは画廊への展示を求めた。
アドルフとマックス③ |
アドルフの芸術への傾斜の感情は極まっていた。ナチスの演説を大尉から頼まれても、アドルフはきっぱり言い切ったのである。
「演説はこれが最後だ。もうやらない」
アドルフの言葉を上手に吸収する大尉は、アドルフの自尊心をくすぐった後、こう言い添えた。
「聴衆がキャンバスで、頭脳が絵の具だ。思いっ切り描け。描くんだ」
集会の場の壇上の中枢に、アドルフは立った。
そこで男は、徹底的に反ユダヤの演説を開いたのである。
それは、彼の頭脳に短期間の内に侵入してきた、殆ど非科学的な、反ユダヤのイデオロギーの常套句のような文脈だった。
「ユダヤ人どもがいるだけで、文化は全て汚染されてしまう。そこには何が?うじ虫がいるはずだ。それがユダヤ人。人が町を造るようになり、ユダヤ人が現れた。ユダヤ人は迎え入れられ、そしてすぐに経済活動を始めたのだ。つまり金貸業。ユダヤ人は今、大勢いる。商業も金融も独占しているのだ。そして第二段階へ。ユダヤの特色を薄め、ドイツ的な特色を前面に。何と、我々ドイツ人に成り済ましているのだ!文化が汚染された。美術も文学も演劇もだ!宗教も嘲りの的。倫理観も道徳も否定され、ドイツ娘は娼婦にされたのだ!娼婦だ!ユダヤ人は本来の姿を現し、吸血鬼と同じ存在になっている。奴らは血を啜る吸血鬼なのだ!ドイツ人の血を吸う吸血鬼だぞ!」
激烈な叫びが連射する男の演説が終わったとき、一斉に聴衆は立ち上がり、自然に拍手喝采のうねりが起こった。
それは、政治をアートに変えると宣言した男の、一つの至福の瞬間でもあった。
3 ミュンヘンの夜の雑踏の中へ
激しい演説を終えた男は、男を待つ画商と会うために、心のギアをチェンジして、一軒のカフェに向かう。
スーツに身をくるんだ男の腕の中には、自らの手によって完成されたであろうモダンアートの作品が大切に抱え込まれていた。
男はカフェに入っても、それを離さない。
傍らのミラーにその身を何度も映し出して、男は勝負に出たその思いを確かめているようでもあった。
しかし、画商はまだやって来ない。それでも男は待っている。そういう礼義正しさが、この男にはあるのだ。
一方、カフェで待つ男の下に、画商は境界で鎮めた心を抱くようにして向かっている。
しかし、その画商の背後から、突然、集中的な暴力が襲いかかってきた。
反ユダヤの狂信的な連中の均衡を大きく逸脱した感情が、その直接的な攻撃性を棍棒という無機物に激しく伝えるようにして、画商の全身に繰り返し振り下ろされてきたのだ。確信的に継続される暴力の前で、画商はその身を深く沈めて、やがて動かなくなっていった。
カフェで男は待っている。
そして意を決したように立ち上がり、乱暴にドアを開け、カフェを後にした。
雪が止んだクリスマスの季節の賑わいとは無縁に、男はミュンヘンの夜の雑踏の中を、その表情から零れる怒りを隠すことなく、早足で歩き去って行った。
男がその後、その心をどこに預けたかについて、映像を観る者だけが知っている。
当然ながら、男だけがまだそれを知らないでいる。
* * * *
4 時代によって洗脳された男
この映画は、マックスという裕福なユダヤ人の存在によって見事なまでに相対化された男、アドルフの、その余りに人間学的なさまを繊細な筆致で描き出すことに成就した傑作である。
どこまでも、本作の核心的テーマは、売れない画家として不遇を託(かこ)つ男の鬱屈した内面世界の振幅であって、それ以外ではない。
だから映像は、あまりに人間的な男が抱えた負のエネルギーが、実は「時代を洗脳した男」としての成功を勝ち取る以前の、不適応なる内的プロセス、即ち、その捌け口を求めても容易に得られなかった鬱屈した時間の中で、悶々とする日々の描写に焦点を当てている。
そして実は、そんな男の「変身」を可能にしたのが、その負のエネルギーを、様々に飢渇する大衆に向かって吐き出す雄弁術の内に再発見させしめた、負性の時代それ自身であったことを検証していくのである。
つまり本作は、「時代によって洗脳された男」の曲線的な航跡を描き出したものなのだ。
従って、本作を解読するキー・ワードは、基本的に心理学的な文脈以外ではないと私は考える。
それらは、「アイデンティティの危機」であり、「偏見という病理」であり、「確信幻想の欺瞞性」であり、そして且つ、「憎悪の共同体」という概念の導入によって可能となる何かであるだろう。
一つ一つ言及していこう。
5 自我アイデンティティの危機
―― まず、「アイデンティティの危機」の問題。
アイデンティティとは、個人が様々な社会的経験を媒介にしたプロセスで手に入れた、継続力を持つ自己像把握のことである。
それを肯定的に了解していくには、安定的な自己像が求められるから、人は自分が拠って立つ自我の安寧の基盤を絶対的に確保せねばならない。それを確保できないと、人間は自我の日常的な秩序感覚が崩されてしまうのである。
本作におけるマックスは、右腕喪失による危機を、特徴的な鉄工所画廊の構築と、そこを中継点にした画商活動内に求め、殆どそれは理想形に近い辺りで具現されていた。
しかし、マックスのアイデンティティを安定的に可能にしたのは、何よりも、彼の家族が支えた裕福な経済的条件が存在していたからだ。
妻子を持ちながらも、愛人と睦み合う余裕すら見せるマックスにとって、画廊に展示する画期的な才能の発掘こそが、彼のアイデンティティの拠り所でもあったと言えるだろう。
しかしアドルフの場合は、そのアイデンティティの安定的確保は初めから困難な状況を呈していた。
何より、彼には帰るべき家を持たず、その身を預け入れる愛情のサポートすらなく、更に、自らが唯一拠って立つ自我のアイデンティティの肯定的発現様態である絵画の世界それ自身が、その出口を持てないで閉塞してしまっているのだ。
「私は野良犬のように、戸口で名前を知られずに死ぬ。私はもう30だぞ」
マックスに吐露したこの言葉には、リアルな重量感が溢れていて、殆ど痛々しい限りだった。
しかし、それでも芸術への断ち切れぬ思いが、この陰鬱で余りに杓子定規な男から、その自我の様態の対極にあると思われるマックスへのアプローチを削り取れないのである。
彼のみが自分の存在価値を、自分が本来志向する未来像に限りなく近い方向の内に検証し得る、決定的な役割を持ち得ていると信じていたからである。
そこにしか希望を拾い切れないアドルフは、肝心の夢のステージに、いつまでも上れない辛さを増幅させ、遂に、その希望の灯りが遠ざかっていく失意の内に、その空洞を存分に埋める世界が闖入(ちんにゅう)してきたとき、彼は取り敢えず、そこに束の間身を預けることで、アイデンティティの危機を回避したのである。
政治レベルのエロキューションは、彼の自我を一時(いっとき)解放し、そのスキルの向上に随伴しつつ、身体感覚の次元において、漸次ナルシズムの境地を手に入れることができたのだ。
そして遂に、彼は叫ぶに至る。
「私は新たな前衛派だぞ!新しいアートを実践している!政治自体が新しいアートなんだ!」
政治がアートである訳がない。
狭義に括れば、政治とは最大多数の最大幸福を目指すが故に、限りなく妥協的なリアリズムの世界である。
それに対して芸術とは、どこまでも個人の自己実現を目指す非妥協的な理念系であると言えようか。
両者が安直に乗り入れすることの危険性は、既に充分に学習済みであるが、しかし、それは現代の視点からの心理学的把握に過ぎないのだ。
第一次大戦前に描かれたミュンヘンの町並み(ウィキ)
|
この異常な状況下で、アドルフはアイデンティティの解放の出口を存分に手に入れて、そこに我が身を投げ入れたのだ。
それによって彼の自我の拠って立つアイデンティティは、危機を完全に超克するに至ったのである。
しかし、男のアイデンティティの充足の代償は余りに大きかった。
彼は「偏見という病理」に憑かれた反ユダヤ主義者になっていて、殆ど教育的にインスパイアーされたに過ぎないその偏頗(へんぱ)なイデオロギーに、すっかり搦(から)め捕られてしまったのである。
6 偏見という病理
―― ここで、「偏見という病理」について簡単に言及しておこう。
偏見とは、過剰なる価値付与である。
一切の事象に境界を設け、そこに価値付与して生きるしか術がないのが人間の性(さが)である。
その人間が境界の内側に価値を与えることは、境界の外側に同質の価値を残さないためである。通常、この境界の内外の価値は深刻な対立を生まないが、内側の価値が肥大していくと、外側の価値との共存を困難にさせるのだ。これが偏見である。
偏見とは、境界外の価値との共存の均衡を破ることであり、境界外に不必要なまでの敵の存在を仮構することでもある。あらゆる現象や存在が仮想敵になってしまうので、極限的に言えば、偏見のイデオロギー基盤はアナーキズムであるだろうか。
偏見居士は、自分以外の価値を外側の世界に決して同定しないのだ。
偏見は過剰なる価値付与であると同時に、過剰なる価値剥奪でもある。
偏見によって仮構された敵を甚振ることは、偏見居士のその過剰な展開の副産物などではなく、寧ろそこにこそ彼らの主要な狙いがある。
敵を甚振ることの快楽を手に入れて、彼らもまた、「負の自己完結」(後述)の際限のない行程に踏み込んでいく。この行程の中で、彼らは偏見を自己増殖し、無秩序の闇を広げていくのだ。
水晶の夜・暴動で破壊されたユダヤ人商店(ウィキ)
|
過剰を抑制する自我が機能不全を常態化するとき、そこにはもう偏見の土壌が形成されている。自我の成熟度こそ、偏見を測る指針となる。
偏見の濃度は、自由の濃度でもある。真に自由なる者は偏見からも自由である。偏見はあらゆる点で、自我の病理であるという外はないのだ。
(注4)米国の南部諸州で、白人たちによって黒人が無法なリンチを受け、大木に吊るされたという内容のビリー・ホリデーの歌。
(注5)ユダヤ人青年がドイツの官僚を殺害したという事件を契機に、1938年11月9日夜、ナチスによるユダヤ人商店、住宅が襲われ、多くのユダヤ人が殺害された事件。そのとき砕かれたガラス片が、街路を覆って輝いたことから、「水晶の夜」と呼ばれる。
映像に戻る。
本作のバックグラウンドになったドイツという異様な空間は、まさに偏見の坩堝(るつぼ)の内で暴れていた。
「ドイツ」という自我が既に病理の様相を呈していて、その中で、「ドイツ」なる自我の負のエネルギーの標的として、「ユダヤ」という仮想敵が歴史的に再生産されていったのである。
その仮構化の中枢の一画に「ナチス」が現出し、そこから「アドルフ」が特定的に分娩されていったということだ。
ユダヤ人の画商に自らの絵を売っていたアドルフには、元々、反ユダヤの確信的イデオロギーによる武装構築が立ち上げられていなかった。
「ドイツ」という自我の「偏見という病理」の坩堝の中でこそ、アドルフの反ユダヤ主義の確信幻想が胚胎されたのである。
7 確信幻想の欺瞞性
―― ここで、「確信幻想の欺瞞性」について簡単に触れておく。
フリッツ・ハイダー |
一つの対象を映像化するとき、いつも同じイメージしか思い浮かばず、その類似のイメージを自らの周囲で繰り返し確かめてしまうと、人は自分の観念を確信化してしまうようである。
人が「これは私の確信です」と言うとき、そこには自分の中の一定のイメージ群が、どこかで出会った類似の文脈によって信頼度を増幅させた経緯が媒介されている場合が多い。
イメージに変化が起きない限り、確信は生き続ける。人は結局、イメージの束のその微妙な差異で衝突したり、その近接感の中に深い共鳴感情を分娩したりするのである。
そして多くの人は、自分が生きる上で必要な情報の海の中から、人生で出会うことが多い対象に対するイメージを縫合しつつ、観念を定着させていく。
だから大抵、狭い情報の枠内で、しばしば自分に都合のいい情報だけを束ねる心理現象としての「確証バイアス」が媒介された、「確信的文脈」が形成されるのだ。
人々のイメージのゲームには独創的なまでの極端な歪曲もない代わりに、柔軟な修復力も期待できないのである。
特定のイメージの束が確信的文脈にまで至る行程にあって、少なからぬ役割を果たしているものの一つに、「ヒューリスティック処理」がある。
これは簡便な判断によって、直感的に判断を下すことである。
例えば、職業に対するイメージで人の性格を特定したり、他人の能力を評価したりするのに、自分の能力を基準にして測ってしまうような場合などに往々に見られるものだ。
多かれ少なかれ、皆、このような簡便な判断処理に馴染んでいるが、決定的な判断を必要としない日常的なケースでは、人は最も身近で、類似なイメージによって、対象の評価をいとも簡単に下していく。こうして簡便な処理を介して集合した特定的なイメージが、少しずつ固有の輝きをもって一人歩きするに違いない。
そしていつのまにか、人は様々な対象に対する様々な確信を立ち上げていくことになる。確信を持つことが、自我を安心させるからである。自我を安心させるものが一番強いのである。
自我を安心させねばならないものがこの世にあるが限り、人は心の安寧を求めて確信に向かうのだ。
しばしば性急に、簡単に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていくのだ。いかような人にも、共存できにくい分らなさというものが存在するからである。
「確信は嘘より危険な真理の敵である」
フリードリヒ・ニーチェ(ウイキ)
|
「確信は絶対的な真実を所有しているという信仰である」とも彼は書いているが、それが信仰であるが故に、確信という幻想が快楽になるのである。
(注7)「人は,自己の認知体系を,均衡のとれた良い形態に体制化しようとする基本的要求を持ち,認知の内的一貫性が最大になるようなし方で行動する。集団もその対人関係の内的一貫性を最大にするようなし方で行動する。(個人も集団も共通している)」(Mun_S〈piityan_S〉学習ノート:「社会心理学」より)
以上の言及から推論できる文脈は明瞭である。
例えば、人がその心の中で大きなストレスを抱えていたとする。
そのストレスは自分にのみ内在すると確信できるものなら、基本的に自分の力でそれを処理していく必要が出てくる。ところが、そのストレスが自分にのみ内在するものではなく、自分を取り巻く環境に棲む者たちに共通するものがあると感じ、且つ、そのストレスを惹起させる因子が外部環境に大いに求められると感じたとき、人はそこに、しばしば他者との「負の共同体」と呼べる意識の幻想空間を作り出す。
そのとき、自分の中の特定的イメージがその幻想空間に流れ込んで、それらのイメージが一見整合性を持った文脈に組織化されることで、そこに集合した意識の内に「確信幻想」が胚胎されてしまうのである。
では、アドルフの場合はどうだったか。
彼の場合、どこまでも個人的なストレスでしかなかったものが、大戦における喪失感と、その後のドイツが負った歴史のリスクがピタリと重なって、そこで形成された異質なストレスが、「ドイツ」という巨大な自我の内に拡大的に定着していく状況の流れに、自らの自我のラインを合わせていったのである。
画家を目指しても叶わない男の自我は、内側にプールされた膨大な空洞感を能動的に埋めていく手立てとして、反ユダヤという名の「偏見の病理」の内に、観念の前線を作り出してしまったのだ。
そこに「精神的孤立感」に陥没しないで済むであろう「負の共同体」が仮構されているから、彼は容易に「確信幻想」にその身を預け入れることができたのである。
人は確信を持ったとき、全く別の人格に自らを変容させる能力を持ち得るのだ。
その現象が、「ドイツ」という巨大な自我の坩堝の中で急速に検証化されたとき、もう彼は、「政治こそアートである」という幻想の命題に逢着してしまう以外になかったのである。
そして、その屈折した観念の行き着く先は、「憎悪の共同体」であった。
ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗(ウイキ)
|
8 憎悪の共同体
―― 次に、その「憎悪の共同体」に言及していく。
人は自分が嫌っている者に対して、他の者も一緒に嫌ってくれることを切望して止まない厄介な側面を、多かれ少なかれ持っている。
自分がある人間を嫌うには、当然、嫌うに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼んでいる。
人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。
そこに集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して仮想敵に襲いかかる。そこに快楽が生まれる。この快楽が共同体を支え切るのだ。だから、この負性の展開に終わりが来ないのである。
自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を、人は「仲間」と呼び、「味方」とも呼び、しばしば「同志」と呼びさえもする。この仲間たちと共有する名状し難い一体感は、感情が上気している分だけ格別である。それは、快楽以外の何ものでもないのだ。
「同志」とは、敵の仮構によってのみ成立する相対的概念である。
ユダヤ人商店にボイコットの張り紙をする突撃隊(ウィキ)
|
この実在感は、我々が憎悪し、警戒し、身構えるという期待された反応を示すことで、敵の意識の中で集中的に高まっていく。
敵のこうした反応なくして、「憎悪の共同体」の勇ましい立ち上げは困難なのである。共同体の同盟性の推進力は、仮想敵の反応こそを、そこに作り出してしまうのだ。
そして我々の圧倒的攻勢がじわじわと敵を炙り出していくとき、そこに誰の眼にも明らかな優劣関係が形成されるだろう。
敵は我々の憎悪の根拠になった文脈を認知し、それを懺悔し、しばしば許しを請う。極端に言えば、そこまでの儀式を要請し、それを確認しない限り「憎悪の共同体」は自己完結を果たせないのだ。優劣関係の成立という指標によってのみ、攻撃者たちの共同体的、個別的自我は負の循環を終焉することになる。
これを私は、「負の自己完結」と呼んでいる。
ところが、関係に顕著な優劣性が生じるや、そこに新たな展開が開かれる。陰湿な虐めや虐待が日常化するのである。
これは際限ない過剰な展開の日常化であり、「負の自己未完結」の世界の始まりである。
人間には、ここまで腐ることができる能力がある。だから決して、「負の自己完結」の行程を開かないことである。憎悪を簡単に集合させないことである。
憎悪に駆られることは仕方ない。憎悪の感情を無理に抑圧しようとすることの方が、却って自我を歪めることにもなる。
しかし憎悪という個人的感情を、他者の類似した感情と繋いでいこうとは決して考えてはならない。
感情を束ねていくことが、最も危険なことなのだ。憎悪を組織した集団が一番厄介なのである。
「憎悪の共同体」―― ナチスはこれを作り出してしまったのだ。
彼らは「ドイツ」という自我の内側に、「ユダヤ」を創り出し、その負性感情の捌け口を、そこに向かって攻撃的に吐き出していったのである。
彼らはユダヤ人との関係の内に、「負の自己完結」の構造を創り出し、殆ど無抵抗な彼らの恭順を引き摺り出していく。
当然、反抗するユダヤ人があっていいし、寧ろそれがなくては困るであろう。仮想敵としてのユダヤが、単に奴隷的であっては困るからだ。
最後には、彼らは焼却される運命に遭えばそれでいいのである。
「ドイツ」という自我の妖怪は、ユダヤ攻撃だけでは「負の自己完結」の構造の処理が未消化である。
そこで彼らは、その外側に、「ソ連」=「共産主義」という手強い仮想敵を創り出し、遂に戦端を開くに至った。
全て「ドイツ」という自我が、「憎悪の共同体」として合理的に機能し、そのことで、彼らが負ったベルサイユの屈辱を暴力的に破砕していく以外になかったのである。
9 「憎悪の共同体」―― その中枢に今まさに、身を埋めようとする男の残り火
再び映像に戻る。
オールドファッションの画家として、ユダヤ人画商に絵を売っていた男
|
遂にモダンアートの世界に入り込めなかったその男が選択したのは、政治という名の新鮮なアートの世界だった。
無秩序で、脱規範的で、徹底して個人主義的なモダンアートの世界に馴染めない男にとって、その選択は内的必然性の帰結でもあったのだ。政治という名の世界にこそ、彼が夢見た伝統的で、様々な規範を尊重する新秩序を創り上げようとしたのである。
既に男の内側には、「偏見という病理」がべったりと張り付いていて、それが、「ドイツ」という新秩序の指標となる自我によって、「確信幻想」にまで高められた欺瞞の体系の内に心地良く溶融することで、遂に「憎悪の共同体」を勇壮に立ち上げていくに至ったのだ。
その共同体を動かすパワーを、一人の貧乏画家が占有したとき、男はもう、「時代に洗脳された男」ではなく、「時代を洗脳する男」に変貌を遂げたのである。
しかし映像は、そんな男の複雑な心情世界を繊細に描き出す。
「政治をアートに変える」と信じた男の内側には、なお男が本来的に志向したアートの世界への未練が張り付いていたのだ。男はまだ蛹ではあったが、すぐにでも飛翔できる成虫にまで変容できていなかったのである。
ナチスの集会での絶叫によって、聴衆が過剰に反応する状況下で手に入れた、存分なほどのナルシズムの快楽によって一切を昇華するには、男の心情世界は余分なものを抱え込み過ぎていたということだ。
男は、芸術による自我アイデンティティの安定的確保への道を断念し切れないのである。断念し切れないのは、そこに侵入する余地が殆ど限定的な男の残り火のようなものであった。それでも男は、それをどこかで求めて止まないのだ。
「憎悪の共同体」の中枢に近づきつつあっても、男は残り火を消し切れないのである。
その意味で、この映像を括って言えば、「『憎悪の共同体』―― その中枢に今まさに、身を埋めようとする男の残り火」という風に捉えることも可能である。
映像は、そんな男の心の振幅を哀切なまでに描き出すことに成功した。
この男の近未来の姿を知った上で映像と付き合う観客の哀感を見透かしたかのように、映像の作り手は、そこに「独裁者は本当に狂人だったのか」という問題提起を加えることを止めないのである。
メノ・メイエス監督・映画.comより |
だから観る者は、素直に感銘を深くしてしまうのだ。
ただ残念なのは、この映画が英語の会話で終始してしまったことである。
事情は察して余りある。「人間的なアドルフの哀感」を描き切る映像が、その本人を生んだ国で製作されないのは当然のことであるからだ。
しかしドイツ語の、あの独特なニュアンスを含む会話によって展開された物語のリアリティを考えた場合、多少拍子抜けする思いもあったことは事実である。
10 安寧を約束されない日常性を分割する構図
最後に、本作の映像の秀逸な構図について言及する。
新人画家ジョージ・クリス・ブログより転載
|
モダンアートの作品が無秩序に展示されている殺伐な風景が、そこにある。
その中を千鳥足で闖入した男に向かって、「ジョージ、絵が気に入ったか?」と言葉をかけるマックスの柔和な振舞いの構図は、その直後のアドルフの印象的な描写と対極を成していて、そこに既に映像のモチーフが象徴的に示されていた。
酩酊するアンチ・モラルの青年画家を包み込む裕福なユダヤ人画商と、ミュンヘンの伝統的な高層の建物を下から仰ぎ見る、アンチ・モダンアートの貧しい青年画家、アドルフの対極性。
そして、そのアドルフが凝視するのは、建物の上層部に堂々とした存在感を誇示するかのような大鷲の石像なのだ。
大鷲がドイツ空軍の鷲章を意味するのは言うまでもない。それをカメラは、高みから俯瞰するアングルで、本作の実質的な主人公とない男の、伝統芸術に拘る力強い意志をアップで印象的に映し出していた。見事な構図だった。
(注8)第一次大戦で志願兵となり重傷を負った。その後、反戦的、且つ反独的な傾向を強めて左傾化し、ドイツ共産党にも入党するが、ナチの台頭によりアメリカに亡命。ドイツ表現主義を代表する彼の絵画には風刺画が多く、その独創的な作品はモダンアートを象徴するものでもあった。
そしてラストシーン。
カフェで待つアドルフは遂に痺れを切らして店を出て、クリスマスの季節の賑わいの中を足早に抜けていく。彼とクロスする人々が、男の怒気を感じ取ったかのようにその道を譲るのだ。
一方、「卑劣にも背中を刺された!」という壁の落書きの傍らで、その落書きの標的とされたユダヤ人が動かなくなっている。
アドルフとマックス④・「友情」の残り火 |
その後、カメラは、少しずつ俯瞰したアングルで、路傍に捨てられた男を捉え、最後に、その隣の一画の華やいだ町の日常性を抑制的に映し出していった。
ラストのフレームは、死体となっていくだろう男の悲劇と、その男が躍動した大戦直後のミュンヘンの、安寧を未だ約束されない日常性が画面を左右に分割する構図。
それはまさに、この国でまもなく出来する政治の暗雲を象徴する構図でもあった。
それは同時に、怒気を隠せない男の未来を鮮烈に吸収するイメージをも彷彿させるものであり、見事という他にない。
そのデビュー作が往々にして傑作に結実する典型例が、そこにあった。
(2006年11月)
0 件のコメント:
コメントを投稿