2008年12月11日木曜日

ミラーを拭く男('03)        梶田征則


  <カーブミラーの光沢が放ったもの>



 1  ミラーを拭く男



 宮城県の、とある町の県道。

 そこに一人の男が仰向けになって倒れている。意識を失っている状態である。傍には脚立が一つ転倒していて、ガードレールには男のものらしいサイクリング車が横付けになっていた。道路には、これも男のものらしいショルダーバッグが放り出されていて、中から噴霧器と思しき容器が顔を覗かせている。その横にタオルが無造作に置かれていて、辺り一体を町の人々が取り囲んでいる。

 その県道はひどい渋滞になっていて、どうやらそれは、男が関与した交通事故が原因になっているらしい。
 
 「間違いねぇ。テレビで観たことある。絶対そうだ。何かね、こんな道路の鏡を一個一個拭いてるんだって・・・」
 
 野次馬のこの一言で、男は意識を取り戻した。
 
 ―― ここで、映像のタイトル名が浮かび上がってくる。

 タイトル名は、「ミラーを拭く男」。
 
 開かれた映像からは、男が入院した病棟にシフトしていた。
 
 そこには男の妻がいて、二人のテレビ関係者がいた。

 「こんなことになったのは、テレビのせいだと思うんですよ。ごめんなさい。決してあなた方だけが、悪いって言ってるわけじゃないんです。ただ、絶対に無理だと思うんですよ。全国なんて・・・」
 
 妻の苦情めいた言葉に、テレビのプロデューサーはやんわりと反応した。

 「いや、その全国回るってのは、皆川さんから言い出した目標ですし・・・な?」

 その言葉を受けて、隣に座るディレクターがフォローする。

 「正直言って、最初は面白半分で取材させてもらったんですよ。還暦を越えているのに、日本中のカーブミラーを全部磨くっていうのが、何か無茶していて、面白いかなって思いまして。しかも趣味でしょ?」
 「ボランティア」とプロデューサー。
 「ボランティア?」とディレクター。
 「ただ、全国っていうのは予想以上に時間かかるんですわ」とプロデューサー。
 「もう三年になります。主人が出て行って。居場所が分るって意味では、テレビに出てくれて助かりました。感謝してます。ただ・・・」
 
 そんな妻の変わらぬ態度に、プロデューサーは丁寧な態度で弁明に努めた。
 
 「勿論、奥さんのおっしゃると通り、こっちがプレシャーを与えてた部分はあるかとは思うんです。まあ、皆川さんもテレビに出て宣言してしまった以上、意地にならざるを得ないとは思うんです。ただまぁ、こっちも何度か妥協案は提示したんですよ。中途半端に撮影を中断する訳にもいきませんから。例えばまあ、車で回ってみたらどうかとか、県庁所在地だけでいいんじゃないんですかとか。まぁ、皆川さんが車の運転ができないとか、まあ色々問題がありましてね・・・」

 相手のプロデューサーの弁明を聞きながら、皆川の妻は、三年前のことを回想していた。
 


 2  異様な構図



 全ては、三年前に始まったのである。

 皆川勤。

 彼は定年を間近にするサラリーマンだった。

 そのサラリーマンがある日、急に飛び出して来た自転車をよけ損なって、一人の少女を撥ねてしまったのである。幸い、少女の怪我はかすり傷で済んだが、その事故は皆川の心に相当の外傷を残してしまった。

事故現場に立つ皆川勤
彼はしばしば事故現場に自ら足を運んで、自らの起した事故を彼なりに引き受けようとした。しかし彼の脳裏に事故の生々しい記憶が蘇り、カーブミラーのポールに激突した恐怖と、少女の悲痛な表情が彼の心を執拗に甚振って止まないようだった。彼は明らかに軽鬱症の症状を呈していて、かつて味わったことがないような種類の人生の危機を迎えていた。
 
 その構図は、あまりに異様だった。
 
 一軒の普通の家屋の内部が、見るからに、吹き抜けのような構図で映し出されていた。映像を観る側から向って左側に玄関があり、その右に六畳ほどの和室があって、共に手前の居間に繋がっている。
 
 玄関には皆川の妻の紀子と、その娘の真由美がいて、事故の被害者の祖父の剣幕に押されまくっていた。
 
 「来てねえじゃないか!お宅、舐めてんの?こっちにとっちゃね、大事な孫なんだよ。女の子だぞ。菓子折り一つで済みませんでした?ふざけるなよ!」
 「あの・・・治療費は、お支払い致します」
 「当たり前だろ!」
 「誠に、申し訳ございません」
 「下手すりゃ、死んでたんだぞ!とにかく旦那が帰って来たら、言っておいてよ。被害者に、もう少し誠意を見せろって」
 
 玄関先で、平身低頭する妻。母を助けられない娘。そんな非力な女たちを前にすると、なぜか男は強がって見せる。その強がりの中に、当然打算が含まれるが、それでも男は、そんなときに限って必要以上の感情を乗せてくるのだ。

 しかし、その感情を本来乗せていくべき相手は、同じ空間内に居たのである。当家の主は、隣の和室で、テレビを相手に将棋を指していた。当家の主こそ、皆川勤その人である。玄関から戻って来た娘の真由美は、和室を覗いて辛辣に問いかけた。
 
 「何で出ないの?自分のことでしょ?何なの・・・ねぇ、落ち込んでる振り?」
 「真由美、止めなさいって。お父さんだってそりゃ、ショックよ。事故したの、初めてなんだから」
 「だって、ただのかすり傷でしょ。お母さんも、謝りすぎなんだよ。向こうが勝手に飛び出してきたんだから・・・パチンコやってたんだよ。子供放ったらかしでさ。何でこっちが悪くなるわけ?結局、金なんでしょ、あいつは」
 
 この間、父の勤は終始無言だった。

 それは、まるでそのような会話に全く関心を示さない者の態度であったと言っていい。彼は今、自分だけにしか了解できない、極めて狭隘な世界の中に閉じこもっているようであった。それが軽鬱症者の、それ以外にない自己防衛の方法論であったとも言えなくもない。

 始めに書いておくが、この主人公は映像の中で、一貫して寡黙な態度を通していくのである。と言うより、彼は全く自らを語らないのだ。この作品は、自らを語ろうとしない者が、その身体表現によってのみ自らを語ろうとした、その究極的な映像化でもあった。
 
 ともあれ、自宅におけるこの異様なカットが、本作の重要な主題性に重なっていることは明瞭である。そしてこのカットこそが、この映像の実質的なファーストシーンであったのだ。



 3   何も語らない夫と、何かを語っても反応をもらえない妻



皆川勤
まもなく皆川勤は、自分が起した事故の現場に立って、車を直接ぶつけたカーブミラーを必死に拭き始めたのである。

 繰り返しミラーを拭くことで、ピカピカに磨かれたミラーに自分の顔を映し出した。そこには紛れもなく、事故を起した男の顔がはっきりと映し出されていたのである。男がミラーの裏側を覗いたとき、そこにミラーの寄贈者の名前が書かれていた。男はその寄贈者が誰であるかについて関心を持ち、やがて、そこに書かれた名が交通事故の犠牲者の名であることを知って、その家を訪ねることになった。
 
 「あそこは前から危なかったと、皆が言うとった。役所の人間が、ミラー建てるとほざきおったのは、葉月(はづき)が死んでからです。何かこう、無性に腹が立ちましてな、こっちでやる言うて、建てたんですわ。まあ、建てたと言っても、事故の賠償金ですが、しかしうちの葉月があんたの事故から、その子を守ったということは、あんた自身も守られたってことだ・・・何ていって言いか分らんが、役に立てて嬉しいですわ、あのミラーが。しかしあんた、事故だけはほんと、気をつけなさいな。轢いた方も轢かれた方も、家族バラバラになる。あれから嫁はえろう、暗くなった・・・・」
 
 犠牲者の名は葉月。養女である。

 養女の祖父が勤を相手に語った以上の言葉が、やがて勤を動かし、何かに駆り立てていく。勤を駆り立てていった後の行動心理は未だ不分明だが、少なくとも、ここまでの映像の心理的文脈は極めて自然であり、観る者を充分説得する力を持っていた。
 
 勤が起した事故の被害者の祖父は、連日のように皆川家を訪ねて来た。

 訪ねて来ない晩は電話をかけてくる。明らかに金銭目的のプレッシャーだが、常に妻の紀子が低姿勢で対応する。低姿勢で対応すればする程、相手の男は嵩(かさ)になって攻めてくる。肝心の勤は、相変わらずの無関心。そんな父に、息子の芳郎は歯がゆくてならない。何よりも、父が出勤しないのが不安でならないのである。

 息子はその思いを母に伝えた。
 
 「あのさ、親父、仕事どうなった?今日また見たからさ。脚立乗って、鏡拭いてた。親父だと思うんだ」
 「どこで?」
 「釣具店の脇入ったところ・・・・やっぱり何も聞いてないんだ。何で隠すかなぁ。仕事替えたんだったら、言えばいいのに・・・やっぱりあれかな、退職金のことがあるから、後ろめたいのかな」
 
 息子の言葉に、一瞬表情を曇らせたが、母は何も答えなかった。その無言の反応が全てを物語っていた。

 夫であり、父である勤は会社を無断で欠勤し、市内にあるカーブミラーを拭く一人ボランティアを始めていたのである。
 
 その日、妻は夫の後を自転車で付けて行った。

同じく自転車に乗る夫の行き先は、やはり市内のカーブミラーのある場所だった。そこで夫は脚立を立てて、必死にミラーを磨いている。その姿を自転車置き場の後方から、妻は眺めている。妻は既に殆ど確信していたのである。夫が退職することを覚悟して、金にもならないミラー拭きの作業に没頭していることを。

 妻はそんな自分の思いを、夫に直接確めた。

 「うち、ほんと余裕ないんですよ。昨日も会社から電話があったし、クビになるわよ。今までは有給扱いで済んだんだけど・・・30年やって来て、何で今さら退職金棒に振るんです。聞いてます?」
 
 妻の話のその最後の部分に僅かな反応を示したが、夫は食堂でひたすら丼飯を胃袋に詰め込んでいた。何も語らない夫と、何かを語っても反応をもらえない妻の、乾き切った構図がそこにあった。



 4  微笑が消えていった男の表情



 勤は市内にあるカーブミラーを全て拭き終わった後、遂に旅立った。

 彼は会社を辞め、日本中のカーブミラーを拭く仕事を始めたのである。勿論、ボランティア。収入はない。意を決した彼は北海道に渡って、日本最北端の地に立った。ここが彼の大仕事の端緒となったのである。
 
 用意した新しい脚立を立てて、そこに男は乗った。

北海道の風は、自然の威力を充分に感じさせるものだった。しかし、カーブミラーは霧のため曇っている。男はまず最初のタオルに洗剤をつけ、それでミラーを磨いていく。その後もう一枚のタオルで、ミラーにたっぷり付いた液状の流れを綺麗に拭き取っていく。これで完成である。曇ったミラーが、そこだけが異様な輝きを見せ、その本来のあるべき機能を取り戻したのだ。

男はこの作業を、これから何度も繰り返し続けていくことになる。既に覚悟はできていた。
 
 北海道の大地は広い。

 見渡す限り原野の風景が広がっている。ところどころに牧場もある。県道を走る男の自転車は、流れ行く大きな雲の陰になったり、雲の隙間から顔を出す陽光の眩しいシャワーを浴びたりして、それは一つの生き物のように、しばしば心地良い快走を刻んでいく。男と自転車は、少しずつ意思を交し合う共生動物のように踊っている。その快走の中で、殆ど人と擦れ違うこともないのだ。男にはそれが心地良いのである。

 男は食堂で、テントの中で、広い大自然の下で常に地図を確認し、自分の行くべき場所を探っている。男の行動は決して無秩序ではないのだ。
 
 皆川勤の北海道での行動は、少しずつ地元の者に知られるようになり、彼をサポートする地元民が現われるようになった。

 トラクターの運転手は、高い場所に置かれたミラーを拭く作業をサポートするために、彼をトラクターのリフトに乗せて持ち上げた。そんな彼に地元の取材が入るようになってきて、彼もその取材に特段の拒否反応を示さなかった。しかし彼には、そんなメディアの侵入は全く関心外の出来事でしかなかったのである。
 
札幌の公園内でテントを張って寝ている勤は、警邏(けいら)中の警察官に起された。不審尋問を受けたのである。
 
 「こんなところで、何をやってるの?」
 
 警官の質問に、ここでも勤は自分の意思を伝えない。反応する彼の表情には、うっすらと笑みすら浮かんでいた。

斜め下から撮影した時計台(ウィキ)
場所は、札幌時計台。

 その札幌の街を、自分と同じ年頃の中高年が出勤の歩を進めていた。彼の視界には、同世代の男たちの疲れたような表情だけが捕捉される。彼はそれを見て、思わず笑みを零してしまうのだ。
 
 彼がそこで何を感じたか、何に満足したか、想像の限りでしかないが、映像はその後、黙々とミラー拭きに精を出す男の表情を映し出すことで、男の微笑の奥にある感情が能弁に語られていた。
 
 函館に着く頃には、彼はすっかり有名になっていた。

 地元のテレビで、「皆川さん、ミラー拭きで全国制覇中」と放送されていたからだ。マーケットに入ったら、彼の周りに人だかりができて、カメラでの記念撮影を頼まれる始末。彼はそこでも特段の拒否反応を示さない。黙々と自らを被写体にして、見ず知らずの人々の好奇心に応えていく。
 
 「あそこのミラー、汚れているよ」

 ある老人に繰り返し迫られて、渋々ミラー拭きする男と、それを見守る群衆の好奇の視線が描き出されるとき、この映像の主題の一つが明瞭に浮かび上がってきたと言えよう。

 男は本州へ渡るフェリーの中で、一人の男と知り合いになった。

 同世代のその男は、関西から来たサイクリストだった。彼は自転車で全国を回る旅をしていたのである。その旅先で皆川勤のことを知って、大いに関心を持ったのだ。彼は中高年の定年後の人生を能動的に生きることに拘泥し、それを自ら身をもって表現することに誇りを持っている。彼の眼から見ると、皆川勤も同類項だったのである。

 ハイテンションで老後を快走するサイクリストと別れた男は、本州道に入って、少しずつ、周囲の期待を負わされるような立場に置かれるようになった。地元の人たちの切実な依頼を拒絶できない男の中で、強いられるようにして、何かが確実に動かされていく。

 「うちの兄ちゃん、あそこで事故起したの」
 「あそこにミラーがあったらって思うんですよ」
 「皆川さん、もっと増やせねえですか?」
 「事故が起こったら、考えますよ」

 前三者は、カーブミラーを立てて欲しいという地元民の願望。後者は、地元民の要望を背負って、皆川勤が役所に赴いたときの若い役人の反応。

 彼はこんな声に包まれて、今、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなっている。宿舎の暗い部屋で瞑想する男の心の中で、何かが張り裂かれようとしていた。男の表情から、微笑が消えていったのである。



 5  異次元の男の饒舌を前にして



なお男は、本州道を走り抜ける。

 幾つかのカーブミラーを置き去りにして、走り抜ける。それでも彼の視界に飛び込んできたひどく曇ったミラーに、彼の自転車は停車した。そこからまた、彼のミラー拭きの旅が再開されたのである。

 しかし、その旅が再開され、彼の自転車が宮城県まで進んだとき、そこで事故が起こってしまったのだ。事故の被害者は皆川勤本人だった。彼がカーブミラーを拭いているとき、乗用車が脚立を直撃し、彼はそのまま転落したのである。

事故現場
これが、本作のファーストシーンだった。

 男は病棟のベッドで仰向けになっている。彼の妻は、喫茶店でテレビ関係者と話をしている。冒頭のシーンである。そして男の枕元には、息子の芳郎と娘の真由美が付添っている。
  
 「何か言うことあるだろうに・・・」と息子。
 「今はいいじゃん」と娘。
 「俺たちにはいいけどさ、お袋が来たら、何か言うことあるだろう。貯金あんな使ってさ、お袋の老後、どうすんだよ?」
 「ねえ、また落ち着いてからさ」
 「今度は轢かれる方かよ」
 「もう、止めなってば」
 
 そこに、妻の紀子が戻って来た。

 妻は廊下で、事故の加害者が待っていることを伝えた。息子は自ら買って出て、加害者との談判に乗り出していった。
 
 「結局、幾ら欲しいんです?」
 「そんなこと、言ってないでしょ」
 
 自分の車が直接被害者に衝突していないという、相手の居丈高な物言いに、芳郎は激しく反応した。
 
 「お前、何だよ、それ。話が違うだろう?」
 「何が違うんです。お金は払うって言ってんでしょ。ただ、こっちは悪くねぇって言ってんです。あんなとこで、鏡を拭いてる方が、いけねぇんですよ。はっきり言って、邪魔です。ぶつかりますって」
 
 結局、二人の話は物別れになった。
 
 一方、病院の屋上で、皆川勤は妻と娘の話を聞いている。
 
 「車、売りましたよ」と妻。
 「家も・・・事故の件も解決したよ。恐喝未遂になりかけたんで、あいつ完全に引き下がったの。もう大丈夫だからさ、帰って来たら?」と娘。
 
 妻子の話に、ここでも男は反応しない。反応しないが、受け止めている。何もかも了解しているようだった。
サイクリスト・上野恒男(左)皆川
そこに、例のサイクリストがやって来た。見舞いに来たのである。男の話の要領は、旅の継続を促すことにあった。
 
 「皆川さん、もう全国回るの止めたって聞きましたけど、本当ですか?それやったら、どうです?僕も一緒に手伝うて、それで全国回るわけには、いかんもんですかねぇ?頑張りましょうよ」
 
 男の話は続く。
 
 「まあ、僕らみたいな考えを持った還暦前後の男?全国のそういう連中に呼びかけるんですわ。微妙な時期でしょう?皆、迷うとるんです。ぎょうさん反応があるはずです。そりゃ、年には勝てません。でも、皆で心一つにしたら、これ、偉大な力になりますよ。ねぇ、皆川さん。それで全国のカーブミラー拭き上げましょう。ねぇ、これいけるな」
 
 一人で悦に入っている初老のサイクリストのテンションは、フェリーで会ったときと全く変わっていなかった。いやそれ以上に、彼のテンションは上っていたのである。

 そんな異次元の男の饒舌を前にして、皆川勤は、ここでも何も反応できない。複雑そうに曇った皆川の表情を、映像は映し出すのみであった。
 


 6   置き去りにされた男



 まもなく二人は、軽トラックを調達してミラー拭きの仕事を始めたのである。それを、例のテレビマンたちがフォローする。と言うより、寧ろ積極的に加担し、ミラー拭きの二人の旅のイニシャティブを握っていくのである。そんなテレビマンたちは、イメージとしては自転車のほうがいいから、放送のために車を断念するように暗に促した。

 それに対するサイクリストの答え。
 
 「まあ、自転車だけじゃ大変ですから、使い分けたらどうです?絵にするとこと、スピードを上げるとこと・・・それからさっき僕が言うてた、つまり、募集でぎょうさん人を集めるちゅうのをやってくれますか?」
 
 サイクリストの方が、遥かにテレビの企画の先を行っているのだ。テレビマンはそれに合わせていく。
 
 「ええ、それはもうちゃんと帰ってから、上の者と話しまして、それでオーケーが出ましたら、番組自体の枠を広げまして、それで一気に全国のミラーを拭いていきましょうよ」
 
 皆川一人が、そこに置き去りにされていた。
 

皆川の妻紀子
一方、皆川の妻紀子は四苦八苦していた。

 彼女はマニュアルの運転免許を取得する為に、教習所通いを続けていたのである。紀子が運転する車は、既に路上練習の段階に入っていた。しかし彼女の運転はぎこちなく、危なっかしい。しかも運転用語が覚えられない。「ノッキング」、「エンスト」など、普通に使われる横文字の言葉に閉口しているようだ。そのため教官から叱責され通し。紀子がなぜ、こんなリスクを冒してまで運転免許を取ろうとしているか、未だ不分明である。

 テレビで、例のサイクリストが自説を堂々と述べていた。上野恒男、63歳。それがサイクリストの名と年齢だった。
 
 「僕らみたいな、還暦前後に差しかかった男たちは微妙なんです。皆、迷うてるんです。何に迷うてるかというと、将来です。それがこのカーブミラーを拭くということで・・・」
 
 先日、皆川に語った言葉をテレビ視聴者に対して、執拗に語りかけていく。その背後では、カーブミラーを拭く皆川が映し出されていた。

 今や皆川勤は、サイクリストの自己実現のための手段でしかないようなのだ。テレビスタッフに注意されながら、カーブミラーを拭く男の滑稽さが際立つ構図だった。

 一方、上野恒男は、「お掃除ワンポイント」なる企画に合わせて、視聴者にカーブミラーの拭き方を伝授するのである。

 その一例。

 「はい、ではミラーの拭き方でーす!えーこれは鏡だけではなくて、ガラスの拭き方にも利用できますので、よく見ていて下さい。今、皆川さんが拭いていまーす・・・」
 
 ここで、皆川勤が画面に映し出されて、言われるがままにミラーを拭いている。明らかに、何かが変質してしまっている。黙々とその作業を続ける皆川勤が悲哀に見えてくるのである。



 7  自転車で併走する夫婦



 妻紀子は、車のショールームを覗いていた。脚立が入るワゴン車のような車を捜している。
 この辺りで、彼女が運転免許を取ろうとした動機が想像できる。彼女は、夫の「仕事」を手伝おうとしているのだ。

 サイクリストを自称する上野恒男は、募集で集まった中高年を仕切って、ミラー拭きの「旅」を続けている。同時にメディアの好奇心を充分に煽って、それすらも仕切っているようだった。
 
 ―― 彼らのミラー拭きの「旅」の描写の後に、危うく接触事故を起しそうになった紀子の教習中の車の場面が映し出された。
 
 「無理じゃないかな、年齢的にもきついし、ここまで来たのが奇跡だよ。何で行くかなぁ。黙視しないと。何でカーブミラー、頼るかなぁ」
 
 紀子にとっても、カーブミラーは特別なものだったに違いない。
 彼女はカーブミラーに運転の判断を頼っている。その気持ちは、この夫婦でなければ分らないかも知れないのだ。当然、そんな思いが教官に通じるわけがないのである。

 
 「カーブミラー隊、全国で活動中」のテロップがテレビ画面に映し出されて、遂に中高年の異常な団結力は沖縄にまで及んでいた。
 
 「沖縄はミラー自体が少ないので、普段見慣れたカーブミラーなんですが、意外に高さもありますし・・・」
 
 ここまで来れば、殆どブラックユーモアと言っていい。

 ミラーが少ない沖縄にもカーブミラー隊が組織され、そこに大勢の年寄りが集まっていた。彼らは何のためにそこにいるか、まるでそれはどうでもいいことのように、沖縄特有の家屋の縁側に、揃いのジャンパーを着て集合していた。

 次に映し出された画面は、上野恒男が今後の抱負を述べる描写だった。彼は今、「反射鏡会」会長の肩書きを戴いていた。メディアの本格的参入と、それを利用するサイクリストの自己顕示欲が完璧に嵌って、何もかも変容してしまっていたのである。

 今や、皆川勤の利用価値は失われてしまっている。それは、彼の本来の願望に戻ったとも言える。高齢化社会を支える中高年たちの勇壮な行進とは無縁な所で、皆川勤は呼吸を繋いでいた。
 
 皆川勤は、一人で自転車を走らせている。

後部には、いつもの脚立が堂々と構えられていた。彼は今、カーブミラー隊から離れて、一人で自分が決めたイメージの作業を継続させているのである。とある田舎の寂れた道にぽつんと立っているカーブミラーを、男は黙々と拭き続ける。拭き続けた後、彼の表情に微笑が戻っていた。

 男の傍らに、もう一人のサポーターが加わっていたのである。男の妻、紀子である。彼女は夫の後を追って、自転車でようやく夫の元に追いついたのだ。そこには車はなかった。彼女は運転免許を取ることを諦めたのかも知れない。

 映像は何も語らない。しかし、妻の微笑が全てを物語っていた。

 脚立の上の夫は、そんな妻にタオルを投げ込んだ。妻は笑顔でそれを返した。そのタオルが路傍に投げ捨てられた。妻はそれを取りに行く。二人の思いは重なったのである。中年夫婦の新たな旅が開始されたのである。
 
 二人は自転車で併走して、夕闇の向こうに消えて行った。それを夕景の美しい描写が、優しく包み込んでいる。

       
                   *       *       *       *

 

 8  評価の分岐点は世代の分岐点



 面白かった。存分に堪能できた。
 
 
私にとってこの映画は、日本映画がまだ必ずしも駄目になっていないことを検証させてくれた作品でもあった。私がここまで入れ揚げ、擁護するほどの作品でありながら、本作に対する評価は、恐らく毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばして、明瞭に二分されるに違いない。
 
 私が思うところ、評価の分岐点は世代の分岐点である。

 世代の分岐点を決定づけるのは、「時代」とか、「時代の息吹」とかいうようなものである。具体的に言えば、21世紀を快走する青少年と20世紀の後半、もっと限定すれば、1960年代から70年代にかけて結構騒々しい青春期を過ごした、いわゆる、団塊の世代との映画観の微妙なギャップが、この映画の評価の是非の分岐点になっているように思われるのである。
 
 恐らく前者は、ここで描かれた主人公の生きざまを理解できないであろう。
 
 この寡黙な主人公が人生の岐路に立ったときのその決定的選択の意味を、21世紀に生きる若者はとうてい把握できないであろうから、当然の如く、彼の人格を受容することは困難になる。今の若者には、全国のカーブミラーを拭くための旅に打って出た、皆川勤なる初老の男は、自分勝手なエゴイストにしか映らないはずだ。

 敢えて言えば、主人公の行動に感情移入できなかったら、この類の作品は途端にその輝きを失うであろう。なぜなら重苦しいテーマの作品を、軽快なテンポと心地良いBGMによって、些か滑稽じみたストーリーラインで固めた映像の、その本来的なメッセージが根柢から吹き飛んでしまうからである。即ち、主人公への感情移入の成否が、この映画の受容度を決めてしまうということである。
 
 それは、主人公の妻の紀子という中年主婦の視座で、主人公に寄り添うことが可能か否かという問題でもある。紀子の視座の変容が観る者の視座の変容となって、皆川勤の内面世界に侵入するという作り手の手法は、入念に綴られる物語への了解ラインを殆ど決定づけてしまうと言っていい。
 
 一貫して、主人公は何も語らない。

何も語らないけど、彼は山野を淡々と疾駆し、自分の身体が反応した分だけの微笑を、路傍の上に捨てていく。この男の心情を推し量れない観客は苛立つだけだろう。実際この男は、映像で映し出された描写の部分で観る限り、自分勝手であり、エゴイストでもあるだろう。そんな男が好きなことをやって、心地良さそうに疲労に酔って、謎の微笑を捨てていく。

 精神病理ではないか、と見る向きは多いはずだ。男の妻だけが一人残されて、苦情を一身に引き受ける。そればかりか、生活苦の問題にも直面している。勝手に退職した男は、妻が唯一当てにした退職金を棒に振ろうというのだ。彼の息子と娘は、テレビで映し出された父の奇行に赤面する思いを募らせる。こんな勝手な男を、その心情の中枢の辺りにおいて把握できなかったら、「鬱病」という病気のレッテルで片付けた方が遥かに楽であるに違いない。

 いや実際、男は鬱病でもあったと特定できる何かを持っていた。しかし、それでも上手に整理できない世界が、男の中に厳然と存在していた。存在していなければならなかったのである。



 9  自分自身と繰り返し出会うための旅



 皆川勤という男は、一体何者だったのか。

 彼はなぜ、何も語らなかったのか。語ろうとしなかったのか。団塊の世代か、それより少し上と思われる彼の世代は、寧ろ語り過ぎ、必要以上に動き過ぎた世代ではなかったのか。なぜ、同世代のサイクリストがあれほど饒舌だったのに、彼だけは寡黙を貫いてしまったのか。
 
 彼は何も語らなかったのではない。語る必要がなかったのである。

 少なくとも、自分を知らない他者に対して、自己を語る必要を感じなかったのである。彼の旅は、語るための旅ではなかったからだ。

 彼の旅は自分が今どこにいて、どこに向っているかを了解できるラインの内側で、ただ自分が為すべき仕事を持っていて、それを為すことによって繰り返し大切な何かと出会うための旅でもあった。

 大切な何かとは、恐らく自分が今まで失っていた、自分が本来在るべきところのもの、即ち、曇ったガラスを綺麗に磨くことによって映し出された、自分自身の現在のあるがままの、その偽りのない相貌である。彼は自分自身と繰り返し出会うための旅を、唯それだけだが、しかし、今の自分にとってそれ以外にない、最も切実なる旅を重ねていたとも考えられるのだ。
 
 その辺りの心理的文脈を、映像で映し出された男の寡黙な表情から零れ出た表現性の内から見ていこう。
 
 恐らく、男は長い間、典型的なまじめなサラリーマンとして生きてきた。美しい妻を持ち、それなりに社会的自立を果たした子供たちがいて、比較的豊かな生活を送る普通の家庭があった。映像から観る限り、男が作った家庭は極めて平凡であり、それなりの親和力が形成されている。確かに家庭の中でも、男は寡黙な存在性を想像させるが、だからと言って、深刻な危機を内包する家庭的イメージは、そこにはあまり窺われない。この夫婦に不倫の問題があったわけではないし、子供たちの引きこもりとか、家庭内暴力の危機とも無縁であった。

そんな平凡な男が、一つの交通事故を契機に、深刻な危機に直面したのである。それは、初めてカーブミラーを磨いた直後の、被害少女の祖父との会話(もっとも、本人は殆ど喋らないが)が端的に物語っていた。詳細はプロットの説明で先述したとおりだが、男はここで明らかに、ミラー拭きの旅に打って出る、その原初的なモチーフを形成したのである。



 10  「欝」―― それは極めて厄介で手強い病気



 彼は事故の衝撃で、間違いなく「鬱」の症状を呈するようになった。男は真面目なのだ。自分が惹起した事態から逃走できない真面目さを晒すほどの男だったである。

 然るに、「欝」は手強い病気である。

 自我の破綻の危機から逃れるために、多くの鬱症者は世界を狭隘にし、自らの関心を限定化するのである。観る者は、このような「鬱」の深刻な精神世界について、できるだけ正確に把握しておかなければならない。

 ここに、鬱病についての平易な説明文がある。

 いずれもネットサイトからの引用だが、鬱病についての基本的把握に役立つので引用しておく。引用の目的はただ一つ。この病気は、その精神世界を経験した者でなければ分らないような手強い病気であり、それ故にこそ、多分に誤解されやすい病気であることを確認するためである。


 「うつ病(うつびょう、鬱病、英depression)とは、気分障害の一種であり、抑鬱気分や不安、焦燥、精神活動の低下などの精神的症状、食欲低下や不眠といった身体的症状などを特徴とする精神疾患である。しばしば自殺企図を伴う。『心の風邪』と考えられ、誰でも罹りうる可能性がある。

 以前は単なる『怠け病』であるとか『詐病』(病気であると嘘をつく事)の一種では無いかと考える人もいたが、最近の病理学的な研究の成果から脳に生理的・器質的な変化が起こっていると考えられる様になって来ていて、罹患者の増加・一般化に伴う社会的な認知の変化もあり、現在では生理学的な要素の非常に強い病気だと考えられている。

 うつ病の発症は記憶を司る脳器官の海馬の萎縮に伴う記憶力の減退を引き起こしたり、アルツハイマー症の引金になったりもする。

  最近の大手企業ではうつ病に於ける産業医の認知や治療を施す様になった。現在うつ病の生涯有病率は男性15%、女性25%と言われ、先程にも述べた通り誰にでも起こり得るありふれた疾患である。発症年齢は小児期から老年期迄に渡り個人差も大きく、長時間コンピューター作業(これはリスクファクターのひとつと考えられている)へ従事する層の増加と高齢者の増加とに伴い、今後益々社会問題となっていくのではないかとの危惧もある」(ウィキペディア「うつ病」より/筆者段落構成)


 「〈うつ病の症状〉

 ・意欲減退・憂うつ感・悲観的、絶望的思い・睡眠障害・食欲低下・性欲減退・頭痛、めまい、首や肩のこり・人を避ける・死にたいと思う・考えがまとまらない、仕事の能率が落ちるなど。 生活全般にやる気が失われます。これに対して、仕事や勉強はやる気がないが、遊ぶことにはやる気があるというのなら、うつ病ではありません。(アパシーという別の心の問題かもしれませんが。) これらの症状は、その人の性格や精神の弱さの現れではなくて、病気の症状です。その人を責めるのは間違っています。またその人が変わってしまったと思うのも誤解です。病気が治れば、症状も消えます。

 〈うつ病になりやすい人〉

 まじめで、能力があり、責任感の強い人。物事を、順調に、そして完全に成し遂げようと考える人。うつ病の人を見ると、怠け者に見えることがありますが、本来は全く正反対の働き者の人達です。むしろ働き者すぎたために、脳が疲れた状態になっているとも言えます。そして、このようなまじめな人だからこそ、うつ状態で仕事のできないことが辛くてたまらないのです。 うつ病を抱えながら、ふつうの社会生活を送っている人達が大勢います。また、歴史に残るような業績をあげている人達もたくさんいます」(ネットサイト・心理学総合案内/「こころの散歩道」/癒しの道・臨床心理学入門 「うつ」の人とともに〈鬱からの癒し〉より)


鬱病・イメージ画像
鬱病者は、何もかも分っているのである。

 分っていながらできないのだ。

 とりわけ、その鬱症状がピークの際には、この病を得た者は自分のことしか考えられなくなり、他人との心の交流を自ら拒もうとする態度をしばしば見せる。それは、そのような状態に置くことで外界からの刺激的情報を自ら遮断し、それによってのみ自己を守り切ろうと考えるからである。

 本作でも、居間から見た異様な風景が紹介されていた。本作の主人公は、このとき明らかに、自分の身をそこに置けば、ギリギリに自己を守っていけるだろう狭隘な世界の内に潜り込んでいた。この構図を、観る者の多くは、「自分勝手なエゴイスト」という把握で処理する可能性が非常に高い。しかしそんな短絡的な把握では了解できない世界が、そこにあるのだ。

 この構図の意味を理解できるかどうか、それが本作を、その根柢において把握するか否かの分岐点になるであろう。冒頭で筆者は、若い観客にはこの映画を理解するのは困難であると言ったのは、その辺の含みもある。

 余談だが、私も長く深い「鬱」の世界に沈潜していた。

 原因は、本作の主人公と同じ交通事故である。但し私の場合は加害者ではなく、被害者であった。それも激甚な交通事故による被害者だった。その結果、私は重篤な脊髄損傷患者となり、現在に至っている。
 
 事故によって、私の身体の基本的自由は殆ど奪われ、社会的自立は無論のこと、生活的自立も果たされていない。自分で自分の体も拭けないし、食事も自立的に摂取できない。排泄の自律も達成できていないのである。この膨大なストレスと、事故のフラッシュバックによって、私は深い「鬱」の世界に踏み込んでしまった。

 周囲の医療関係者は、残念ながらその辺の認識が全くなく、しばしば、「気を落とさないで頑張って下さい」などと私に向って語りかけてきた。或いは、私の病床で祈りを捧げてくれたクリスチャンの訪問もあった。その祈りの途方もなく長い時間を、私は粛々と受容する態度によって堪え切ったのである。

 しかし私には、このような励ましが最も苦痛だった。

 「頑張る」ことの必要性を他人の何百倍も実感しているから、私は厳しいリハビリを自分の壊れかけた肉体に負わせてきたのである。鬱病者にとって、励ましこそ、殆ど言葉の暴力に近い何ものかであったのだ。自分が何をしなければならないかを分っていて、そのために必死の努力を重ねてもなお、それが達成できない辛さの中で、人は自らを甚振(いたぶ)り、苛(さいな)んでいく。
 
 私の場合は、自死を真剣に考え、それを実行するための方法について、日々、時間を潰していた。しかし叶わなかった。それでも安楽死を望む私の思いは、今も全く変わっていない。一応私は尊厳死協会に登録し、リビングウィルを済ませてはいる。しかし残念ながら、その程度のことでは殆ど気休めにもならない日常性が、私の現在の時間を支配しているのである。

 そんな私が、ようやく深い「鬱」の世界から一歩抜け出たと感じたのは、事故後5年目のときである。

 その頃には、私は一切の強い鎮痛剤の服用を断念し、ひたすらポピュラーな抗鬱剤のみに頼るようになっていた。それは、今でも変わっていない。私のような中枢性疼痛には抗鬱剤が有効であることを知って、「セルシン」、「トリプタノール」という薬剤は、今や私にとって「命の薬」となっている。この命の薬によって、私は何とか危機を脱したと信じているのだ。

 事故後5年目になって、私は今まで着手したくてもできなかった自分の作業に、ようやく、その身を預けることが可能になった。その一つが、このような文章を多く書いていくことだった。

 私の鬱症は、どうにかこうにか自分の中で、何とか折り合いがつけられるようになったのである。蓋(けだ)し鬱病は、言葉で表現することが困難なほどに極めて厄介で、手強い病気であるということ。それを、私たちは認識する必要がある。本作を理解するには、そのような学習努力が求められるのであろう。



 11  「恐怖突入」という方法論



 本作への言及に戻る。


 実質的なファーストシーンとも言える、皆川家の居間から捉えられた視界の構図のカットは、あまりに異様な風景だった。
 
 金銭目的で強談判に来た被害少女の祖父が目と鼻の先で叫んでいるのに、男はテレビ将棋に逃げていた。これは鬱の継続的症状の断面描写と考えられる。しかし本来的に生真面目な男は、いつまでも狭隘な世界へ潜ることにも疲れてきて、やがて街路に身を晒していく。男の脳裏から少女の悲痛な表情がいつまでも張り付いているのだ。

 結局、内的状況から逃げ切るだけの能力を欠如させる男は、事故現場に何度も立ち現われたのである。その度にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の片鱗とも思える悪夢が過ぎる。フラッシュバック(過去の記憶の再体験)である。それでも逃れられない悪夢を断ち切るには、悪夢のただ中に這い入っていくしかなかった。

 これを、「恐怖突入」という。森田療法(注)の概念である。

 男は恐怖突入を図ることによってしか、自らを救えないと信じる辺りにまで追い込まれていた、と考えることもできる。同時にそれは、自らの鬱症と正面対峙し、それを克服しようとする正常な自我の働きであるとも言えるのだ。


森田正馬(ウィキ)
(注)慈恵医大名誉教授の森田正馬博士が、戦前に開いた神経症に関わる理論で、現在に至ってもなお、その実践的な影響力は大きい。それは、患者自身が自らの病理を積極的に自覚し、その現実と主体的に対峙することによって、治癒をあるがままに受容していく療法である。「恐怖突入」とは、強迫観念(自我に執着する特定の観念のこと)で悩む患者がまさにその状況下で、強い意志を持って自らの観念を表出していくことによって、自我の執着を払拭する主体的な実践療法であると言っていい。



 12  「微笑」を手に入れるための旅



 この映像を考察する上で、幾つかの重要なキーワードがある。

 それらは、「人生の定年」であり、「鬱による喪失感とその克服」であり、「中年夫婦の老後の幸福」であり、「自我アイデンティティの獲得」であり、「自己と自己に繋がる者たちの再生」等である。いずれも自らを凝視し、抉り出し、自己史の総体を厳しく省察する作業によってしか振れていくこのとのない内面世界であり、関係世界でもある。

 そして、そのような作業の果てに「微笑」が待っているのだ。彼の旅は、この「微笑」を手に入れるための旅だったと言えないか。



 13  カーブミラーの光沢が放ったもの 



 
カーブミラー。

 それは男が恐怖の体験の中で、唯一残った媒体だった。それは最も重要な媒体だった。それがなければ、一人の少女を殺していたかも知れないであろう、想像を絶する恐怖から自らを何とか生還させてくれた決定的な媒体、それがカーブミラーだった。

 本来カーブミラーとは、「〔和 curve+mirror〕見通しの悪い曲がり角に設置する凸面鏡。曲がり角に隠れた自動車や歩行者を視認することができる」(大辞林より)ツールである。
 

 因みに、ここに高性能なカーブミラーを作る会社のHPの広告がある。

 「冬になると、道路のカーブミラーがしばしば凍結して何も見えず、危険な思いをすることがあります。このような状況をなんとかしたいと、横澤製作所では度重なる試行錯誤の結果、ついにシンプルで高性能な製品、防曇ミラーの開発に成功しました。防曇ミラーは、冬でもほとんど曇らない道路反射鏡です。シンプルな構造で高い防曇効果が得られ、他の方式の防曇ミラーよりも低コストで導入することができます。防曇ミラーで、少しでも交通安全に役立ちたい・・・」(横澤製作所HP)
 
 カーブミラーの存在の大きさについて、改めて確認されるような一文である。

 それは、ドライバーにとって不可避なる交通往来の利器であるにも拘らず、あまりに当たり前過ぎるその存在性によって、多くの人に殆ど気にも留められないで、其処彼処(そこかしこ)に立てられている。

しかしそれがなければ、ドライバーや歩行者の見通しが開けない絶対的媒体であることの重要性を、本作の主人公は改めて痛感したのである。それが存在することによって危険を回避できる有難さを身をもって知った男は、同時に自分の定年後の人生の見通しの悪さへのシグナルをも感じ取ったのではないか。

 少なくとも、カーブミラーを物語の中枢的存在に据えた作り手の狙いは、それが、男の定年後の人生の隠喩としてイメージされる何かであったと思われるのである。事故による男の人生の決定的中断は、ドライバーや歩行者を中断させるカーブミラーのイメージと充分に重なっていたのであろう。

 いずれにせよ、何年か前にこのカーブミラーがないことによって、男が事故を起したその場所で、一人の少女が命を落としたのである。少女の命の代償としてのカーブミラーこそが、男にとって特段な意味をもつ運命的な媒体なのだ。従って、命を落とした少女の祖父との出会いもまた、男にとって運命的な出来事だったのである。そして、そのカーブミラーに自らの相貌を映し出したとき、男は初めて、「微笑」らしき何かを手に入れかかったのである。

 そこに映し出されたもの。

 それは男のあまりにフラットな過去であり、本来自分がそこに辿り着くかも知れなかったイメージラインの片鱗であり、それらは即ち、男の現存在性それ自身を内側から問いかけていく根底的な時間意識であった。男はそこに、「今」という時間の重量感を嗅ぎとったのではないか。そう思う。

 然るに、男が市内のミラー拭きを続けていた頃には、まだミラー拭きの旅への具象的なイメージに繋がっていなかったと思われる。

 彼は唯ひたすら、感謝の念を表現するために市内のミラーを磨いたに違いない。そうしなければ、自己の内面的危機を克服できないと考えたのだろう。

映像で度々現出する事故の悪夢は、男の自我が「過去」によって縛りつけられている証左である。これは全国の旅に打って出た後も、男の自我にとり憑いて離れなかった。

 当然である。旅に出たくらいで、全てが浄化されるはずはないのだ。それでも男は旅を止めなかった。止められなかったのである。無論、メディアのためではない。自分自身が折り合いを付けられる辺りにまで、自我が充分に届き切っていなかったからである。映画は、このような重い問題を内包していたのである。
 
 平凡な人生を生きてきて、平凡な会社勤めを果たし、平凡な家庭を築き上げた。後は、もう少しでゴールを迎える定年に辿り着くだけだった。この男が定年後の人生に、どのような具象的イメージを持っていたかは分らない。

 妻の紀子には、そのイメージを彼女なりに持っていたであろう。妻はそのイメージを、夫に語っていたはずだ。そんな妻の言葉を、夫はどこまで把握し、了解していたのであろうか。どう考えても、夫が妻の言葉に真摯に耳を傾けていたとは思えないのだ。なぜなら夫の中に、自らのイメージを用意していなかったと考えられるからである。自分のイメージを持たない者が、相手のイメージをそのまま、最も重要な何ものかを受容する者のように吸収できる訳がないのである。
 
 しかし妻のイメージの中には、定年後の人生のパートナーとして、夫の存在を不可避とするラインが内包されていたに違いない。妻は夫に対して、特段の不満を抱いていたとは思えないからだ。

 不倫しない夫。ギャンブルに走らぬ夫。職務を誠実に遂行する夫。寡黙な夫。無趣味な夫。子供たちから特別な尊敬の念を抱かれていないが、しかし家庭を破壊する暴力性とは無縁なる夫。そんな夫に、妻は似た者同士の思いを共有していたのではないか。

 映像で観る限り、妻の紀子は誰に対しても低姿勢で、攻撃性を剥き出しにするような人格ではなかった。それは真面目で、誠実な人柄を示す指標とも言える。子供たちに対しても、普通の母親の感覚とスタンスを逸脱していなかった。それを考えるとき、この中年夫婦の「似た者性」が一層際立つのである。

 もし事故がなかったらと仮定したら、夫はどのような老後の人生を送っていたか。

 このテーマの仮定的な設定は、極めて重要である。その仮定に推論を加えると、もし事故が存在しなかったら、男の人生に劇的変化を随伴する時間が待機していたとは考えにくいのだ。夫は恐らく、妻のイメージラインに沿って、自らの思いを少しばかり寄せていったに違いない。それは、何の変哲もない人生だったかも知れない。しかし、それでも男は充足感を手に入れたかも知れないであろう。

 一切は仮定である。誰も人生の先を、明瞭なイメージで読むことなどできようはずがないのだ。

 しかし、男は事故を惹起してしまった。
 
 そのことによって、男は本来なら、もう少し後になって考えたかも知れないイメージラインを前倒しする必要に迫られた。その結果、男は自分の未来のイメージがあまりに稀薄であるという現実を知ってしまった。それは同時に、男のこれまでの人生の軌跡を省察させるものになってしまったのである。それは男にとって、決して悪いことではなかった。

 鬱という病気にしばらく潜り込むことで、男は生まれて初めて、本格的な「省察の人生」を、自らの内に作り上げたとも言える。

 顕在化された男の危機は、家庭の危機のそのとば口辺りまで亀裂を深めたが、幸いにして男には、その男を真剣に理解しようとする一人の女がいた。妻の紀子である。彼女は夫を弱々しく責め立てたが、しかしそこまでだった。男が事故の被害者となる出来事の招来によって、男の妻は、男にもう少し近づけるところにまで辿り着き、そして遂に男を了解するに至ったのである。

 その心理的経緯は、映像では詳細に映し出されなかったが、しかし夫を理解し得る妻の微笑をそこに刻むことによって、二つの心が一体化したことを印象的に映し出していた。恐らく、その妻の心象を描き出す必要がないほどに、夫と妻は本来的に繋がり得る一定の強靭さを包含していたのであろう。

 要するに、彼らは似た者同士だったのだ。
 
 それ以外に説明しようがないのである。

 妻の紀子の自転車が、夫のそれと殆ど同じラインに並んだとき、それは定年以後の二人の人生のパートナーシップを間違いなく表現していたのである。その意味で、妻の紀子にとって、偶(たま)さか、人生のパートナーとの絆を繋ぐツールとして二台の自転車が選択され、そしてその自転車で全国のカーブミラーを拭くための旅が選択されただけなのである。
 
 ラストシーン。

 あまりに象徴的だった。

それは、カーブミラーに映された中年夫婦が、彼らがこれから向っていく次のカーブミラーへの旅立ちを示す眩しいまでの走行だった。

 その眩しさは、彼らによって綺麗に磨かれたガラスの光沢が放ったものだったのだ。まさにこのラストのカットは、二人のこの中年夫婦の新たな人生に向う再生への思いを象徴することになったのである。

 

 14  特定他者の消費の構造



 最後に一言。
 

 この映画は、作り手の思惑の有無とは別に、現代メディアに対する強烈な風刺でもあった。

 現代メディアが今、異様な尖りを見せているのは、日々に発生する様々な事件、事故を恣意的にチョイスし、その中で視聴率アップに繋がり得る対象媒体に焦点を当て、その事象に含まれる問題性を限りなく膨らませていく。このときその対象は、限定的に選択されることによって「特定他者」となる。この「特定他者」を、メディアは徹底的に弄(いじ)くり回し、「消費」する。

 それは、「消費」される対象媒体が視聴者に飽きられるまで続くのだ。この構造を、私は「特定他者の消費の構造」と呼んでいる。

 本作はこの構造をコンパクトに描いていて、とても興味深いものがあった。更に、この映画が描き出したのは、そのようなメディアを利用して、自己実現を図ろうとする者が存在するという現実だった。メディアそのものが、男の自己顕示欲の発現の有効なステージになるばかりか、彼らの共犯性によって「特定他者」が恣意的に作り出される構造性を、本作は描き出したのである。

 そして、まさに本作の主人公とその妻は、このような過剰消費のラインと訣別して、本来自分たちが向うべきところの世界に旅立ったのである。このような見方もまた興味深いと、私は考えている。
                            
(2006年6月)

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