2008年12月14日日曜日

コンフィデンス 信頼('79)    イシュトヴァーン・サボー  



<時間を特定的に切り取れる女、切り取れない男>



 1  求め合う心が一つになって



 第二次世界大戦末期の、ハンガリーのブタペスト。

 厳冬のその日、一人の女が空席だらけの映画館で、ニュース映画を観終わって、外に出た。ブルーの映像の画面に映し出されたその町には、人っ子一人いない。異様とも思える風景だ。そんな風景の中で、突然、一人の男が女に近づいて、彼女の腕を取った。

 抵抗する女に、男は手短に告げたのである。
 
 「家に帰ると危険ですよ。ご主人も逃げました・・・なぜか、ご存知でしょう」
 
 男は河辺のベンチに女を坐らせて、話を具体化させていく。
 
 「泊る所ありますか、遠くに?」
 「誰と?」
 「ご主人の仲間を誰か知りませんか?」
 「いいえ、誰も」
 「結構。聞かれたら、そう答えて下さい」
 「私を見張っていたの?」
 「当局に捕まると困りますからね」
 「なぜ?私は何も知らないわ」
 「ご主人のためです。どこに隠れますか?」
 「分らないわ。どこへ行っていいやら」
 「では、セント病院へ行きなさい。外科のドクター・ツァコの所へ」
 
 その後の描写は、指定された病院に女が行って、ドクター・ツァコと思しき男から、一方的に地下に潜ることの指示を受け、それを確認する場面だった。

 女は、ブタペストに住む平凡な主婦である。その名はカタリン。

ソ連軍によるブダペスト包囲戦(イメージ画像・ウィキ)
しかし彼女の夫が、ナチス統治下のハンガリーでレジスタンス活動に身を投じているため、活動とは直接関係ない女の周囲にも危険が及んだのである。彼女もまた、地下生活を余儀なくされることになって、ドクターから偽装市民として生活することを求められたのだ。

 彼女が偽装する市民の名は、ビロ・ヤノシュ夫人で、シモー・カタリン。その名は本名と同じ。コロジヴァル生まれ、両親は死亡。そして、夫のヤノシュは38歳の化学者、娘の名はユディット。現在は親に預かってもらっているという設定だ。

 女はその偽装市民に成り済まして、未知なる場所の、未知なる男に会いに行くことを避けられない状況に置かれてしまったのである。合言葉は“子供は無事”。女は既に書いてもらった地図を持って、未知なる夫のもとに行くことになった。


 女はまもなく、「ヤノシュ夫人」となって、相手の男の家に住むことになったのである。

 「戦争に行った彼女の息子の部屋を借りている。息子の婚約者がよく覗きに来るが、ナチスだから気をつけて・・・」

 男は初対面の女に、自分が借りている部屋の事情や家主の老人夫婦などについて詳細に説明した。部屋の段取りや、屋敷内での態度についても説明するが、肝心のカタリンの本当の夫の事情については、全く答えようとしなかった。男もまた、レジスタンスの活動家であり、相当猜疑心が強くなっているのである。

 「勝手に外に出ないように」

 男はそう注意して、女の元を離れようとした。

 「でも、夫のことが心配だわ。急だったから。家にメモでもないか、見に行きたいわ。暗くなったら裏階段で診察室へ・・・夫は医者なの」

 不安に駆られた女は、夫のことだけが気懸かりでならないのだ。

 「ダメだよ。君は僕に預けられたんだ。指令に従っているだけだから、君もそうして欲しい」

 これが、偽装の夫となった男の反応だった。

 そして、今このときから、二人は偽装の夫婦として、この密閉した生活空間の中で共同生活を始めることになったのだ。

 「悪いが他人の手前、夫婦の真似をするよ」とヤノシュ。
 「私もそうするわ」とカタリン。ヤノシュ夫人である。

 女は偽装の妻として、男と共に最初の夜の晩餐に臨むことになった。

 偽装の夫婦は普通の夫婦のように振舞って、老夫婦が用意した粗末な食卓を囲んだのである。そこでの会話は、妻の娘の心配をする老夫婦へのカタリンの対応が中心になった。食事を終えて、部屋に戻った男は、女に早速注意する。

 「細かいことを言っちゃダメだよ」
 「どんなこと?」
 「娘が髪を長くしているなんて。僕が別のことを言っていたら、すぐに疑われる。不注意な一言が命取りになるぞ。間違えちゃいけない。彼らは味方じゃないんだよ。我々に部屋を貸しているだけだ。息子の嫁になる女はナチスなんだし、ボロを出したら、すぐ密告される。だから、余計な話をせぬこと。日記やメモなどを書かぬこと。いいね」
 
ハンガリーの風景①ブダペストのドナウ川(イメージ画像・ウィキ) 
男は女に必要なことだけ一方的に伝えて、ベッドに潜っていく。
 
 
 女はベッドの中でうなされるような一夜を過ごして、男に起こされた。男と迎えた初めての朝が訪れたのである。
 
 「良く寝たね。寝心地はどうだった?」
 「ごめんなさい・・・」
 「起きるの、待ってたんだ。腹減ったよ」
 「恥ずかしいわ」
 「疲れてたんだろう」
 「私がここにいること、夫は知っているの?」 
 「知らされると思う」

 それ以上の会話はなかった。

 しかしそんな会話からまもなく、男は女に対して厳しい忠告を重ねていく。老夫婦との女の対応が気になってならないのだ。

 男は女が持っていた家族の写真を燃やすことを命じ、女はそれに従うばかり。男に深夜に起こされて、偽装の夫婦であることを男に試される。そんな緊迫した日常に、女は思わず落涙した。

 「なぜ、夜中に起こしたの?」
 「いいか、僕らは暗い森にいるんだ。君が僕の後からついて来る。信用できない者だったら大変だろう。殺される前に、君を殺さなけりゃならない。分るね?」

 そこまで言われて、女はもう反応できなくなった。そこでは、女は一方的に管理される立場でしかなかったのである。

 たまに外に出ても、女は男から叱責された。女が、街路に立つナチの歩哨に視線を移したからだ。

 「早く来い!グズグズするな!」

 男は怒鳴って、女の腕を掴み、夫婦のように見せかけた歩行を演じてみせる。状況が生み出した男の警戒心は、心の呟きによって語られる。

 “あいつは何だろう?見覚えのある顔だ。俺たちを見ている。さっきから尾行してるんだ。振り返っちゃいけない。つけて来ないな、よし。誰かを待っていたんだろう。近頃、神経過敏だ。この調子だと、狂っちまうぞ”

 その後も、男の過剰な猜疑心によって、女は試されていく。

 ヤノシュの部屋を、レジスタンスの連絡員が訪れたときのこと。連絡員は女とさり気なく会話するが、その目的は女のテストにあった。

 「またテスト?二人とも満足した?面白かったでしょう。まだ疑ってるの?」

 それに対する男の反応は冷淡だった。

 「心は読めない。僕は人を疑わなければならない境遇だ。誰が裏切っても驚かなくなってるんだ」
 「それで幸せ?」

 女は、男の心にラインを合わせられないでいる。

 「心配だわ。子供のことも夫のことも・・・」

 夫婦喧嘩と間違えられ、老父の前で涙を見せた女は、男にそう呟いた。勿論、男からの反応はない。女は相手の反応を期待しないし、男も反応することに意味を見出していないからだ。

 二人は表に出て、レストランに入った。

 別々のテーブルで食事をするが、店内にいる見知らぬ人々からの視線に囚われるばかりで、心の落ち着く時間を持てないでいた。そんなとき、女は一人のユダヤ人の女性から保護を求められて、それを拒んだのである。それは、女の心のラインが、男のそれに近づいたことを示していた。

 二人の物理的共存の継続が、限定的な空間の中で日常化されるようになっていくにつれ、二人の心はいつしか重なっていった。不安感情の膨大な高まりに、二人はもう、その身を固く寄せ合っていくしか術がないようであった。

 男がその不安を、女に向かって吐き出すようになったとき、二人の求め合う心が一つになって、その身もまた一つに溶け合ったのである。

 “あなたは私の愛人よ”

 これは、二人が初めて結ばれた夜を過ごした後の、女の心の中の呟き。満足感に満たされた女は、暗い表情を見せる男に語りかけた。

 「後悔しているの?昨日のこと、忘れてもいいのよ・・・」
 「夕べは素晴らしかった。手を握っていたいよ。それでいいか?」
 「急によそよそしくしないで。なぜそうなの?」
 「性格だろう」
 「あなたは私より臆病なのよ」
 「自分の変化が怖い・・・」
 「私はあなたを愛しているのよ」

 女にそう告白された後の、男の心の声。

 “信じちゃいけない。彼女は僕を骨抜きにしたいんだ”

 その後の、女の心の声。

 “もう他人じゃないのよ”

ハンガリーの風景②ブダペストの国会議事堂(イメージ画像・ウィキ)
男と女は、それぞれの思いの中で微妙な落差を見せつつも、より深いラインの辺りでクロスし合っていたのである。

 

 2  呼ぶ男、反応しない女



 二人は恋人同士のようにして、ブタペストの町を散策していた。レジスタンスの同志と連絡を取るためである。

 そこでたまたま、ヤノシュはドイツの留学時代の旧友から話しかけられた。彼は今、ナチスの将校になっている。旧交を確かめるために訪ねたいと申し出る彼に、ヤノシュは最初は断るが、「ゆっくり話したい」と求める友人に対して、それを承諾するに至った。相手のナチ将校は、大戦末期の世相を率直に憂いていた。

 「近頃は、じっくり話せる相手がいなくてね。誰も信じられないのさ。しかし世の中も変わったな。想像もしなかったほどだ。君も突然消えたね・・・これは失礼。懐かしさに自分ばかりはしゃいでしまって・・・」

 そのとき将校に、「ユダヤ人がいるから逮捕してくれ」と密告してきた老婆がいた。彼はうんざりした様子で、吐き捨てた。

 「そんなことは警官に言いなさい」

 状況が人間を醜く変えていく姿に、彼は二人に本音を吐いた。

 「全く嫌な世の中だね。ああやって、平気で人を売るんだから」

 彼は明後日訪ねると約束して、その場を離れて行った。

 ユダヤ人のことが気になるカタリンは、逮捕されることを教えてやろうとヤノシュに求めるが、彼の反応は冷淡だった。

 「人のことは構うな」
 「そんなの卑怯だわ!」とカタリン。

 ヤノシュは女の腕を取って、その場を素早く立ち去ったのである。
 
 二人が帰宅したとき、大家の話で、留守中に背広姿の男が訪ねて来たことを知ったヤノシュは、何もかも拒絶的だった。

 「そんなに心配なの?誰も信じられないの?」とカタリン。
 「この国は泥沼なんだ。掻き回せば汚物が浮いてくる。生きていたかったら、人を信じないことだ。できるだけ、人と話さないことだ」
 「私にもそうなの?」
 「こんな時代だから仕方がない。美徳を発揮してばかりいられないさ」
 「聞きたくないわ!」

 そう叫んで、彼女はその場を立ち去った。

 その夜、女は「隣に寝させて」と甘えるようにして、男のベッドの中に潜り込んだ。男は女を受け入れる。今、男にとって、この女以外に心を預ける者が存在しないのだ。そんな男の気持ちを見透かすように、女は静かに語りかけていく。

 「なぜ、愛せないの?なぜ、自分の殻に閉じこもるのよ。時々、優しい眼になるのに、すぐ冷たくなるなんて・・・」
 「環境だよ。故意じゃない」
 「感情がないみたい」

 そうはっきり言われた男は、反発するようにして、心の中で言葉を刻んでいく。

 “君は夫や子を忘れて楽しんでいる。平気なのか?”

 そんな男の心を見透かす女は、思いを言葉に出す。

 「私だって内心は不安なのよ」

 更に、男の心の中の声。

 “僕は女が怖いんだ。ドイツで愛し合ったエルザは、毎晩、窓から僕の部屋に通って来ていたのに、僕を警察に密告した”

 この描写によって、男の異常なまでの猜疑心の理由が明らかにされた。男はそのことを思い出してか、傍らの女に溜まったストレスを吐き出した。

 「いい加減にしてくれ。恥知らずは嫌いだ」
 「そう?あなたには何を見られても平気よ。おしっこだって出来るわ。いいでしょう?」

 女は男の胸に、ストレートに飛び込んでいく。

 それでも女は、そこに叫びを加えた。

 「薄情者!バカ!弱虫の分らず屋!何とかしてよ・・・」

 しかし、男の心の中は、女を受容できない思いがどこかで張り付いている。

 “この女まで警察の手先だったら、どうすればいい?”

 男は女を抱きながら、自分の過去に刻まれた最悪の事態を思い出しているのだ。それでも男は女を求めざるを得ない。自分の置かれた極限状況がそうさせるのだろうが、男の中では、どこかで理念系が蠢(うごめ)いているようでもあった。

 「僕の同期生たちは皆偉くなって、外国に渡っているよ。一度は革命ごっこに手を染めたが、怖くなって逃げた。才能もあったし・・・」
 「あなたは才能ないの?」
 「どうかな。二流の革命家だと言われたことがある。どうもそうらしい」
 「誰が一流なの?」
 「勇敢な奴」

ハンガリーの風景③ケレシュ山(イメージ画像・ウィキ)
男は女に、心の奥に澱む思いまでも吐き出していく。女はそれを吸収するのだ。

 自分を臆病な革命家であると考える男は、女に隠れて、自分に書き送ってきた妻からの長い手紙を読んでいた。

 “あなた、突然で済みません。手紙なんか書くのは10年ぶりですが、お怒りを恐れずに書いています。先日のあなたが冷たすぎたので、時代のせいだとは思いながら、私にはショックでした。それに悪い夢を見たんです。あなたが女の人と一緒に歩いて来て、私にあっても無視なさるの。ついて行こうとすると、もう私には用はないって。夢だけど、とても悲しくなりました。愚かな妻のヤキモチですが、ここ数日、やるせない思いが募るのです。特に、夢の中のあなたの言葉が忘れられません。もう、お前に用はないとおっしゃったのが、気になって仕方ないんです。どうか連絡して下さい。いつでも待ってます。しばらく夫婦生活がないのも苦痛です。恥ずかしい夢を見て、汗をかいたりします。あなたに対する恋しさは、結婚当初よりも強く、深くなりました。近頃は、寂しさと空しさに負けそうです。いつまでもあなたと離れては、生きる張り合いがありません。愚かな妻を許して下さい。お体を大切に。かしこ”

 妻からの思いのこもった手紙を読み終わった男は、それを直ちに破り捨てた。証拠を残さないためである。男は妻を心配させまいとして、その場で着替えて表に出て、電話ボックスから妻に連絡を入れたのである。

 「手紙を読んだら、声が聞きたくなった。僕だって会いたくて、よく君の夢を見るよ。我慢してくれ」

 男のその言葉は、自分の現在の負い目を否定的に言語化することで、自分の時間の正当性を確認したいという思いの表現でもあった。

 そんな男の狡猾な感情は、部屋に戻った際に、ベッドで自分を待つ女に向かって表出されていく。

 「僕は今、君を愛している。だが、妻も愛しているんだ」
 「どうして今、それを言うの?」
 「君を欺きたくないからさ。妻がいるのに・・・」
 「知ってたわよ。初めてのときにも、妻がいると言ったわ。私にだって夫も子もあるのよ。迷惑はかけないわ。私は夫を愛していないと思うの?告白は“手切れ”なの?」
 「止めろ!」
 「あなたは臆病なのよ。女に弱みを見せるのが怖いのよ。情けない男だわ!あなたは誰とも一緒に暮らせない人よ」

 女は男をはっきりと見透かしていた。

 だから男は、女に向かって怒鳴るしかなかったのである。そんな男を、女は見捨てられない。そんな男だからこそ、見捨てられないのかも知れない。少なくとも、今このとき、女にはこの男しかいないのだ。この男に頼る以外に、自分の身を守る術もないのは事実だった。

 そんなとき、思いもかけない事態が出来した。

 カタリンは、隠れ家に住む夫に会うことができたのである。自分の胸に飛び込む妻を、夫は優しく迎えた。

 「会いたかったよ、君に。子供も元気だそうだ」

 しかし、自分を受容する夫に対して、妻は納得できない感情を持っていた。

 「ひどいわ。何も教えないで。あなたが大勢の仲間と地下活動していたこと。そう言えば、よく黙って出かけたけど、どうしてなの?妻が信用できないの?」
 「教えないのが君のためと思ったんだ。君はまだ子供だから」
 「子供と結婚したの?」
 「危険が去ったら教えるつもりだった」

 夫はそれでも納得しかねている妻に、ベッドの中で言葉を添えた。

 「あと半月もしたら、一緒に暮らせる。それまでの辛抱だ」
 「このまま離さないで。それなら、一緒に私のところに来て」
 「迎えに行くよ」

 そんな会話の後の映像は、手紙を残して去った夫に未練を残すかのようなベッドの中の妻。ブルーに染められた映像が、それ以外に心を預けられない女の孤絶した内面世界の印象を結んでいた。

 まもなくヤノシュのもとに、女は戻った。

 男の胸に飛び込む女。それを受け入れる男。二人の関係は、偽装夫婦の役割を既に超えていたのか。

 「夫に会ったの」とカタリン。

 驚く男に、女は自分の心の中の当惑を言葉に刻んだ。

 「あなたが好きよ。言わなけりゃ良かった。私って、バカね」
 「これからは言わないでくれ。いちいち告白する必要はない。それに、夫と会うのは当然さ。僕は愛人なんだから・・・」
 「止めて」
 「気にしなくていい。だが、聞く方は辛いから言うなよ・・・自然の成り行きだったんだ」

 男はそう言い残して、部屋を去っていった。

 去った男は、長時間戻って来なかった。

 部屋の中で、女は苛立っている。男を待ち続ける女がそこにいた。まもなく帰宅した男は、待たせた女に心にもないことを言い放った。

 「分っているはずだ。深入りすべきじゃない。我慢しなけりゃダメなんだ。こういう時節柄・・・」
 「何を我慢しろと言うの?私を一晩中放っておいて、いいと思ってんの?バカにしないでよ。あなたの奴隷じゃないわ!・・・夫も暴君だけど、もう少し優しいわ。私をオモチャにした点は同じだけど!私はセックスの道具にされたのよ!本当のことを言って、何が悪いの!」
 「同情はする」
 「嘘よ。口だけだわ!」
 「嘘じゃない」

 女は手元にあるウィスキーの瓶を、男に当たらない場所に投げ捨てた。瓶の無機質な破砕音が部屋を劈(つんざ)いた。

 男はただ黙って、女を見つめている。その眼は悲しげだった。女はそんな男の心の襞(ひだ)に触れて、優しく言葉を添えた。

 「私はあなたを愛しているのよ」
 「君が分らなくなった」
 「お互い、それでいいんだわ」

 そこには、昨日もそうであったように、今もまた、男と女しかいない。男の方から弱音を吐いた。

 「毎日、不安と戦っていると、人間ダメになるんだ。性格なのかな。時々、自分が嫌になるよ。隠れないで済む日が来たとしても、忌まわしい記憶を振り切れるだろうか?自信ない。僕の家は金持ちだったが、反ブルジョア時代になって、親は貧乏な行商人だったと、嘘ついて暮らしてきたんだ。今でも聞かれれば、そう言う。誰かに嘘つきと罵られたら、気が晴れるかも知れない。自分から告白したいとも思うが、やっぱり勇気がない。父も同じだったんだ・・・」

 これが、一貫して二人の男女の内面世界を追い続けた映像が記録した、男の最後の長広舌なる告白となった。

 状況は急展開していった。

第二次世界大戦時のハンガリー軍
ナチスの統治下のブタペストで、労働者の暴動が始まったのである。それは、連合軍の反攻の始まりだった。

 町の風景は一変した。
 商店の略奪と無差別殺人が其処彼処(そこかしこ)で惹起され、河に投げ込まれる死体が増えていくという異様な事態が出来したのである。

 そんな極限状況下での、男と女の会話。

 「こうして一緒にいられるのも、今日が最後かも知れないわね。あとが問題よ」
 「“あと”って、何のあと?」
 「戦争が終わったあと」
 「どうする?」
 「あなたと一緒にはいないわ。嫌いだから。でも私の体は別よ。ここへ来たときの私とは変わってしまって、お別れするのが寂しいの・・・今の私はこの関係を続けたい。悪い女ね・・・」

 そして深夜になった。年が変わったのだ。二人はまだ一緒にいる。

 男の心の中の声。

 “心さえ自由であればいいのだ。このままじっと我慢して時期を待とう”

 今度は、言葉に刻んだ。

 「健康でさえいれば何とかなる。今年もそれでいこう」
 「新年の希望は?」と女。男に尋ねた。
 「仕事と子供と仲間が欲しいよ」と男。即物的に答えた。

 年が明けて、なお二人の関係は続いている。状況の変化に、二人とも苛立ちを隠せない。些細なことで口論も繰り返される。

 女は男の心を試したりもする。

 「出てって欲しい?」
 「浴室でくらい一人にしてくれ。僕に自由はないのか?」
 「あなた次第よ。臆病でさえなければ素敵な人だわ。私の知っている人では最高よ。きっと偉くもなるわ」

 二人とも、少しずつ追い詰められていたのである。


 戦争は終結し、状況はいよいよ尖りを見せてきた。男は女に自分の決意を告げたのである。

 「危なくなったから、僕は隠れる。その内必ず連絡する」

 男は去り、女は残った。

 残された女は新しい身分証明書を作るために、当局に申請に行ったが、埒が明かなかった。ナチス占領下で二人は何をしていたのかと問われ、隠れていたことを正直に告白しても、簡単に申請が下りなかったのである。相手はヤノシュの思想傾向を執拗に聞き、反動分子の疑いを持っていたのだ。

 失望したカタリンは、とうとう諦めて帰宅した。

 しかしそこに、ヤノシュはいなかった。一人で男を待つ女の前に現れたのは、女の夫であった。彼女は思わず夫に抱きついて、落涙した。

 その頃、女を捜す男が一人で動いている。身分証明書を申請する長い行列の中に、男は懸命に女を捜しているのだ。

 「ビロ・ヤノシュ夫人!ヤノシュ夫人、いないか!どこだ?ヤノシュ夫人!」

ドイツ の戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判(イメージ画像・ウィキ)
夫のもとに戻った女を求めて、男は必死に彼女の偽名を呼んでいる。しかし男の呼び声に反応する女の声は、遂に男の耳に届くことがなかった。

      
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 3  男と女の心理と生理



 この映画の解読に当たって、不要であると思われる概念が、少なくとも二つある。

 一つは「歴史的背景」であり、もう一つは「キャラクターの役割性」という概念である。従って、本作を評論する上で、「第二次世界大戦」、「ハンガリー」、「レジスタンス活動」などという概念は殆ど意味をなさないであろう。

 この映画にとって重要なキーワードは、「限界状況に置かれた人間の心理、とりわけ、男と女の心理と生理」である。それ以外ではないのだ。

 映像はレジスタンスの活動家をモデルにしているのに、その活動の内実を最後まで映し出すことをしない。 男がどのような役割を果たしているのか、それすら全く描かない。彼らをそこまで追い詰める時代状況への言及も殆どない。だから、ナチス統治下の恐怖も、観る者の想像に任せるばかりなのだ。

 更に映像は、ブタペスト市民の日常生活への言及についても、一貫して無関心であった。大体、ブタペストの市民の生命の律動が全く描かれることはないのである。偽装夫婦が借りている老夫婦の生活についての描写も、最後まで形式的で、表面的な言及に留まっているに過ぎない。

 映像が、それらの描写を確信的に削り取ることで描こうとした世界は、限界状況下で夫婦を偽装した男と女の、その微妙な心理と生理以外の何ものでもなかったのである。それ以外の関係が一方的に遮断される特殊な状況下にあって、二人の関係の物理的共存が急速に深まるのは必然的だったと言えるだろう。

 その結果、自分の心を預ける対象が限定されるに至り、そこでの会話の内実は、次第に偽装夫婦の形式性を崩していくようになる。それもまた、必然的帰結だった。

 会話の内実がレジスタンス活動とリンクしない文脈を分娩させていくのは、そのような状況下に置かれた人間の心理を俯瞰した場合、自然な流れと言っていい。

 なぜなら人間が最も恐れるのは、自らの自我を常に武装化しているような状況が継続することであり、そこに一時(いっとき)でも、自我の解放の出口が手に入れにくい時間が常態化していることである。そのような状態が時間の中で固まってしまうと、人は常に不安に駆られ、それが膨大なストレスとしてプールされていくことになる。人間がこのような時間に耐えていくには限度があるだろう。

 ストレスの飽和点を越えたとき、人間の自我はしばしば劣化して、予想だにしない崩壊感覚を味わうことになるかも知れない。だから人間は自らの自我の解放の出口を、常に確保しておく必要があるのだ。それが叶わないような心的状況を、「精神的孤立感」と呼んでもいいだろう。



 4  精神的孤立感



 ここで映像から離れて、「精神的孤立感」について言及してみよう。


 それについて言及するテーマとして、「洗脳」という問題を取り上げてみたい。

「影響力の武器」(チヤルディーニ著、誠信書房刊)という著名な本がある。
 
 その中で、朝鮮戦争の折、中国軍の捕虜となったアメリカの軍人が、いとも簡単にコミュニストになったことが報告されている。古くて新しい洗脳のテクニックの問題は、結局、物語なしに生きることが困難な人間心理の、その奥深い闇の部分を照射せざるを得ないのである。

 これは、新興宗教での過激なマインド・コントロールの事例によって既に周知であるが、刑事事件の容疑者として、取調室で刑事と面対するような状況でも、類似の心理の発生が充分に考えられる。この心理は、ある種の極限状況下での産物と言っていい。

 見覚えのない限られた空間の中に、寄る辺のない一個の自我が置き去りにされている。その自我の周囲には、敵対的な自我が圧倒的に囲繞している。この逼塞感は決定的である。際限なく続く負性の状況が寄る辺なき自我を甚振り、いつまでも弄(もてあそ)んでいくかのようである。どこにも助けを求められず、何ものも乞えず、声も上げられず、律動も刻めず、プールされた感情の排出口も全く見当たらないのだ。

 精神的孤立感がピークに達したとき、思いがけないストロークが、測ったようにそこに投げ入れられた。敵対的だと信じて止まなかった相手が、突然柔和になって、寄る辺なき自我を優しく包み込んできたのである。それは計算された甘言であるに違いなかったが、孤立を極めた向こうに待っていたかのような、おどろおどろしい未知の恐怖に拉致されかかった寒々とした自我には、もうそれでも良かったのだ。

 逃げ場を持てない状況の中で、ソフトな語り口が寄る辺なき自我を吸収する。その語りの内実もまた、未知の恐怖の匂いを届けてきたが、空洞を広げた自我は、それをすかさず解毒した。

 やがて、その怪しき語り口から胡散臭さが消えて、代わりに魔性の香りが仄かに漂ってきた。その香りが寄る辺なき自我を包み込んでいく。

 自我はただ抜け出したかったのだ。寄る辺なささえ中和されれば、どこでも良かったのだ。「脱出願望」と「共有願望」という馴染みにくい感情がそこに繋がって、一気に集合を果たした者のパワーに転化したのである。

 恐らくあらゆる自我は、極限的に深まっていくだけの孤立感に、なかなか耐え切れるものではない。時間の向こうに曙光が微かにでも捉えられるなら、それを拠り所に、自我は律動を刻むことができるのである。

 何もないから辛いのだ。

 この辛さは、破綻しかかった物語が補正を受けられないでいる辛さである。この物語に全く異質な物語が喰らいついてきたら、辛さに震える自我は、もう喰らいつかれるままになってしまうかも知れない。自我は物語の一定の共有領域を手に入れて、それを確かめずにはいられないのである。

 精神的孤立感からの脱出と、物語の共有願望が一元的に達成する奇跡なる輝きを、寄る辺なき自我が半睡の中で歌い上げるとき、私たちの世界に古くて新しい魂の劇的な転位が、そこに放たれる。洗脳の奥深い澱みには、底なしの孤立感の、その名状し難い重苦しさがある。その出口の見えない重苦しさが、今まで出会ったことのなかったような異界の物語に吸い込まれていくことで、目立って軽快に振れていく。

 捨てて、捨てて、踏み入れて、抱かれてようやく手に入れた魂の安らぎ。

 そこに共有幻想が完結した。寄る辺なき自我は、もうゆっくり眠れるのだ。耐えがたき寂しさはここにはないのである。
 
 以上の文脈は、「洗脳」についての言及(拙稿・「精神的孤立感」参照/「心の風景」より)に限定したものだが、しかし洗脳される主体の自我が置かれた「精神的孤立感」の状況は、それに近い状況に置かれた自我にとって、洗脳という概念の内包する範疇を遥かに超えて、明らかに普遍的な共通性を持つものであると言えるだろう。



 5  映像の中の精神的孤立感



ここで、映像に戻ってみる。


 カタリンという女性が置かれた心理的状況は、まさに彼女の自我に突然ヒットしてきた予想し難い状況であった。それは紛れもなく、「精神的孤立感」以外の何ものでもなかったと言える。
 
 然るに、彼女は自ら置かれた立場についての一定の不安感情を、既にそれ以前の生活様態の中で、それなりの形で抱えていたであろう。夫がレジスタンスの活動家であるという明瞭な認識を持っていなかったが、ナチス統治下のブタペストの状況は、大戦の末期に近づくほどに険悪な様相を呈していて、その状況に特定的に絡む夫の立場の不可解な行動に不安を感じていた分だけ、彼女の中のストレスも状況の険阻化に比例して増幅されていたに違いない。しかしそれでも、そんな状況下で意識裡に形成された、「非日常の日常」の時間に馴化する態度も備わっていたと思われる。

 それにも拘らず、彼女が突然拉致されるようにして強いられた生活の様態は、明らかに彼女の自我の処理能力を超えるものだった。何より、最も信頼していた夫を一瞬にして失ってしまったのだ。その生死も分らず、狼狽(うろた)えるばかりの自我に被さる負荷は、その許容範囲の絶対量を超えていったとき、一人の平凡な女はもう、自分を呪縛する状況に翻弄され、その状況に有効に反応していく、生存と適応に関わる戦略を駆使していく以外になかったであろう。

 女が半ば強制的に、生活のシフトを命じられた未知のゾーンの中枢に、全く面識のない無愛想な男がいた。その男は、自分の夫と同じ思想のラインで動く、一人のレジスタンスの活動家であるという認識を持たされるものの、男の印象は女にとって、「反ナチの闘士」というイメージとはほど遠く、拉致されたその女は、相手の本当の素性はおろか、男の地下生活での役割ですら全く知ることはないのである。だから女は、その男に心を預けることができず、初めから自らの自我の武装を過剰に強いられるばかりとなった。

 そんな男が、常に強圧的ではないが、殆ど一方的に命令し、夫婦としての偽装の役割を強いてくる。女は恐らく、相手の男の異常なまでの猜疑心に対して、自分の夫とは明らかに異なる人格イメージを感じ取っていたであろう。
 
 女はそんな男と、閉鎖的で特殊な空間の中で、それ以外に出口の見えない物理的共存を強いられたのである。それは男にとって、「非日常の日常」であったかも知れないが、女には「非日常の日常化」が生み出す相対的秩序への時間のシフトを容易に果たせないのだ。だから女は、日夜うなされるだけの恐怖に囚われていて、涙も枯れることがなかった。まさに「精神的孤立感」の縛りの中に、一人の平凡でしかない女が繋がれてしまったのである。



 6  時間を特定的に切り取れる女、切り取れない男



 人は「精神的孤立感」の只中にあるとき、そこで出されるあらゆるストローク(心理学用語で、人の存在を認める行為という意味)に対して、過剰なまでに反応していくものである。そうでなければ、人はその辛さに潰されてしまうのだ。

 幸いにも、男は暴力的に自分を管理することをしなかった。それどころか、男の猜疑心の根っこには、ナチス親衛隊への密告を必要以上に恐れる臆病さがあった。女はいつしか、男の心を見透かすことができる余裕を持つに至っていたのだ。

 女の適応力の凄みが発揮されたとき、女はもう男との関係において、心理的レベルで対等になっていたのである。男の弱さを知った女は、却って男の孤独の感情に触れることになり、そこにある種のシンパシーが生まれていく。

 但しそれは、極端な物理的共存の状況が常態化していたからこそ見えてきた心理的風景であったと言えるのである。男と女がその裸形の自我を晒すに至ったとき、二人の偽装の夫婦の関係から、その偽装性が身体の領域で、まず剥がされていったのである。全く面識のなかった二人の人格は、一人の男と一人の女の裸形の関係の中で溶融したのだ。
 
 しかし男は女に対して、自分の中の猜疑心を捨てられない。捨てられないのだ。男にはかつて、女に裏切られた過去を持っていたからである。男もまた、相当の「精神的孤立感」を味わっているのである。

 この孤立感の不快な時間の継続に、男の自我がいつまでも堪え切れるものではなかった。男は女の体を求め、そこで束の間自分の自我を裸にしたのである。裸にしたことで楽になった男の自我は、明らかに女の柔和な包容力の中で甘えていた。甘える対象を切望しなければならないほど、男の自我は内側に抱えたストレスで磨り減っていたのである。

 まもなく男は、男を待つ自分の本当の妻から手紙を受け取った。

それは、自分をどこまでも信じて待つばかりの女の心情の吐露であった。そんなとき、男はたいてい狡猾になる。自分の行動を合理化するための言葉を作り出していくのである。            

 例えば、こんな風にだ。

 「自分は、本当は妻を愛している。しかし今、その妻の元に帰れない。自分は社会のために戦っているのだ。だから、見知らぬ女との現在の情愛の生活は仮の姿であって、夫婦をカモフラージュするために必要なことであり、その継続も止むを得ないのである」

 この辺りが、男の厄介なところである。

 当然、そこに個人差はあるが、多くの場合、男は大義名分がなければ生きていけないようである。自我に一定の整合性を、常に求めて止まないのだ。従って、自我の抑制力が情動を支配するという自己確認を必要としてしまうのである。その辺が女と違う所だろうか。

 女の場合、抑制的自我と情動を大義名分なしに分けることができやすいと思われるが、男にはそれができない。情動と自我は別ものではなく、前者は後者によってのみ自在に管理され、動かされていくという幻想から自由でないところがあるように思われる。

 だから男が不倫するとき、常に男は逃げ場所を確保して止まないのである。その逃げ場所として用意される大義は、「これは浮気であって、ほんの火遊びのゲームなのだ」という常套的なフレーズであろう。
 
 映像の男もまた、妻の声を確認しなければならなくなった。
 夫が他の女に走っている悪夢に悩まされる妻の自我を安心させねば、自分が贖罪意識で煩悶してしまうのだ。だから男は妻に、自分の声に安心感を被せて、それを届けたのである。

 女はどうだったか。

 まず、自分が心の底から求めて止まなかった夫から連絡を受けたとき、女は夫の妻にリターンすることに躊躇しなかった。しかし、夫は書置きを残して、女のもとを離れていった。一人、ベッドの中に取り残された女は、夫を演ずる男の元に戻り、今度は彼の胸の中に飛び込んだのである。

 女を忘れられない男は、理性的に振舞いつつも、女の行動にどうしても納得がいかなかった。男は女の元を去り、一時(いっとき)姿を消したのだ。しかしすぐにまた女の元に戻って来て、二人の時間を繋いでいく。女もそれを受容したのである。

 まもなく、極限状況が切迫して、時代が大きくシフトしたとき、二人の愛は決定的に試されていく。

 自分の身に危険を感じた男は、必ず戻って来ると言い残して、女のもとを離れていった。取り残された女は、自宅に戻り、男を待った。しかし女のもとに現れたのは、彼女の本来の夫であった。思わず、夫の胸にその身を預けて、落涙する女。そのとき、女は長く自分の情動を支配していた世界から決定的に切れたのである。

 最後に置き去りにされたのは、男の方だった。

 女を求めて、叫び続ける男が映し出されて、映像は括られた。それは、決定的な場面で、女と共に地下に潜ることを選択しなかった男の覚悟のなさの、その殆ど予約された愁嘆場だったのである。

 本来そこに帰るべき現実の世界に戻ってしまった女は、もう二度と男の前にその身を預け入れることはないだろう。最後に置き去りにされた男は、女を忘れられず悶々とする時間を過ごした後、男もまた、自分が本来戻るべき場所に帰っていくのだろうか。恐らく、そうなるだろう。女には自分の肌が残した一つの思い出が残り、男にはまたしても、女から捨てられた苦々しい記憶だけが刻まれるに違いない。

 それもまた、自分の臆病さの故であるという認知の内に、男がそこでリアルに学習できたか否か、大いに疑問の残るところである。

 何よりも、女は自分を堅固に守り抜く男をこそ選択するであろう。彼女の夫が、そのような人格の持ち主であったかどうかについては議論の分れるところだが、少なくとも、最も決定的な局面で女を迎えに来たのが彼女の夫であり、その夫との間に子供がいるという現実は、女の意志を固めあげていく重要な選択的要素にあったであろうことは想像に難くない。

 時代がどのようにシフトしても、現実を見据えて生きる女の凄みは、とうてい男が叶うものではないということか。

 だから本作を通して、私たちはこのような仮説を立てることが可能になるであろう。

 即ち、女はその人生の中の時間を特定的に切り取って、それを享受する能力において、概して男のそれよりも少なからず凌駕(りょうが)するであろうことを。だから女は強いのだ。だから男は、常に女に勝てないのだ。

 男は自我に頼りすぎる傾向が強いのである。そこに身勝手な大義名分が張り付いていないと、男は女の肌と遊べないところがある。

 それに対して、女は自我抑制力とは無縁な世界で、堂々と情動系を解放することが可能であるだろう。少なくとも、男の抑制系よりも、女のそれは遥かに自在な振れ方をする。そこに倫理的に正当化しなければならない文脈を必死に求めるような面倒臭い作業を回避する能力に於いて、女は特段に優れていると言えるのではないか。

 男が女に勝てないのは、殆ど真理に近い何かであって、それ以外ではないであろう。女は決定的な局面で、時間を特定的に切り取ることで、女が本来棲んでいた場所に戻ることが可能であったのに対して、男は時間を特定的に切り取れない優柔不断さを晒してしまうのである。

イシュトヴァーン・サボー監督
要するに、この映画を端的に括れば、「時間を特定的に切り取れる女、切り取れない男」というテーマに集約される、と私は考えている。



 7  極限状況に置かれた男と女



 最後に、この映画を観るたびに思い起こされる一本の作品があったので、それについて簡単に言及したい。

 その映画の名は、「流されて」というイタリア映画である。

 監督はリナ・ウェルトミューラー。女流監督である。脚本も彼女のオリジナルなもの。製作は1974年だから、本作より5年前の作品である。

 そこで描かれた物語は、極限状況に置かれた男と女が濃密にクロスする内容で、その社会的背景は全く異なるものの、そのテーマ性において本作と酷似するものであった。

 その内容について簡単に触れておく。

 地中海上に、ヨットで楽しむ実業家夫人がいた。

 ビキニ姿のその女は、召使いの男の体臭を嫌って、仲間と雑談に興じている。こんなケバケバしいファーストシーンの数日後、女は洞窟で泳ぐことを決め、召使いの男を随伴して、モーターボートに乗り換えた。ところが、二人を乗せたボートが突然故障し、海上を漂流することになった。二人は何とか無人島に辿り着く。それが、物語で描かれる異様な世界の始まりを告げるものになったのである。
 
 何もない原始社会の如き島で、二人は当然ながら、自給自足の生活を強いられていく。貧しい生活で耐え抜かれた召使いの男は、海で魚やエビをとって、命を繋ぐことができるが、哀れを極めたのはブルジョアの典型のような女だった。

 男を命令する身分に生きてきた女は、男に「ご主人さま」と跪(ひざまず)いて、命を繋ぐしかない。永年の恨みを爆発させるかのようにして、男は女を支配する。主従関係が逆転してしまったのである。

 やがて野性的な男の振舞いに、女の情動が刺激を受け、暴力的に犯された後の女が手に入れた快楽は、一人の女からブルジョア性の装飾を剥いでいくのに充分過ぎるものだった。

 以来、その島には、一人の野生的な男と、その野生と快楽を享受する一人の女だけが存在することになり、本能に任せたかのような裸形の愛欲生活が継続されていく。

 しかしまもなく、二人を捜索するヨットが沖合いに出現した。愛欲の虜となった女は、男に対してヨットに助けを求めることを拒むが、男の反応は意外にも、元の生活に戻った上で、二人の愛情の継続を確認しようというものだった。結局、男の主張が具現化され、二人は野生の生活を捨て、文明世界にリターンすることになったのである。

 女を待つブルジョアの世界は退屈極まりなく、男を待つ貧困の生活には、妻子が待つのみ。しかし男は、女の亭主の実業家から妻を救ったお礼に大金を受け取ることになった。男はその金で指輪を買い、女に贈り、再び島に脱出することを考えて、港で待つことを女に伝えたのである。

 ところが、女は遂に港に現れず、夫と共にヘリコプターでミラノに帰っていく。島での野性的な世界に全ての人生を賭けた男は、そこに置き去りにされ、空しく家路に就いたのだった。

 (以上のストーリーは、ネットサイトの「goo」を参考にしたものだが、本作のケースとその本質において共通しているので、敢えて言及した次第である)

「流されて」より
無人島でブルジョア女が、そのブルジョア性という余分な装飾を剥ぎ取ったとき、そこには、本能的に動く一人の女が裸形の姿を晒し、男の情念がそこに濃密に絡みつく。

 女にとって、この生活オンリーで充分だったはずのものが、男によって再び文明に戻されてしまい、かつての退屈極まる生活に馴化(じゅんか)していく以外になかった。

 野生の生活を捨て切れない男は、当然、女の継続力を信じたが、しかし文明への適応力の、そのリアリティの凄味によって、遂に女の情動を奪い返すことができず、ここでも、男だけが一人置き去りにされるという、極めて分りやすい心理学的展開がそこにあった。
 
 時間を切り取って、充分にそれを享受しつつも、状況への適応戦略は、女の方が遥かに上手であるという把握が、多くの場合、誤っていないという結論に落ち着く以外になかったということだ。その把握は、既に本作(「コンフィデンス」)への評論において検証済みである。

 女性の映像作家が描いた、男と女の心理と生理についての把握は、本作のそれと同質のものであり、恐らくそれは、かなりの確率で心理学的に検証されるものであるに違いない。

 無論その把握は、平均的な事例において、どこまでも心理学的な文脈で論じたものに過ぎないが、それが私の把握のそれと通底するものであることを、ここで改めて確認した次第である。

(2006年11月)

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