<本当のアメリカ、本当のアメリカ人>
序 黄金律の支配力
どこまでも、際限なく続くであろうと考えられていたに違いない、奴隷あり、農奴あり、小作あり、そして魔女狩りありの負性社会が、暴力を媒介にした本質的に、「人権革命」という名の大掛かりなスキーム・チェンジを経て辿り着いた社会、それを私たちは、「近代資本制社会=民主的市民社会」と呼んでも構わないであろう。
その「光の近代」によって、私たちが苦労して手に入れた最大のもの、それは、程ほどの豊かさの中で充分に私権が確保され、規範に著しく抵触しない程度の自由を謳歌する生き方、そしてそれを社会的に支える相対主義の価値観であった。
それは限りなく肥大した欲望が、常に出口を求めて奔流するエネルギーを作り出す。その過剰な様態を「欲望自然主義」と呼ぶ人もいる。当然、そこに人々の「幸福競争」が生まれ、より多く、より高く、より速く、より遠く、そして、より楽しくあれという、「千畳敷にもう一間」の過剰な感情が違和感なく定着していったのである。
人は、一度手にした快楽を安易に手放したりしないのだ。
人々が皆、均しく貧しかった時代には、とうてい思いも寄らない溢れんばかりの快楽を遂に手にしてしまえば、それを知らなければ恐らく維持されたであろう、相対的に安定した心の秩序が、間違いなく壊されていく。人はもう、四畳半の侘しい世界に戻れなくなるのだ。
「光の近代」が拓いた欲望の無限連鎖の世界の根底を支える普遍的理念、それは、「より良くあれ」という、殆んど疑いの余地のないイデオロギーである。少しでも多いこと、少しでも早いこと、少しでも楽しいことはより良いことであり、より幸福なことなのである。それは時間を無駄にしない人生であり、「昨日より今日」、「今日より明日」という時間の流れの中に、少しでも進歩が実感できる人生であると言えるだろう。
このフラットな価値観を否定できない手強さが、そこにある。既にそれは、私たちの社会を通底する、極め付きの黄金律であるからだ。
「光の近代」の極北とも言えるアメリカが、世界に撒き散らした価値観の底力は絶大だった。
「皆、アメリカになりたい」という意識のうねりが現代史を貫流するが、そこに呼吸する人々の全てが、当然の如く、勝ち組を快走できるわけではない。
それでも、「格差社会」、「下流社会」とネーミングされる時代の中で、大抵の人々が程ほどの幸福を見出し、「より良くあれ」という黄金律に親しんでいるのは否定し難いだろう。経済社会の相対的停滞期に於いてもなお、あまりに多様化された気晴らしや癒しのカルチャーなどに、思い思いの自己実現を果たしている。皆、多かれ少なかれ、近代という快楽装置に馴染んでいて、それを確信的に手放して生きる覚悟を持つ者は、私を含めて、殆んどいないと言っていい。
それだけ、「より良くあれ」という黄金律の支配力が強靭であるのだ。
しかし、この黄金律に呪縛されずに、快楽装置を操作できる自由が、「光の近代」には存在する。そこで展開された自由が規範を著しく危うくしない限り、黄金律に呪縛されない者でも社会を漂流する余裕が認知されているから、その社会の中枢か、その中枢の周辺に微睡(まどろ)んでいなくても、その社会を逸脱しない際どい辺りにぶら下って生きていくことが可能となる。
黄金律とは無縁に何となく生きて、そこで何となく迷走し、何となく関わり、何となく巣箱に戻っていくのだ。
ジム・ジャームッシュ監督 |
1 黄金律とは無縁な装置の端っこで
前置きが長くなったが、インディーズ・ムービーの極点とも思われる、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という記念碑的映像を要約すれば、「より良くあれ」という黄金律とは無縁に、アメリカという快楽装置の端っこにぶら下って、実態的には逸脱しつつも、その意識が稀薄で、決して声高に叫ぶことなく、その場凌ぎの日常性をそこそこに謳歌する青春を、鮮やかに切り取ったロードムービーであるという風に評価されるだろう。
だからそこに描かれたのは、「もう一つのアメリカ」というよりも、「アメリカらしくないアメリカ」であり、「アメリカ人らしくないアメリカ人」だった。
主役の青年も、彼を訪れる従妹もハンガリー人=ストレンジャーであったという設定は、この「物語らしくない物語」の、妙に客観化された映像が作り出された重要な要因になっている。
しかし映像は緻密で、繊細であり、且つ、登場人物の沈黙の絶妙の間が、簡単に漂流の出口が見つからない彼らの心象風景を、滑稽感溢れるまでに映し出していた。
2 反物語的で、反映画的な決定力
―― そこに若干の評論を加えながら、ストーリーを簡単に追っていこう。
エヴァ |
アメリカの空港に、一人の少女が降り立った。エヴァである。
建築現場のような、整備されていない殺伐とした台地から、飛行機の離発着を一頻(ひとしき)り眺めた後、トランクと紙袋を両手に持って、エヴァは静かに歩いて行く。
それが物語らしい物語が展開しない、際立って個性的な映像の始まりとなった。
単身、ハンガリーからアメリカに渡って来て10年。
以来、ニューヨークに住む青年ウィリーは、クリーブランドのロッテ叔母さんから、自分が退院するまでの10日間、ハンガリーから訪ねて来る少女エヴァの面倒を頼まれる。
電話の向こうで、叔母さんはハンガリー語で語り続けてきた。英語で話せと要求するウィリーを無視して、一方的にハンガリー語を連射する叔母の言葉は、字幕では紹介されない。だから、映像はウィリーの反応のみを記録していく。
「英語で話せよ。従妹のエヴァがここに一晩泊まるんだろ?今日、ブタペストから着く?ひどいよ。そりゃ話が違う。10日も面倒を見るのかい?迷惑もいいとこだ。親戚とは縁を切っているんだ。入院は気の毒だと思うよ・・・分ったよ・・・クソッ」
諦め顔のウィリーの表情を映し出した後の、次のカットは「新世界」と題したシーン。
とてもそこが、ニューヨークとは思えないほどの無機質な街並みの風景が広がっていて、その只中を、エヴァは紙袋から取り出したテープレコーダーのスイッチを入れ、お気に入りの音楽をかけながら目的の家に向かっていく。
目的の家 ―― それは、従兄に当るウィリーのアパートの部屋だった。
エヴァとウィリー |
ロッテ叔母さんが入院したことで、翌日クリーブランドに出発できないことを聞かされ、エヴァは暫くウィリーのアパートの部屋に滞在することになったのである。
食事の際の、二人の無機質な会話。
エヴァはウィリーの食事のスタイルに素朴な疑問をぶつけただけだが、それがウィリーには気に入らない。
エヴァとウィリー |
アメリカというパラダイスに同化したつもりになっているウィリーは、米国流のジャンクフードやアメフトを平気で貶(けな)す、物怖じしないエヴァの態度に腹を立てるが、掃除などして、彼女なりに打ち解けようとする甲斐甲斐(かいがい)しさに親近感を抱いたのも束の間、彼女はクリーブランドに旅立って行った。
彼女がニューヨークを後にする際、ウィリーから贈られたドレスを、夜の街路のゴミ箱に捨てて行く。それをウィリーの友人のエディに見られて、エヴァは「冴えないドレス」と一言。
彼女の中では、ニューヨークという街は、そこに住む人々との関係を含めてフィットしないようだった。
一年後、友人のエディと組んだ如何様(いかさま)賭博で悪銭を稼いだウィリーは、エディと共に、叔母を訪ねるという名目でエヴァに会いに行く。
ここから物語りはロードムービーの様相を呈していくが、既に映像は、その個性的骨格を垣間見せている。ワンカット・ワンシーンで繋がれていく描写を沈黙の黒い画面がその都度断ち切って、物語の継続性を意図的に分断する。それは、観る者の不必要な感情移入を防いでいるようにも見える。
そして、それぞれのシーンから語られたのは、ホットにクロスしないウィリーとエヴァの会話であり、その空疎な生活風景。画面が一年後に変わっても、そこに映し出されたのは、定職を持たないウィリーとエディの相も変らぬ日常性。
それは、賭博で悪銭を稼ぐウィリーとエディの生活に、語るべき何もなかったという事実を示している。彼らの自我には、「より良くあれ」という究めつけの黄金律が棲みついていないのだ。
もう一つ興味深かったのは、彼らの如何様(いかさま)賭博に騙された男がその怒りの対象をウィリーたちではなく、同様に騙された友人二人に向けられた描写である。
「泣き寝入りするつもりか?どこで見つけた野郎だ。カモられたのに、のんびり座ってやがって!」
怒鳴られている二人は、おとなしく黙っているだけ。結局、そこに何も起こらなかった。ハリウッド映画なら大立ち回りが必至の場面なのに、このシーンはもうそこで打ち切り。
何かが起こりそうでいて、何も起こらないかったるい展開が、最後まで続くであろうことを予見させていて、観る者にある種の覚悟を求めているかのようだ。
クリーブランドに行く車中の会話も、「お前がハンガリー人だとは知らなかった」(エディ)とか、「眠ってるのか」、「眠ってない」とかいうような、気の利かない言葉が交わされるだけ。
クリーブランドの叔母さん(右) |
クリーブランドの叔母さんの家。
ハンガリー語を捲(まく)くし立てるロッテ叔母さんの言葉の意味を、ウィリーはエディに説明し、エディの笑いがワンテンポ遅れて付いてくる。
もっと面白いのが、エヴァのボーイフレンドと4人で、カンフー映画を観に行くシーン。
このカットでは、映画を見入る4人の表情だけが映し出されるが、エヴァとボーイフレンドの間に能天気なエディが座り、エディだけが映画を堪能している描写の可笑しさは圧巻だった。
当然のように、ここでも、エヴァのボーイフレンドとエディとの間に口喧嘩すら起こらない。
右からウィリー、エヴァ、エディ、エヴァのボーイフレンド |
「新しいところに来たのに、何もかも同じに見える」
翌朝、雪景色を見て、退屈し始めたエディがウィリーに語った一言は、物語の基調音を言い当てている。殺風景な描写は、彼らの旅の殺風景な心象風景をも映し出す。しかしそれらがあまりに有り触れていて、日常的であるが故に滑稽なのだ。この作品はどこまでも反物語的であり、反映画的なのである。
叔母の家でポーカーに興じても、二人はその叔母に最後まで負けっぱなし。暇つぶしにウィリーがエヴァにジョークを話そうとしても、途中で忘れる始末。エヴァのフォローが入って、このカットは終了。
凍結したエリー湖の風景 |
「ここがエリー湖よ」とエヴァ。
「すげえ雪だ・・・美しい」とエディ。
「凍ってるわ・・・来てくれて嬉しかったわ」とエヴァ。
勿論、上辺だけの反応。
眼前に広がる荒涼とした世界に、エヴァはこんな言葉を繋ぐしかなかった。
「君がいて、嬉しかった」とエディ。
「エディ・・・お前の様子を見に来ただけだ」とウィリー。
彼はエヴァに会いに来るための旅の目的を、依然として伝える言葉を持てないでいる。
「ここは退屈よ」とエヴァ
三人のエリー湖行きは、これで終わり。
度々挿入される弦楽四重奏が、ここでは哀切感を醸し出し、忘れ難い印象を残す。
何も起こらないロードムービーの世界が、まだ続いているのだ。
二人はエヴァを誘って、南国フロリダへの旅に出た。
「パラダイス」と命名された、最終章の旅が開かれたのである。
ウィリーはマイアミへのドライブの途中で、金をケチって安宿に泊まるが、ウィリー本人は管理人を誤魔化して、二人分の料金で潜り込む。
常に、彼らの悪知恵はこの程度のレベルなのである。
競馬に行くつもりだったウィリーだが、エディの「いい予感がする」という一言で、二人はエヴァを残してドッグレースに行く。
そこにドッグレースで持ち金を失った二人が戻って来た。当然、エヴァは不満をぶちまける。
「書置きもせずに、何処へ?何もないこんなところに一人にして。書置きぐらい・・・」
「うるさい」とウィリー。
「うるさいとは何よ!マイアミに行かないの?」
不満たらたらのエヴァを無視して、エディに八つ当たりするウィリー。
「何がいい予感だ。いいかげんな奴だよ」
「運だよ」とエディ。
「何なの?」とエヴァ。
「ドッグレースを言い出したのは誰だ」とウィリー。
「仕方がない」とエディ。
「何なの?」とエヴァ。
「何でもない。金を擦(す)っただけだ」とエディ。
エディに八つ当たりするウィリー |
腹の虫が収まらないウィリーは、室内の物に八つ当たりするや、二人を無視して部屋を出た。行ったこともないフロリダを、「楽しい所」と言ってのけるエディの、生来のいい加減さに慣れている筈のウィリーだが、さすがに今度ばかりは切れかかった。
しかし、すぐに部屋に戻って来たウィリーが放った一言は、「済まねえ」。
二人がしばしば見せる緊張含みの関係は、いつでも予定調和の場所に戻ってくるようだ。それが彼らの友情であるとも言えるし、炸裂するエネルギーが欠けているだけとも言えるのだ。
僅か50ドルしか残っていないウィリーは、その金を使って、今度は競馬に行こうとエディを促す。「悪い予感がする」という、一貫して根拠のないエディの予想は、ここでも見事に外れるのだ。
彼らは最後の賭けに勝って、意気揚々と安宿に戻って来たのである。
ところが、そこにエヴァはいなかった。
彼女の残した書置きには、ハンガリー語で「空港に行く」と書かれており、そこに大金が添えられていた。実は、エアヴァは晴天の海岸を散歩中、そこで待ち合わせていた麻薬のバイヤーの使いから大金を受け取ってしまうのである。
彼女は密売人の使いと間違えられたのだ。大金を手にしたエヴァは、金の一部を添えて書置きし、そのまま空港に向かったのである。
またしてもエヴァを放置して、賭博を優先するウィリー。そのエヴァに「済まない」と謝って、相棒について行くエディ。
どこまでも擦れ違う三人の動向は、彼らの意識がいつもどこか宙に浮いていて、そこに、明瞭な目的性が介在していないことと充分な脈絡性を持っている。
エヴァだけが他の二人より目的意識の鮮明度が覗えるが、その意識に、二人の男の意識がいつも上手く噛み合ってこないのだ。
少なくともウィリーには、フロリダ=パラダイスという認識が、観光という概念の形式性を超えるものではないため、どこへ行っても自分が一番好きな賭博というゲームの中でしか愉しめないのである。最後までこのような意識の落差が、彼らの旅の浮遊性を規定してしまうのである。
ウィリーとエディは、慌てるようにして空港に向かった。「エヴァを戻さなければ」という意識が、二人を駆り立てたのである。
しかし、空港にエヴァはいなかった。
ブタペスト行き航空便の離陸の時間まで、あと5分。
ウィリーはエヴァを戻すためにチケットを買って、登場ゲートに向かって走っていく。エディは車の中で二人の帰りを待っている。しかし、遂に二人は戻って来なかった。
エディがターミナルの外で見たのは、離陸して飛び立っていくブタペスト行きの航空便。ウィリーは旅客機の中に消えたのである。
「ウィリー、悪い予感がしたよ…ブタペストで何をする?」
エディがそう呟いて、単身空港を離れて行った。彼は、相棒がエヴァと共にハンガリーに帰国してしまったと思ったのである。彼はこのとき、親友のウィリーに置き去りにされてしまったと考えたに違いない。
或いは、ハンガリー人であるウィリーとエヴァが、自国に戻って結ばれるだろうなどと考えたのか。エディの予感は最後まで当たらなかった。
これが、決め台詞を確信的に削った滑稽なストーリーラインの、至極真面目な展開を、ごく普通のテンションで流したつもりの映像を括るに相応しい、その最後の台詞となった。
ところが、エヴァはブタペスト行き航空便には乗らなかった。
彼女は二人に会いに安宿まで戻って来たのである。
エヴァがそこで見たのは、二人が宿を引き払ったという現実。部屋に残っていたのは、自分が売人の使いと間違えられた現地購入の帽子のみ。
そんな二人に会いに来た自分の細(ささ)やかな思いやりに、いい加減愛想が尽きたという思いだったのか。
最後まで擦れ違う三人の意識の落差を伝えて、この見事に突き抜けた映像は完結した。
3 本当のアメリカ、本当のアメリカ人
空港はストレンジャー(異邦人)を迎え、ストレンジャーを送り出す場所である。この映画もまた、ストレンジャーを迎えるシーンで始まり、ストレンジャーを送るシーンで完結する。
しかし、映画のファーストシーンで迎えたストレンジャー(エヴァ)は、この映画のラストで送られて行くストレンジャーにならなかった。
ラストで送られたストレンジャーは、パラダイスの地、アメリカに同化したと信じるハンガリー人(ウィリー)だった。
彼は自らが11年前に捨てた祖国に、その祖国へのストレンジャーとして返還されてしまうのだ。そして、この男を空港で見送ったのは、紛れもなく、パラダイスの国の住人でありながらも、その国で社会的なストレンジャーとして生きてきたアメリカ人だったという訳だ。
この映画は、パラダイスの国に住んでいるか、或いは、そこに住もうと考えている二人のハンガリー人の微妙な意識の落差と、その意識が容易に噛み合わない日常性のさまを描いた作品でもあった。
ウィリーというストレンジャーは、ハンガリー人というストレンジャーの記号を捨ててパラダイスの地に同化を図るが、その地でも逸脱者というストレンジャーを生きざるを得ないレベルの屈折を奥に抱えていて、言わば、二重のストレンジャー性を生きる正真正銘のストレンジャーである。
自分が捨てた祖国に「送還」されるラストの、あまりにスパイスの効いたブラックユーモアの中に、滑稽感よりも、ある種の哀切感を感じてしまうのは私だけだろうか。同国人であるエヴァに対する済まなさの感情が初めてストレートに表現されたとき、パラダイスの国に残るであろうエヴァと決定的に別れてしまうのである。
左からウィリー、エディ、エヴァ |
エディの存在は、多分に、この二人のストレンジャーを繋ぐピエロであるが、しかしこのパラダイスの国では、ウィリー同様、逸脱者というストレンジャーを生きていかざるを得なかった。しかし、そこに微塵の屈折もないのである。エヴァにも屈折がないのは、言わずもがなのことだ。
ウィリーだけが、その心の奥に屈折を抱えていた。まさに彼こそ、アメリカというパラダイスの地で、ギャンブルという通俗的なゲームでしかアイデンティティを見つけられない、本物のストレンジャーだったのである。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」―― 殆んどのカットで展開された、その有り触れた日常風景のリアルさに共感できたからこそ、存分にこの映画の滑稽さを堪能できた。
試写会を観に来た一般観客の反応次第で、既に出来上がった映画の内容すらも変えてしまうハリウッド映画の通俗性に馴染んだ者には、およそ、アメリカ人らしくないアメリカ人が出てくるこの映画に違和感を持つかも知れない。
しかし、「アメリカ」という名に集約される様々な心地良いイメージを被せた物語から、その余分な物語性を剥ぎ取ってしまえば、或いは、この映画で描かれた、アメリカ及び、アメリカ人の本来の素顔が露わになって来るというのだろうか。
アメリカとは、元々、ストレンジャーが作った国なのだ。
彼らの多くが祖国を思う気持ちを捨てないからこそ、アメリカという名のパラダイスを形成するエネルギーになったとも言える。
今でも、ハンガリー語やポーランド語、イタリア語、ロシア語等を話す彼らは、もう充分にアメリカ人であり、そこにはストレンジャーの卑屈さは見られない。
従って、ストレンジャーの卑屈さを心の奥に隠して生きるウィリーは、母国ハンガリーに送還されなければならなかった。
漫然と半日を過ごすエヴァ |
その意味で、この作品こそ、「本当のアメリカ、本当のアメリカ人」のアイデンティティを問うた映画であるとも言えるだろう。
(2005年12月)
【余稿】 〈誠実なアメリカ像〉
本作の評論を擱筆(かくひつ)した後、暫くして、私は偶然にも一冊の著書と出会う機会に恵まれた。その本の名は、「JIM JARMUSCH INTERVIEWS 映画監督ジム・ジャームッシュの歴史」(ルドヴィグ・ヘルツベリ編 三浦哲哉訳 東邦出版刊)。
邦訳出版されたのは、2006年5月。拙稿と照合することによって、そこに生じた誤差を確認したいという思いもあって、私は当著を読み進めていった。
ジム・ジャームッシュ監督 |
決して饒舌ではなく、それでいながら、本質的な反応を刻む彼の裸形の表現は、充分に刺激的だったのである。
その幾つかの彼の肉声を、本作との関連の中でここに拾ってみよう。
「――『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を作るにあって、どんなものから影響を受けていたのか教えてもらえますか。
影響はたくさんある。なんであれ自分を感動させてくれるものにはなにかしら影響を受けるわけだし。ヨーロッパ映画、日本映画、それからアメリカ映画。この映画の登場人物たちはすごくアメリカ的だと思う。作品自体もすごくアメリカ的なところがあるけど、形式について言えば従来のアメリカ映画とははっきり違うし、トラディショナルではないね。シナリオの書き方のせいだと思う。僕はさかさまに書くんだ。つまり、語るべきストーリーがまずあってその上で肉付けしていくというのではなくて、まず最初にディティールを集めて、その後、パズルみたいにストーリーを組み立てていく。主題、ある種のムード、それからキャラクターはあっても、直線的に進むプロットはない。それもあって今みたいな物語形式になったんだ。
(略)プロットありきという考え方にはぞっとするんだよ。プロセスにこそなにかがあると考えていたほうがエキサイティングだ。僕の方からストーリーを定式化するというより、ストーリー自身が自分のことを僕に話し始めてくれるんだ」
更に、こんな肉声も刻んでいる。
「――・・・二人は600ドルを持ってクリーブランドを発ち、そのうち使うのは・・・
50ドル。金の役割というのがこの作品のサブ・テーマだった。ここでの金は、窃盗、詐欺、犯罪によって、あるいは棚ぼた式に手に入れるものであって、日々きちんと生活して、人生設計を組み立てて稼ぐようなものではない。必要があれば手に入れるものとでも言うかな。このテーマは多分、今後も変わらないと思う。立身出世に取り憑かれたキャラクターになんて興味が湧かない。アメリカン・ドリームなんて単純に言って、くだらないね」
彼の肉声は続く。核心的部分に触れていく。
「――富めるアメリカ像などよりも、あなたが提示したアメリカ像のほうが誠実だと思われますか?
ああ、こっちのほうが誠実だと思う。でも、映画の中ではすごく抽象的になってしまう。限られたものしかみせないわけだからね。ただ、それでもこっちが誠実だと言えるのは、このアメリカが現に存在するアメリカであって、派手なテレビ的イメージよりも多くの人間にとってずっとリアルだからだ。でも、見せるものと見せないものを取捨選択している以上、映画の中でなにをしようとも、観客にとってなにがリアルでなにがリアルじゃないかまで操作していることにはなる。それが映画というものだし、つまり、裏表があるってことだ・・・」。
またインタビューでは、「アメリカという場所について」の印象を求められ、彼はこう答えている。
「アメリカを国として愛しているし、アメリカの風景も大好きだ。それに旅先で出会ったりする人間たちも、たいがいは素晴らしい連中だ。でも、政府と、それから最近の大衆の態度にはぞっとする。僕はアメリカのいろいろな側面を愛しているけど、同時に、僕の同世代が普通に持っている経済感覚、政治的方針からすれば僕は自分をストレンジャーだと思わざるを得ない―なんとも気詰まりなことさ。
(略)ニューヨークに関してはアメリカだという気がしてないね。自由地区とでもいうか、アメリカとは無関係なところがある」
もう一つ、興味に深いインタビューがある。
「――『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の評価についてはどう思いますか。批評家と観客、どちらも圧倒的に肯定的でしたが。
異常だね。ときどき、ほとんど気まずい思いすらしたよ。リスペクトしてなかった批評家までが僕の作品を気に入っているというから、何か間違ったことをしでかしたんじゃないかと心配になった。でも同時に、いい反応が返ってきて基本的にすごくハッピーだ。お互いにかけるべき言葉も知らずに離ればなれになろうとしている人間だ。観客のことなんてまるで考えないで映画を作ってたつもりだったからね」
そして最後に、あの「黒画面の仕切り」について、作り手は、本作を通して描きたかった部分を含む解説を、自ら語っている。
「・・・『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で描こうとしたのは、お互いにかけるべき言葉も知らずに離ればなれになろうとしている人間だ。相手が去ったあとに初めてなにを言いたかったのか分るけど、そのときはすでに遅い。リズムの問題として、黒画面の仕切りが映画のゆったりした息継ぎになっていて、観客はたったいま見ていたものについて考え、消化することができるようになっている。
(略)それからもうひとつ、黒画面によって観客はしばらくのあいだ、見るべきものを失う。これも映画の主題と関係してくる。つまり持ち去られることの主題だ。この黒画面なしでは映画が機能しなかったと思う。(略)場面と場面のあいだのなにもない空間が必要だったんだ」
そして、この直後のインタビューは、極めて示唆的な内実を含んでいた。
「日本人のコンセプトに、『マ』『間』といのがある。ちょっと翻訳しようがない言葉で、なんのことかというと、異なる事物のあいだの空間のことで―やっぱり翻訳できてないな。まあとにかく日本ではその意味ははっきりしていて、日本の絵画にも明確にあらわれている。オズとミゾグチの映画でもそう。このフィーリング、すべての事象のあいだになにかがあるというフィーリングは、僕にとってもすごく重要で、ただ黒画面の仕切りだけの問題ではなくて、どうやってセリフを書くかということにも関わっている。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で僕が好きな瞬間は、第一部の最後、ふたりが部屋で座ってビールを飲むところだ。エヴァが去ってしまったということについて、ウィリーはエディになにか言いたがっている、観客にはわかる。でもウィリーがなにかを言いたがっている印象が強まるということなんだ」(以上、筆者段落構成)
この後半のインタビューでは、作り手は日本の絵画や映画の中で重要視されている「間」について言及していた。
本作にも、明らかに作り手に影響を与えたと思われる小津安二郎の著名な作品の名が登場していたが、小津映画の世界に顕著な「間の文化」を意識した映画作りを彷彿(ほうふつ)させる文脈が、作り手自身の口から語られていたのである。
以上は、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という作品に関わる部分についての、作り手自身のインタビューの抜粋である。
当然のことだが、これを読む限り、ジム・ジャームッシュという映像作家が、かなり確信的に自分の固有の表現世界に拘っていることが判然とする。彼自身が捻出した僅か15万ドルの予算で作り上げた本作が、商業ベースに乗ることを全く意識しなかったが故の快作であったことも了解し得るだろう。
とりわけ、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の成功に対して、「異常だね。ときどき、ほとんど気まずい思いすらしたよ」と言ってのける作り手の括り方は半端ではない。本作は、アメリカを愛しながらも、その国にあって、「ストレンジャー」を意識する生き方を選択した、作り手自身の覚悟の一作であったことが瞭然とするだろう。
やはり、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という稀有な傑作は、彼の中で拘泥(こうでい)して止まない「本当のアメリカ、本当のアメリカ人」を、二度と創作する機会を持てないかも知れないという思いで世に放った、記念碑的な映像作品であったということだ。
それ以外ではない、と私は痛感した次第である。
―― 本稿の最後に、「間の文化」に言及したインタビューの部分について、私なりの視点で抑えておきたい。
それにしても、「間の文化」を意識するアメリカ人の「ストレンジャー性」と映像を介してクロスしてしまうと、そこに異文化交流による落差感が相対的に削られてしまうのは、ある意味で避けられないであろう。
実は、本作の面白さを堪能し得る私たち日本人が、映像の「革命的表現力」を感受し得ない部分にこそ、ストレートに自分の思いを結べない繊細な内面性を一つの核にする「間の文化」に対して、特段に意識させることのない感覚世界の内に棲みついてしまっているという、言わば、以心伝心的な心理学的文脈を検証する何かがあると言えるのである。
「お互いにかけるべき言葉も知らずに、離れ離れになろうとしている人間」だからこそ、私たち日本人は、「察しの文化」を構築してきてしまったことを、一体、誰が厳として否定できようか。
大体、「間の文化」の本質には、「鋭角的闘争回避の心情」があると私は考えている。
柔道、剣道、空手、野球、相撲等の「間のスポーツ」は、生け花や茶道に象徴される伝統的な「間の文化」と、その根源的メンタリティに於いて殆ど重なり合っていると言えるのである。
全てに於いて、儀式的な振る舞いが魂に脈略する形式主義の様相を呈していて、その中枢には、「間合いの精神」が重要視されているのだ。
その「間」の中で、私たち日本人は紛れもなく、「鋭角的闘争回避の心情」というスキルを身に付けてきたのである。
このスキルは共同体社会の中で長く温存されてきたものだが、今や、グローバルな近代文明社会の支配力の圧倒的快楽の文化システムに呑み込まれて、その心地良さのスピーディな獲得の律動にすっかり馴染んでしまって以来、私たちの文化から、いつしか「間合いの精神」への同化力が削られていってしまったと言える。
そこに近年の、様々に尖ったボーダレスな現象の顕在化の心理学的背景があると考えられるが、しかしその言及は、本稿のテーマではない。
小津安二郎監督 |
ともあれ、ジム・ジャームッシュが小津安二郎の「ジャパン」を理想形にして、それを映像化した作品を目指しているとしたら、それは殆ど無いもの強請(ねだ)りに過ぎないとも思えるのだ。それにも拘らず、そのようにイメージされる「ジャパン」のメンタリティーが、決して崩れ去ったと言えないのもまた事実であるだろう。
私たちはどこかで、相変わらず、「鋭角的闘争回避の心情」をコアとする、「間の文化」を捨て切れない人生哲学と馴染んでいるからだ。
それ故、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という作品の面白さは、ある意味で、日本人にとってフラット過ぎる感覚の映像化ではあったが、「本当のアメリカ、本当のアメリカ人」という内面的なイメージを、自らのフィルムに刻み付けたかったと想像される作り手の思いは、なお、「間の文化」を拒絶しないであろう一人の日本人である私の中で、ある種、好感をもって受容されたということである。
(2006年12月)
0 件のコメント:
コメントを投稿