2008年12月30日火曜日

大阪物語('99)   市川準


<「散文系のリアリズム」の鈍走劇に弾かれて>



1  「不思議空間」としての「大阪」



「大阪って可笑しいとこで、一遍…一旦、ここ大阪に生まれたら、大阪を離れんの、いやになるんねん。どうしても大阪に居ついてしまう。大阪が好きになんねんな。何でやろうな…ほんまにええとこや、大阪て」

この元女芸人の言葉が、本作を根柢から支えている。


東京出身の本作の作り手たちが、「大阪」という個性的な都市に仮託したであろう思いの背景には、「『パーソナルスペース』を特段に大切にする大都市・東京」が内包する「限定的な距離感」に対する、相応のアンチテーゼが横臥(おうが)しているのかも知れない。

「大阪」を象徴する通天閣(イメージ画像)
映像に記録された具体例で言えば、主人公の家族が川の字になって寄り沿って寝るシーンは、単にその経済環境の結果とも言えるが、それ以外にも、父を捜す旅に打って出た女子中学生に対して、電車の中で、「もう夏休み?ええなあ、自分らあ」という言葉を平気でかけるサラリーマンや、盗んだ自転車を、その女子中学生に500円で売りつけるホームレス(?)がいたり、更に、初対面の女子中学生を簡単に泊める、訳が分からない「変なおっさん」が登場したり、路上を酔っぱらいが彷徨したりする様態など、『パーソナルスペース』を無化するかのような、極めて「近接した距離感」を普通に表現する特異な街 ―― それが「大阪」のイメージとして、印象深く提出されているのである。

丸ごと共同体と化したかのような都市が、恰も固有で有機的な律動感によって息づく「不思議空間」を作り出しているのだ。

そして、その「不思議空間」に住むに相応しい不思議な芸人夫婦がいて、その夫婦の子供である女子中学生が、浮気の果てに子供まで儲けて離婚した挙句、浮気相手に捨てられたショックから家出した父を、夏休みを利用して捜し出すという、何とも「果敢なる旅」に打って出たのである。

ところが、少女の「果敢なる旅」の舞台となった場所は、少女の保有する能力の許容範囲の故に、どこまでも「大阪」以外ではなかった。

それを興味深く描き出す作り手たちの、その人工的なトリックの導入の範疇を超えて、そこで映し出された世界こそ、まさに、「不思議空間」としての「大阪」だったという話なのである。



2  思春期を快走する少女の旅



「情感系のナルシズム」・思春期彷徨のロマンティシズム①
ここから少女の旅は、思春期の快走とも言える時間を表現していく。

少女の旅を快走化させたのは、不登校の男子同級生の存在である。少年が誘(いざな)った未知の世界への侵入が、少女の心を一気に開放系にし、そこでクロスする大阪の街は「不思議空間」としての個性を存分に発揮していくのである。

しかし、少女の本来の旅の目的である父親探しの作業は遅々として進まず、漸次、少女の心を閉鎖系にシフトさせていく。

そんな中で出会った元女芸人の言葉が、冒頭の淡々とした、「不思議空間」としての大阪への、思い入れの深い表現だった。

大阪を捜し回ることの不毛さを感受しつつあった少女にとって、元女芸人の言葉は、何よりも力強い応援歌となった。少女の旅は繋がったのだ。

少女の快走劇に挿入された、小さくも、微笑ましい父親像とのクロスの描写が印象的だった。

「暑中お見舞い申し上げます。夏が来て、短かいスカート、風よ吹け」

家出中、知り合いに差し出した、この暑中見舞いの葉書きに集約される父親像の滑稽感は、少女の旅を再駆動させていくエンジンとなっていく。

芸人両親の掛け合い漫才
「苦労させられて、苦労させられて、挙句の果てはこれや。もう、私の青春返せ、返せ、返してやー」

離婚した後もこんな掛け合い漫才で舞台を沸かす、何とも不思議なる両親を持った少女の中の父親像が、「カス芸人」と嘲笑されたイメージに含まれる、どこか憎めない人格像として復元していく思いがあればこそ、少女の旅が立ち上げられたのだ。

父親像の再発見は、両親でもある芸人夫婦の、その存在性の不思議さを読み解く手掛かりともなっていったであろう。

まもなく、少女の父親捜しの旅は、対立する不良グループからの少年の脱出劇と、父の交通事故の報によって、呆気なく終焉することになった。

病院での父との再会と、その直後の病死によって、映像の幕が下されるが、少女の密度の濃いひと夏の旅の物語は、ほんの少しばかりの成長を記録した、少女の思春期彷徨という様態を炙り出して閉じていったのである。



3  「散文系のリアリズム」の鈍走劇に弾かれて



なかなか情趣の深いこの映画を、簡単に批評してみよう。


結論を言えば、私は本作を本質的に、この国の映像文化を特徴づける、「情感系の暴走」の類に近い映画のカテゴリーに含まれると考える。

更に言えば、「情感系のナルシズム」と「散文系のリアリズム」が不自然な均衡を保持させようとしたことで、前者が後者の世界の内に腰砕けの状態で、無残にも吸収されてしまった映像であると看做(みな)している。

「情感系のナルシズム」・思春期彷徨のロマンティシズム②
情感系を特徴づけた描写は、少年と少女の思春期彷徨のシーンと言っていい。

そこには音楽のふんだんな多用と、出会いの偶然性の導入を含む、極めて劇的なエピソード展開が不必要なまでに盛られていて、まさに、思春期の快走劇を決定付ける見せ場を作り出していた。

一方、少女の旅のターゲットである父親のエピソードは、一貫してスローテンポな律動感を露わにさせていて、それは少年と少女の快走劇と対極を成していた。

思春期彷徨の迷走と、そこから分娩された熱量を放つ快走劇 ―― これが「カス芸人」の鈍走劇を、一時(いっとき)支配する描写を結んだが、しかし、肝心の思春期彷徨の快走劇の嘘臭さが、「散文系のリアリズム」の鈍走劇によって弾き返されてしまったのである。

前者は後者を支配し切れなかったのだ。

両者の程よい均衡による緊張が映像の生命線であるべきものが、そこに、物語的均衡による映像の安定した秩序を紡ぎ出せなかったのである。

当然のことだ。

「カス芸人」の鈍走劇こそ、何よりも、この映画の生命線だったと言えるからである。

「散文系のリアリズム」・「カス芸人」(右)の鈍走劇①
「不思議空間・大阪」の雰囲気を最も集中的に表現するキャラクターこそ、「カス芸人」たる本作の主人公の父親それ自身であったからだ。

独断的に言ってしまえば、「不思議空間・大阪」という幻想の中枢であるだろう、「『パーソナルスペース』を特段に大切にする大都市・東京」への、相応のアンチテーゼとしての「限定的な距離感の無化」は、離婚した父親が、なお相方を続ける元妻の家(実は、父親の元の自宅)の近所に引っ越して来たという、極めて興味深いエピソードに象徴されると言っていい。


「散文系のリアリズム」・「カス芸人」(右)の鈍走劇②
以上の例を見ても分かるように、距離感を無化させる魔力を持つ「不思議空間・大阪」を象徴する、件(くだん)の「カス芸人」の鈍走劇の内に貼り付く「散文系のリアリズム」の重量感が、思春期彷徨のロマンティシズムの嘘臭さを逆照射してしまったのである。

いかにもドラマティックな思春期の快走劇の、「情感系のナルシズム」のイメージに近い描写の軽量感と、「カス芸人」の自堕落なリアリズムの重量感が、全くと言っていいほど、映像の秩序を保持する均衡を継続させ得る何ものもなく、前者の通俗的な展開を、後者の鈍走のリアリズムを抑え切り、また、後者のスローな律動感が、観る者に情感の感受を要請するかのような、前者の余分過ぎる流動感が支え切れなかったということである。両者の安定的な均衡が映像の骨格を成しているにも拘らず、本作はその達成に届かなかったのである。

敢えて言えば、少年のエピソードは不要だったのだ。

市川準監督
少年のエピソードそれ自身が不必要であったというのではなく、最後の「逆流河川」(それが象徴する意味はあまりにベタ)への脱出劇に集約された描写の作為性(橋の両サイドから追われた果ての逆転劇、というお馴染みの「サスペンス」等々)が目障りだったのである。

このような描写の導入なしに突き抜けられない、その過剰な「情感系のナルシズム」。


私は今もって、不登校少年との過剰な情感劇の必要性が理解しかねるのだ。


思春期彷徨の旅を通して、少しずつ内面を見つめつつあった少女の自立への志向を描きたいのなら、幾らでも、その類の描写の導入が可能であったと思えるからである。

「情感系のナルシズム」・思春期彷徨のロマンティシズム③
残念ながら、思春期彷徨のロマンティシズムの嘘臭さが、件(くだん)の描写の導入によって、ほぼ完全に、作品の中枢を成すはずの、その青春快走劇だけが浮いてしまったのである。

大体、死人を現世に戻した果ての情感交流による癒しを描く、「黄泉がえり」などという愚作を世に放ったシナリオライター(注)の情感濃度の過剰さを、適度に抑制し切れない作り手の甘さが気になるが、それでもなお、常に一定の映像完成度の高さを検証して見せた、その手腕が本作の随所に垣間見られるだけに、件(くだん)の過剰な描写の無視し難い欠陥が残念でならないのである。


ともあれ、「カス芸人」の鈍走劇の内に貼り付く、「散文系のリアリズム」は圧巻だった。

「相方同士、言うのわな、夫婦になるより、すごいえらいことなんやで」

浮気の朝帰りで、蒲団に包(くる)まっている家族に向かって、こんなことを淡々と言ってのけるのが「カス芸人」の真骨頂だ。

「芸人はな、色んなこと知ってんと芸に味が出えへんのや。色んなことやって、それを報告する先兵隊や。サラリーマンとはちゃうがな」

この物言いは、「カス芸人」が愛人に逃げられて、賭場通いを繰り返した挙句、生真面目で、善人然としたマネージャーの苦言に対して放った弁明。

さすがに腹に据えかねたマネージャーの、以下の決め台詞は、澱んだ空気を感受した思いを言い当てていた。

「それほどの芸ですか?」

台詞が少なくとも、「カス芸人」の生きざまを端的に露呈する描写の、その生命線とも言える鈍走劇が、まさにこの映画を根柢から支え切っていたのである。

「大阪に生まれたら、大阪を離れんの、いやになるんねん」という文脈を具現化した「カス芸人」の鈍走劇こそ、「大阪物語」そのものだったのだ。

思春期彷徨へのラインの助走

最後に、重要な指摘をしたい。

失踪した父を捜そうとしない母への反発もあって、単身、覚悟の旅に出た娘の思春期彷徨の濃密な時間と、その父親である「カス芸人」の行方の定まらない鈍走劇の対局性を、隣合って夫婦の墓を作るという思いを娘に語ることで、映像のラストシーンで繋いでみせたのが、「カス芸人」の元妻であり、何よりも代えがたい「相方」でもあった母その人だったという括りは見事である。

芸人根性を体現した母にとって、夫でもあった「カス芸人」との同士性は生き残されていたのだ。

その母の覚悟に満ちた生きざま―― それは、夫である「カス芸人」が愛人との間に儲けた子供を育てる見事さであり、まさに、「大阪物語」というタイトルで語られる印象深い映像の、正真正銘の主(あるじ)であったということである。


犬童 一心
(注)犬童 一心のこと。「黄泉がえり」(2002年)の脚本の後、「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)という話題作を発表して、高い評価を得たが、私にはこの監督作に対して、車椅子で生活する者が負う日常性のハンディについての基本的認識と、疾病に対する精査な把握を欠如させる杜撰さだけが印象に残り、この国のドラマ作りに携わる者たちの、「描写のリアリズム」への度し難いほどの拘りの欠如という致命的な欠陥を、件(くだん)の作品でもたっぷりと見せつけられてしまった次第である。

発現率が少ないサヴァン症候群(特定の分野で抜きん出た才能を発揮する自閉症【現在、広汎性発達障害と呼ばれる】の一つ)の主人公の疾病の様態をほぼ完璧に再現した感のある、かの名作、「レインマン」(バリー・レヴィンソン監督/1988年)のような学術的精査を求めても無理な話だろうが、せめても、「描写のリアリズム」という最低限のルールくらいは守って欲しいものだ。

(2008年12月)

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