2009年9月13日日曜日

チェンジリング('08)       クリント・イーストウッド


<母性を補完する“責任”という名の突破力>



 1   “責任”という名において



 世界恐慌直前の、1920年代のロサンゼルス。

 ローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)とも称され、ヘミングウェイやフィッツジェラルドに代表されるロストジェネレーション(失われた世代)や、幾何学的様式の美術で有名なアール・デコというような個性的な文化を作り出した特有の時代は、人類史上未曾有の犠牲者を出した第一次世界大戦によるペシミズムからの復元力を身体表現するエネルギーを噴き上げた、文字通り、世俗の次元で澎湃(ほうはい)した狂騒の時代であった。

 そんな時代の終末期に出来した、禍々(まがまが)しい事件があった。

 今なお謎に包まれているが、一説では20人もの少年が犠牲になったとされ、世に、「ゴードン・ノースコット事件」(ワインヴィル養鶏場連続殺人事件)と呼ばれる連続少年誘拐殺人事件がそれである。

 一人の女性がいる。

 その名は、クリスティン・コリンズ。LAの電話会社で、電話交換のオペレーター管理に従事する闊達(かったつ)な女性。


 その彼女が、一人息子のウォルターを、学校に迎えに行った帰りの会話。

 「ビリーと喧嘩した」
 「なぜ?」
 「ぶたれたの」
 「ぶち返した?」
 
 頷(うなず)く息子に、母は「偉いわ。“喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”なぜ、ぶったの?」と聞いた。
 「僕がぶったから」
 「あなたが先に?なぜ?」
 「パパは僕が嫌いで、出て行ったって」
 「パパに会っていないのよ。嫌われる訳ないわ」
 「じゃ、なぜ出て行ったの?」
 「なぜなら、あなたが生まれた日、“ある物”が届いたの。小さな箱よ。中身は何だと思う?“責任”というものよ。世の中には、何よりも“責任”を恐れる人たちがいるの」
 「じゃ、パパは箱の中身が怖くて逃げ出したの?バカみたい」
 「私もそう思うわ」

 ここに、この映画のエッセンスがある。

 この会話は、単に140分もの長尺の映像の伏線になっているだけではなく、映像の根柢を貫流する極めて重要な導入になっているのである。

 即ちそれは、“責任”を恐れて逃げ出した父親に代わって、“責任”という名の「父性」を内化した一人の女の堅固な自我が、その本来の包容力に溢れた「母性」を起動力にして、自分に襲いかかる困難な事態に毅然と対峙し、それを引き受け、状況突破を図る物語を支え切る基幹ラインの導入として、何気ないが、しかし決定的に重要な描写であったということだ。

 困難な事態にインボルブされた人間が、その事態に様々に対峙し、それを「私の状況」に変えていく曲折的な航跡のさまを、深々と印象的に映像化してきた感のあるイーストウッドは、ここでも、「父性」を内化した一人の女の「無限抱擁」的な「母性」の振れ方を丁寧に、且つ、過不足なく描き出してしまったように見えるが、その分析は後述していく。但し、些か辛辣な批評をも加えている。

 ともあれ、本作は冒頭で言及した事件の犠牲者になった息子のウォルター少年を、“責任” という名において、その母が救出に向かう艱難(かんなん)な継続力を結ぶ映像として描出され、そこに心理サスペンスの要素を多分に包含しながら、最後まで観る者を飽きさせない物語を構築した一篇になっていたのは事実である。



 2  チェンジリング



 1928年3月10日。

 ウォルター少年が失踪した日である。

 その日、母のクリスティンに急な仕事が入った。

 落胆する息子。映画に行く約束が翌日に延ばされたことに、納得がいかないのである。母は知人に家の様子を見てもらうことを息子に告げるが、母の事情が理屈では分っていながらも、息子は小さな反発を言葉に変えた。

 「一人で平気だよ・・・暗くても平気さ。何も怖くないよ」
 「そうね、分っている。良い子でね。愛してるわ」

 それが事件の始まりだった。


 急いで帰宅したクリスティンは息子の不在を知って、慌ててロス市警に捜索依頼の電話をかけた。

 「子供の行方不明は、24時間、捜索しない方針です。99%の場合、翌朝には戻りますから。遊んでいる子の捜索に署員を回せません」
 「ウォルターはそういう子じゃないんです」
 「ご両親は、どなたも同じことを言います」

 これが、ロス市警の署員の反応だった。

 しかし署員の言う、例外的な1%の事態に、ウォルター少年のケースは当て嵌ってしまったのである。

 当時、ロス市警は汚職と署員の倫理規範の顕著な劣化が問題化されていて、米国長老派教会のリベラル派であるグスタヴ・ブリーグレブ牧師によって、「ロサンゼルスは今や、“無法者の街”です。市民の保護者が“暴力者”と化し、法を無視して、市民に冷酷な仕打ちをする」などと指弾されていた。

 失踪から5ヶ月後。

 必死に息子の捜索するクリスティンの前に、ロス市警青少年課のジョーンズ警部が訪ねて来た。行方不明の子供の捜査を担当する刑事である。

 「息子さんは無事です。イリノイ州で保護されました。無傷で元気です」

 その報告に、クリスティンの歓喜が弾けて、職場の同僚たちの祝福を受けていた。

 某駅のプラットホーム。

 メディアによって注目される渦中で、そんな外部環境への配慮とは無縁に、列車が着くや否や、クリスティンは矢も盾もたまらず、走って行った。

 「女ですね」とジョーンズ警部。傍らにいる市警本部長に言った言葉。

 彼女はこのとき、丸ごと「母性」を表現し切っていたのである。

 「息子じゃない」


 それが、「息子」を一目見たときのクリスティンの反応だった。

 「5か月で体重が減り、印象が変わったんです。あなたは動揺しているだけだ」

 実は、単に外観だけが似ている子を押し付けるという信じ難き詭計を弄(ろう)した、ロス市警のジョーンズ警部の反応が落ち着き払っていたのは当然だった。

 映像は既に、「チェンジリング」(取り替え子)されたこの子が、ウォルター少年ではないという描写の布石を打っていたことを書き添えておく。

 ―― 従って、ここで問題になるのは、なぜロス市警が、すぐに分るような嘘をついたかという一点である。

 この「再会」の場面でジョーンズ警部が、「この子は他に行く場所がない。お願いです」と、クリスティンの拒絶に反応した言葉に表れているように、「共生」していくことで「親子の情」が形成されるという判断があったとしか考えられないのだ。

 しかし、その判断が安直であったことが、まもなく瞭然とする。

 我が子を思うクリスティンの愛情の深さと、女手一つで子供を育てる“責任”の強さについて、明らかにジョーンズ警部は読み違えていたのである。


 その後、クリスティンはロス市警を繰り返し陳情・抗議するようになる。

 当然の如く、件の子が我が子と違うという事実を認知してもらうためである。割礼があったことと、身長が不足していたこと、それが何より「チェンジリング」の証拠になると考えていたからだ。

 「辛い体験をしたから、愛情が必要なのです」とジョーンズ警部。
 「息子じゃない」とクリスティン。
 「一体、何でそんなことを言うんです?充分、面倒を見られるのに。経済的にも問題ない。なぜ、母親としての責任から逃げるんです?」
 「逃げてなどいない!冗談じゃない!あの少年が気の毒だから面倒まで見ている。どうか息子を捜して!」

 確信犯的に余所(よそ)の子を押し付けるジョーンズ警部と、確信的にその嘘を見抜くクリスティンとの心理的対峙は、このクレームの一件によって完全に対決モードとなり、俄(にわか)に、「ロス市警に象徴される、理不尽な権力との闘争」という構図の様相を呈していく。

 その空気を読み取ったジョーンズ警部は、権力サイドの医師を経由させて、ロス市警の正当性を証明しようとするが、クリスティンの堅固な意志によって拒絶されるに至った。

 クリスティンは、「正しく戦えば、不幸な事態に終止符が打てる」と励ます、上述した長老派教会のリベラル派であるグスタヴ・ブリーグレブ牧師の協力を得て、「息子捜し」への果敢な闘争に踏み入っていく。

 牧師のサポートによって、クリスティンは事実をメディアに公表していったのである。

 予想だにしなかったクリスティンの行動に激怒したジョーンズ警部は、遂に伝家の宝刀を抜いた。

 ロス市警に呼び出された彼女は、そのまま、市警と関係の深いロサンゼルス病院の精神科病棟に強制入院させられてしまうのである。

 理由は以下の通り。

 「警察に騙されたと主張。別人を息子として押し付けられたと」

 「ロス市警に象徴される、理不尽な権力との闘争」の構図は、この一件によって、精神科病棟を拠点にすることで、更に社会的な広がりを持つに至ったのだ。

 「チェンジリング」が、後に大きな事件に発展していくには、「理不尽な権力との闘争」を経由せざるを得なかったのである。



 3  “コード12”



まもなく、ロサンゼルス病院の精神科病棟に強制入院させられたクリスティンは、キャロル・デクスターという名の「入院患者」と知り合った。夜の仕事をする彼女は、警察沙汰を起こした者たちを意味する“コード12”というレッテルを貼られた女性で、その理由は以下の通り。

 「ある客に、あまりにもひどく殴られて、苦情を申し立てたら、その客は警官だった。気付いたらここに。女は弱い生き物よ。感情で物を言い、理論的に考えない。気が変になって迷惑なことを言い出す・・・信じると思う?警察や警官に盾突くイカれた女の話なんか・・・ここに入れられたら従うだけ。家には帰れない」

 「食べるのは普通の行為。普通らしくしないと。方法はそれだけ。まずくても食べる振りをして」

 更にこれは、摂食することに消極的なクリスティンに、彼女が与えたアドバイス。

 「“まともな言動” は異常と判断される。笑顔を見せれば妄想か、病的興奮。笑顔がなければ鬱病。無表情でいれば、極度に内向的か、緊張病よ」

 共に“コード12”に指定されたデクスターとクリスティンは、以降、精神病棟での激越な闘争を開いていく。

 精神科病棟でのクリスティンの戦いは、より尖った形で継続されていた。それをサポートするデクスターも、医師を殴ったペナルティで電気ショック療法を強制的に処置される始末。

 「医師を殴るなんて…」とクリスティン。

 彼女には、デクスターの行為は逸脱しているように見えたのか。それとも、その行為の結果に対して予想されるペナルティに無頓着過ぎると思ったのか。

 「殴りたかったの。気分良かった。もぐりの医者の手で、2度、子供を堕ろしたわ。仕方なく…子供のために闘えなかった。あなたは闘える。諦めないで」とデクスター。
 「勿論」とクリスティン。
 「クソ喰らえ。奴ら、くたばるがいい」とデクスター。
 「女性の言葉ではないわ」とクリスティン。
 「いいのよ。時には、使うべき言葉を使わなくては。失うものがないときにね」

 精神病棟の担当医は、態度の変わらないクリスティンに、なお入院の継続を命じていく。

 「6日経ったが進展はない。より強力な治療法が必要だ。だが、症状が良くなったのなら、これにサインを」
 「クソ喰らえ。くたばるがいい」

 自分の誤りを認める書面へのサインを、クリスティンは断固として拒絶した。デクスターが吐き捨てた言葉を、今度はクリスティン自身が、当の権力に向かって、そこだけは確信的に言い切ったのである。

 “喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”という彼女の「父性」が、全面展開しているのだ。

 電気ショック療法への命令を下されたクリスティンが、まさに強制処置される寸前に、病棟に変化が起こった。

 「子供たちの遺体発見」を報じる新聞を手にしたグスタヴ・ブリーグレブ牧師が、病棟に駆けつけて来て、クリスティンの釈放を要求したのである。その結果、クリスティンは電気ショック療法を処置されることなく、釈放されるに至った。

 ―― まさにこの辺の描写は、典型的なハリウッドムービーの独壇場である。

 透徹したリアリズムで繋がれてきた映像が、このハリウッド文法の導入によって削がれてしまったのは、返す返す残念であるとしか言いようがない。なぜ、イーストウッドはこんなジャンクカットを挿入してしまうのか。「急転直下の反転攻勢」という定番的な「救出譚」の範疇の内に、安直に収斂させる映像ではなかったはずである。彼もまた、典型的なハリウッドスターであり、ハリウッド監督であるからだとしか言いようがない。



 4  告白



 映像はその一方で、パラレルにもう一つの事件を追っていく。

ヤバラ刑事
不法滞在の少年のカナダ送還という任務を担ったロス市警のヤバラ刑事が、件の少年が従兄と共に滞在するワインヴィル養鶏場への捜査が展開していく。

 この一件が、本篇のストーリーラインに重要な脈絡を持つに至ることを、先に書いておこう。

 所謂、「ゴードン・ノースコット事件」という、本作のモデルになった事件の震源地が映し出されるに至って、事件の闇の真相が明らかになっていくのである。

 不法滞在の少年の名は、サンホード・クラーク。

 クラーク少年は、カナダへの送還の命令を受ける警察の控え室で、禍々しい記憶が蘇り、身震いしていた。ゴードン・ノースコットによる、少年たちの虐殺の場面が映像に挿入され、斧による殺害という事件の凄惨さを浮き彫りにしたのだ。

 送還命令を受けたクラーク少年は、自分を捕捉したヤバラ刑事との面会を求め、そこで事件の真相を語る決意をしたのである。

 以下、ヤバラ刑事への、クラーク少年の告白。重々しい告白の大半を、刑事の尋問を含めて記述していく。

 「従兄のゴードン・ノースコットが、あの牧場を持っている。“住まわせてやるから留守番してろ”と。雑用したり、色々。好きなだけいて良いって。出て行くのも自由かと・・・しかし、逃げようとしたら殺すって。従兄がどんな人間で、僕に何をさせたか・・・子供を殺したんだ。従兄に無理やり手伝わされたんだ。断れば、僕も殺すって。お願い、僕を助けて!怖いんだ。地獄へ堕ちたくない」

 「誰を殺したんだ?」とヤバラ刑事。
 「名前は一人も知らない」
 「何人殺したんだ?」
 「20人くらい。誓って本当だ・・・数えるのを止めた。ゴードンの話では、1人か2人は逃げたって」
 「どうやって?」

 「まずは、1人か2人を誘拐する。時には3人のことも・・・毎回、違う方向へ行く。同じ所へは二度と行かないんだ。時には何時間もかけ、子供を捜す。独りでいる子・・・知らない人の車には乗らない子も、僕がいれば油断する。皆、僕を見て、“子供が乗っているから大丈夫だ”って思うんだ。誰か乗せる度、死ぬほど辛かった。牧場に戻るとニワトリ小屋へ・・・すぐ殺すこともあれば、時には、もっと捕まえるまで待つことも。4人か5人くらいになるまで・・・ごくたまに、1人か2人生かしておくことがある。虫の息だけど・・・“サンフォード、お前が殺せ”って。“殺さないならお前を殺す”だから殺した。子供たちを殺した。この手で殺した」

 ここまで話したとき、クラークは激しく嗚咽し、頭をテーブルに叩き付けた。

 「写真を見れば、分るか?」と刑事。

 クラークの反応を確認し、ヤバラ刑事は行方不明の子供たちの写真を少年の前に見せていく。

 その中に、ウォルター・コリンズの写真が含まれていて、クラークはそれを肯定したのである。

 驚愕すべき告白の全容に危機感を持ったヤバラ刑事は、直ちにジョーンズ警部に報告した。しかし、その告白の信憑性を否定する警部に対して、ヤバラ刑事は「少年は、怯(おび)え切っています」という言葉を添えた。

 まもなく、ヤバラ刑事はクラーク少年を随伴して、ワインヴィル養鶏場の実況見分を行った。

 少年は、スコップで養鶏場の土壌を掘り起こしていく。その結果、少年の告白の通り、遺体を遺棄したとされる現場から、次々に犠牲少年の遺骨や遺品が発掘されたのである。

 「検視官と応援の警官をここへ。ゴードン・ノースコットを指名手配しろ」

 少年の告白が事実であることを確認したヤバラ刑事は、犯人を緊急手配する命令を下した。それでもなお、土壌を掘りつづける少年に、刑事は「もう、止せ。後は任せろ」と言葉をかけ、発掘を制止した。

 そこに、少年の涙が捨てられていた。



 5  判決



 「ウォルター坊や、死亡か!」

 巷では、事件の報道が騒がせていた。

グスタヴ・ブリーグレブ牧師
退院した直後のクリスティンには、こんな刺激的な報道は苦痛でしかなかった。心身共にやつれた彼女を、グスタヴ・ブリーグレブ牧師が支え切っていた。

 クリスティンの立ち直りは早かった。

 「警察が、あの女性たちや息子について何をしたか。“喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”売られた喧嘩にケリをつける・・・失うものはないわ。何も」

 牧師に語ったこの言葉は、映像の冒頭で息子に語ったものと同じものだった。彼女はこのとき、再び「父性」をより鮮明に復元させたのである。

 クリスティンは牧師の協力によって、無償で弁護を引き受けてくれる弁護士を得て、市、警察、精神病院を相手に訴訟を起こした。

 まず、“コード12”の名目で病院に入院している全員の解放を実現した。解放されていく女性たちの一人に、デクスターもいた。彼女と眼が合ったクリスティンは、見違えるほどの外見上の変化を見せる彼女の無言の笑みに、同様の無言の笑みを返していく。精神病棟という権力を相手にした二人の女の闘いは、その無言の笑みの内に自己完結していくかのようだった。

 しかしクリスティンの闘いは、なお継続されていく。

 彼女の息子を奪ったと思われる敵は、呆気ないほど簡単にその姿を現した。

 1928年9月20日。カナダ、バンクーバー。

ゴードン・ノースコット
ゴードン・ノースコットが逮捕されたのである。

 「警察も、色々楽しませてくれた」

 メディアを相手に悪態をつく男の表情は、全く悪びれることのない薄ら笑いを浮かべていた。

 警察に対する激しい抗議デモが渦巻く中で、裁判が開かれた。1928年10月24日のことである。

 ヘラヘラ笑いながら入廷して来たゴードン・ノースコットは、クリスティンを一瞥して、言葉をかけた。

 「警察と戦うなんて、勇気がある」

 裁判は継続され、ジョーンズ警部を弾劾する場面で、万雷の拍手が起こった。

 一方、裁判の中で繰り返し、息子のウォルターの死が既遂事項のように確認される中で、クリスティンの心情は劈(つんざ)かれていく。

 「あの子は生きています。今も存在を感じます」


 グスタヴ・ブリーグレブ牧師に、その思いを語るクリスティンは、未だ「母性」を捨て切れない女性として延長されていた。

 「認めたくない気持ちは分ります。母親なら当然だ。でも、ご自身のためにも、そろそろ新しい人生に踏み出さないと。息子さんも、そう望んでいる」と牧師。
 「もしかして、捜して欲しくて、私を待っているかも知れない」
 「待っているでしょう。我々が皆、いつか行く場所で。再び出会える日まで。そしてその日に、彼は知るでしょう。あなたが、全てを尽くして救おうとしたことを」

 牧師のこの言葉に、クリスティンは涙を拭った。

 しかし、映像はここで終焉しない。単に、一人の女が権力と闘う勇気を描く映像ではないからだ。

 一方、聴聞委員会では、以下の結論が下された。

 「警部の停職を、恒久的とするように申し入れる」

 これが、ジョーンズ警部への最後通告だった。

 更に、一般市民が一方的に精神病棟などの施設に拘束されることの禁止、警察の本部長の解任が下され、聴聞委員会は終了した。

 クリスティンの眼が潤み、まもなく小さな笑みに結ばれた。彼女の中でまた一つ、大きなケリがついたのである。

 また、陪審員による被告ゴードン・ノースコットへの採決が下された。

 「第一級殺人で有罪」

 具体的な判決が下る前に、ノースコットへの発言の機会が許された。ノースコットは裁判長への不満を述べた後、矢庭に傍聴席にいるクリスティンを指さして、意外なことを口走った。

 「立派なのはあの人だけだ。記者に僕の悪口を言わないし、警察に嵌められた気持ちも分ってくれる。穴に放り込まれ、このまま腐っていき、忘れられるんだ」

 ここまで言い放った後、突然、クリスティンの傍まで走り寄って、「息子さんを殺していない。あの子は天使だ」と叫んだのである。

 彼女の心を、終世、揺動させるこの一言の「毒気を含む希望」には、その後の彼女の身体表現を決定づけるモチーフが含まれていた。それは彼女にとって、未だ人生のケリをつけさせない何かであった。

 「サン・クエンティン刑務所の独房に、2年間収監する。1930年10月2日まで。その日、絞首刑による死刑に処する」

 これが、ゴードン・ノースコットへの判決だった。

クリスティンの頬に、涙が光っていた。その涙が包含する人生の甚大なテーマについて、彼女自らが決定的なケリを付けるために、以降、直接的に対峙することになるのだ。



 6  爆轟



 1930年9月30日。

 息子ウォルターの生存を信じて、クリスティンは関係機関への問い合わせを続けていた。そんな折、弁護士から思いがけない情報がもたらされた。死刑執行直前のゴードン・ノースコットから弁護士宛てに、「クリスティンに会いたい」という電報が届いたのだ。

 その内容は、以下の通り。

 「あなたが、まだ息子を捜していると知り・・・“殺していない”というのは嘘だった。最期を前に、遂に認める気でいる。“刑務所まで会いに来るなら、真実を話す”と。あなたの心が晴れ、自分の人生を歩めるように」

 弁護士の聞いた所によると、クリスティンは、「30年間で初めて、処刑の前日、連続殺人犯に面会する女性」だということ。

 その一報を聞いたクリスティンは、直ちにサン・クエンティン刑務所の独房にいるゴードン・ノースコットに会いに行った。所要時間は20分。

 以下、独房内での鬼気迫る「攻防戦」。

 「本当に来るとは思っていなかった。だから今・・・」とノースコット。
 「だから今、どうなんです?」とクリスティン。
 「まさか、こうして・・・会いたくない」
 「会いたくない?」
 「嫌だ。話なんかしたくない。明日、死刑になる。電報を送るなんて訳もないことだよ。でも、面と向かうと、あなたが聞きたいことを話すことなんかできない」
 「なぜ?」
 「嘘をついて、地獄に堕ちたくないから。懺悔を済ませた。神に赦しを乞い、罪を赦され、正しい日々を送ってきた。もし、今になって嘘をつき、罪を犯したなら、もう赦しを乞う時間がない。僕は地獄へ堕ちたくない。地獄は嫌だ」

 信じ難いノースコットの告白を聞いて、顔色一つ変えず、クリスティンは死刑囚に迫っていく。死刑囚は涙で頬を濡らし、相手を正対できなくなっていた。

 「あなたに呼ばれたんです。私を見て下さい」

 クリスティンの冷静な対応に、ノースコットは恐々と振り返った。

 「息子を殺したの?」とクリスティン。どこまでも冷静である。
 「何の話だ?」とノースコット。怯えている。
 「分っているはずよ。息子を殺したの?」
 「言っただろ。話したくないんだ」

 その瞬間だった。

 クリスティンは自分の感情を激越に噴き上げた。死刑囚の胸倉を掴み、彼に肉迫したのだ。

 「息子を殺したの!答えて!答えるのよ!」

 映像が初めて見せる、クリスティンの荒肝を抜くような攻撃性は、この時間しか存在しない息子の安否の確認に対する、最後の爆轟(ばくごう)だった。

 怯える死刑囚と、その死刑囚の身体を噛み付かんばかりの女の気迫は、「ケリを付ける」ことなしに人生を自己完結できない壮絶な覚悟に補完されていた。

 「僕をどうするつもりだ?」とノースコット。もう、恐怖感に近い。
 「地獄に堕ちて。地獄に堕ちろ!」とクリスティン。相手を追い詰めて、圧倒し切っている。

 最初にして最後の、男との直接的な「攻防戦」は、こうして閉じていった。

 10月2日。ノースコットの死刑が執行された。

ゴードン・ノースコット
覚悟を括ったかのような男だったが、執行の13階段を昇るとき、「せかさないでくれ!嫌だ!」と叫喚して、その裸形の人間性を存分に露わにした。

 その執行をまんじりともしないで、凝視する女がいた。クリスティンである。執行の瞬間こそ視線を落としたが、しかし最後まで視認する女の内側には、男の死によってもなお自己完結できない感情だけが置き去りにされていた。

 ―― それにしても、刑務所の独房に2年間収監させた後、きっちりその2年後に、絞首刑による死刑を執行する「アメリカ」という国家の、その断固たる意志と態度に度肝を抜かれる。懺悔を済ませることなしに、簡単に命を奪わない制度を持つ国の厳しさに、我々ナイーブな日本人にはとうてい想像力が及ばない所であろう。

 正直言って、こんな圧倒的な国家と、その10年後に開戦しても勝てる道理がないのは当然過ぎることだった。

 因みに、現在のアメリカの死刑制度を持つ州においては、引き続き死刑執行の期日を決めているが、死刑制度を批判する国際的世論の中で、期日が延期されているらしい。



 7  希望



 1935年2月27日。既に、男の死から4年半もの月日が経っていた。

 裁判で知り合ったクレイという女性から、クリスティンの元に電話が入った。

 「警察から電話が。息子が見つかったの」

 この突然の情報は、クリスティンの心を大きく揺さぶった。

 彼女は直ちに警察にいるクレイの元に行き、彼女の息子デヴィッドの事情聴取を共に聞くことになった。

 警察の質問に答えるデヴィッドの話によると、ノースコットに捕まったとき5人の少年がいて、その中の一人にウォルター・コリンズがいた。デヴィッドが警察に名前を聞かれ、苗字まで覚えているのは理由があった。ウォルター・コリンズに関わる、忘れ得ぬ出来事があったからだ。

 以下、ヤバラ刑事に語ったデヴィッドの話。

 デヴィッドとウォルターともう一人の少年で、金網の破れやすい個所を見つけて、穴を広げて脱出を試みた。しかし穴が小さくて、デヴィッドの足が引っ掛かってしまい、金網の音で起きたノースコットが拳銃を抱えて走って来るのを、ウォルターが戻って助けてくれたのだった。

 その後、3人は夜の暗闇の中を散り散りに逃げたが、ノースコットの放つ銃弾を潜り抜けて、他の二人が逃げられたかは確認できていないとのことだった。

 「なぜ今まで、一言も?」とヤバラ刑事
 「怖かった。奴らが、ボクや家族を襲うと思って、言えなかった。ある日、親切な女の人が食事をくれた。“孤児だ”と言ったら、家に居て良いって。だから、そうした。毎晩、うなされた。“奴らが捕まえに来る”って。ラジオで牧場の事件のニュースを聴いて、“もう戻れない”と思った」
 「なせ、そう思ったんだ?」
 「僕が黙っていたから・・・そのせいで、他の子が死んだかも。だから知らん顔した」
 「なぜ、今になって戻った?何年も経ってから」
 「ママに会いたくて・・・パパにも会いたくて・・・帰りたかった。両親の元へ」

 デヴィッド少年の話をここまで聞いたとき、遂に思いが込み上げてきて、少年の母であるクレイは聴取室に飛び込んで来た。

母と子が深く抱擁し、そこに少年の父が加わったとき、それを視認するクリスティンの眼から液状のラインが溢れ出てきた。

 「息子さんは勇気がある。誇らしいでしょう?」とヤバラ刑事。
 「とても」とクリスティン。
 「まだ、どこかにいると?」
 「勿論。あの晩、3人が逃げ出した。一人が無事なら、きっと他の2人も。どこかで怯えながら生きているはず。名乗り出ることの不安や、面倒を恐れて。これでやっと、確かなものを掴みました」
 「何をです?」
 「希望よ」

 笑みを浮かべたクリスティンの力強い宣言が、最後の括りとなった。ラストシーンである。

 映像が静かにモノクロと化したとき、以下のキャプションが刻まれた。

 「クリスティン・コリンズは、生涯、息子を捜し続けた」



 8  イーストウッド幻想のナイーブさ ―― まとめとして①



 辛辣な感懐から書いていく。


 「老境の域に達してなお、自身の最高傑作を塗り替えている感さえあるクリント・イーストウッド監督の“硫黄島”二部作に続く本作は、誘拐された息子の生還を祈る母親の闘いを描くサスペンスドラマ。平凡な主婦が、子供の行方をつきとめたい一心で腐敗した警察権力に立ち向かい、真実を求めて闘い続ける姿を寡黙なタッチで描き出している」(「ワーナー・マイカル・シネマズHP」より)

 このように「褒め殺し」とも言えるような類の絶賛の評価が引きも切らないイーストウッド作品だが、恐らく、「予定不調和の裸形のリアリズム」を嫌悪するナイーブさと裏腹に、人間の醜悪さを限りなく相対化・稀釈化してくれるフラットなラインの延長線上に展開される、その予定調和的な軟着点を丸抱えする物語の「善悪二元論」が大好きで、且つ、分りやす過ぎる映像を提供してくれるものへのニーズが絶えない単純な日本人には、彼の映画は格好の「商品価値」を持っているのだろう。

 彼の全ての作品とは言わないが、私の思う所、少なくともこの作品に関しては、イーストウッド監督が「ハリウッド文法」から抜け出せない映像作家であることは否めなかった。

 本作における「善悪二元論」の露骨さには、正直、閉口した。

 「ジャーナリスト出身の脚本家J・マイケル・ストラジンスキーが市庁舎の焼却処分予定の古い記録を読んだことをきっかけに、映画として遺された本作。ストラジンスキーは語る。『僕は、クリスティンが成し遂げた業績を讃えたかった。僕の仕事は、できるかぎり誠実にストーリーを語り、彼女の闘いを讃え、彼女が決して信念を失わず、息子を捜し続けた姿を描くことだった』」(「HILLS CLUB・試写会日記」より)

 以上の一文を読む限り、脚本家のモチーフの内に、「反権力」への射程が含まれているのは容易に読み取れる。

 映像は、必ずしも「反権力」を中枢の問題意識として表現されたものにはなっていないが、少なくとも、映像の登場人物たちの「役割分担」が、これほど顕著に表出した作品と遭遇してしまうのも、「反権力」的映画の宿命であると諦めるしかないのか。

「反権力」の闘いを切り結んだ主人公のクリスティンの側に、長老派教会のヒューマンンな牧師がいて、それを支える人権弁護士がいた。更に、彼女が一週間捕捉された精神病棟には、彼女をサポートする勇敢な女がいて、その周囲には、ロス市警の犯罪性を糾弾する無数の民衆が群れを成していた。

 またロス市警には、限りなく悪徳を体現する権力的な警察集団がいる一方で、その悪徳性と完全に切れた良心の象徴のような中年刑事がいるという具合。

 何より、精神病棟の悪徳性は、そこに勤める全ての医師、看護師などの人格の内に典型的に具現化されていたのだ。

 当然の如く、このような「善悪二元論」の映画には、殆ど例外なく、ヒーローまたはヒロインが登場するが、本作もまた、その例外ではなかった。

 多分にヒーロー性を兼務したクリスティンのヒロイン性はともあれ、最後に明らかになる彼女の年少の息子もまた、本作のヒーローとして雄々しく立ち上げられていく描写には、「英雄」を必要とせざるを得ないハリウッドムービーの宿痾(しゅくあ)のようなものを感受してしまうのだ。

 本作の冒頭に、敢えて「A True Story」というキャプションを添えても、「実録」ではなく、「事実に対する人の評価を随伴するのが真実である」という意味で、「A True Story」という把握は決して間違ってはいないだろう。だから本作が、真贋(しんがん)性を問題にする映画に終始しないのも理解できる。

 それにも拘らず、件のヒーローに誇りを持つヒロインが、その人生に「希望」を繋ぐことによってしか終焉できない物語の括り方に、特段の異を唱える訳ではないが、しかし一切が事前に読解できてしまう「人間ドラマ」の底の浅さを越えるには、安直な「ハリウッド文法」を蹴飛ばす手法以外になかったのではないか。

 ともあれ、クリント・イーストウッド監督を「アメリカの良心」と崇拝する声が、良かれ悪しかれ、かくも喧(かまびす)しくなってくると、監督自身が「信仰」の対象人格と化すまでに殆ど時間がかからないだろう。

 人間には愚昧さの多寡の問題しか存在しないと考える私にとって、「信仰」の対象人格の立ち上げ自体が、充分に愚昧さの検証以外の何ものでもないと考えているので、そんな空気の周囲に決して近づかないことだけが自己防衛になると確信している次第である。

 それにしても、日本人のイーストウッド幻想のナイーブさを思うとき、いつまでたっても、「人間性幻想」、「善悪二元論」、「アンチ・リアリズム」、「特定他者との距離感覚の脆弱性」等々といった、「子供っぽさ」の臭気が鼻についてならないのだ。

 「ナイーブさ」を誇るような日本人には、とうてい「予定不調和の裸形のリアリズム」を受容し、めまぐるしく変転する状況に対して、「現実原則」によって凛として対峙し得る堅固な自我を構築するのは困難であるのかも知れない。そう思う、今日この頃である。



 9  母性によって補完された、“責任”という名の状況突破への進軍 ―― まとめとして②



 厭味なことを書き過ぎたので、以下、作品の批評に踏み込んでいく。

 まず、140分の映像の長尺性への不満の声を聞くので、逆にその点についての私の評価を、一言添えておきたい。

 繰り返し映像を観れば判然とするだろうが、本作には余計な描写が多いという不満に関して言えば、正鵠(せいこく)を射ていないと思われる。本作は、観客が知りたいと思う情報に手が届いたと感じさせる構成において過不足がなく、全ての描写が本篇を貫流するラインの中で重要な脈絡を持っていて、決して冗長な印象はないというのが私の結論だ。この点における完成度は、及第点に達していると思われる。

 ここからは、本質的な事柄について言及していきたい。

 本稿の冒頭で書いたように、本作のキーワードは、“喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”というフレーズに集約されると思う。本作のファーストシーンの中で、喧嘩をした息子にクリスティンが説諭した言葉である。

 確かに、映像の基幹ラインを貫流するテーマを、「理不尽な権力との人権を賭けた闘争」という把握によって要約しても、強(あなが)ち間違っていないだろうが、しかしそのテーマを映像の本質として認知するならば、法廷闘争のシークエンス以降の描写の意味が蛇足的な含みを持ってしまうだろう。

 即ち、本篇が「権力との果敢な闘争」というテーマで貫徹する作品であったならば、刑事事件の被告及び、聴聞委員会での権力サイドの理不尽な暴力と、それを許容した機構それ自体への弾劾という、多分に予定調和的な軟着点によって閉じるのは妥当であると言える。然るに映像の稜線は、その先の時間にまで伸ばされていくことで、無限に続くと思わせる、主人公の私的テーマへの追求への執念を描き出していったのだ。

 これは一体、何を意味するだろうか。

 結論から言えば、仮にシナリオライターの思惑から些か逸脱することがあったにしても、本作が「権力との果敢な闘争」を中枢のテーマに据えたのではなく、そのカテゴリーと乖離しない程度において、主人公の「生き方」それ自身を丹念にフォローしていく映像になっていたということ。この一点において、シナリオライターの思惑と乖離しないが、私は寧ろ、それこそが最も重要なモチーフであったと思われるのだ。

 “喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”という言葉に集約されるように、本作を一言で括れば、“責任”についての映画であるということではないか。

 我が子の全人格に対する母の責任意識の心理的起動点は、言わずもがな、相当の包容力に溢れた「母性」であると言っていい。しかし本作は、主人公の自我の内側に強固に張り付く「母性」と分ち難く併存するか、或いは、しばしばそれを越えるほどの価値概念としての“責任”の問題を強調しているように思えるのである。

 即ち、“責任”を放棄して別れた夫に代わって、その遂行を代行する上で内的に要請された能力が、「父性」であると言っていい。従って、私はこの主人公の生き方を、「母性によって補完された、“責任”という名の状況突破への進軍」と呼んでいる。

 この「『責任』という名の状況突破への進軍」を支える精神こそ、「在るべき『父性性』」であると言えるだろう。


 彼女はこの「在るべき『父性性』」によって困難な状況を突破し、時には、自分の息子を殺めた可能性の高い死刑囚のパーソナルスペースに踏み込んで、件の男を激しく糾弾し、胸倉を掴むほどの攻撃性を開示して見せたのである。

 その象徴的シーンが、死刑執行直前のノースコットとの刑務所の独房内での対峙であった。

 その描写が開いた、男の自己防衛的な脆弱性を破壊するかのようなシークエンスは、本作の白眉と言っていいだろう。

 オロオロし、嗚咽するだけの男は既に魂が死滅していて、それを目の当たりにした女は、「本当に来るとは思っていなかった」などと口走って、深い祈念の思いで刑務所にまで足を運んで来た自分を、あろうことか、「嫌だ。話なんかしたくない」と吐いて翻弄する男の、その防衛的な自我を喰い千切る攻撃性を、まさに爆轟(ばくごう)の如く噴火して見せたのだ。

 「地獄に堕ちて。地獄に堕ちろ!」

 顔色一つ変えず、腰抜けの男を完全に圧倒し、何か冷徹に叫喚するかのような超絶的な態度による凄味を、「火の玉」と化して身体表現する女の壮絶な突破力を支え切ったのは、“責任”を持って息子の全人格を奪回し、保護するという、強靭な「父性」以外の何ものでもなかった。

 その「父性」が、包容力に溢れた「母性」によって補完されたとき、女は最強の戦士になったのである。そういう映画だったのだ。

 男の死刑執行に自ら立ち会って、まんじりともせずに震え慄く男の絞首刑の瞬間を、ここでも冷徹に視認する女の態度は、好むと好まざるとに関わらず、自分をインボルブしてくる状況に対して、それに毅然と対峙し、あらゆる事態に対して一つ一つケリをつける“責任”の行使であり、まさに「在るべき『父性性』」の具現でもあった。

 本来、「無限抱擁」的な「母性」によっては突破できない事態を、“責任”という「父性」を内化することで問題の根源に肉薄し、そこでの激越な葛藤を身体化するに至った女の自我の揺動のさまが、良かれ悪しかれ、「悲哀の仕事」という自我防衛的でありながらも、多分に情感系の次元で処理されず、「状況継続性」以外の選択肢を捨てる生活を内的に強いていく時間を、一つの固有の「生き方」にしてしまった「壮絶さ」において、本作の主人公のケースは、ある種の特定的な人生モデルの格好の学習教材であったとも言えるだろうか。

 しかし「状況」を継続させた女は、実は“責任”という「父性」によって、その堅固な「生き方」を身体化したのではなく、どこまでも息子への深い愛着の思いを断ち切れない、言わば、「無限抱擁」的な「母性」の時間の範疇にあったに違いない。

 それでも主人公の「状況継続性」を、“責任”という「父性」が、その自我の根柢において支え切っていたという把握も誤っていないのだ。彼女の中では、その人格の深い所で「父性」と「母性」が不可分に溶融していたからである。

 要するに、本作は「『母性』を補完する“責任”という名の突破力」についての映画であったとも言えるだろう。



 10  「情感」と「モラル」だけで政治を語るナイーブな国



 ―― 稿の最後に、余計なことを書く。

 即ち、「“責任”という名の突破力」こそが、我が国に最も欠如しているように思われるということだ。

 一度決定した制度を、それが明瞭な結論に達する前に簡単に放棄してしまうから、いつまで経ってもこの国は、制度の是非の検証が徹底的にできずに、すぐに元の木阿弥の状態になってしまうのである。何かを初めても、それが不安含みで推移しただけで、我慢し切れずにパニックになって、もう引き返すことしか考えなくなるという具合。常に「退路」を用意しているから、逃げ出すときの速さは天下一品である。

 誰も“責任”を取らないのだ。

 「無限抱擁」的な「母性」に甘えるだけで、「父性」が欠如しているから、「退路」への視界が消えることを常に恐れているように見えるのだ。「男」が存在しないのである。

 ならば「草食系男子」や、単なる「体育会系原理主義」で動くだけのマッチョではなく、「考えながら動く『実践知』のリーダー」である「知的体育会系」の「男」や、クリスティンのような堅固な自我を持つ「女」の出現を待望したいが、それもまた幻想に終わってしまうのだろうか。

 要するに、この国の人たちはあまりにナイーブ過ぎるのだ。「情感」と「モラル」だけで政治を語るナイーブさは、もう殆ど病気であると言っていいだろう。

(2009年9月)

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