2009年10月26日月曜日

銀座化粧('51)       成瀬巳喜男


<「女」という名の商品価値の攻防>



1  正当な感情の噴き上げの内に、一つの凛とした人格的表現が含まれて



これは、戦後間もない頃の銀座のバーに勤める、一人のホステスの物語。

映像のテーマは、彼女の中に内在する「女」と「母」という二つの意識様態が微妙に交錯し、揺動しつつも、後者の牽引力が前者のエロス的世界を制御する感情の流れ方を精緻にフォローしたものだが、そこに、成瀬特有のユーモアと哀感を込めて見事に描き切った映像表現の構築に成功したところが、本作を秀作に足るものとして評価の定まった所以であるだろう。

彼女の名は雪子。

戦中に羽振りの良かった藤村の愛人となり、彼との子供を儲けている。

子供の名は春雄。

戦後直後の、物のない時代で育った子供たちの共通の特徴であるように、春雄もまた極めて闊達(かったつ)な子で、一日中、表で遊び回る元気さに溢れている。

今はすっかり甲斐性を失くした藤村が、雪子の元におもねる態度よろしく頻繁に訪ねて来るが、その目的は様々に理由をつけた小金のせびりである。

多くの場合、情の深い雪子から金銭を手に入れる男は、自分を父と知らない春雄に、その中から僅かばかりの小遣いを渡して、自己満足するような小さな世界で呼吸を繋いでいる。

この描写が映像のファーストシーンとして印象的に導入されていたが、円環的な日常世界を描く成瀬巳喜男は、本作のラストシーンにおいて、小金をせびり損ねた藤村が春雄に小遣いを渡せずに退散する描写を、滑稽気味に添えていた。

そんな甲斐性のない男を、既に「女」の視線で捕捉する対象として継続できなくなっている雪子が、それでも男の訪問を拒まないのは、若い頃に世話になった報恩の感情が存在するからである。

雪子が、かつてのホステス仲間の静江に、自らの思いを語っているシーンがあった。

「私が藤村と手を切ったのは、あの人が落ち目になったからじゃないのよ。春雄のこと、それからあの人の奥さんや子供さんのこと、色々考えた末のことなのよ」
「じゃ、何で寄せつけてんの?」と静江。
「ほら、あなただって知ってるでしょ。春雄を産んだ後、私が病院で死にそうになってたときのこと。あのとき、あの人に助けてもらった恩だけは、どうしても忘れることができないのよ」

雪子(左)
このような感情を抱懐する雪子の人格イメージは、「律儀な女」という言葉が相応しいだろう。

「律儀な女」は同時に、「身持ちが良い女」でもあった。

雪子が勤めるバーのマダムから、経営の維持のために20万円の金策が必要であると打ち明けられ、ホステス稼業で身過ぎ世過ぎを繋ぐため、彼女なりに思案していた折、静江からの紹介で、雪子に思いを寄せる菅野という成金(?)を紹介されたときのこと。

その資産家の男と会った雪子が、男に無理やり倉庫の中に誘い込まれ、有無を言わせず、男の性欲が襲いかかって来たとき、彼女の取った行動は毅然としたものだった。

「見損なわないで。私そんな女じゃありません」

そんな啖呵を切って、雪子は倉庫の中で男を突き飛ばすや、倉庫の重い扉を自ら抉(こ)じ開け、足早に走り去っていったのだ。

その描写には、「ホステスを舐めるな」という正当な感情の噴き上げの内に、一つの凛とした人格的表現が含まれていて、如何にも成瀬映画の定番的な女性像が立ち上げられていた。



2  恋愛至上主義の観念を彷彿させる人格投入の揺蕩(たゆた)い



「身持ちが良い女」である雪子は、厄介な依頼を引き受けることになった。

依頼の主もまた、倉庫のエピソードの助平男を紹介した、件の発展家である静江であった。

その静江から雪子は、信州から上京して来る素封家の息子に東京案内を頼まれたのだが、「女子大出」という触れ込みが既成事実化されたのは、静江自身の個人的事情に関与していたからだ。

信州青年の石川京助は、戦争中、静江が疎開していた村の大地主の次男坊で、彼女が「心の恋人」と決めている「坊や」であった。彼女は自らを「戦争未亡人」と信じ込ませている手前、雪子を「女子大出」と紹介するに至ったのである。

石川京助(左)
かくて、2日間の東京案内を引き受けることになった雪子は、京助「坊や」を賑やかな銀座通りなどを案内し、本人をそれなりに満足させていた。

信州の青年、京助の教養レベルに上手に合わせられるスキルは、さすがにホステス仕込みであったが、如何にも好青年のイメージを与える資産家の次男坊との場違いなクロスの中で、雪子の中に「女」としての意識様態が揺り動かされていく。

その日の夜、ホステスの後輩である京子に、雪子は際立って高揚した感情の中から、それまで見せたことのないようなポジティブな結婚観を披歴した。

その夜の京子との対話。

京子に「いい人を見つける」ことを促す雪子は、その日、京助と星の話などをしてすっかり青春気分で上機嫌だった。

「じゃあお姉さん、もし、そんな素晴らしい人見つけ出したら、どうする?結婚する?」

こんな京子の反問にも、雪子は堂々と自分の結婚観を披露する。

「言うまでもないじゃないの。体当りでも行くわよ。何もかも捧げて」
「何もかも?そんなことしてうまくいかなかったら、それこそ大変じゃない?」
「大丈夫よ。それぐらいの決意がなくちゃ、本当の幸福は掴めないわよ」

どこまでもフリー走行を前提にした、自分の幻想の「恋愛・結婚」へのイメージを語ったに過ぎないが、雪子のこのアファーメーション(自己肯定宣言)の中に、一人息子の春雄の存在の身体性が欠落していたであろうことは疑う余地がない。

京子(左)
このときの雪子の、恋愛至上主義の観念を彷彿させる人格投入への覚悟が、幻想的・理念的なものでしかないことを検証する事態が出来したからである。



3  夢見心地の揺蕩(たゆた)いが途切れて



雪子は静江に頼まれた芝居見物を京助に促したが、東京の雑踏に違和感を覚えた信州の朴訥青年は、東京見物を中断させ、帰郷したいと言う。

些か拍子抜けの雪子に、由々しき知らせが飛び込んできた。

京子から春雄の行方が知れないことが伝えられ、雪子は激しく動揺した。雪子の昂揚感が自壊した瞬間である。

彼女は直ちに、一人息子の行方を捜しに行くが、その際、嫌がる京子に京助の世話を無理に頼んでいったのだ。

素封家の「坊や」のイメージを画面一杯に映し出してきた、信州青年、石川京助の反応が変化したのは、そのときだった。

京子を一目見るなり、帰京の意思を翻意させ、東京見物の継続を自ら懇望したのである。典型的な一目惚れのパターンだ。

一方、雪子は今、春雄の居場所の宛てを求めて、町の界隈を隈なく捜し回っていた。

彼女がその二階を間借りしている長唄の師匠杵屋佐久の亭主、清吉を中心に、春雄の捜索が続いていて、警察への捜索願いの相談まで出来する状況だった。

いつまでたっても見つからない息子の行方に不安を募らせた雪子の脳裏には、もう信州青年とのロマンチックな時間の、心地よくスイートな記憶が入り込む余地がなかった。

当然である。雪子にとって、一人息子の春雄の存在は、彼女の自我の拠って立つ安寧の人格対象なのだ。

捜索願いの相談が出来するそんな不安な状況下、程なく、船宿の若旦那に釣り船に乗せてもらって釣りを楽しんでいた春雄が、如何にも子供らしく、その手に釣りの収穫の魚が満杯の魚籠(びく)を自慢げに握って、いつものように、弾けるが如く明瞭な気分で戻って来た。

一人息子の無事を確認できた雪子は、春雄の天真爛漫な振舞いに厳たる態度で対峙し、このときばかりは思いの丈を激発させた。  

「この子は、どこかで怪我でもしたんじゃないかしら、ひょっとして人さらいにまで浚われちゃったんじゃないかしらって、ほんとにお母ちゃん心配で、心配で、お前みたいな親不孝ありゃしない」

噛んで含めるような一言一句に、「母」としての雪子の、掛け値のない切実な感情がこもっていた。

全く予想だにしない母の唐突の説教に、春雄が思わず泣き崩れてしまったのも、如何にも子供らしい反応だった。

一人息子の春雄(左)
雪子の人格の中枢を占有する、「母」という意識様態が顕著に現出した描写は、子を持つ親が共有する、あまりに日常的な出来事によって閉じられたのである。



4  揺蕩(たゆた)う心の前線での切っ先鋭く



春雄の一件が解決した雪子の心に、一時(いっとき)忘れていた感情が復元してきた。京助の存在が、彼女の脳裏をあっという間に占有したのである。

京助が宿泊する旅館に迎えに行く道の途中で、雪子は静江と出会った。彼女は旅館からの帰りであった。

「もう、遅いわよ」と静江から言われた後、京助が帰郷してしまったことを聞いた雪子は、その経緯を知って驚愕した。

京子と思しき若い女性が、彼を駅まで送って行ったとのことだが、雪子が驚愕したのは、以下の静江の言葉。

「夕べから泊まり込みらしいんだ」
「まさか」と雪子。想像外の出来事なのだ。
「びっくりしたでしょ?私も『坊や』だけはそんな男じゃないと思ってたわ」

「心の恋人」を失っても、あっけらかんとしている静江と別れた後、相手を特定できていた雪子は、明らかに落胆し、川沿いの手すりに凭(もた)れて、物憂げに立ち竦んでいた。

今、彼女の心の中では様々な感情が蠢(うごめ)いている。

京子に対する不埒な振舞いに対する憤怒の感情も見過ごせないだろうが、その感情をも包含する彼女の中枢の感情は、紛う方なく、京子に対する激しい嫉妬心であった。

間借り部屋に戻って来た雪子は、鼻歌を口ずさんで自分を待つ京子を一瞥もせず、部屋の奥に急ぎ早に移動した。

つっけんどんな態度に終始する自分の心を推し量れないような京子に、雪子はきっぱりと問いただした

雪子(左)と京子(右)
「京子ちゃん、あんた、夕べどうしたの?」
「あたし、お姉さんの所に泊めてもらおうと思ったんですけど、あんまり遅いから…」
「あんまり遅いから、どうしたの?ね、あんまり遅いからどうしたの?」

今までにない雪子の攻撃的な態度を前にして、京子の顔色が変わった。

「石川さんも泊めっていけとおっしゃったし…」

雪子は一瞬後ずさりし、必死に動揺を隠そうとして「私、あんたと見損なっていたわ」と言うや、京子に背を向けた。今にも噴き上がってくる自分の感情を、瞬時に抑制しようとしたかったのだろう。

すぐさま振り返って、雪子は、すっかり意気消沈した京子に否定的な言葉を捨てていく。

「そんな人だとは思わなかったわ」

抑制的であるが故に、余計くぐもったトーンに変調していて、却って攻撃性を弥(いや)増していた

「でも、泊めていただけで、何もありゃしません」
「そんなこと信じられると思ってんの?」
「石川さんって、そんな方じゃありません」

京子の最後の言葉は、澱んだ空気を一変させるに足る、極め付けの決定力を持っていた。

この一言によって、雪子の表情に微妙な変化が現れたのだ。

心理的に手痛い袈裟切りに遭ったときのインパクトを希釈化させるような、それ以外にない事実認知に流れることを怖れるある種の感情が、「女」としての立ち居振る舞いを決して崩さない、彼女の内側で激しく揺動する心を落ち着かせたのである。

今まさに、その鋭角的で歪んだ闘争心によって、京子に至近戦を挑みかからんとする尖った空気が一変し、一呼吸置くように、雪子は窓枠の手すりに腕をかけて座り込んだ。

「初めのうちは、お姉さんの言われたとおり、何を聞かれても、知りません、存じませんと惚けていたんです…でも、あんな良い方、騙しているのが辛くなって、何もかも喋ってしまったんです」
「・・・そう」

雪子の中に一瞬、動揺が走った。

そこに小さな沈黙が生まれた。この沈黙の中で、雪子は少なくとも理性的には、一切を了解しようと努めるように見えた。

初めから強引に設定された仮装劇の愚かさが、石川青年と同世代のホステスの正直な吐露によって、自分の素性が白日の下に曝されただけだった。

そこで失うものの大きさよりも、姑息な仮装劇を仕掛けた静江の安直さを認知する正直な思いの方が受容しやすい感情だったのだろう。

「ごめんなさい、お姉さん」
「あら、何も私に謝ることないわ」

雪子の自分に対する誤解や猜疑心、或いは、思いも寄らない嫉妬心を感受した京子の内側は、自分の正直な吐露が相手の思いを溶かし、より短い距離感の中で言葉を繋ぐことが可能になることで、本来的にその心を預けたいと願う一切のものを吐き出したい気分に包まれていた。

「あの方、近いうちに私を迎えに来てくれるって言うんです」
「そんな約束したの」

京子は恥ずかしそうに頷いて、心地よく俯(うつむ)いた。

「そう。でも、正直なところ驚いたわ。初めて会って、とたんに好きになって、結婚の約束をするなんて」
「でも私、いつもお姉さんに言われているように、真面目に考えてなんです」
「いいのよ。私だって京子ちゃんが、真面目な結婚さえしてくれれば嬉しいんだもん」

その言葉を受け取ることが目的だったはずの京子の思いが具現して、彼女はほっとした表情で俯いた途端、思わず目頭を抑えた。

「何さ、涙なんか出して、馬鹿ね」

雪子はそう笑いながら言うや立ち上がり、再び窓の方に体を向けた。

「今頃、汽車、どの辺走ってるんでしょうね」

窓際に凭(もた)れながら、煙草に火をつける雪子の表情は、心なしか曇っていた。

彼女の中で夢想した「都合のいい物語」の終焉を感じ取って、知らずの内に設定された自己基準による幻想の揺曳(ようえい)の、その残り火さえも雲散霧消した現実を、今や、リアルに認知せざるを得なかったのであろうか。

何もかも終わったのだ。

当時の銀座界隈・・ブログより
そう思ったときから、何か初めて寂しい感情が沸々と湧き起こってくる。それが人間の普通の心理の振れ方なのである。



5  指切りし、凛として前線に向かう女



ラストシーン。

いつものように、金銭目当てで、藤村が雪子の間借り部屋にやって来た。

そしていつものように、男は本来の用件を自分の口から簡単に切り出せず、どうでもいい世間話を、一貫して柔和な表情のうちに捨てていく。

しかしこの日の雪子は、いつものように男の意図を汲んで、相手のちっぽけなプライドを極力傷つけないような応対に配慮する、彼女なりの誠実さを敢えて開くことをしなかった。

彼女に心の余裕がないというよりも、揺蕩(たゆた)う心の前線での軽傷が影響を与えたと思わせる態度だった。

そんな雪子の、気弱な相手の機先を制する一言。

「何か用?」
「ううん、別に」
「お金ならダメよ」
「いやあ、そう度々は頼めないよ」
「商売の方、上手くいってるの?」
「ううん、まあ」
「しっかり頼みますよ・・・もう、心を入れ直して、しっかり働くわ。結局、今となったら、春雄だけが私の頼みですもの」

これが、かつて禁断の関係を固く結び、一粒種まで儲けた男と女の会話の全てだった。

「さよなら」と言い合って別れた藤村が、いつものような帰路をなぞっていたとき、これもいつものように、「我が子」である春雄から元気よく声をかけられた。

「藤村のおじさん!」
「おお、坊や・・・またな」

春雄に小遣いを上げようとポケットに手を入れたものの、一文もないことに気づき、この日の藤村は退散するに至ったのである。

「我が子」に「おじさん」と呼ばれる男は春雄を振り返り、優しい笑顔で頷いて見せた。一方、「収穫」のなかった春雄は、頭を掻きながら、「おじさん」の背中を見送るばかりだった。

特段に鮮烈なエピソードの導入を嫌う成瀬の映像は、こんな何気ないシーンのうちに、人生の哀感を漂わせる見事な絵柄を構築してしまうのだ。

その直後の映像は、銀座のバーに出勤する雪子の凛とした姿を映し出し、それに気づいた春雄が声をかける描写。

「おかあちゃん、行くの?」
「出かけますからね。いい子だったら、今度の日曜日に動物園に連れて行ってあげる」
「ほんと?じゃ、げんまん」
「はい、じゃ、お利口にしてるのよ、いい?」

母子の小さな日常的な儀式によって閉じられていく映像の余韻は、思いの外、感銘深く、観る者の涙を誘うに充分だった。



6  【まとめとして①】 



小さな「非日常」をも包含する「日常性」というパイル ―― 成瀬映画の凄味 



雪子が勤める銀座のバー①
「『銀座化粧』という題名には華やかなムードがある。そのうえ銀座のバーのホステスが主人公だと聞けば、きらびやかで官能的な世界をつい思い浮かべてしまう。

だがこれはそんな映画ではない。監督が成瀬巳喜男であるからには、ありきたりの銀座イメージのドラマになるわけがなかろう。そしてむろんその点にこそ、この映画の魅力がある。

じっさい画面を見ると、銀座ムードはきわめて薄く、東京下町もののドラマのように思える。お茶の間など室内や古い日本家屋の立ち並ぶ路地が、しっとりとした暮らしの匂いをにじませ、ちらりと出てくる銀座通りさえ同じ雰囲気を感じさせるのである。田中絹代も香川京子も、バーのホステスという言い方より、下町の奥さんや娘さんといった風情である」(東宝ビデオ解説「山根貞男のお楽しみゼミナール」より/筆者段落構成)

この山根貞男の指摘通り、本作を観た者のイメージは、成瀬の他の作品がそうであるように、「きらびやかで官能的な世界」とはおよそ無縁な、「しっとりとした暮らしの匂いをにじませ」た、「東京下町もののドラマ」を彷彿させる印象が強かった。

なぜなら成瀬の作品には、「日常性」を丹念に積み上げて物語化されたものが多く、そこだけは小津安二郎の作品群にも似て、激甚な破壊力を持つ「非日常」のエピソードを必要とするストーリーラインに流れ込むことが少ないため、以上の感懐を抱く印象度が高まっていくのである。

詰まる所、成瀬映画の凄味は、「今日」と「明日」という時間の間に、取り立てて問題とする衝迫度の高いエピソーの欠けた「日常性」を淡々と描きながら、特段に尖った「非日常」のエピソードを導入することなしに、一つの物語を作り上げてしまうところにある。

「死」が日常的であった時代下にあって、小さな「非日常」をも包含する「日常性」のエピソードのみで一本の映画を構築してしまう映画監督 ―― それが成瀬巳喜男だった。

雪子が勤める銀座のバー②
まさに本作こそ、その典型的な映像作品であったと言えるだろう。



7  【まとめとして②】

ダメージが少ない生存戦略の駆使 ―― 「女」という名の商品価値の攻防



この映画が見事な出来栄えであると感心するのは、幼い息子を持つ一人のホステスが、営業前線で小出しにセールスする「女」の感情ラインと明らかに切れて、「女」である彼女の固有熱量の淡い対象となる朴訥な青年と邂逅し、束の間、ロマンチックな幻想を追い駆ける「少女性」をも随伴させつつ、夢心地の世界に遊んでいる幻想我が、自分よりも遥かに若い美人ホステスを物語の内に媒介させるや、青年の心がシフトしていく現実を目の当たりにしたとき、そこに自分でも抑制困難な嫉妬心が噴き上がってくる感情ラインが、件の美人ホステスの誠実な告白によって、柔和な軟着点に落ち着いていくまでの心理描写を精緻に描き切ったところにある。

何よりも本作の成功は、一人の女性が内側に抱えた「女」であることの意識様態を、嫉妬心の激しい噴き上げによって過剰なまでに自己確認し、その嫉妬心の感情ラインが自分のイメージする、あってはならない袈裟切りに遭うという最悪の展開を免れたことで、一人の女性の中に棲む「女」という名の商品価値が、決定的に破壊されるダメージを回避できたことによって、拠って立つ自我の基盤の一画がギリギリに守られ、特段に突沸する事態の出来がなくても、日々の生活風景の減り張りを包含させた日常を繋ぐに足る、最低限の安寧を手に入れるまでのシークエンスの中で、微妙に揺動する心の振幅を記録した心理描写が冴え渡っていたことに尽きると言える。

恋は嫉妬心の自覚によって顕著に身体化されるが、それは同時に恋の認知を強化し、より排他的な感情をも身体化させてしまう、ある種の厄介な毒素を内包するだろう。

映像の中で、雪子が京子に抱いた嫉妬感情のうねりは、酷似した経験をする人間の多くのケースのごく普通の範疇にあって、束の間、無秩序な様相を呈して延焼していくが、その心理の中枢には、紛れもなく、自分の「女」としても商品価値への決定的なダメージを稀釈化する防衛意識が横臥(おうが)しているに違いない。


中央が雪子
ダメージが少ない生存戦略の駆使 ―― この潜在化された意識が雪子を駆動させ、尖らせ、関係を支配させたのだ。


「でも、泊めていただけで、何もありゃしません。石川さんって、そんな方じゃありません」

若く、人生経験の乏しい本人には無自覚であるが故に、この京子の決定的な言葉が、雪子の「女」をギリギリに守り、その商品価値の破壊的な崩れを防いだのである。

自分は京子よりも年増であり、子持ちであり、それ故、「結婚」、或いは、「男」との関係に関わる否定し難い「前科」もある。

更に、自分より京子の美貌の方が勝っていると認知する素朴な評価もあっただろう。

だから、若い者は若い者同士で恋を存分に語り合い、その結果、結ばれていけばいいのだ。

そう思うことで、雪子は自分の「女」の、なお値崩れしないと信じる商品価値を守ったのである。

これが、「大人」としての彼女の知恵を巧みに包含する防衛戦略だった。要約すれば、そういう映画だったのだ。そう思う。

この緊迫したバトルの直後、相も変わらず、雪子の間借り部屋を訪れて来る藤村に対して、雪子がいつもよりも邪険にあしらったのは、「現役」の「女」としての商品価値のレベルの低下を認知したくなかったからであり、そのことによるネガティブな自己像を拒絶したかったからだ。

その辺の事情を知らない小心の藤村が小銭をせびり損ねて、退散していくというラストシーンの滑稽さは、ファーストシーンに通じる円環的なシーンの哀感漂う括りであった。



8  成瀬映画の男たち



―― 稿のついでに、成瀬映画の男たちにも言及しよう。

この「小心の藤村」のキャラ設定に象徴されるように、本作でもまた、成瀬映画の男たちは、「健在」だった。

成瀬巳喜男監督
甲斐性がなかったり(藤村、清吉)、助平だったり(菅野)、世俗に疎いボンボンだったり(京助)、本作以降の作品でより顕著になっていくように、相変わらず、成瀬映画に登場する男たちの多くは、自分が置かれた困難な状況を、自らの能力とパワーで活路を開く女たちの強かさに比べて圧倒的に力不足であり、脆弱であり、いつもその決定力不足を女たちに補完・補填・依存するという体たらくなのだ。

そんな男たちにも一廉(ひとかど)の虚栄心を捨てていないから、いつでもそこだけは譲れないものを持つという一端(いっぱし)の格好をつけて見せるが、成瀬映画では、男たちの虚栄とその身体化である、体裁ばかりを取り繕う行為に埋め難い乖離が生じるので、結局、彼らは口先だけの甲斐性なしというイメージラインで結ばれてしまう外ないのである。

成瀬映画の真骨頂は、敢えてそんな見え透いた作品作りに振れていかないが故に、却って、このような男たちとは対極に、女たちの健気さや潔さや芯の強さを強調する効果を生みだしてしまう、ある種の副産物にあったとも言えようか。


(2009年10月)

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