<ユニオンジャックの旗の下に包括しようとする意思が溶融したとき>
1 鋭角的な攻撃性を輻射して止まない男
1924年のパリ・オリンピックの陸上競技で、英国に二つの金メダルをもたらした実話のランナーを描いた、この著名なアカデミー作品賞の中に、本作の基幹のメッセージとも言うべき極めて重要な描写が2か所ある。
本作の主人公である二人の青年が、オリンピック出場に関わる問題で、英国を象徴する権威に対して、自分の意志を曲げずに堂々と主張するシーンがそれである。
その一人は、ユダヤ人のハロルド・エイブラハムス(画像)。
ケンブリッジ大学のキーズ寮に入寮しているハロルドは、パリ・オリンピックを目指しているが、スコットランドで伝道師としての道を歩むエリック・リデルに、イングランド対スコットランドの対抗競技会で敗北したショックを契機に、陸上競技のプロのコーチであるサム・マサビーニから連日、本格的な指導を受けていた。
この行為を、二人の学寮長から厳しく批判されたのである。
「学校はアマチュアの道に徹してこそ、価値ある結果が生まれると信じる。君は、ひたすら個人的栄光を求めている」
如何にも教育的配慮を含んだ正攻法の批判のように見えながらも、英国を象徴する権威主義的な物言いに敏感に反応するハロルドもまた、正攻法の反応で返すが、常に権威を笠に着た差別的言辞を先読みしてしまうのだ。
「私はケンブリッジを愛し、英国を愛しています。私が栄光を求めるのは家族のためであり、学校のためであり、国のためです。それがいけないのですか?」
「勝利のためには手段を選ばずか?」
「いいえ。ルールには従います」
「君のやり方は下賤だ。エリートのやり方がある」
「下賤」という表現に、ハロルドは遂に切れてしまった。彼の先読みのスキルは、経験的に外さないようである。
「お二人とも、勝利を望んでいる。神の如き無作為の勝利を。それは子供の運動会で言うことです。偽善に過ぎない。私は能力の探求に努め、自分の力に賭けます」
一介の学生に過ぎないハロルドは、学寮長に向かって、「子供の運動会」、「偽善」とまで言ってのけたのだ。
「あれがユダヤ人というものだ」
この一言は、ハロルドが退室した後の学寮長の本音。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中庭(ウイキ)
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「やはりユダヤ人は『神に選ばれた民』なのか」
キーズ寮長は、そう言ったのだ。
従って、ハロルドには、他人の言動に対して、常に先制的に身構える振舞いが身についてしまっているのである。
以下は、ケンブリッジの陸上仲間である、親友のオーブリーに洩らした本音。
「ユダヤ人であるということは、痛みと絶望と怒りを感じることだ。屈辱を感じることだ。握手の冷たさを感じることだ。父は英国を愛し、息子たちを真の英国人にしたと思い込んでいる。父は財を成し、英国最高の大学に在学中。だが、父は一つ忘れている。英国はキリスト教徒とアングロサクソンの国であり、彼らが権力の回廊を占め、嫉妬と憎悪で他の者を締め出している。僕は偏見に挑戦する。偏見を持つ全ての人に、跪(ひざまず)かせてやる」
鋭角的な攻撃性を輻射して止まないハロルドの自我は、心優しいオーブリーと比較すると、顕著な特性を露わにしていた。
「カレッジ・ダッシュ」 |
(注1)約200mの距離を、時計の下の印から中庭を一周し、時計が12時を打ち終わるまでにダッシュして戻る、トリニティ・カレッジの儀式。
2 「王より神」を選択した男
そして、もう一人の不撓不屈の精神の青年の名は、エリック・リデル。
スコットランドの宣教師の家庭に生まれたエリックは、ラグビー選手としての活躍以上に、そのスプリンターとしての能力は抜きん出ていて、オリンピックの代表選手としての呼び声も高く、ハロルドもその実力を確認するためにスコットランドにまで足を運び、レースでの強さを目の当たりにしたほどだった。
しかし、彼は誰よりも聖職者であることを誇りにしていて、彼の妹からの熱心な期待もあり、行動選択の際のプライオリティーにおいて、「神に仕える行為」を筆頭の価値を守ることに躊躇しなかった。
「レースの勝者となれば、伝道の一助ともなる。衆目を集める剛健なキリスト教徒も必要だ」
これは、スコットランド国教会の牧師の言葉。
「神の御名と御義を、世に広めるために走れ」
これは、エリックの父の言葉。
このように彼を取り巻く身近な環境では、「スプリンターとしての能力の発現」と、「神に仕える行為」との価値の共存が可能であると考えていたのである。
暫くは、この「二つの価値」が、矛盾を来す事態の到来もない状態下にあったのだ。
だから彼は、コーチのもとで連日のように激しい練習に打ち込んでいたのである。
そんなとき、「二つの価値」の均衡が崩れつつあるという、彼の妹からの鋭利な指摘に対して、彼ははっきり答えたのだ。
「中国に伝道に行く前に走る。走るとき、御身の喜びを感じる。今止めることは、御心に背く。走ることは遊びではない。御名を称えるためだ。オリンピックだ」
エリック・リデル |
ところが、不運にもオリンピック予選の日が、安息日に当たる日曜日になってしまったことで、エリックの中で均衡がギリギリに保持されていた、「二つの価値」の共存が不可能になる事態が到来してしまったのだ。
オリンピック出場を望む王家を取るか、神を取るかという究極の選択において、エリックの決断には迷う余地がなかった。彼は神を選択したのである。
神を選択したエリックの決断を翻意させるべく、英国は選手団長やオリンピック協会会長のサザーランド公爵、カドガン卿のみならず、何と皇太子を交えた「説得団」を構成し、彼にオリンピックへの出場を求めたのである。
それに対するエリックの解答は、自分で決めた決断を遂行する強靭さに満ちていた。
「個人の信仰に立ち入ることこそ傲慢です。祖国を愛していますが、私は安息日にはレースはしません」
彼は明瞭にそう言い切ったのである。
『王より神』
新聞には、エリックの決断を揶揄するかのように、この言葉を掲載したのだ。
結果的に、友人のアンドリューが400メートルに出る権利をエリックに譲ることによって、危ういところで事態の収拾が図られたのである。
3 ユニオンジャックの旗の下に包括しようとする意思が溶融したとき
ハロルドとエリック。
この二人の若者の強靭な意志の遂行を描いた以上のシーンは、本作の中で最も重要な描写である。
権威によって相手の態度の変容を迫る者たちと、その権威に屈することなく自分の信念、信仰を曲げない二人の若者。
一方はユダヤ人で、他方はスコットランド人。
共にイングランド人ではなく、そこに彼らの権威に対する抵抗の心理が見え隠れしている。
ハロルド・エイブラハムス(右) |
現在、40万人を数え、その3分の2がロンドンに住んでいると言われる、英国のユダヤ人の一人であったハロルドが、自らの皮膚感覚で感受した被差別意識は、今なお世界中に蔓延する、「ユダヤは世界を征服する」という類の反ユダヤ主義の陰謀説の根深さを見る限り、恐らく、「偏見を持つ全ての人に、跪(ひざまず)かせてやる」という彼の尖った攻撃性の、そのエネルギーの供給源になってしまったに違いない。
そして、映像を支配したもう一人の青年、エリックが属するスコットランド国教会はカルヴィン派の影響を受けたプロテスタントだが、ローマ・カトリックから分裂しためにカトリックとの共通点が多いイングランド国教会とは、基本的に全く別の宗教であると考えた方がいいだろう。
だからエリックは、イングランド国教会の首長にパリ・オリンピックの予選への出場を求められても拒んだのだ。
「ブレイブハート」より |
しかし、この二人の若者の主張には、明らかな差異が読み取れる。
ハロルドにとって、パリ・オリンピックへの出場は、「参加することに意義がある」というアマチュアリズムの体現などではない。
彼には、オリンピックで優勝することそれ自身が目的であり、そのことによって彼を囲繞する反ユダヤ主義の空気を裂き、それに一矢を報いることが狙いだったのである。
だから、優勝するためには手段を選ばない。
「あなたの力があれば、誰よりも速く走れる。金メダルが欲しい。金メダルは今、目前にある。だが、自力では取れない」
これは、プロのコーチに指導を依頼したときの彼の言葉。
当然、ハロルドにここまで言わしめたのには、充分な背景がある。
前述したが、ハロルドはエリックの俊足ぶりを観るために、イングランド対フランスの競技会にまで足を運んでいて、偶然、そこで出会ったプロのコーチであるサム・ムサビーニを知り、彼の指導を求めたのである。
その後、ハロルドはエリックと初対決し、惨敗した経験に衝撃を受けていた。
「僕はもう終わりだ。勝てないなら、走らない」
これはその際、恋人に弱気を吐いたハロルドの嘆き節。
ハロルド・エイブラハムス |
「オーバーストライドは短距離じゃ、命取りだ。焼け石の上を走るつもりだ。足をすぐ上げないと火傷する」
そんな助言をするサム・ムサビーニの的確な指導は、素人のスプリンターでしかないハロルドの走法を決定的に変えていったのである。
以上の経緯が示すように、ハロルドがプロのコーチであるムサビーニを雇った理由は明白だった。
そこまでして過剰な彼の情念の根柢には、明らかに反ユダヤ主義への正義の憤怒があるが、その憤怒を万人が注目し、愛国心の炎と燃えるフィールドの場で身体表現することに、彼は決定的な意味を見出したのだ。
恐らく彼の内側では、「ベニスの商人」やロスチャイルド家に象徴される、「悪辣な金融資本=ユダヤ人」というイメージを払拭するためにこそ、健全なイメージを持つ陸上競技にその身を預け、その陸上競技をスポーツの華とするオリンピックのフィールドで、観る者を感嘆させるに足る完璧なパフォーマンスを表現しようとしたのではないかと思われる。
一方、エリックの場合はどうだったのか。
彼の主張性はあまりにシンプルなので、簡潔に触れておく。
もとより、オリンピックで優勝することが究極の目的ではなかった。
彼にとって、「人より速く走る」という内在能力を具現することが、「神の御心」に沿ったものであるから、そこでの最大限のパフォーマンスが神の恩義に報いることなのである。
しかし、彼の背景にあるスコットランド人という誇りを汚してはならない。
だから、できれば優勝したいと考えたはずだ。
その思いを「神の御心」に結びつけることで、「レースの勝者となれば、伝道の一助ともなる」と言い放った、スコットランド国教会の牧師の言葉の内に収斂されていったのである(画像)。
要するに、権威主義的なイングランドの鼻持ちならない傲岸さを描きながらも、ユニオンジャックの旗の下に集合する、UKの誇りと尊厳をも拾い上げた映像であったということである。
ともあれ、イングランド人と一線を画す二人の若者たちの信念や信仰と、それを認知しつつもユニオンジャックの旗の下に包括しようとするUKの国民国家としての意思が溶融して、両者の均衡を合理的に維持する歴史的文脈には、第一次世界大戦でのこの国の甚大な被害の惨状が横臥(おうが)しているだろう。
本作の冒頭のシーンに、ケンブリッジ大学ギーズ寮に入寮した新入生たちに対して、寮長が語ったスピーチがある。
新入生歓迎晩餐会のときのこと。
「彼らの夢を果たすのは諸君である。自己を厳しく見つめ、自己の能力を発揮する機会を見出して欲しい。彼らのため、大学のため、祖国のため、その機会を享受し、如何なる権力、誘惑にも負けず、目標に邁進して欲しい」
エリート軍団とも言えるケンブリッジ大の新入生を呑み込むそのホールには、第一次大戦によって戦死した卒業生の名前が刻まれているのだ。
ユニオンフラッグ(ウイキ)
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「ファーストシーン=ラストシーン」(注2)という印象深い描写の挿入に象徴されるのは、海岸を集団並走する者たちの中で何某かの違和感や不満が騒いでいたとしても、それらは結局のところ、「走ること」を喜びとし、その能力を最大限に生かし得る場で身体表現することの価値によって相対化され、オリンピックという唯一のビッグステージに向かう思いの内に、若者たちの心は一つになるというイメージであるに違いない。
(注2)1924年6月28日、ケント州カールトンホテルに合宿するイギリスのオリンピック代表が、海岸を集団並走するシーンのこと。
4 金メダルを取った後の虚しさの後で
ハロルド・エイブラハムス |
それは、UKの求心力のパワースポットに包括されることの矛盾と、それに対するハロルドの反応である。
「24歳まで、足るということを知らなかった…今、僕はたまらずに怖い。サムと僕は能力の限界に挑戦してきた。来る日も、来る日も。君たちに笑われても、迷わず練習に明け暮れた。憑かれたように。何のためだ?1時間後には決勝だ。スタートラインに並び、10秒の間に自分の存在を確認するんだ。負ける怖さは知っていた。だが、今は勝つのが怖い」
これは、ハロルドがオリンピック本番の200mで、米国人ランナーに完敗した際に、心優しいオーブリーに洩らした言葉だ。
その意味は、負ければ反ユダヤとの全人格的闘いは継続できるが、もし当面の重大目標であるオリンピックでの優勝を果たしてしまえば、その闘いが無化されることへの不安の吐露であるだろう。
ハロルドが「勝つのが怖い」のは、自分の功績を称えてくれるだろうUKの包括力を否定するほどには、彼の心が鋭角的でないということであり、自己を奮い立たせる挑発もまた、容易にそれを包む被膜を剥がされてしまう類の、攻撃性の脆弱さを認知しているからに他ならないからである。
そして本当に、ハロルドは金メダルを獲得するに至ったのだ。
「勝つのが怖い」と言わさしめるほどに、「金メダルを取った後の虚しさ」という、彼の想像の範疇を超える事態に踏み入れたとき、彼を最後までサポートしてきたコーチは、彼を包み込むような言葉を吐露したのである。
「君は自分を冷酷な人間だと思っている。だが君は、羊のように優しい。愛情豊かで、人の気持ちが分る。でなかったら、君と付き合わない。今日、誰に勝ったか分るか?君と僕の二人だ。30年間、このときを待っていた。世間を相手に闘ってきた。世間が何と言おうと気にすることはない。糞くらえだ。俺たちは今日、世界を征服した。闘いはもう終わった。君は彼女の元に帰って、新しい生活を始めろ」
ハロルドの中で重しのように張り付いていた厄介な感情が、溶け出していく時間がそこに生まれたのである。
彼はコーチの言うように恋人の元に帰り、ごく普通の青年の振舞いをする者の如く、普通の日常性に帰っていくイメージラインを映像に残して、少なくとも、反ユダヤとの闘争の前線からほんの少し突き抜けていったのだ。
5 「若者の堅固な魂の、その凛とした態度を淡々と記録した映像」に投げ入れた、格好のスイートスポットの効果
ヴァンゲリス(ウイキ)
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このイメージの親和性は殆ど揺るがないようだ。
しかし私にとって、ヴァンゲリスと言ったら「Conquest Of Paradise」である。リドリー・スコット監督の「1492 コロンブス」のオリジナル・サウンドトラックだ。
因みに、この音楽は韓国のシリアルキラー、柳永哲(ユ・ヨンチョル)が犯行を起こす前に、自らを奮い立たせるためにテーマ曲として聴いていたことで知られているが、ヨーロッパでは「炎のランナー 」以上のベストセラーを記録しているほど。
「1492 コロンブス」がそうであったように、この曲を聴くと、どうやらノル・アドレナリンが盛んに分泌されるらしいのだ。
正直言えば、脊髄損傷の筆者自身が部屋の中で歩行リハビリする際に、決まって聴くのは「Conquest Of Paradise」。
他にも、トルコの国歌もよく聴くが、いずれも自らを奮い立たせることが目的。
「1492 コロンブス」・ブログより |
この曲が「ファーストシーン=ラストシーン」で使用されたのは、本稿で前述した意味が含まれているからだろう。
本作のハロルドの鋭角的な攻撃性をも希釈させるほどに、この映画にはノル・アドレナリンの分泌が不要であるからだ。
ヒュー・ハドソン監督・サイトより |
とりわけ、「勝つのが怖い」というハロルドの一言と、それをフォローしたコーチとの会話こそが、本作の芯の一つになっていたということ。
即ち、このシークエンスの挿入によって、本作を一級の名画に仕立て上げたことを痛感させられた次第であった。
「ファーストシーン=ラストシーン」で流されたヴァンゲリスのメロディは、まさに、「若者の堅固な魂の、その凛とした態度を淡々と記録した映像」に投げ入れた、格好のスイートスポットの効果をもたらしたのである。
(2010年1月)
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