<「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」と、「甲斐性、意気地のない男たち」の現在性>
1 重層的な家族関係を構築した成瀬と水木洋子
斎藤一郎の抒情的な音楽の連射が些か耳障りだが、大映での最後の作品となった本作は、成瀬映画の世界を明瞭に描き切ったが故に、その分だけ、作品の評価が損益分岐点を超えたか否か難しいところである。過剰な演出となっていたとも言えるからだ。
それでも私は、この作品が好きだ。
奇麗事を言わない成瀬映像らしく、この国の男と女の現実に肉薄していたからである。
本作は、家族という永遠のテーマを通して、それを構成する者たちの重層的な関係の有りようを描いた映像であると言っていい。
その重層的な家族関係を構築した成瀬と水木洋子による脚本の重要性は、1934年「文芸春秋」に発表した室生犀星の同名の短編小説の内に、原作では殆ど描かれない次女のさん(注)の自立的存在によって、俗世間で冷眼視されやすい「あにいもうと」の人格を相対化させている点である。
(注)原作では「気が弱いさん」とされているが、本作では自立的な近代的自我を持つ看護学校生として描かれている。
従って、本作は、第1に、「あにいもうと」(伊之吉ともん)⇔さん、第2に、伊之吉⇔もん、第3に、もんとさんの姉妹関係、第4に、両親(赤座とりき)⇔3兄妹という家族の関係構造があり、そしてその家族が、主にもんの「自堕落」な生活によって、赤座家⇔俗世間という、地域共同体の負の遺産としての差別的視線の関係が絡む重層性を成していると把握できるだろう。
機能不全化しつつある、件の「家族」の中で重要な関係は、言うまでもなく、第1から第3までの関係である。
本作は、以上の関係を通して、成瀬映像で繰り返し描かれてきた、「甲斐性、意気地のない男たち」と「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」というお馴染みのパターンが、過剰なまでにダイレクトに、且つ、些か成瀬映像らしくない力動感溢れる筆致で展開されているのだ。
本稿は、第1から第3までの関係を通して表現されている、「甲斐性、意気地のない男たち」と「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」という、力動感溢れる筆致に注視する観点で言及したい。
水木洋子 |
2 啖呵を切る女と、それを切られる男の構図の真骨頂
「あにいもうと」の人格を相対化させた、さんの存在が何より重要だが、この劣化した家族の人格的ストレッサーとも言うべき、もんの存在の尖り方から書いていく。
彼女の存在の尖り方は、ラスト30分の中で展開されている。
「あにいもうと」の大立ち回りのシーンが、その象徴である。
「あにいもうと」の大立ち回りには、重要な伏線があった。
もんが東京で、小畑という学生の子を孕んで実家に帰郷するが、その目的は自分の子を産むためだった。
伊之吉ともん |
因みに、石職工の腕利きだが、女好きで怠け者の性格の伊之吉は、同様に「川師の赤座」と異名をとって、羽振りの良かった昔の面影もない怠惰な父と、その「甲斐性のなさ」において同質の精神構造の持ち主。
一方、罵倒されて嗚咽するもんは、結局、その場を去って行方知れずになった。
そして、もんの腹の中の子は、流産するに至った。
そんな経緯の中、もんの留守に学生の小畑が赤座家を訪ねて来て、深く謝罪したのである。
しかし、もんを孕ませた若造に恨みを持つ伊之吉は、バス停に向かう小畑を待ち伏せした。
そのときの、伊之吉の感情のこもった激しい言葉。
「もんはな、俺が子供のとき、抱いて一緒に寝たり、毎晩、夜中に小便に起こして、土間が暗いから付いてやったもんだ。もんが丸っ切り、赤ん坊の時分からいつも俺が負んぶしてよ。終いには、もんの子守りをしないと、遊びに出る気がしなくなったんだ・・・てめえの子を孕んで帰って来た日にゃ、もんを苛めて、終いには犬畜生みたいに、汚がってやったんだ。皆、俺を憎んで、もんに付くようになったよ。俺はそれでいいと思ったんだ。じゃないと、もんが邪魔ものにされるからな」
伊之吉が小畑を思いっ切り殴ったのは、この直後だった。
もんのために自分が犠牲になったという言い分には、力関係の優位を前提化した情況の勢いに後押しされた後付けの感情が、沸騰する空気の只中に引っ張り出された印象を拭えないが、嗚咽する伊之吉の表情には嘘はなかったであろう。
ともあれ、その伊之吉は、小畑を殴った一件を帰省中のもんに打ち明けたことで、「あにいもうと」の激しい取っ組み合いが始まったのである。
「誰がお前に、そんなことしてくれって頼んだ!なぜ、そんな卑怯なことするんだよ!あたしの体をあの人にやったからって、何でお前が御託を言う必要があるんだ!」
それは悪態と言うより、歯切れの良い啖呵だった。
もんが卓袱台(ちゃぶだい)を蹴飛ばしたことで、当然、大喧嘩となった。
「このキチガイアマ!」
怒り狂った伊之吉に殴られ、蹴られ、庭に放り投げられたもんは、「畜生!」と叫んで、部屋に入って来るや、兄に掴みかかっていった。
しかし、そこは腕力で勝てない女の哀しさ。
もんは逆に押し倒され、思い切り頬を叩かれた。
「畜生!殺しやがれ!」
座敷の中央で仰向けになったもんは、大の字になって叫ぶのだ。
「お前みたいに、小便臭い女を引っ掛けている奴とさ、憚(はばか)りながら、もんは違う女なんだ。お前の御託通りに言えば、あたしは淫売同様の、飲んだくれの、嫁にも行けないあばずれ女だ。・・・だからって、一度許した男を、手出しのできない弱みに付け込んで半殺しにするような奴なんて、兄貴だって誰だって、黙って聞いちゃられないんだ。お前、それでも男か!こんな弱い者苛めをする兄貴だと思わなかった」
当然、痛い所を衝かれた伊之吉の鉄拳が、啖呵を切る女の頬に飛んできた。
あまりに本質を衝く、歯切れの良い啖呵を封印するためだ。
ところが、殴られた後も、女の啖呵は止まらない。
「ひょろすけ!女一匹が、てめえなどの拳骨で気持が変わると思うのは大間違いだ!泥臭い田舎に彷徨(うろつ)いているお前なんぞに、あたしが何をしていか分るもんか!」
もっと見事な啖呵が、そこに捨てられた。
母のりきと、妹のさんは号泣するばかり。
「いい加減に、この家から出て行きやがれ!」
妹を殴り尽くした男には、もうこの戦術しかなかった。
伊之吉ともん |
「お前はまあ、大変な女におなりだね・・・後生だから、堅い暮らしをして女らしくなっておくれ」
この母の言葉で、全てが終焉した。
この劣化しつつあるように見える家族は、腕力で訴えることをしない母と妹の嗚咽が、なお有効な戦略である事実を検証して見せたのだ。
それが、ラストシーンの姉妹の会話に繋がっていくのである。
「今度いつ来るの、お姉ちゃん」
この妹の問いに、姉は正直に答えて見せた。
「さあ、おっかさんたちの顔でも見たくなったら・・・嫌な兄貴だけど、あんな顔でも見たくなる時があるからね・・・」
もんとさん |
ここでも成瀬の映像は、容易に予定調和に軟着させる甘さとは無縁なのである。
最後に、ここでのテーマの括りとして、妹を思う兄の心理を簡単に考えてみよう。
このように考えられないか。
マスコットのように可愛がっていた妹が、いつしか自分の支配力を脱したとき、自分の視界に投射された対象人格のイメージは、あろうことか、自分に似た自堕落な生活をしているという偏見が根柢にあって、妹の帰郷による再会の度に、それを負い目に思う感情と繰り返し出会ってしまうことの不快感。
そんな屈折した感情が、その場凌ぎの生活を延長させるだけの兄の自我に、固く張り付いているように思われるのだ。
それでも、懐かしき記憶を共有したと信じる妹への、兄の断ち切れぬ思いが学生を殴らせるに至ったのであろう。
「自己の支配力からの脱却」と「懐かしき記憶を共有したと信じる幻想」、そして、「自堕落な生活への負い目」と「自堕落な生活を延長させているという妹への偏見」。
これらの複雑な感情が絡み合って、虚勢を張るだけの兄の自我の内に塒(とぐろ)を巻いているのではないか。
そう思えるのだ。
3 地に足を付けた生活を望む女と、勢いで情況突破を図ろうとする男
次に、私が本作の中で最も重要な描写と考える、「さんと鯛一の駆け落ち」のシークエンスに言及する。
もんの「自堕落」な生活を嫌う田舎の狭隘な心象風景の中にあって、御多分に洩れず、養子である鯛一の養親もまた、赤座の家を毛嫌いしていたが、何より、赤座家のさんと秘かに逢引する鯛一に慌てて縁組を迫る状況が出来していたのだ。
これが、さんと駈け落ちしようと決心した鯛一を動かしていく。
今まさに、二人は東京行きの列車に乗り込もうとしていたのである。
鯛一が主導するそんな行動の方略に異議を唱えたのは、さんだった。
駅の構内に踏み入れようとしたときである。
以下、そのときの緊迫した会話を再現する。
「鯛一さん、あたし、やっぱり一人で帰るわ」
「どうしてそんなこと言うの?」
「ねえ、怒らないでね。こんなことして、東京へ行ったって、すぐ明日から、目的も何にもないんですもの。宿屋に行ったって、どうせ一日いられるものでもないし、捜索願で捕まって、騒ぎを大きくするだけじゃないかと思うのよ」
さんは、地に足を付けた生活を望むのだ。
「今になって、何言い出すんだよ!とにかく行こう!」
さんの言葉を聞き入れない鯛一は、彼女の腕を引っ張って、強引に連れて行こうとする。
「ね、お願い!もっとよく考えて!」
「やだよ、そんな!」
強引に腕を引っ張るのを振り払い、さんは凛として言い放つ。
「ね、あたしたちさえしっかりしていれば、きっとその時期が来るわ。そんなこと位、切り抜けられるわ。まだあたしたち、こんなことする時じゃないわ。早いわ、まだ。何にもできやしないんですもの。もっとお互いに自信が持てるようになるまで」
勢いによってのみ情況突破を図ろうとする鯛一は、さんの合理的戦略を受容できないのだ。
「俺と一緒に行くのが嫌になったの?」
「分らないの?あたしの言っていることが。ね、考えて!」
「考えた挙句じゃないか!とにかく、行こう」
「いや!あんたは、ただ逃げだせばいいって言うけど、大勢の前だって、なぜ皆の前で、俺は嫌だって一言言えないのよ」
「言ったって、始まらないよ」
「意気地なし。意気地無しよ」
「さんちゃん」
「あたしが本当に好きだったら、帰って皆にそう言って。他の娘は断ります。さんがいけないんだったら、養子の縁を切ります。それぐらいの勇気がなかったら、男じゃないわ」
養親を堂々と説得してこそ、皆に祝福される結婚が可能であると言うのだ。
逃げてはならない。
彼女は、相手にその一言を放ったのである。
結局、相手を説得できず、さんは一人で新宿行きの列車に乗って、看護学校のある東京へ戻って行った。
「もう少し、しっかりしている人だと思っていたけど・・・」
さん |
「失恋したの?未練なんか持つんじゃないよ。相手が欲しきゃ、掃いて捨てるほどいるからね。姉ちゃんが、今に良い人見つけてやるからね」
同時に、お盆で帰郷中のもんは、半睡状態の中で、妹に彼女らしいアドバイスを送ったのである。
以上が、「さんと鯛一の駆け落ち」のシークエンスである。
次の稿で、その辺りの経緯を踏まえた、本作への批評をまとめてみたい。
4 「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」と、「甲斐性、意気地のない男たち」の現在性
室生犀星 |
それほど重要な会話なのだ。
なぜなら、さんのこの明確な主張こそ、成瀬映像の生命線であるからだ。
考えてもみよ。
東京の看護学校に通うさんは、明らかに社会的自立を目指しているのだ。
そして何より重要なのは、姉のもんが、さんの教育費を自分の体で必死に稼ぎ出し、何とか捻出したものであるという事実だ。
赤座家にとって、恐らく、さんの存在は希望の星であるが、しかし実際に、そのさんを直接的にサポートしているのは、もんであることを忘れてはならない。
原作と異なって、自分の妹をサポートするという、もんの矜持が、彼女の自我の安寧の拠り所になっていると考えられるのだ。
だからもんは、東京から川一つ隔たっているに過ぎない、小さな村の共同体社会で被浴する差別的言辞に耐えていけるのだろう。
さんの存在は、もんの生き方に、一本の堅固な芯を作り出しているのである。
もん |
本作で登場してきた、気弱な真面目な学生との恋愛関係もどきの特殊な関係を、他者からの視線の弱い東京で作り出し、そこで彼女なりにエンジョイしている精神的風景が垣間見えなくもない。
しかし、兄貴と大喧嘩しても家族を捨て切れないもんにとって、さんの存在は、より以上に深い親和動機を作り出しているはずである。
何より重要なのは、さんという次女の新たな人格造形が、赤座家の二人の男たち(父と兄)の甲斐性のない生き方を完全に相対化することで、鮮明に際立たせてしまっているということだ。
完全に相対化することで、虚勢だけで生きる、彼らの人格の裸形の様態を際立たせてしまっているのである。
成瀬と水木による、さんの人格造形の秀逸さは、共同体社会にあって、そこに完全に溶け込めないで生きている者たちの悲哀を鮮明に逆照射してしまうのである。
もし、さんの人格造形が稀薄な原作通りの映画をなぞってしまったら、明らかに本作は、室生犀星の短編の中で展開されたリアリズムの前に呆気なく蹴散らされるに違いない。
さんの存在が、もんのアイデンティティに関与するばかりか、人が良いばかりの母親の苦労多き時間にも生命的律動感を付与したのである。
結局、ここでも取り残されるのは、差別の前線で不埒な視線を被浴する、「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」などではなく、どこまでも「甲斐性、意気地のない男たち」でしかないのだ。
成瀬の映像が、ここまで件の男たちの脆弱さを描き切っていたこと。
成瀬巳喜男監督 |
思えば、これは1950年代半ばの映画なのだ。
しかし、さんの主張に見られるような、この国の「甲斐性、意気地のない男たち」の姿は、現在でも全く変容していないことが判然とするだろう。
そこに、挑発とも思えるようなこの映画のインパクトがある。
それは逃避でしかないにも関わらず、勢いだけの駆け落ちで、女との純愛を貫こうとするナイーブな男。
疾(と)うの昔の、羽振りの良かった時代を懐かしむだけの男。
そして、腕のいい職人でありながら、それを自分の身過ぎ世過ぎを構築する手立てにしようと努めない男。
彼らは全て、恋人の面前で、「それぐらいの勇気がなかったら、男じゃないわ」と言い放った、さんの生き方によって相対化されることで、その裸形の様態を際立たせてしまう以外にないだろう。
そんな爽快な映像だったのだ。
(2010年3月)
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