<人間の脆弱さの裸形の様を描き切った映像の凄味>
序 説明過剰な冗長さに流されない映像構成力の切れ味
3人の主要な登場人物の複雑で、絡み合った愛憎のリアルな関係を基軸にした生身の「物語性」の中で、途方もなく紆余曲折した中国現代史の波乱万丈な時代の航跡や、そこで呼吸する者の息吹を伝える社会を描き切った本作は、当然の如く、「大河ロマン」の性質を持つが故に、相当程度、長尺なフィルムになったはずである。
従って、「物語性」を通して時代を描く映像の生命線は、説明過剰な冗長さに流されない作家的構成力の構築性の内実に因ると言っていい。
それでも、公開版が170分の上映時間を超える長尺なフィルムに仕上がった本作でありながら、日本軍の占領や中国革命、文化大革命という重要な歴史に関わる描写を、全く説明的に描くことをしなかったことで、本来的に抱える主題性を希釈化させなかったばかりか、時代に呼吸する者の生きざまの大枠を規定し、呱々の声をあげて間もない不安定な新生社会主義国家に特徴的な、過大な影響力による大衆(紅衛兵等)の暴走や屈折と言った、極めて人間学的世界の臭気を映し出す映像構成力の切れ味は抜きん出ていたのだ。
だからこれは、「大河ロマン」的な作品に見られる、説明過剰な冗長さに流されない、決定的に成功した映像となった。
1 人間の脆弱さの裸形の様を描き切った映像の凄味① ―― 「新しい社会は旧体制とは違うんだ!」
以下、物語のアウトラインを、短感的分析を交えてフォローしていこう。
京劇養成所で言語に絶する厳しい修行を強いられながら、脱走中に観劇した「覇王別姫」の素晴らしさに感動した二人の少年が、やがて「覇王別姫」を演じる花形スターになっていく。
因みに、「覇王別姫」とは、「四面楚歌」という4文字言葉で有名だが、劉邦と天下を争った楚の項羽が、漢軍包囲という劉邦の心理誘導的な策謀に欺かれた際に、寵姫だった虞姫(虞美人)が自刃するという京劇(中国の伝統的な歌劇)の演目の一つ。
ともあれ、兄とも慕う「立ち役」(男の役を専門に演ずる俳優)の小婁に対する明瞭な同性愛の感情を潜ませる蝶衣は、小婁の妻となる売れっ子娼婦の菊仙に嫉妬しつつも、その感情を相対化させることができなかった。
この複雑に絡みつくような三角関係もまた、激動の中国現代史の荒波の中で、嫉妬、憎悪、裏切りの情念が逆流し、そして菊仙の自死という悲劇を生むに至る。
そして、受難の歴史を刻む京劇の翻弄のされ方は、そこに命を賭けた蝶衣の自刃に繋がるラストシーンによって閉じられた。
京劇の受難と、中国現代史の荒波の中での3人の裏切りの連鎖こそ、歴史劇の範疇を超えて、本作の骨格を支える人間ドラマの極限を表現し切っていたと言えるだろう。
まず、日本軍降伏後の京劇の受難のエピソード。
日本軍降伏後、中国共産党との内戦下にあった中で、国民党軍に冷眼視される京劇を演じ続ける小婁が放ったのが、以下の言葉。
「兵隊さん。芝居の最中にライトを点滅させないで下さい。日本軍もしなかったことだ。芝居を観るなら、席について下さい」
ここまで言われた国民党軍の兵士は、「日本人より劣っているとは何事だ!」と叫んで、二人の舞台を破壊し切ったのである。
この状況下で、小婁は「弟」である蝶衣を庇っている。
未だ、自分の身に深刻な危機が及んでいなかったからだ。
そして、文化大革命の渦中で暴れ回った裏切りの連鎖。
「あんたは、時代が変わった事を分っていない・・・新しい社会は旧体制とは違うんだ!見てるがいい。今に主役になってみせる」
これは、京劇役者を目指す小四が、その師である蝶衣への違背宣言。
明らかに、伝統文化としての京劇に対する視線の変化によって、歴史の変異の中で翻弄される有りようを描いたこの一連の描写は、たとえ歴史的に継続力を持ち得た文化と言えども、それを堅固に保護する社会的背景がない限り困難である事情を説明するものだ。
社会が大きな変容を遂げていったとき、それでも「文化の永遠性」を信じる者の自我の、拠って立つ安寧の基盤を保証するのは容易ではない。
と言うより、伝統文化への思いの強さを持っても、単独の人格的振舞いの脆弱さを検証するだけだろう。
その重い現実を、蝶衣が身をもって感受するのは、抑性が効かなくなるほど、文化大革命の激流が澎湃(ほうはい)してきたときだ。
ここから開かれる、ラスト18分間の映像のラインは壮絶であり、全てここに勝負を賭けたと思えるほど気迫に満ちた人間ドラマが展開されるのだ。
しかしそれは、「裏切りの連鎖」という現実を醜いまでに晒して見せた映像ラインの内に収斂されていく。
2 人間の脆弱さの裸形の様を描き切った映像の凄味② ―― 「ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」
ひたひたと押し寄せて来る時代の嵐が、小婁と菊仙の夫婦を極限にまで追い詰めていた。
雷雨下の夫婦の睦みの中で、妻は夫に哀願した。
「約束して。私を一人にしないで」
雷雨が象徴するのは、言うまでもなく、文化大革命という名の「虐殺」と「自殺」の負の連射。
人間が人工的に作り出した雷雨が、うねりを上げて襲いかかって来たのだ。
その後の映像の、言語を絶する凄惨さ。
「文芸界に蔓延(はびこ)る悪を摘み出せ!革命に罪はない!造反有理!文芸界の化け物を一掃しろ!小婁と蝶衣は人民の敵!反共分子だ!自己批判を」
紅衛兵の激越な攻撃的破壊力の矢面に立たされた小婁と蝶衣は、京劇の舞台衣装の恰好で胸にプラカードをぶら下げられ、存分に甚振られていった。
圧倒的暴力の恐怖の只中で、小婁の裏切りが開かれていく。
自分の良きパートナーへの糾弾を、強いられたのだ。
「蝶衣は芝居に取り憑かれていた。客がどんな階層であろうと、彼は最上の演技を心がけた。・・・蝶衣は抗日戦争が始まった頃、日本軍将校の前で歌を歌った。裏切り者だ!彼は自堕落にも阿片にも耽った。労働者の血と汗が阿片の煙となって消えた・・・」
「蝶衣を許すな!」
「リスキーシフト」(集団の中で節度を失うこと)の心理学をなぞるような、興奮した群衆のシュプレヒコールが咆哮した。
「もっと話せ!」
紅衛兵に暴力的に促される小婁。
反応が弱いと見るや、殴られるばかりの小婁は、いよいよ狂気と化した、「糾弾」という究極の快楽を随伴する状況下で、理性が壊される危うさを晒しつつ、紅衛兵たちの攻撃的破壊力を蝶衣への弾劾の内に転嫁させていく。
小婁によって、パトロンとのホモセクシュアルな関係を暴露された蝶衣は、まさにそのとき、信じ難き思いを吐き出した。
「僕を裏切った・・・」
状況が作り出した狂気に対峙するかのように、蝶衣は矢庭に立ち上がって、小婁を指差して叫んだ。
「なぜ日本軍の前で“牡丹亭”を歌ったと思う!お前と言う奴は、良心を失くした野良犬のような人間だ!人間の脱け殻だ!」
ここまでは、「主張する者」の気迫に満ちた、蝶衣の裸形の自我が記録されていた。
しかしこの直後、「主張する者」の意志を捨て、「糾弾する者」と化したかのように、蝶衣は菊仙の方に向かって進み出で、攻撃の矛先を広げていく。
「この女に出会ったのが、お前の運のつき。それで、全てが終わった!今は、天罰がお前に下ったのだ・・・僕らは自ら、この運命に嵌り込んだのだ。因果応報だ。僕は恥ずべき人間だ。覇王も跪(ひざまず)いて命乞い。ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」
「ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」という言葉の圧倒的な重量感。
この思いこそ、蝶衣の全てなのだ。
ここで、「糾弾する者」と化した紅衛兵に捕捉された蝶衣は、それを振り払って、今度は菊仙の過去を暴き出していく。
「あの女の正体を知っているか?春を売っていた淫売だ!・・・吊るし上げるがいい!あの女を殺せ!あの女を殺せ!」
この言葉を受けて、紅衛兵は小婁に確認した。
「今の話は本当か?」
そこに僅かの時間の隙間ができたが、小婁は小声で反応した。
「本当だ」
文革を支持する広州の紅衛兵列隊・人民網日本語版より
|
「愛しているのか?」
ここで小婁は、その意志を鮮明にした。
「愛してなどいない・・・本当だ。愛していない。誰が、あんな女を!もう縁を切る!」
それは、それ以外に自分の身を守る術がないと判断した男の、完全屈服を晒す防衛言語だった。
人間は、ここまで防衛的に動くのだ。
ここまで誇りを捨てられるのだ。ここまで醜態を晒せるのだ。
燎原の火と化した文革の理不尽な暴力の只中で、男は「弟」を裏切り、妻を裏切った。
裏切られた「弟」は、自分の愛情対象を奪った女が「娼婦」であった過去を、紅衛兵に向かって暴露した挙句、「殺せ!」と叫んだのだ。
夫が捨てた、「覇王別姫」の宝剣を拾い上げる勇気を見せながらも、二人の男に裏切られた女は、他の多くの犠牲者がそうであった現実をなぞるように、縊首するに至ったのである。
裏切られた女は、打ちひしがれている蝶衣に、項羽の宝剣を戻した後、縊首したが、映像は裏切った夫の失意と、蝶衣の絶叫を映すだけだった。
それにしても、本作で描かれた「裏切りの連鎖」という現実を醜いまでに晒して見せた者たちの悲哀に、胸が詰まる思いだ。
その「醜悪」な現実を、容赦なく炙り出した悲哀の根柢にあるもの。
中国現代史の、言語を絶するほどの暴走・迷走という否定し難い現実以外ではないだろう。
かつて紅衛兵だった作り手の無念の感情の結晶が、明らかに紅衛兵を生みだした文革という名の狂気への批判という形で、観る者を激しく揺さぶる人間ドラマの極限の様態の内に結ばれたのである。
人間の脆弱さの裸形の様を、ここまで描き切った映像の凄味に感嘆する思いである。
3 「空白の11年間」が炙り出したもの
「文革カルテット」と称された「四人組裁判」が開かれる3年ほど前、11年ぶりに蝶衣と小婁は一緒に舞台を踏むことになったが、映像は、この11年間を全く描き出さなかった。
その理由は、衝撃のラストシーンによって明らかになる。
映像作家としての矜持もあってか、最後まで登場人物の刺激的な死の現場を描かないこの映像は、肝心のラストの衝撃をも映し出さなかったが、それでも観る者には了解し得る蝶衣の自刃によって、「空白の11年間」が、単に字義通りの「空白」であったことを証明したのである。
蝶衣にとって、拠って立つ自我の安寧の基盤は、紛れもなく、京劇という名の伝統文化であり、加えて、その文化の中で睦み合ったと信じたい小婁の存在だった。
恐らく蝶衣にとって、この11年間という時間の内実は、戦後衰退の歴史を顕在化させてきた京劇の、伝統文化としての継続力の劣化の現実を実感する不幸の歴史であったに違いない。
そして、11年ぶりに再演することになった小婁との「覇王別姫」の演目が形式的なものに過ぎず、そこに打ち込む蝶衣の情熱もまた、かつてそうであったように、「京劇命」という心理水準に達することがない現実をひしと実感したであろう。
加えて、自分の強い同性愛感情を汲み取れない鈍感さが、小婁の中になお延長されている不幸と、否が応でも目の当たりにする事態に立ち会って、拠って立つ自我の安寧の基盤が完全に自壊したと確信したと思われるのだ。
「未来のない京劇」と、「一方通行のメロドラマ」。
この二つが崩れ去った蝶衣にとって、そのためだけに燃焼させ続けて来た人生をなお継続させていく熱量は、既に老齢期に入っていた蝶衣の内側で枯渇してしまったのだろう。
「余命」を計算し切ったかのような自らの人生を、「覇王別姫」の稽古の中での自死という「映像の嘘」を介して、劇的に自己完結した蝶衣と対照的に、小婁の人生のバラ色の未来が決して約束されていない現実に、彼もまた気付くかも知れないが、少なくとも、ラストの衝撃を目の当たりにしたこの男が認知し得たイメージは、その謎の小さな微笑によって、ようやく蝶衣の認知水準の近くにまでに届いたとも思える何かであった。
しかし、何もかも遅過ぎるのだ。
「ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」
蝶衣が放ったこの言葉の持つ圧倒的な重量感にまで、男の認知が届き得たと言うには、あまりに男は鈍感であり過ぎたのだ。
「天罰がお前に下ったのだ」
男に向かって放った、蝶衣の攻撃的な言葉の含意が延長されて、蝶衣の自刃の後の時間から男に降りかかっていくかも知れないのである。
4 蝶衣の自我の空洞と、そこに充填された京劇との関係の蜜月性を照射して
そこに一つの物語が構築し得るような子供時代の、あの長い物語がなぜ必要だったのか。
次に、それを考えてみよう。
その1 京劇養成所の厳しさ。
その2 蝶衣と小婁の関係基盤が形成されたこと。
普通に考えられるのは、以上の理由であるだろう。
しかし、それ以上にもっと重要な必要性が考えられるはずだ。
それを一言で言えば、「蝶衣の自我の拠り所がどこにあったか」という、肝心要の自我形成過程を丹念に描き出す必要があったということである。
そこにこそ、作り手が敢えて長尺なフィルムを削らなかったと理由があると思われるのだ。
娼婦の私生児として産まれた蝶衣が、口減らしのために、指を切り落されてまで、母親から京劇養成所に押し込められたという凄惨なシークエンスから、この波乱万丈に満ちた物語が開かれたことは、本作の実質的な主人公である蝶衣にとって、既に「帰るべき場所」を持たない自我の不安定な風景を巧みに描き出していた。
彼にとっては、京劇で身を立てるしか生きる術がなかったのである。
そんな彼が厳しい京劇修行に耐えられたのも、生涯のパートナーとなる小婁との出会いと、その関係の継続力の強力なサポートがあったのみならず、何よりも、彼が「帰るべき場所」を持たない自我の、そこに生じた空洞を埋めるに足る物語を作り出す必要があったからだ。
京劇養成所を脱走した少年期の彼が、「覇王別姫」の舞台を見て嗚咽するシーンは、彼の自我の空洞を埋めるものが、どこで決定的に拾われ、それを少年期の自我の内側に如何に形成的に作り上げていったかについて、まさに端的に検証する重要な描写であったことを忘れてはならないだろう。
子供時代の長尺な映像は、蝶衣の自我の空洞と、そこに充填された京劇との関係の蜜月性を照射するために構築されたと、私は考えている。
だから、子供時代の描写が重要な心理的伏線となって、激動する中国現代史に翻弄されながらも、京劇に打ち込む姿が説得力を持って映し出されていったのである。
しかし、自分の力ではコントロールし得ない外部環境の圧倒的な奔流の中で挫折し、アヘンに身を持ち崩していくリアルな描写を経ても、京劇への蝶衣の思いが全く変わらない心象風景について、観る者は疑うことをしないのだ。
言ってみれば、この映像は本質的に蝶衣の物語であり、全てを喪った彼が、最後に劇場的な様式性の内に自己完結を遂げるという閉じ方を選択したのは必然的だった。
深々と根を張った蝶衣の心象風景を、恐らく最後まで斟酌できなかった鈍感な男と、その男に命を賭けた女の悲劇が挿入されていたとしても、それはどこまでも、蝶衣によって相対化される人格対象であったとも言えるのだ。
以上が、子供時代の長い物語を必要とした理由であったと、私は考えている。
5 人生は琴の弦のように
「人生は琴の弦のように」(1991年製作)という、忘れられない映像がある。
「第五世代」の映画監督の代表格である、チェン・カイコーの作品である。
「紅衛兵」世代である彼らは、中国映画隆盛の基盤を構築した「栄光の世代」でもあるが、中国現代史の、言語を絶するほどの暴走・迷走の奔流に翻弄され、そのシビアな現実の中で己が自我を再構築せざるを得なかった世代でもあった。
そんな特殊なる世代の旗手が、母国で作った、「人生は琴の弦のように」という寓話に満ちた作品に含意されたメッセージは、充分過ぎるほどの示唆に富んでいて、私にとって忘れられない映像になっている。
「琴の弦を千本弾き切れば、眼が見えるようになる」
この先代の教えを忠実に守って厳しい修行に耐えて来た盲目の老師が、遂に大願成就したものの、それは芸道に精進させるための先代の欺瞞であった事実が分ったとき、件の老師は先代の師の墓を破壊し、村人たちの前で最後の絶唱を披歴し、死んでいく。(画像)
一方、恋人と老師の両方を喪った盲目の若き弟子は、一人荒野に旅立って、自分の新たな人生を切り開いていくという物語。
それだけの映画だが、思いの外、感銘深かったのは、独特の映像美は言わずもがな、作品に込められた作り手のメッセージに共振するものがあったからだ。
理想が欺瞞だった現実と向き合ったとき、人はどう生きるか。
文革が「『革命』という名の大量殺人」でしかなかった歴史的現実が判然としたとき、それでも、その社会で呼吸を繋ぐことから逃れられなら、人はどう折り合いをつけていけるのか。
私には、こんな遠大なテーマに挑戦した作り手の思いがひしと伝わって来て、荒涼たる自然を背景に描き切ったこの作品への愛着が強い。
荒野を彷徨する盲目の青年が切り開く、新しい人生の向こうに何が待っているか、誰も答えられないのだ。
チェン・カイコー監督・レコードチャイナより
|
それでいいのだ。
観る者が自らの問題意識によって、作品に肉薄していくこと。
それこそが、真の映像との付き合い方であるのだ。
チェン・カイコーは、そう言いたいのだろう。
残念ながら、「人生は琴の弦のように」、「さらば、わが愛 覇王別姫」を超える映像を、チェン・カイコーはなお達成していないように思われるが故に、「映像作家」を継続することの困難さを感受せざるを得ないのである。
(2010年3月)
0 件のコメント:
コメントを投稿