2010年4月12日月曜日

太陽はひとりぼっち('62)       ミケランジェロ・アントニオーニ


<ラスト9分間に及ぶ、無言のシークエンスの決定力>




1  軟着点の見えない話し合いの後で



 原題は「L’ECLIPSE」。

 「月食」、「日蝕」という意味である。

 カンツォーネの代表的女性歌手である、イタリアのミーナ・マッツィーニが歌う、軽快な邦題通りの主題歌から、クレジットタイトルが刻まれる途中で、唐突に、暗鬱な不協和音が流れてきた直後の映像が映し出したもの。

 それは、疲労気味の無言の男女が不機嫌な顔をして、如何にもブルジョワの佇まいのアパートの部屋の中で、明らかに「距離」を意識した関係を露わにしていた。

 恐らく、二人の「愛」の行方についての、共有するに足るだけの、軟着点の見えない話し合いが延長されていた。

 「俺を愛していないのか?結婚が嫌なのか?」と婚約者リカルド。
 「分らない・・・」とヴィットリア。
 「いつから、俺を愛せなくなった?」
 「分らない・・・」
 「本当に?」
 「そうよ」
 「でも、何か理由があるだろう?言ってくれ」
 「分らないって言ってるじゃないの」

 一貫して気怠い表情を隠さない女が垣間見せる、内側に抱え込む憂鬱だけが深く印象づけられる。

 女がその部屋の窓から覗く大きな水道塔と、舗装道路で区画化された周囲の近代都市の寂寞たる風景は、女の内的風景に対応するのか。

それは、ローマ郊外のニュータウンが本来的に抱え込む、閉塞的な憂鬱であると言わんとするかのようだ。

 本作の、この一連のシークエンスが、映像の心理的文脈を端的に語っていた。

 そして、映像が程なく映し出したのは、「『異界』であるが故に、『文明』と対峙する幻想としてのアフリカ」の風景。

 それは、ヴィットリアが知人のアパートの部屋で覗く、「ケニア・ナイロビの湖」、「キリマンジャロの雪」、「バオバブの木」等の写真が表現する「もう一つのの風景」だった。

 深夜、疑似黒人女性と化したヴィットリアが、アフリカの踊りに興じるシーンが挿入されて、「『異界』であるが故に、『文明』と対峙する幻想としてのアフリカ」の風景が際立つのだ。

 「黒人は大臣になったつもりでいるんだけど、実情は変わってない」

 これは、生まれ故郷のケニアでお産をすると言う、ヴィットリアの友人、ケニア帰りのマルタの言葉。

 彼女の話の内実は、「幻想としての未知なるアフリカ」のイメージを抱くヴィットリアに対して、そのアフリカの現在が、コンゴ動乱のように、「白人に虐げられる黒人の制度化された不幸」がピークと化しているというリアルなもの。

 そして、悪戯騒ぎの虚しさを感じながらも、空虚な時間を繋ぐことしかできない肝心のヒロインの内的風景は、もう拠って立つ自我の安寧の基盤を構築し得ないイメージを深めていくだけなのか。

 ともあれ、この描写は、本作を通して執拗に映し出される、証券取引所の売買の狂騒的なシークエンスの内に、人間の欲得マネーに群がる資本主義の世界への明瞭なアイロニーを被せていることが容易に判然とするだろう。



 2  ラスト9分間に及ぶ、無言のシークエンスの決定力



 映像は、証券取引所仲介人の青年ピエロとの出会いと、継続力のない「愛」の時間を繋ぐヴィットリアをフォローする。

ピエロのオフィスでの睦みと、近未来に延長される逢瀬の約束。

 しかし、睦みの直後の別れから開かれた、「愛の不毛」を存分にイメージさせるラストの決定的な「無言のシークエンス」。

 ヴィットリアは、「愛」という名の突破力を信じる気持を、一貫して持ち得ないのだ。

 「君は何をしてたの?」

 このピエロの、何気ない発問に対するヴィットリアの反応は、あまりに覚め過ぎていた。

 「人って、どうして色々質問するのかしら。愛し合うのにお互いを知る必要なんてないわ。愛し合う必要もないのかも・・・」

 「正直言って、君がよく分らない。僕たち、お互い理解し合っているかな」
 「分らない」

 ここでも彼女は、「分らない」としか答えない。

 答えられないのだ。

 衝撃のラストシーンへのシークエンスが開かれていく。

 「愛」の継続力を身体の絡みの中で確認する、男と女。

 「明日会おう。明日も、あさっても」とピエロ。
 「次の日も、そのまた次も」とヴィットリア。
 「そのまた次も」
 「今夜も」
 「8時。同じ場所で」

 ピエロは、この言葉を結んでヴィットリアを見送った。

しかし、抱擁し合って別れた二人の時間から開かれた、9分間に及ぶ無言のシークエンスは、歓喜の表情が削られた女のアンニュイをアップで映し出した後、ミケランジェロ・アントニオーニの映像は、無機質な都市の風景を執拗にフォローしていくのだ。

 建築中の鉄骨の骨組み。誰もいない朝の公園。

 そして、閑散とした町の中枢を一頭立ての馬車が走り、乳母車の女性が通っていく。

 横断歩道の白と黒の彩りだけが眩しい、アスファルトの横臥(おうが)。

 その舗装道路の上を出勤途上の男性が渡った後で、誰も続くことのないニュータウンの風景が、殺風景な郊外の空間の異様な広さを露出する。

 バスから降りて来た乗客の新聞の大見出しには、「またもや 核実験!この平和も仮の姿か?」という文字が躍っていた。

 その新聞の見開きを、漠然と読む一人の男性。

 ドラム缶から漏れ出した汚水が、早朝のアスファルトを濡らしていく。

 シートに覆われたコンクリートの建造物は、未だ建築中の無機質の集合体。

 突然、生気ない老人の表情がアップで捕捉された。

 夜の帳が降りてきたのだ。

 ニュータウンに帰宅して来た人々の後ろ姿を人工灯が照らし出し、そこに「月蝕」の画面が唐突に出現するが、映像は明らかに「日蝕」によって、隠されゆく太陽のイメージを映し出したのだ。

 そして、「同じ場所」で待ち合わせた男と女は、そこに出向くことのない意思を観る者に想像させて、一度観たら忘れない衝撃的な映像を閉ざしていく。



 3  「現代社会の空虚と孤独」というイメージの世界の内に



 「愛についての物語」を作ることに、疑心暗鬼を抱いている女。

それ故にか、彼女は、「愛を求める男」との関係を構築することに積極的になれないようだ。

 従って、「愛についての物語」に関わる時間を前に進めないでいる。

 かと言って、厭悪の対象としての自己の人格像を否定するに足る、ズブズブのペシミズムに搦め捕られている訳ではない。

 唯、「愛についての物語」を作り、それを作ることで、対象人格と睦み合う関係を能動的に構築する時間の内に、一切を捨象して自己投企する自信も覚悟もないだけなのだ。
 
 自らの思いを開陳する誠実さを持つということは、裏返せば、「限りなく確かな何か」に邂逅し得たと信じ切れる経験を内的に媒介したなら、「愛についての物語」を立ち上げていくという選択の余地を残していると言えるだろう。

 彼女は刹那的に生きているようだが、そんな短期解消型の適応戦略に潜り込んでいく時間にも人格投入でき切れないのである。

 自分の感情の確かさをも、未だ確保し得ていないからだ。

 だから、そんな疑心暗鬼の感情によって相対化された、相手の男の感情をも信じることができないに違いない。

 本作において、既に会話が途切れてしまった、冒頭のシークエンスの男は、自分に求めてきている「何かあるもの」についてのイメージが極めて分りにくいようだった。

 深々と、心の通い合う実感的確かさを手に入れられないのだろう。

 恐らくそれが、二人で散々話し合った末の結論なのだ。

 映像は、そんな気怠い時間から開かてれていったのである。

そして、証券取引所仲介人である二番目の男は、どこか軽薄で、真に共存し合えるパートナーとしての人格的実感を持ち得ないのだろう。

 作り手は、核競争に象徴される高度な物質文明の様々なオブジェと、人間の肥大化した欲望が集中する株式相場の世界を執拗に見せていくが、だからと言って、それに対する声高な告発をすることもないし、資本制社会の「負の産物」と、ヒロインに象徴される、「愛についての物語」に疑心暗鬼を抱く生き方を特段にリンクさせているようにも見えない。

 唯、作り手がイメージする現代社会の爛れ方と、その「閉塞状況」下の「重苦しさ」の内に呼吸を繋ぐ人々の心の有りように関して、知識人としての感懐を繋いでいくのみである。

 ラストカットにおける「日蝕」が意味するものは、様々に解釈されるだろう。

 物質文明社会の終焉のイメージを喚起する象徴的表現かも知れないし、或いは、神を喪失し、容易に拠り所を手に入れられない現代社会の空洞感を象徴化したイメージかも知れない。

 少なくとも、男との別れから開かれた、ラスト9分間の映像で提示された無言のシークエンスのインパクトは、そんな社会で生きる人々の空虚さと孤独を表現したものだと言えるだろう。

 それほど、鮮烈な映像の括りだった。

 それが無言であるが故に、その画面に付き合わされる観客の思いは、作り手が誘導する、「現代社会の空虚と孤独」のイメージの世界に存分に持っていかれてしまうのである。

 明瞭な「主題提起力」を持った映像の素晴らしさに関しては、殆ど文句のつけようがなかった。



 4  「60年代限定の映像作家」としての「イタリア映画の巨匠」



 「今日、わたしとしてはあるはっきりとした感覚をいだいている。今日、というのは全世界の運命にかかわる重大な事実、不安、恐怖をはらんだ現代・・・(略)どんな映画をつくり得るかわたしは知らないし、また知ろうという気もない。わたしたちが断じてしなければならないないことがあるように思える。―― 現実のただなかで知性を護りぬくこと。そして精神の怠惰に、大多数の順応主義にひきずり込まれないことである」(「アントニオーニ」ピエール・ルプロオン著 矢島翠訳 三一書房)

ミケランジェロ・アントニオーニ監督
これは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督自身の言葉。

 1958年当時の、若き映像作家の強い意志が感じられる自己規定的表現だ。

 思うに、彼の映像世界がピークアウトを迎える時代、世界は冷戦構造の真っ只中にあった。

 まもなく、キューバ危機に象徴される核戦争への深刻な危機意識を、当時の知識人たちは現実の問題意識として共有し、それぞれが、それぞれの問題意識によって、優れた表現的営為を、それぞれのフィールドで構築していった。

 まさにそのことが、〈時代状況〉に生きる彼らの良心の証でもあった。

 「情事」( 1960年製作)、「夜」( 1961年製作)、「赤い砂漠」( 1964年製作)、「欲望」( 1966年製作)等々、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が問題作を立て続けに放った60年代は、ベトナム戦争、フランス5月革命、中国文化大革命にシンボライズされる世界史的な動乱の時代だった。

 そんな時代に呼吸を繋ぐ知識人たちが、自分たちを深々と覆うと信じるカオスと冥闇(めいあん)の時代に対応する誠実な有りようが、多くの若者たちに多大な影響を与え、そして、そこでモッブ化した若者たちが熱量を過剰に自給し、そのエネルギーを「反資本主義」というイデオロギーの内に収斂させていったのである。

 しかし、動乱の60年代は牙を抜かれるように終焉し、文明の自己運動は強力な継続力を一貫して失うことなく、予測不能な時代の海を疾駆していった。

 そして冷戦の終焉と、社会主義という名のイデオロギーの、世界史的状況からの撤退が決定付けられて、「貪欲な欲望資本主義」は社会主義のエキスを部分的に吸収することで、弥増(いやま)して、その骨太の脚力を強化していった。

 更に時代が流れ、世紀が変容していった。


航空機の激突で炎上するワールドトレードセンター(ウイキ)
そして今、「9・11テロ」を以て嚆矢(こうし)とするかの如き印象の強い、「ゼロ年代」という、未来を予測できない「不安」と「閉塞」の雰囲気が異様に醸し出される、深刻な危機の招来が顕在化するに至った。

 「ポストモダン・テロ」である。

 「現代社会の秩序」の破壊それ自身が自己目的化された、震撼すべきテロリズムの様相が、今、ここにあるのだ。

 文明それ自身を破壊する、確信的テロリストたちの暴走の未来を、文明批判を内包する映像を撮り続けた作り手が、果たしてどこまで予測し得たであろうか。

 文明に依拠して文明批判してきた人々(注)にとって、「ポストモダン・テロ」との共存は有り得ない何かであったはずだ。

 文明を破壊するテロリズムを決して許容してなかったであろう、数多の「良心的知識人」の幻想を呆気なく砕く破壊力が、そこにある。

 今や、「ここぞ、というときの発信力」の熱量自給すら覚束ない、数多の「良心的知識人」の存在価値は、アルファブロガーの吐き出す毒気にすら届かないように見えるのだ。

 以上、そんな戯言紛いのニヒリズムの妄想につらつら浸って考えてみるに、ミケランジェロ・アントニオーニ監督とは、私から言えば、「60年代限定の映像作家」ではなかったのかということ。

 残念ながら、「男性として、自分のおもな欠点と思うものは?」という問いに、「ひかえ目であること」(前掲書)と答える、この「良心的知識人」且つ、「イタリア映画の巨匠」に対する、それ以外の把握は似合わないのである。

 なぜなら、彼は70年代に入って、鮮烈な映像表現の継続力を途絶えさせてしまったような印象を受けるからだ。

 それが、「イタリア映画の巨匠」に対する、私の率直な感懐である。


(注)例えば、WWF(世界自然保護基金)による国際的なキャンペーンである「アースアワー(Earth Hour)」に代表されるように、3月の最終土曜日に1時間電気を使わないイベントの実践的企画を継続させていくという方略には、「文明に依拠して文明批判する欺瞞性」に堕さない歯止め装置が機能していると言えるだろう。せいぜい私たちには、このような戦略的スタンスしか持ち得ないのである。

 因みに、AFPの配信(2010年3月27日付け)には、「エジプトのピラミッドやパリ(Paris)のエッフェル塔(Eiffel Tower)、中国の紫禁城(Forbidden City)の照明が次々と落とされる予定だ」という記事が紹介されていた。


(2010年4月)

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