2010年5月11日火曜日

不良少女モニカ('53)   イングマール・ベルイマン


<自我の未成熟な女の変わらなさを描き切った圧倒的な凄み>



1  「青春の海」の求心力 ―― プロットライン①



陶磁器配達の仕事に追われる一人の若者がいる。

彼の名は、ハリー。

彼は奔放な我がまま娘と出会うことで、その生活に変化を来たしていく。

彼女の名は、モニカ。このとき、17歳だった。

純粋な青年、ハリーと出会うことで、モニカはそれまでにない異性への思いが生まれていく。


決して豊かではないモニカは、父と喧嘩したことで家出し、同様に、陶磁器配達の仕事への遅刻などが原因で、ハリーもまた家出するに至った。

ストックホルムの夏の陽光を存分に浴びる快感を求めて、二人は、ハリーの父が所有するモーターボートでの非日常の生活に入っていったのである。

非日常の日常下のボート生活を謳歌する、二人の会話。

「僕はいつも孤独だった。僕が5歳のとき、母が病気になり、僕が8歳のとき死んだんだ。それで親父は少し変になり、無口になった。僕らは毎晩、椅子にじっと座っているだけで、話をしない」
「私は違うわ。家族がすごく多くて、チビはうるさいし、物は壊すし、パパは酔って外から帰って来て、大声を上げて絡むの。可笑しな人間なの」
「君も僕も同じだ。僕は夜、詰め込み勉強をしようと考えた。勉強を続ければ、エンジニアになれる。僕はエンジンが好きだ。親父のボートのエンジンを直した」
「技師になるなら、私たちは結婚できるわね」


この会話の流れで、モニカは妊娠したことをハリーに告げ、その喜びを、ハリーはこう結んだ。

「僕はすぐにも家に帰り、働いて準備する。君はまともな食事が必要だ」

根が真面目なハリーの現実的な反応に対するモニカの答えは、刹那的で、現実遊離なものだった。

「嫌よ。私は帰らないわ。この夏はこうしていたいの。ハリー、あんたのように良い人は初めてよ」

ここで、ハリーは噛んで含めるように話した。

「モニカ。二人で本当の人生を送ろう。僕らは気が合っている。勉強して働けば、うんと稼げて、僕らは結婚できる。そして、洒落た家に住み、物を揃え、僕たちは生まれてくる子と・・・」

ハリーの真摯な言葉がどこまで受容できたか疑わしいような、モニカの延長されたイメージの世界が繋がれた。

「そうよ。私は家で夕食の支度をし、日曜には子供たちを連れて散歩よ。私は家で子供の世話をし、奇麗な服を着て外出するわ」
「何もかもうまくいくよ。僕らはいつでも一緒だ」
「私たち二人だけよ」

まもなく、二人は食糧不足に苦しむようになり、モニカは民家に押し入り、窃盗を企てるが、失敗した挙句、逃亡した。

モニカの行動に同調しなかったハリーは、戻って来たモニカと口論するに至ったが、「世間」と接続するときの二人の意識の差は歴然としていた。

翌朝のこと。

「楽しい夏だったよ。だが、何もかも終わった」とハリー。
「また町に帰るなんて…映画の夢を追ったのが、私たちの間違いよ」とモニカ。
「いや、僕らの夢だった」とハリー。

ボート生活を終え、町を目指して寄港するボートのデッキ上で、暗鬱な表情のモニカの眼光が濁っていた。

「青春の海」との距離が遠のいていく、そんな少女の心理を、暗鬱な音楽が拾っていく。

「町が近づいて来た・・・」とモニカ。
「負けはしないぞ。皆に見せてやる。僕はこれから働く」

19歳のハリーの強い覚悟だけが、海上で静かに括られた。



2  「変わらぬ女」の「「青春」だけが延長されて



ストックホルムに戻った二人は、早速、ハリーの伯母の世話で結婚することになった。

工場で働くことになったハリーは、本来の真面目な性格を存分に発揮した。

まもなく、モニカは女の子を産み、若い二人の新生活が開かれていく。

しかしモニカには、母親としての自覚がなく、相変わらず、煙草を吸いながらの日常性を延長させるばかり。

そんなモニカは貧乏生活には堪えられず、再び、以前の不良と付き合い始めたのだ。

「別れるしかない。僕たちはもうダメだ」
「私一人が悪いんじゃないわ」
「それとは別だ」
「あなたは自分のことしかしてないわ」
「そうだとも。僕らの暮らしのためだ」
「お金を貯めるばかりで、何一つ買えないわ!」
「君は服を買った」
「着る物がないからよ。お金は借りたのよ」
「この家も追い出される。もう、どうにでもなれだ」
「あんたの不平は、聞き飽きたわ!」
「だが、家賃は工面しなくてはならん!」

顔を埋めて、モニカは嗚咽するばかり。

「あんたの役割よ。だから子供を作ったわ。いい加減にして!私は眠りたいわ・・・私は醜くなったわ」

一時(いっとき)の睦みがあっても、ハリーの怒りは収まらない。

それでも彼は、二人の関係を生産的に考えようと努めた。

「二人でよく話し合おう。なぜ、こうなったのか」
「あんたは自分の勉強しかしていないわ。私は若いうちは楽しく暮らしたいのよ」
「勉強は僕らのためなんだ。きっと、何もかも良くなる」
「言い逃れよ」
「君は?僕が働いている間、男を連れ込んで何をしていた?」
「あんたは下劣よ」
「君は恥ずかしくないのか!」
「愛していたのよ・・・ぶたないで!」

遂に、ハリーの怒りは身体化した。

「変わらぬ女」を繰り返し叩いたのである。

全てが終わった瞬間だった。

結局、モニカはハリーの元を去るに至った。

殆ど予約されたように、「変わらぬ女」の「青春」だけが延長されてしまったのである。

そんな女に置き去りにされた男は、これも予約されたようにモニカと離婚するに至った。

ハリーは、叔母に預かってもらっていた子供を引き取ったのである。

独力で子供を育てるつもりなのだ。

それは、彼本来の性格の延長線上にある選択的意志でもあった。

観る者の心に深く張り付くような、ラストシーンの印象的な構図がそこにあった。


ハリーは今、鏡に写った父子の姿形をじっと眺めながら、モニカと過ごした夏の海を思い出していたのである。



3  「ストックホルムの海の非日常性」と、「ストックホルムの町の日常性」の対比 ―― まとめとして①



ヌーベルバーグを特徴付ける「即興演出」や、ストックホルムの海を中枢に据えた「ロケ中心」の技法が随所に見られる本作が、「フランス映画の墓掘り人」となったフランソワ・トリュフォーなど、カイエ・デュ・シネマの連中の高評価を得た逸話はあまりに有名だが、それもまた、ロベルト・ロッセリーニらの仕事と共通する低予算の制約があったからである。

それにしても、ストックホルムの夏の陽光を利用した映像の、眩いばかりの構図の多用は、本作の鮮度を相当程度高める効果があった。

その鮮度こそ、「非日常の日常下」のボート生活を謳歌する、10代後半の若い二人の青春の瑞々しさでもあったと言える。

ストックホルムの夏の海。

これこそが、映像の隠れた主役かも知れない。


ストックホルムの夏の海は、若い二人の夢の具現であり、パラダイスの限定的スポットだった。

二人だけが占有したパラダイスには、ストックホルムの町の退屈な日常性と切れた世界が、無尽蔵に広がっているのだ。

少なくとも、若い二人はその夏、その幻想が香しく眩い時間を手に入れていた。

二人はその限定的スポットで「青春」を謳歌し、〈生〉と〈性〉を愉悦したのである。

とりわけ、愉悦する「青春」の、その甘美な幻想の世界にしか生きないモニカにとって、ストックホルムの夏の海は、退屈な日常性の世俗的な時間から解放させてくれる特段のパラダイスだった。

当然のことながら、そんなパラダイスにも生活の臭気が張り付いている。

その生活の中心は、いつの時代もそうであったように、〈食〉の継続性という基本的課題である。

〈食〉の絶対的供給源が保証されないボート生活での限定的状況下で、恰もそこだけが特化されたかの如き、件のパラダイスの矛盾が露呈されたのは、あまりに必然的な事態であった。


〈食〉の問題を契機とした諍(いさか)いが二人の間で出来したのは、どこまでも自己中心的な発想から抜け出せない、モニカの我がままな性格の発露によってである。

思えば、「社会規範」のごく普通の制約や干渉から相対的に解放された甘美なパラダイスの中で、二人の裸形の感情がより激しく交叉し、顕在化するのは、その相対的な状況解放性が内包するリスクの故である。

それこそ、特化されたかの如きパラダイスの矛盾以外ではなかった。


「社会規範」のごく普通のルールの縛りが希釈化されたとき、二人の自我の裸形の様態が晒される事態を常態化させてしまうのだ。

そこに、諍いの原因子が身体化されるほどに膨らんでしまえば、殆ど必然的に、二人の裸形の感情のコンフリクトは不可避となるだろう。

〈食〉の問題を「解決」するための二人のコンフリクトは、窃盗行為の是非を巡ってのものだったが、言うまでもなく、「窃盗賛成派」のモニカと、「窃盗反対派」のハリーの対立という構図だった。

結局、「窃盗賛成派」の強行によって、当人のモニカは警察沙汰になるリスクを負った。

何とか警察力の行使の危機から逃亡したモニカだったが、「窃盗反対派」の「日和見的態度」への不満を抑え切れない彼女は、「反対派」の当人を責め立てるのである。

そんな二人の会話が、映像の中で拾われていた。

裸形の感情が、より激しく交叉する重要なシークエンスである。

以下、再現してみよう。

「助けに来ないのね!」とモニカ。
「何処にいるか分らなかったんだよ」とハリー。
「私は捕まったのよ」
「ボートを出るからさ」
「この肉も冒険のお陰よ」
「危ない真似するな!」
「私には食べ物が大切よ。自分で探したわ!何もかも嫌になるわ。子供はできるし、私は着る物も何もないし」
「僕らの先が思いやられる。君はこのままではダメだ。まず結婚をして、僕が働いて、3人が食べることだ」
「町には帰りたくないわ!」
「ここは寒くて、いられない」
「何も欲しくない!何も!」

激しく嗚咽するモニカは、どこまでも、「青春」の甘美な幻想の世界にしか棲めないのだ。

「ハリー。人は幸福なのに、なぜ私たちは不幸なの?」
「僕も同じだ・・・」

遂に出来したパラダイスの矛盾が、結局、二人の「青春の海」の生活を閉じることになった。

「ストックホルムの海の非日常性」と、「ストックホルムの町の日常性」の対比。

これが、映像の主題である。

前者が、そこに潜む矛盾によって自壊したとき、二人は、「ストックホルムの町の日常性」に戻って行かざるを得なかったのだ。

「ストックホルムの町の日常性」

そこには、身過ぎ世過ぎのシビアな現実だけが待機しいているのだ。

未だ愛情を保持していた二人は、まもなくそこで結婚し、働き、子供を産むが、しかし、「貧しく退屈な日常性」という、最も肝心な現実を仮想敵にした少女にとって、そこでの生活は最も耐えがたいものとなった。

だから彼女は、一切を放擲した。

一切を放擲した彼女は、再びかつての爛れた日常性に戻っていったのである。

それは、「ストックホルムの海の非日常性」に象徴される世界しか認知しない女の、しごく普通の感情の流れ方だったのだ。


彼女には、「ストックホルムの町の日常性」に象徴される世界との、しごく普通の折り合いと融和を受容する何ものも存在しなかったのである。



4  自我の未成熟な女の変わらなさを描き切った圧倒的な凄味 ―― まとめとして②



多くの場合、青春には仮想敵が存在する。

「敵」を仮構することで、青春が成立すると言い換えてもいい。

少女モニカにとって最大の敵は、彼女自身の外側に仮構された、「世間一般」という「規範的体系」であるに違いないが、より本質的に言えば、実は彼女自身の内側に巣食った、「貧しく退屈な日常性」それ自身であった。

「貧しく退屈な日常性」を「敵」にした、モニカの自我の未成熟。

それこそ、彼女の変わらなさの全てであった。

その一点に置いて、モニカの夫となるハリーと決定的に別れたのである。

ハリーの仮想敵が、せいぜい、陶磁器配達の仕事場での彼の上司であったり、モニカの不良仲間の男たちであったりしたに過ぎないが、それらは、敢えて自らが「前線」を築き、そこで倒すべき特段の存在性を持ち得ないのである。


そんなハリーの普通の人生の、普通の幸福を求める、普通の情感の包括力を食い破ってしまうほど、「貧しく退屈な日常性」を「敵」にするモニカの自我の未成熟は、彼女の鎧のような変わらなさを、その内側から固めてしまっていたということだ。

思うに、この映画で凄い所は、「青春」の仮想敵の定番である、「大人社会」=「規範の体系」=「世俗の悪徳性」という「善悪二元論」の内に、救いなきシリアスドラマを収斂させなかった点にある。

何より、自我の未成熟な女の変わらなさを、ここまで描き切った本作の凄味は尋常ではない。

自分勝手で、我がままで奔放な女が、心優しき男との関係のフラットな睦みをどれほど延長させようとも、自我の深い辺りで根本的な地殻変動が惹起することの嘘臭さを、この映画は精緻に描き切ったのだ。

だから本作は、在り来りの欺瞞や偽善の言辞から自由になり得たのである。

ベルイマンは凄い。

「愛によって人は変わる」などというナイーブで、安直なヒューマニズムに流さないベルイマンの凄さ。

イングマール・ベルイマン監督(左)
この凄さこそ、ベルイマンの真骨頂である。

スウェーデン映画界に独立峰の如く屹立する、その尖鋭な映像世界に心酔する私を常に誘(いざな)うのは、このベルイマンの凄さ以外ではない。

本作もまた、映像の中で枢要な意味を持たせる風景描写ばかりでなく、内面描写の精緻な構成力に、息を呑むほどだった。

ヌーベルバーグへの影響の深さとは無縁に、ベルイマンがとてつもなく凄い映像作家であることを、今更ながら感受した次第である。

(2010年5月)

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