<「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り>
1 「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り
これは、「距離」の映画である。
当該社会の社会規範の様々な縛りから相当程度自由になって呼吸を繋ぐ、一人の女(「女王」=)がいる。
その「女王」は、二人の男によって「発見」され、その絶大な価値を認知された。
「その粗彫の女の顔の微笑が二人の心を捉えた。それは、アドリア海の野天美術館にあった。二人は感激して、黙って像の周りを廻った。翌日、語り合った。あんな微笑に会ったことはない。もし会えば、後を追うだろう。天啓を受けて戻って来た二人を、パリは優しく迎えた。フランス娘は彫像にそっくりだった。その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた。夢のようだった」(ナレーション)
まさに、「その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた」フランス娘こそ、「女王」であるカトリーヌだった。
全ては、そこから開かれたのである。
そして映像は、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」(他者の侵入を許容する心理的距離感)の途方もない作りについて映し出していく。
「誰か私の背中を掻いてくれない?」などと言ってのける、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、本来的な自我の防衛戦略の砦と言うより、極めて感覚的なラインなので、それでなくとも見えにくい「パーソナルスペース」の枠組みが、外部の者には空間認知のGPSが機能しにくいのだ。
加えて、「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、普通の自我のサイズを上回る広がりを持つから厄介なのだ。
だから「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に吸収されるように踏み入っていく者たちが多く、その全ては老若を問わない異性、即ち、「女王」に特定的に選択された男たちである。
「パーソナルスペース」が見えにくいのは、それが「女王」の感覚的な基準によって策定されたラインだからである。
感覚的な基準もまた、「突然炎のごとく」という邦題のように、瞬時にして行動傾向が動いてしまう頼りなさを持っているから、まるでそれは、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のようである。
「女王」の「蜘蛛の巣」は、「女王」自身の一見刹那的な感覚包囲網となっているが、しかし「女王」の中では、どこまでも自在性を担保する絶対的で堅固な城塞である。
然るに、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に踏み入れていく男たちの規範感覚とズレた世界への侵入は、男たちの行動規範を根柢から揺さぶり、しばしば、「女王」と比べて相対的に脆弱な彼らの自我を混乱させ、中途半端な状況下に置き去りにしてしまうのだ。
2 「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命
ジュール(左)と「女王」カトリーヌ |
大体、「女王」がジュールからのプロポーズを受諾した理由は、驚くほど単純なもの。
「あなたは初心(うぶ)で、私は男を知ってるわ。平均がとれて、良い夫婦になれるわ」
これが、彼女の言い分だった。
恐らく、「結婚」へのハードルが著しく低く見える彼女の情感世界には、この理由で充分だったのである。
なぜなら、彼女は、メスの働き蜂より大きく、その産卵能力によって、蜜を餌とする雄蜂を選定し得る特権を有する「女王蜂」であるからだ。
「彼女との結婚に賛成するか?」とジュール。
「女王」と結婚する意志を固めつつあった、このジュールの問いに、親友のジムが放った言葉が全てを語っているだろう。
彼は、こう言い切ったのだ。
「彼女は夫と子供が持てるか?彼女は地上では幸福になれぬと思う。彼女は万人の幻だ。独占できぬ」
そのジムが、今、ライン河上流の山小屋に住むジュールの家族(「女王」のカトリーヌと、6歳の娘)に招待された。
そこで、ジュールはジムに、信じ難い思いを口にしたのである。
ジム(左)とジュール(右) |
「彼女をどう思う?」とジュール。
「結婚も育児も成功と思う。少し落ち着いて、勤勉になったようだ」とジム。
「用心したまえ。彼女は家の秩序と調和は保っている。だが、万事が好調過ぎると不満になる。態度や言葉が変って来るのだ」
「彼女もナポレオンなのだ」
「世界は富んでいるから。少しは誤魔化していいと言うのだ。それを前もって、神に赦しを求めている。彼女は僕らを見捨てそうだ」
「まさか!」
「いや、既に彼女は一度捨てたよ。半年間だ。もう、帰らんと思った。また出て来そうな気がする。僕だけの妻ではないのだ。3人も情夫がいたよ・・・僕は必要ではない。自制が効かない女なのだ。僕は彼女の不貞に慣れっこになっている。だが、出て行かれたくはない・・・僕は彼女を諦めている。人生に期待したことも諦めた」
「彼女は、君の仏教僧のような面を愛しているよ」
「彼女はいつも優しく寛大だが、自分の真価を認められないと思うと、恐ろしい女になり、突然に発作を起こし、極端から極端に走る」
それでもジュールは、自分の子供まで儲けた「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たなかった。
それは、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だった。
3 瞬間の行為としての「愛」を求めて ―― 男の情感を支配し切る「女王」の凄み
今度は、「女王」の言葉を拾っていく。
それは、二人(ジュールと「女王」の夫婦)の関係を心配しつつも、「女王」の芳しいフェロモンの臭気に誘(いざな)われていくジムに語った、穏やかな口調ながら、その内実には相当の毒針の威力を持つ長広舌だった。
「寛大さと純粋さと弱々しさで、ジュールは私を征服したの。他の男とまるで違っていたわ。私は彼の危機を救う気だったの。でも、切り離せない危機だったわ。私たちは幸福だったけど、その幸福が不安定のままで二、人きりで面と向かい合ったの。彼の家族は私には苦の種だったわ。結婚前後、披露宴の席で、彼の母は私を心から傷をつけたの。彼も母の味方をしたわ。その罰に、私は昔の恋人と数時間過ごしたの。それでジュールと結婚したわ。ゼロから再出発して・・・」
「女王」の毒針の威力は、家出の真相にまで及ぶ。
「戦争が始まると、彼は東部へ発ったの。彼は素晴らしい愛の手紙をくれたわ。遠くで彼を前よりも愛したわ。不和は彼の帰休のときに始まったの。彼を赤の他人に感じたわ。彼が発って子供が生まれたの。彼に言ったの。子供は一人でいいと。部屋を別にして私は自由になるわと・・・彼も自由。私も自由な身。ある朝、驚いたことに、ジュールの寛大さも役に立たなくなり、娘には後ろ髪引かれたけど、私は家出したの。3ヶ月後に戻ったわ。ジュールは夫でなかったわ・・・」
「女王」の長広舌の中から発散されるフェロモンの臭気は、夜の森の闇の辺りで、完全にジムの情感を支配し切ってしまったのだ。
「僕は君を愛している」
「女王」に愛の告白をしたジムが、そこにいた。
「黙って近寄ると、二人は完全に許しあった。彼女の顔に、歓喜と好奇心が溢れた。彼にはもう、彼女以外に女は存在しなかった」(ナレーション)
カトリーヌという名の「女王」にとって、愛は常に瞬間の行為なのだ。
それを理屈で理解しながら、男は女の肉体深くに侵入していく。
それもまた、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だったのか。
あっという間に、男と女の愛欲が一つのピークアウトに達し、男は女の生活圏である山荘に共同生活することになった。
1対2という、奇妙な男女の共同生活が、彼らのごく普通の感覚の内に開かれたのである。
4 男の恣意的な行為を相対化させる「女王」の距離感覚
まもなくジムは、それ以前に、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男であるジュールから、信じ難き言葉を耳にしたのだ。
「カトリーヌは、僕にもう用がない。でも僕は、彼女が全く消え去るのが怖い。さっき、君と彼女が並んでいたが、夫婦のようだった。彼女と結婚してくれ。僕も彼女に会えるから。愛しているなら僕に遠慮はいらんよ」
これは、ある意味で、ジュールの自我防衛戦略の最適有効戦術であった。
彼には、もうそれ以外の手段がなかったのだ。
それは、「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たない、些か決断力不足のジュールの戦略の勝利だったのか。
しかし、比較的に理性的な文学青年であるジュールと違って、ジムの場合は、すっかり「女王」の芳しいフェロモンの虜になってしまって、恋愛感情に宿命的な「嫉妬感情」が澎湃(ほうはい)するに至る。
「女王」に翻弄されるジムの自我は、情感系の自給が追いつかなくなって、急速に枯渇していったのである。
元々、自己基準で動く「女王」の、その不定型な情感系との均衡を求める方略など存在し得ないのだ。
「彼女は女王さ。彼女は特に美しくも、賢くも誠実でもない。だが、真の女だ。ああいう女を、我々男性は皆求めている」
これは、ジムに語ったジュールの言葉。
しかし、「女王」の気まぐれな彷徨に、「恋愛」を簡単にゲームの内に流せない不満だけが、ジムの心に置き去りにされる。
「僕らは絶対にうまくいかない。僕らの友情でも苦しい。時には、僕は君を嫉妬し、僕は嫉妬しない君を憎む」
ジムは、そう反応した。
「僕は何としても、彼女を失いたくない。君も僕と同じになるよ。彼女は戻るからな」
ジュールのこの言葉の直後、カトリーヌは本当に戻って来た。
「女王」の帰還があっても、今や、置き去りにされたジムの心から、「女王」に対する求心力が加速的に失われていった。
激しい恋の突沸は、冷却力も加速的なのだ。
だから彼は、「女王」との心理的距離を遠ざけるために、以前の恋人と結婚することを決意した。
しかし、それは「女王」の距離感覚を侵食するものだった。
なぜなら、「女王」にとって、自分で策定した「パーソナルスペース」の範疇に、予約されたかの如く深く入り込んでいたジムとの関係を、相手の恣意的な行為によって相対化されることに厭悪し、その「我儘」を破砕するという、常識的には考えられない行動に打って出たのである。
これが、「女王」の距離感覚なのだ。
彼女には、自分の「パーソナルスペース」の安定的維持だけが重要であって、それ以外の関係様態が惹起する様々な問題点については、充分に末梢的な事柄だったのである。
ジュールとジムの違いが、全てを分けたのである。
「映画の嘘」の物語の終焉を告げる、その辺りの微妙な心理前線について、以下に記述していこう。
5 連れ去られた男、残され安堵する男、そして、「女王」の人生を自己完結させた女
遂にジムは、繰り返しの手紙によって、「女王」から執拗に「呼び出し」を受けた結果、「女王」の元に戻って来た。
しかし、その目的は、「女王」との関係を復元させることではなかった。
彼は「女王」を前に、自分の本当の思いを理性的に語っていく。
「君に借りた本に、線を引いた箇所があった。船上で、一人の女が、見知らぬ男に体を与えたいと思う。それが君の告白に取れた。それが、君の方法だ。僕にもその好奇心はある。だが、僕は自制できる。君にはできまいが。僕も夫婦は恋愛の理想ではないと思っている・・・君は偽善と諦念を拒んで、より良い何かを作りたがった。君は恋愛を発見しようとした。だが、先駆者は謙虚であるべきだ。物事は真正面から見なければならぬ。僕らは失敗した・・・君は君流に僕を変えようとした。僕は喜びを求めて、悲しみを持ち来った。ジルベルトと共白髪になる約束は、いつでも破れる無価値なものだ。だが、君と結婚する希望はない。僕はジルベルトと結婚することにした。彼女となら、まだ子供も持てる」
ジムの告白を拒絶する思いを、「女王」は剥き出しの感情を抑えつつ、簡潔に表現した。
「私はどうなるの?私の産みたかった子供は、あんたが嫌ったわ」
「いや、望んだよ」
このとき、「女王」は嗚咽するや、突然立ち上がり、「殺してやるわ!」と拳銃を右手に持ち、左手で部屋のドアを閉めた。
その手から拳銃を奪ったジムは、窓から部屋を飛び降りて、走り去って行ったのである。
「女王」の距離感覚を決定的に侵食するこの顛末は、もう二人の関係の復元を不可能なものにさせるに充分な、極めて危ういエピソードであった。
そして、それは「女王」の奔放な人生を自己完結させるに足る決定的なエピソードと化していく。
「女王」は二人をドライブに誘い、水辺の料亭で車を止めた。
そこで、「女王」は、「話がある」と言って、ジムだけを車に誘ったのだ。
ジムを同乗させたドライブの中で、「女王」は小さな笑みを送った。
「女王」のドライブ行の行き先は、壊れた橋に向けての疾走だった。
壊れた橋から転落する車の中に、かつて瞬間的に燃え上がった男と女がいる。
「女王」の覚悟のドライブは死出の旅となり、それを遠方から凝視していた男がいる。
ジュールである。
最後のナレーション。
「彼には彼女に裏切られる心配も、死なれる心配もなくなった。死体は葦に絡まっていた。何も残さぬ二人。ジュールには娘があった。彼女は闘いのために闘ったのではない。だが、打ちのめされたジュールはほっとした。ジュールとジムの友情は強かった。つまらぬことに喜び、お互いの差異を認め合った。ドン・キホーテとサンチョの友情なのだ」
最後の明るいジョルジュ・ドルリューの音楽は、ジュールの安堵感を表現していたのだろう。
こうして、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のような、「パーソナルスペース」の途方もない広がりを持つ絶対的な城塞を作り上げた、一人の「女王」に関する「距離」の映画が、閉じていった。
6 激越な攻撃性の見えない辺りで、空洞感の十全な補填への「枯渇」
ここに、興味深いエピソードがある。
山田宏一の著書(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社)によると、「突然炎のごとく」を観たトリュフォーの母は、ジャンヌ・モローが演じたカトリーヌというヒロインの「ふしだらな関係」を、「私へのあてこすり」と言って、「死ぬまで許さなかった」そうである。
また、こんなエピソードもある。
「『突然炎のごとく』は、『大人は判ってくれない』以上に称賛を浴びたが、『これは単にカトリーヌという母親のような女の愛をかちとろうとうするジュールとジムという甘ったれのマザーコンプレックスの兄弟の話ではないか』という酷評があった。(略)
1968年になって、母が死んだとき、トリュフォーは、『自分でも信じられなかった』ことだが、神経衰弱(デプレッション・ネルヴァーズ)で入院しなければならいほどのショックをうけた。そのとき、初めて、『突然炎のごとく』を『甘ったれのマザーコンプレックスの兄弟の話』とこきおろした酷評にも一理あることを認めざるを得なかったというのである。トリュフォーの父親さがしも、この母の死のショックにつながるのかもしれない」
(前掲書)
フランソワ・トリュフォー監督(左) |
母親の死に際して、「神経衰弱(デプレッション・ネルヴァーズ)で入院しなければならいほどのショックをうけた」という話は、そんな切っ先鋭い攻撃者が抱えた、その激越な攻撃性の見えない辺りで、この男の自我の奥深くで騒ぐ、そこに満たすべき空洞感への十全な補填こそが、その特徴的な映像表現のモチーフを構成しているという、極めて人間学的な自家撞着の変種の様態を窺い知ることも可能である。
多くの敵を作らざるを得なかったほどに、この男は吠えまくり、噛みつき、墓掘り作業を延長させる戦闘性を昂揚させていったが、その否定的精神の突沸によって「枯渇」させてしまう自我の呻きの認知が、同時に「愛」を主題にする映像群に流れ込んでいったのだろうか。
本作の「女王」は、この男の実母をモデルにしていると言うより、この男自身の「内なる『愛』」のイメージラインの実験的模索のような気がしてならないのである。
(2010年5月)
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