2010年6月23日水曜日

ハリーとトント('74)   ポール・マザースキー


<「関係の達人」としての「英知」溢れる「人生の達人」>



1  「生活知」と「人生知」



「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)によると、「老年期」のステージにおいては、「統合」と「絶望」という二つの内面世界の葛藤があり、その葛藤をバランス良く上手に克服して到達した、「総括的展望」としての「英知」の獲得が、この時期での重要な人生学的テーマになると言う。

「英知」とは、「深く物事の道理に通じる才知」であると言われるものだ。

この「英知」を確保することで、「驚くほどの復元力がある。予後は、希望的である」とエリクソンは説明した。

エリクソンによる精神分析の対象人格になったのは、イングマール・ベルイマン監督の「野いちご」の主人公のイサク・ボールイ博士である。

私は、この「英知」を「人生知」と呼んでいる。

「下らんことは山ほどおぼえている。そのときは毎日を生きていくために知っておかなければならないが、あとになったら何の役にも立たんようなことで、今でも頭の中はいっぱいだよ」

これは、三木卓の「野いばらの衣」(講談社刊)の中の言葉。

要するに、生活で不要になれば、それに代わる「知」によって補填されていく類の「知」について、「野いばらの衣」の登場人物は、「何の役にも立たんようなこと」と言っているのだ。

私は、それを「生活知」と呼んでいる。

三木卓
この「生活知」と違って、「常に道理に通じる被写界深度を保持することで、人の心を枯渇させることのない知」こそ「人生知」である。

底抜けのオプチミズムで生きてきた人にも、思いも寄らぬ人生の危機が訪れる。

局面ごとの変化に翻弄され、あまりに不慣れな事態に危機が増強され、意志による決定的打開が困難になるかも知れぬ。

時間に震える自我の悶絶が中和し、でき得れば組織化した観念となって、危機に立ちはだかるような知が欲しい。

決定的な事態でこそ役に立つ知が、「人生知」であると言っていい。

「ハリーとトント」という映画を観ていて、主人公のハリー老人が開いて見せた生き方は、既知、或いは、未知なる他者に対するその包括的な優しさの中においても、凛とした姿勢・態度を崩すことのない表現様態そのものだった。

その表現様態を支え切る根幹に、彼の人格に内化された「英知」=「人生知」が太く根を張っていたことを感受した次第である。

まさに、ハリー老人の如き年輪の重ね方こそ、「老い」の日々の一つの理想形の発現ではないかと思った次第である。



2  「関係の達人」としての、英知(人生知)溢れる「人生の達人」



「私は苦痛が怖い。できれば、ぽっくり死にたい。苦しまずにな。アニーは苦しんだ。苦痛は死より酷い。見るのが怖かった。アニーは耐えた。愚痴も言わず・・・他人の苦痛を感じることはできん・・・」

これは、亡妻を悩ませた身体的苦痛について、猫のトントに語った、72歳のハリーの言葉。

「私は過去を覚え過ぎている。友だちは皆、あの世に行ってしまった・・・」

これは、シカゴで独居する娘のシャーリーに、ハリーが語った言葉。

既にハリーは、公園のベンチで談笑する、ポーランド出身の友人を行路病者のように喪っていて、家出娘の誘いで会いに行った、認知症を患う初恋の女性ジェシーは、ハリーを正確に特定できないでいた。

とりわけ、引き取り手のないポーランド出身の友人の遺体を、警察に確認しに行ったハリーが、映像の中で唯一見せた涙は、ハリーの「老い」が抱える心象風景を問わず語りに開いたもので、印象深いシーンだった。

アパートから強制的に立ち退きを迫られ、拒絶するハリーの「抵抗」に顕著に表れているように、「老い」とは、拠って立つ「価値観」とか「生きがい」よりも、「現在」の自己が置かれる環境下で、自分の居場所をいかに見い出していくかという「居がい」こそ、何より重要であることを教える映画でもあった。

その辺りの描写は、映像冒頭のシークエンスで、様々な生活風景を見せる老人たちのスケッチに繋がるものだったと言えるだろう。

然るに、老人特有の頑迷固陋(がんめいころう)さを持ちながらも、部分的に厄介なその類のメンタリティと共存するかのように、英知(人生知)溢れるハリーの生き方を貫流する特色を列記すれば、「バランス感覚」、「偏見からの解放」、「適正距離感の確保」、「自立心と矜持」という風に説明できるだろう。

簡単に、例証してみよう。

長男のバート一家と同居しても、長男の嫁から厭味を言われる前に、直ちに、シカゴに住む長女のシャーリーを訪ねて行く行動の迅速さ。

そして、その長女とも昔から相性が悪く、長期の同居による相互の人格が蒙る心理的リスクを考慮して、長女から邪険にされなくとも、まるで「飛ぶ鳥跡を濁さず」の潔さで、寒冷のシカゴを去っていく。

ジンジャーとノーマン
家出娘のジンジャーと、長男の次男である変り者のノーマンから、一緒にコンミューンへ行こうと誘われる程の好々爺ぶりを見せても、「当分の間、独りでいたい」と言って断った挙句、一人旅を楽しむのだ。

更に、高級娼婦の誘惑に、「役にたたんだろう」と躱(かわ)す所作は、如何にも手慣れていて、相手を非難することもなく、熟達した対話者の技巧を見せる。

圧巻なのは、末っ子のエディの下に身を寄せた際のハリーの態度である。

不動産業が失敗し、妻とも離婚をしていて、老父の前で泣きだすエディに対して、こう言い切ったのだ。 

「しっかりしろ。また、運が向いてくる。お互い甘えてはいかん。自分で立ち直れ」

激励・叱咤の思いをストロークしつつ、この老人は、「自分で立ち直れ」と放って見せるのである。

「一緒には暮らさないが、金は出す」

如何にも末っ子然とした甘えを見せる相手に、ハリーが結んだこの言葉の中に、本作の矍鑠(かくしゃく)たる老人の生き方のエッセンスがある。

以上のエピソードに集中的に表現された、ハリーの凛とした姿勢・態度の内に、「バランス感覚」、「偏見からの解放」、「適正距離感の確保」、「自立心と矜持」という、彼の英知(人生知)溢れる「人生の達人」ぶりが窺われるだろう。

「人は皆、それぞれ違う」

これも、ラストシーン近くで放った老人の言葉。

「素晴らしい人生だった」

これもそうだ。

但しこれは、家出少女のジンジャーに、自分の過去を聞かれた際に、明瞭に答えたもの。

この言葉に集約されているように、英知(人生知)溢れる「人生の達人」は、「関係の達人」だったということ。

ポール・マザースキー監督

それに尽きるだろう。



奇麗事の言辞に全く流されず、取り立てて説教臭いエピソードを挿入することなく、淡々と物語を繋ぐ映像構成の完成度は、アメリカ映画らしい臭気を抑制的に放っていて、観る者の心を自然に浄化させるバイプロを置き土産にしていった。

素晴らしい映像だった。


(2010年7月)

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