<「服従と相対的秩序」から「強制と絶対的秩序」へ ―― 「風景の変容」の物語構成>
序 「チェコスロバキア併合」と「ヴァンゼー会議」
「1939年スロバキアに共和国が誕生。親ナチス・ドイツのテイソ政権はユダヤ人迫害を積極的に推進した」
これが、映像冒頭のキャプション。
北部ハンガリーを収奪して、既にチェコスロバキアという国家が独立していたが、1939年段階において、ナチス・ドイツの支援によって、ヨゼフ・ティソを国家元首とするスロバキア共和国が誕生した。
世に言う、「チェコスロバキア併合」である。
映像は、「チェコスロバキア併合」によるナチス・ドイツの支配下にある、テイソ政権のユダヤ人迫害の前夜から開かれていく。
因みに、この年の初頭、ベルリン郊外のヴァンゼー湖の畔で、ナチスの高官が出席して開かれた会議において、ユダヤ人の「最終的解決」が協議され、決定された。
所謂、「ヴァンゼー会議」である。
ヴァンゼー会議の開かれたヴァンゼー別荘(ウイキ)
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1 「大通りの店」と、善良なる貧乏大工
映像の冒頭は、大通りを長閑に歩く人々の平和の賑わいを映し出すシークエンス。
軽快なBGMに乗って、コメディの筆致で進行する映像の印象は、眩い陽光の下で呼吸を繋ぐ人々の日常性が切り取られていて、本作の風景の変容を想像させる何ものもなく、観る者に哄笑を約束させるイメージを残していた。
コメディの筆致は、老婆からもらった亡夫の黒いスーツと、山高帽子を被る主人公の絵柄の内に垣間見えていた。
その絵柄だけを見れば、ちょび髭なしのチャップリンを模したかのような印象を与える、件の主人公の名はトーノ・プルトコ。
貧乏大工である。
トーノは、ドイツに加担してユダヤ人の財産没収を遂行する義兄のコルコツキー(トーノの妻エベリーナの、実姉ローザの夫)に、「これからは仲良く支え合っていこう」などと言われて、大通りに面する、ユダヤ人老婆の経営している店を管理する権利を与えられた。
「君がファシスト党に加わらないから、私は出世しないのだ」
ここで言う「ファシスト党」とは、スロヴァキア・ファシスト党のこと。
ともあれ、そんな厭味を言う義兄に恨みを持つが故に、トーノ本人の歓喜がストレートに表れなかったが、明らかに、妻エベリーナのはち切れんばかりの歓心を買って、その夜は前祝いの宴を催すことになった。。
しかし、ラウトマンという名の老婆がいるだけの「大通りの店」に出向いたトーノは、痛風を病み、近所のユダヤ人コミュニティの世話を受けている老婆の店が、満足に商売をしている気配がない事実を知り、悄然とするばかり。
「バア様は、戦争中だってことを知らないんだ」
おまけにトーノは、ユダヤ人コミュニティの組織のリーダー(擁護者)から、そんな情報を聞かされる始末。
老婆ラウトマン(左から二人目) |
更に、安息日には決して店を開かない老婆ラウトマン。
「何もかも店を奇麗にします」
トーノは、ラウトマンにそう言うしかなかった。
彼としては、自分の権利が担保されている店を繁盛させて、大工稼業の身入りの少なさを補いたいのだ。
「あなたの人柄を見込んで、報酬をお支払いします」
これは、ユダヤ人人コミュニティの出納係(ラビ)に言われた言葉。
根っからの善良さを見込まれたトーノは、まもなく出納係から現金を受け取って帰宅した。
妻に自慢する夫。
トーノも、常日頃口喧しいエベリーナに対する「体面」だけは、どうにか保たれて安堵するのである。
しかし彼は、ユダヤ人コミュニティからの「報酬」の事実は、最後まで妻に秘匿するのだ。
それが、彼の悲劇を加速する因子になっていくのだが、当然の如く、本人の意識には時代の尖った近未来の恐怖のイメージが捕捉されることはなかった。
2 「アーリア化条例」という、風景の劇的変容が襲いかかってきて
「恐ろしいことが起こりそうだ」
「恐ろしいことって?」
「昨夜、駅で見たんだよ。親衛隊の大群だ。ユダヤ人を連れに来た」
「ただの噂だろ」
この会話から、物語の風景の変容が劇的に開かれていく。
報告者は、ユダヤ人コミュニティの組織の外部リーダー。
報告を聞いても、簡単に信じようとしない男はトーノ。
しかし、この報告は現実のものとなっていく。
ヒトラーに妥協したミュンヘン会談を終えた英首相チェンバレン(ウイキ)
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スロヴァキア・ファシスト党が遂行する「アーリア化条例」という、ユダヤ人の財産を接収する法の制定により、トーノの知り合いのユダヤ人たちが次々に召喚されていった。
「どうしてこんなことが起こっているのか」
自分の力でコントロールし得ない異常な現実の出来に、トーノの心理はダッチロールするばかり。
首にステッカーを掛けられ、組織のリーダーは逮捕され、連行されていく。
その結果、ユダヤ人人コミュニティからの「報酬」の停止という事態を、彼は受容するしかなかった。
その苛立ちを抱えて帰宅した彼に、彼の妻は、「店の売上金」を持って来なかった不満を吐き出した。
その時だった。
穏健なトーノが、妻のエベリーナを繰り返し殴打したのだ。
それも、明らかな暴力の行使だった。
信じ難い夫の暴力に、ひたすら赦しを乞う妻の悲哀と、トーノの心情の孤立感が際立つシーンである。
風景の変容を象徴する、あまりに痛々しい光景だった。
3 巧みな映像の、巧みなラストシーンによる決定的な括り ―― 「幻想のラストシーン」の哀切さ
「大通りの店」の前の広場に、「勝利の塔」の建立が完成された。
それは、「悪の象徴」のイメージに限りなく近い建造物である。
「悪の象徴」のイメージ通り、「勝利の塔」の建立に合わせるかのように、ユダヤ人の連行が始まったのだ。
東欧諸国に住むアシュケナージ系ユダヤ人が、大通りの広場に集められた。
そこで、本人確認の事務作業が施行されていく。
その声を店の中で聞くトーノの不安心理は、極限まで高まっていく。
「あんたを助けたいだけなんだ」
「今日限りクビよ。顔も見たくない」
トーノ(右)とラウトマン |
安息日に店を開けたことに対して、ラウトマンはトーノへの「解雇通告」を出す始末。
未だ彼女は、風景の変容によって、自らの身に危機が及んでいる現実が把握できないでいた。
トーノは酒で不安を鎮めることで、現実の恐怖から逃避しようとしていく。
まもなくラウトマンは、外の広場で進行する異様さに気付くが、時既に遅かった。
彼女を助けようと、必死に説得を繰り返していたトーノの心がすっかり委縮し、自己防衛に傾斜していったのである。
「年よりはすぐ帰してくれる・・・」
そう言って、トーノはラウトマンに外に出るように促すのだ。
外に出そうとする男と、自宅兼任の小さな店内を逃げ回る老婆の構図は痛々しい程だった。
「殺されるの?」
そう言って、自分の部屋に籠る老婆。
小さな店内での騒ぎとは無縁に、広場でのユダヤ人の連行は全て終わっていた。
ラウトマンは、「アーリア化条例」の犠牲の対象から洩れていたのである。
「済みませんでした。ただ怖くて・・・もう心配ない」
最悪の状況から解放されたトーノの心に、理性的判断が復元したようだった。
彼は自分の振舞いを深く反省し、陳謝するだけの余裕を持ち得たのである。
しかし、悲劇はその直後に出来した。
スロヴァキア・ファシスト党に属する義兄が店に近づいてきたとき、トーノは慌てて老婆を小部屋に押し込めたのだ。
強引に老婆を押し込めた結果、高齢のラウトマンが絶命してしまったのである。
結局、義兄は店を訪ねることはなかった。
小部屋にいるはずのラウトマンに声をかけても全く反応がなく、慌てて小部屋を覗くや、そこに動かないで横たわる老婆の異常に気付いても、もう何もかも手遅れだった。
最も遭ってはならない事態が出来し、今や誰もいない暗い店内に、茫然自失のトーノが一人置き去りにされた。
善良であるが故に気が弱く、罪悪感をダイレクトに感受しやすい彼にとって、残された選択肢は限定的であっただろう。
店の出口を密閉した挙句、縊首する以外になかったのかも知れない。
映像は、最も悲惨なそのカットを映し出さなかった。
彼が縊首するために用意された椅子が倒れたことで、観る者は、その密室で出来した状況を理解するに至るのだ。
そして、映像がその後に用意した「幻想のラストシーン」の哀切さは、観る者の辛さを希釈し得る浄化力の欠片にも足りなかったであろう。
突然、モノクロフィルムはハレーションを起こしたかのように白化し、露出をオーバーにしたハイキーショットが作り出す陽光眩い反射の中で、スローモーションで動いていく二人の人物の、「勝利の塔」なき「平和な大通りの散歩」を丁寧にフォローしていくのだ。
せめてもの「軽快感」を強調した「幻想のラストシーン」の哀切さは、余計その濃度を増幅させていくのである。
巧みな映像の、巧みなラストシーンによって、観る者の記憶に深々と刻まれる、決定的な括りがそこにあった。
1939年3月15日・チェコスロバキア共和国の消滅・エミール・ハーハとヒトラー(ウイキ)
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4 「服従と相対的秩序」から「強制と絶対的秩序」へ ―― 「風景の変容」の物語構成
本作は、「風景の変容」の物語構成によって成功した大傑作である。
「風景の変容」」 ―― それは、大きく2部構成によって成っている、と私は見ている。
①「服従と相対的秩序」と、②「強制と絶対的秩序」の2部構成である。
「服従と相対的秩序」、「強制と絶対的秩序」という把握は、いよいよ鋭角的に尖っていく時代に呼吸する人々の、その時代の閉塞感に対する客観的風景を言い現わしたもの。
①では、「大通りの店」の前の広場に、「悪の象徴」である「勝利の塔」が建立され始めていて、未だ広場の前を往き交う人々の表情には普通の生活の温もりがあり、それまでとさして変わらぬ日常性の継続が維持されていた。
しかし、ナチスの黒々とした権力の陰翳もチラホラ垣間見えていて、明らかにナチの傀儡であるスロバキアの「ファシスト党」の歩行に遠慮げな人々の「服従」が身体化されていた。
虐殺された子供達の残した絵で有名な、チェコ北部のテレジン強制収容所の内部(ウイキ) |
要するに、時代が作り出した「相対的秩序」の空気感が漂流していたのである。
しかし、物語が②に踏み込むに至って、「風景の変容」が顕在化する。
ユダヤ人の強制連行を合理化した「アーリア化条例」の法制化によって、「大通りの店」の前の広場の風景が一変するのだ。
具体的には、ユダヤ人コミュニティの擁護者の、「恐ろしいことが起こりそうだ」というトーノへの報告のシーン。
ここから、全てが変容していく。
この辺りから、軽快な音楽の中に、観る者の聴覚に不快感を抱かせる、機械音の如き不気味な旋律が挿入されていく。
また、「悪の象徴」である「勝利の塔」が広場に完成されると時を同じくするように、広場の前を往き交う人々の表情から普通の生活の温もりが削り取られ、そこに非日常の空気感が漂流するに至るのだ。
そして、この2部構成の内に、主人公のトーノの関与の視座を付与すれば、「ユダヤ人コミュニティとの交叉と限定的援助」と、「ユダヤ人コミュニティの解体と自己防衛」という風に分けられるだろう。
「ユダヤ人コミュニティとの交叉と限定的援助」が、①の「服従と相対的秩序」に対応し、「ユダヤ人コミュニティの解体と自己防衛」が、②の「強制と絶対的秩序」に対応する。
普通の生活の温もり感が保持されていた映像前半の物語の基調において、痛風を病み、耳が遠いユダヤ人老婦人、ラウトマンを援助する善良なトーノの人柄は、本来自分の管理下に置かれている店にも関わらず、老婦人を世話する近隣のユダヤ人コミュニティの組織から「報奨金」を貰い、それを妻に得意げに見せる振舞いの中に集中的に表現されていた。
エルマール・クロス監督 |
ところが、「風景の変容」によって、俄に映像のトーンは厳しいリアリズムの様相を呈していく。
観る者の緊張感を一気に加速させる、この一連のシークエンスの流れの中で、私たちは、物語の二人の主要な登場人物の関係の不具合さに苛立ちを覚えていくだろう。
なぜなら、耳が遠いという致命的なハンデを持つばかりか、「戦争中だってことを知らない」ラウトマンに対して、トーノが「あんたを助けたいだけなんだ」と幾ら叫んでも、彼女からの反応は、「今日限りクビよ。顔も見たくない」などという、交信不能の関係様態を露呈する始末だった。
大通りのユダヤ人の連行が始まっても、未だ事情が呑み込めないラウトマンへの苛立ちの故、結局、トーノは酒で不安を鎮める以外に為す術がないのだ。
詰まる所、日々の交流と援助を通して、より深化しつつあると思われた、この二人の関係濃度は、常に、「共通言語」を共有し得ないというハンディによって希釈化されてしまうのである。
漸くラウトマンが、事態の甚大さに気付いても、時は既に遅かった。
トーノはすっかり酩酊し、理性的な判断を下せないような極限的な状況に捕捉されてしまっていたからだ。
極限状況下に追い詰められた切迫感によって、善良な彼の人格が対処し得る能力の範疇を超えてしまっていたのである。
彼は今や、自己防衛に走る以外なかった。
ヤン・カダール監督
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この一連のシークエンスの圧倒的な緊張感は、本作を根柢において支え切っていた。
ユーモアの要素が映像から完全に剥落したとき、もう自分の身を守ることしか考えられないシビアなリアリズムが、後半の映像を貫流するのである。
この辺りの心理描写は圧巻だった。
映像がラストで見せた幻想の散歩のシーンは、悲劇に終わる物語の痛々しさを、遂に中和化することが困難であるということを、観る者に決定的に印象付けたであろう。
かつて、この種の映像に出会ったことがないと思える程、「風景の変容」による映画の構成力の見事さに震える思いだった。
(2010年7月)
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