2010年7月24日土曜日

ナチュラル・ボーン・キラーズ('94)   オリバー・ストーン


<アナーキーに暴れ捲る映像を支配し切れない粗雑さ>



1  思考停止の痼疾の如き裸形の非武装ぶりが露呈されて



この映画は、思考停止の「本格社会派」のオリバー・ストーンらしい本領を発揮した究極の愚作。

その特徴は、以下の2点に集約される。

その1。

人間の問題を押し並べて「社会」、「制度」、「システム」の問題とする強引な思考様式。

本作では、メディアの欺瞞性が中枢の「悪」の温床になっていて、そこに刑務所の権力的監視システムの「悪」や、権力の遂行者としての悪徳刑事や、サディスティックな刑務所長の「悪」が絡むというもの。

その2。

そのことを声高に主張するために、事態の本質に関わるエピソードばかりか、枝葉末節とも思えるジャンクな描写をも挿入してしまうので、殆ど「何でもあり」の様相を呈してしまうという厄介さ。

以上の基幹文脈に則って、驚くほど荒唐無稽な物語を構築していくので、肝心の「主題提起力」と「映像構成力」との均衡が脆弱になりやすく、且つ、ブラックユーモアによって巧みにまとめ上げる技巧が欠落するから余計に始末が悪かった。

件の「本格社会派」は、どうやら「真っ向勝負」を自負する球威逓減のストレートしか投げられないばかりか、主題に関らない枝葉の浮遊の如きジャンクな描写に対して、表現者としての覚悟を括って、大鉈を振るう抑制系の能力をも持ち合わせていないのだろう。

自分の内側で湧昇流のように湧出するイメージを作家的才能と勘違いしてしまいやすいのか、それらの「滋養」の澎湃(ほうはい)を悉(ことごと)くフィルムに焼きつけていくから、本作はまるで、オールカマーの表現フィールドの陳列館の様相を呈してしまったのだ。

時計じかけのオレンジ」より
時計じかけのオレンジ」(1971年製作)のような、些か過剰だが、それでも「主題提起力」と「映像構成力」との均衡をギリギリに保持しつつ、且つ、下品ながらブラックユーモアのセンスによって自壊の危機を防ぎ切った技巧にも届かない粗雑さに、不快感のみ残されたというのが本音。

要するに、実際は様々に問題が複層化し、その現実の総体を把握するのが容易でないに関わらず、社会を騒がせる如何なる問題をも解析し、裁くことが可能であるという傲慢さが勝ち過ぎるのか、声高な映像作家の、剛腕を自称するようにも見える投手の、その球威が見かけ倒しになったとき、思考停止の痼疾(こしつ)の如き裸形の非武装ぶりが露呈されてしまったのである。

本作は、その類の映画の典型的な一篇だった。



2  ゲームのように累化された集合としての「ナチュラル・ボーン・キラーズ」



憤怒にも届かない不快感のみが残された本作への批評には気乗りがしなかったが、その不快感の内実だけでも簡潔に言及しよう。

まず、本作の構造は、メディアの欺瞞性に象徴される、中枢の「悪」への社会派的な視座による把握がある。

マロリー(左)と、メディアの欺瞞性の象徴ウェイン・ゲール(右)
この把握を大前提にして立ち上げられた、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」がいた。

しかし、この大前提に合わせて身体化された、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」の物語で拾われる凶悪犯罪の前半の描写では、犯罪の異常な尖り方を印象付ける効果を優先することで、実際は「タクシードライバー」(1976年製作)のように、手が吹き飛び、血飛沫が飛び散るという「スーパーリアリズム」的な描写は希釈化されていく。

刑務所暴動のライブ中継におけるグロテスクの極致の、その見え透いた布石とも思える前半の犯罪描写は、まるでゲームのように累化された集合でしかないだろう。

犯罪そのものにリアリティを持たせる必要がないからである。

なぜなら、ミッキーとマロリーは、どこまでも「ナチュラル・ボーン・キラーズ」の象徴的記号でしかないからだ。

象徴的記号に対して、現実感覚の貼り付けは不要なのである。

マロリー(左)とミッキー(右)
恐らく、こういう映画が最も性質(たち)が悪い。

その暴力性の過剰さによってレーティング制度を設けられたばかりか、本場アメリカで民事訴訟が起こされたクライムアクションゲームである、「グランドセフトオート」のようなゲーム感覚の乗りで、抑性機構を呆気なく突き抜けたままローリングさせてしまうからである。

だからと言って、「上映禁止」という厳格なバリアの構築を主唱する者ではないが、しかし、鑑賞後の感想は、エンターテイメントの消費感覚にも届かない愚作と評する外になかった。

そこには、ブラック・ユーモアのセンスすら欠落していたからである。



3  アナーキーに暴れ捲る映像を支配し切れない粗雑さ



ゲーム感覚の乗りで進軍する映像が決定的に動くのは、メディアの欺瞞性と権力機構の爛れ方を射抜くかのような、刑務所でのシークエンスが開かれてからである。

しかし、そこでの血飛沫が飛び散る過激描写とは裏腹に、その無秩序なシークエンスでもなお、皮膚が焼かれる精緻な現実感覚というイメージとは無縁な、言ってみれば、単なる「性」と「暴力」に関わる過激ムービーのカテゴリーに収斂される何かが延長されていた。

その文脈において、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」の象徴的記号は生き続けていたと言えるだろう。

但し、その象徴的記号の剝落と同居する無秩序もまた、この映像は厚顔にも晒すに至るから厄介なのだ。

具体的に書いていく。

映像後半に登場する、ゴールデングローブ賞の受賞を自慢する傲慢なTV番組キャスターのウェイン・ゲールが、遂に拘束されたミッキーに対して、獄内インタビューをライブ中継させるシーンがあった。

「マスコミは毒の雨を降らせる。暴力が恐怖を売っている」

これは、インタビューでのミッキーの毒気に充ちた言葉。

ウェイン・ゲール(左)とミッキー(右)
「俺は君が嫌いじゃない。だけど君を殺さないと、俺たちの意味がなくなる。君が象徴するものを殺すのが俺たちの主義なんだ」

これは、インタビュー後、「殺しまくろうぜ!」と言い放ったウェイン・ゲールに対して、ラストシーン近くでミッキーが指弾したもの。

「ありがとう。世界中のバカが夢中で見たぞ」

これは、インタビュアー直後のウェイン・ゲールのあからさまな反応。

何のことはない。

これが、本作を貫流するメッセージと言っていい。

「『アンチ・メディア』という、特定的な価値観を内包する凶悪犯」 ―― まさに、その構図がここにある。

ミッキー
ところが、同じインタビューで、ミッキーは「殺人こそが純粋な行為」と嘯(うそぶい)いていたのだ。

こんなことも言い放っていた。

「ウチは暴力的な家系なんだよ。だから俺は、生まれつきの人殺しって訳さ」

そんな男が、善意で泊めて、食べ物を恵んでくれた人まで殺す。

「純粋殺人犯」を自称する男だから、当然だろう。

彼らの「殺人」をフォローしていく限り、「ただ、そこにいた」ということが、「純粋殺人犯」の餌食の対象人格になってしまうのだ。

ところが、この「野蛮な行為」はマロリーを怒らせる原因にもなり、本人はインタビューの場で、この「インディアン殺し」を悔いる言葉をも刻んだのだ。

ここには、精神鑑定を全く受けることのないミッキーの自我の内に、この男相応の倫理観が窺える証左でもあるというのか。

このインタビューでの発言は、テレビ視聴者を意識したミッキーなりのブラフであるとも見えるが、しかしその直後の男の行動を見る限り、寧ろ、メディアの向こうに好奇心で覗き見る無数のテレビ視聴者をも弾劾する思いが、男の中に読み取れるのだ。

この矛盾に満ちたミッキーの行動は、実は、理念系先行の作り手の矛盾を顕在化させるものである。

テーマ性に張り付く意識に寄せて物語を作り上げていった結果、「一定の倫理観や特定的な価値観を内包する凶悪犯」という象徴的人格像の縛りから解放されなくなってしまったのである。


思うに、他者の「痛み」を思い遣るに足る倫理感覚に心が振れたり、特定の価値観に拠って立つ、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」としての「純粋殺人犯」とは、一体何者なのか。

それは、一つの人格の内に共存するであろう、「優しさ」と「残酷さ」という心理学の定番的範疇を超えているが故に読解困難のトラップに陥るのだ。


あらゆる縛りから解放され、刑務所脱獄をも夫婦生活を続け、何人もの子供を持つ家庭を構築する「純粋殺人犯」の軌跡は、当然の如く非現実的で荒唐無稽だが、しかし社会が分娩した「絶対悪」=象徴的記号として継続的に生きるには、脱獄後の生活臭を帯びたラストシーンの軟着点における振舞い自体、既に自家撞着と言っていいだろう。

O・J・シンプソン、白頭ワシ(アメリカの国鳥)、ネイティブ・アメリカン、DV、核実験、等々のカットを繋ぐ、このラストシーンが意味するもの ―― それは、傲慢なテレビキャスターを屠った行為自身に集約される、「最後の殺人」としてケリをつけた「ナチュラル・ボーン・キラーズ」の、あまりに確信的な行動様態であり、詰まる所、それは、最後まで映像を支配し切れない作り手の基幹メッセージの念写ということに尽きる。

それは、シリアルキラーによる「純粋殺人」によって、象徴的記号を剝落させた後の「幸福家族」の構築に流れるというパラドックスの含意を、作り手のメッセージとして受け取るには相当程度無理がある。

この間の映像の暴れ方のアナーキー性が、単なる「純粋殺人犯」の「確信性」とは完全に切れていたからだ。

オリバー・ストーン監督(ウィキ)
はっきり言えば、それは単なるブラック・ユーモアをも届けない三流のエンターテイメントの世界でしかなかった。

発射時の強力なエネルギーで弾頭変形を来たす、44マグナムの殺傷能力の威力を梃子にしながらも、その内実は張り子の虎でしかなかった、映像構築における作り手の支配力をも及ばない粗雑さだけが印象付けられてしまうのだ。

繰り返すが、この作り手は、アナーキーに暴れ捲る映像を支配し切れていないのである。

つまり、映像の中でアナーキーに暴れ捲る無秩序を抑え、それを自分の正当なイメージラインの枠内で処理するルールの内に支配し切れていないのだ。

「主題提起力」と「映像構成力」の均衡を自壊させた残骸だけが、観る者の視覚をアナーキーに撃ち続けてしまったのである。

この視覚の氾濫に蠱惑(こわく)された鑑賞者だけが、「カオスの中の鋭利な一撃」などという訳の分らない評価を下すに足るだけの映画 ―― それが本作だった。

(2010年7月)

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