2010年8月17日火曜日

ぼくの伯父さんの休暇('52)      ジャック・タチ


<「ストーリー性の欠如」と「ペーソス」の剝落―「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」の洪水の宿命>



1  「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る「笑い」の困難さ



この映画を観ていて、つくづく感じ入ったことが2点ある。

一つは、「チャップリン映画」が如何に抜きん出ていたということ。

もう一つは、人を「笑わせること」が如何に難しいことであるかということ。

且つ、「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得ることが如何に困難であるかということだ。

後者から書いてみる。

その意味で、本稿はオーソドックスな「映画評論」にはならないだろう。

人間の情感系に訴える様々な方略において、そこに個人差があれども、経験的に言えることがある。

まず、「喜怒哀楽」というけれど、人間の情感系に訴える方略の中で、恐らく、人を「怒らせること」が最も容易だろう。

これについては、殆ど説明不要であると言っていい。

その次に容易なのは、「哀しませること」。

そこに一定の感情関係が必要とされるから、相対的に、「怒らせること」より難しいだろうというレベルではないかと思う。

その次は、「感動させること」

人を「感動させる」には、相手の情感系の「ツボ」に訴える方略が求めらるが故に、それを「映画」のような表現媒体で具現するには、作り手側の様々な仕掛けが必要とされるからである。

しかし、現代社会のようにシネコンに足を運ぶ観客には、初めから「感動」を求める心の構えができているので、作り手側の様々な仕掛けも、それほどの「超絶的技巧」のハードルを求められないで済むだろう。


「チャップリンの独裁者」より(ウイキ)

ところが、人を「笑わせること」は、たとえ、それを求めて来る人たちによって目的が特定化されていたとしても、却って、求められるもののハードルが高くなることで、その人たちの「笑い」の「ツボ」に嵌るものを具現するのは難しいと言わざるを得ない。

しかも前述したように、「笑い」には「時代の限定性」の壁という問題がある。

それを突き抜けて、「普遍性」を持ち得ることは相当に困難である。

例えば、「お笑いブーム」と言われるこの国のバラエティ文化全盛の状況下では、殆どの「笑い」は「一発芸」的様相を呈していて、まさに消費文化の中で蕩尽されたら、呆気なく賞味期限が切れてしまうという短いスパンで動いているから、尚更大変であるだろう。

因みに、「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る「笑い」の供給者について言えば、私の印象を書けば、以下のような著明な芸人やコメディアンが挙げられる。

古今亭志ん生(5代目)、渥美清、桂枝雀(2代目)、更に、昨今の「芸人」で言えば、バカリズムである。

それぞれの理由を、簡潔に書いていく。

古今亭志ん生(5代目)と渥美清は典型的なフラを持つ芸人・コメディアンであり、その独特の個性によって余人をもって代え難いキャラ性の故、「一言喋っただけで笑ってしまう」タイプの天才肌が醸し出す、決定力に充ちた「笑い」の供給者。

とりわけ、古今亭志ん生の「火焔太鼓」は、永久保存の価値を持つ絶品の演目で、他に類例がないほどだ。

「爆笑王」という異名をとった桂枝雀(2代目)は、「緊張の緩和」理論によって「笑い」の心理的メカニズムを追求した結果、オーバーアクションと抑揚の利いた語りを特徴にした噺家で、「時代の限定性」の壁を突き抜ける際(きわ)の、殆ど「普遍性」を持ち得る「笑い」に近い表現を獲得したと思うが、恐らく評価は分れるだろう。

バカリズム
ピン芸人のバカリズムは、その抜きん出た発想力によって、「現代の笑い」の革命児であると私は考えている。

とりわけ、「トツギーノ」や「都道府県の掴み方」などのフリップ芸の斬新さは際立っている。

更に、「泣き男泣く」や「贈るほどでもない言葉」などのコント芸では、その抜きん出た発想力の凄みに言葉を失うほどである。

しかしバカリズムの革命芸が、「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る「笑い」として永久保存の価値を有するか否かについては不分明である。

単に、先鋭的な「笑い」の供給者として、「時代の限定性」のうちに消費されて消えていかないとも限らないからである。

それほどに、「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る「笑い」を供給していくことは至難であるということだ。

ここから映画の話に入ろう。

そこで、「チャップリン映画」のこと。

明らかに、「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る「笑い」を供給する映画の構築者こそ、「喜劇王」チャールズ・チャップリンその人である。

山高帽と燕尾服を着用して、ブカブカのズボンを履き、手にはステッキを持つその姿形は、紛れもなく、「全身プロレタリアート」の象徴としての放浪者。

赤貧洗うが如しの幼少年期の生活を、そのまま延長させたかのようなサイレント映画での、「全身プロレタリアート」の出で立ちが一人の天才コメディアンを輩出したのである。

鼻の下にひと際目立つちょび髭を付け、160センチ余の体躯をフル稼働させながら、爪先を外側に向けたドタ靴を履き、ヒヨコのようにチョコチョコと進む独特のガニ股歩きは、それ自身充分に、一つの完成形のオブジェであると言っていい。

チャップリンの黄金狂時代」より
女性にはメロメロのキャラを持つ、「全身プロレタリアート」が構築した奇跡的傑作こそ、「チャップリンの黄金狂時代」(1925年製作)。

天候不順下で敢行された大規模ロケーションの中で完成させた「黄金狂時代」には、しっかりとしたストーリーラインのうちに、観る者に訴える力を持つ「ペーソス」が含まれていたが故に、「自在なる身体表現としての『チャップリン』」に集中的に被せられたイメージの躍動感は、「時代の限定性」の壁を突き抜けて「普遍性」を持ち得るに至ったのではないか。

「笑い」と「ペーソス」と「ハッピーエンド」というコメディの常道を構築した本作こそ、狡猾さとは切れた「感動」をも醸し出す、サイレント映画のジャンダルムの輝きを放っていたと言えるだろう。

それは何より、「笑い」と「ペーソス」の自然の溶融を共存するコメディラインであったが故に、21世紀を超えても求められる「普遍性」を勝ち得たのである。

その最高峰が、「チャップリンの黄金狂時代」であった。

そう思う。



2  「ストーリー性の欠如」と「ペーソス」の剝落 ―― 「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」の洪水の宿命



オーソドックスな「映画評論」にはならない拙稿になってしまったが、本作を観ていて、少なくとも私の場合、高々、90分に満たない映画ながら、「しみじみとしたコメディの味わい」よりも、疲労感の方が先行してしまって、およそ、それを求める者の満足感とは無縁な感情のうちに氷結されてしまったのである。

なぜか。

それを考えてみた。

私なりの結論は、以下の通り。

本作で特徴づけられたジャック・タチのコメディラインは、「非攻撃性」、「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」、「ストーリー性の欠如」という文脈で把握できると思う。

ノスタルジックなフランスのバカンス風景がコメディの借景になっているが、私から言わせれば、フランスの海辺のリゾート風景を格好のステージにしただけで、主人公のユロがそのステージでバカンスを愉悦する必然性は殆ど感じられないのだ。

だからと言って、日常的なストレス解消という目的を持つ、特化された人々のバカンスへの風刺を狙った作品として構成されていた訳ではない。

せいぜい、観る者の郷愁を誘(いざな)う映像的効果のうちに、文化的に定着したバカンスに集う南欧人等の至福の時間を、普通の感覚で共有できない変人が小さな風穴を空けることで、「バカンスを愉悦する緩やかな時間の流れ」と「全身マイペースで世俗を漂流する者のみが占有する時間の流れ」が、対極的な構図として提示されていただけの印象しか受けないのである。

そして何より、私にとって違和感を感じた点は、本作には「ストーリー性」がほぼ完全に欠落していたことだ。

その結果、「非攻撃性」の緩やかキャラの代表格のような主人公が、広い海辺のステージにおいて、「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」を執拗に連射して止まないコメディ作品になってしまった。

例えば、主人公が逃避行で乗ったボートが真っ二つに折れたり、およそ合理性のない機械的なサーブによるテニスプレイを駆使して、パートナーの意欲を阻喪させたり等々のシーンを観る限り、「これでもか」という作り手の「アイディアの洪水」に、些か辟易気味となったのは紛う方ない率直な感懐。

それらの「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」の洪水が、「笑い」を求める構えを持つ者の「ツボ」に嵌るものを具現し得ていないから、余計に疲労感だけが残ってしまったのである。

少なくとも、私の場合はそうだった。

「『ぼくの伯父さんの休暇』でもよくわかることだが、彼の映画は人間の感情の機微をついた笑いとタチ自身の機械人形のような独特の動きが生み出す滑稽さとから成り立っている。ストーリーは最初から重要視されていない。必要とされるのは“場”と“人間関係”だ」(品田雄吉/CIC・ビクター株式会社 ビデオ解説書より)

これは、ビデオジャケットの付録として付いていた品田雄吉の批評。

しかし、「ストーリーは最初から重要視されていない。必要とされるのは“場”と“人間関係”だ」と言うときの、“場”と“人間関係”のみによって生まれる滑稽さの行き着く先は「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」の洪水である。

この洪水による「笑い」は、必ず飽きられる運命にあるだろう。

「人間の感情の機微をついた笑い」という評価は、殆ど褒め殺しと言っていい。

私はそう思う。

残念ながら本作は、「我輩はカモである」(1933年製作)に代表されるマルクス兄弟の一連の作品がそうであるように、「時代の限定性」の壁を突き抜けられなかったのである。

それが、ナンセンスなギャグを連射して止まないだけの、数多のコメディ作品の必然的運命であるように思えるのだ。


「脱風刺のスラップスティック的ギャグ」の洪水は、ドリフターズに象徴されるように、「飽きられることの恐怖」から必ずラジカルなスポットに逢着するだろう。

本作の場合、その流れ方が最も端的に表現されていたのは、主人公のユロが、誤って花火小屋に火をつけるシークエンスであった。

まさに、粗悪なスラップスティックの見本を観たようで、正直、心地悪かった。

そのことは、消費の対象としてのコメディ作品が、「普遍性」を持ち得ることが如何に困難であるかということを意味するだろう。

そして、私が感受した心地悪さを極めた描写があった。

消灯前のサロンで憩う常連客の耳元に、大音響でジャズのレコードをかける描写がそれである。

後に、子供が真似をするこの描写を、作り手がスラップスティック的ギャグとして提示したのなら、それは恐らく大きな勘違いか、それとも、「何でもあり」のコメディの自在性を利用した粗悪な描写と言わざるを得ないだろう。

なぜなら、もうそこには、「万人から好かれるキャラを持つ全身マイペースの中年男」というイメージを壊すに足る、「非常識なアホ」というカテゴリーの内に括られかねないからである。


本作の舞台「サンマルクホテル」に立つ「ユロさん」の銅像(ウイキ)
それは最早、「ストーリー性の欠如」したギャグ映画の単線形の宿命的瑕疵である。

要するに、その辺りが「チャップリン映画」と決定的に分れるところなのだ。

しかし「ストーリー性の欠如」によって、完全に、「ペーソス」が失われてしまう映画の単線形の宿命こそ、本作の最大のアポリアであり、「時代の限定性」でもあった。

それが、後に作られた、「ぼくの伯父さん」という佳作との決定的違いであったと言えるだろう。

以上が、本作に対する私の率直な感懐である。

「時代の限定性」の壁を突き抜けて、「普遍性」を持ち得る映画の構築の難しさを痛感する次第である。

同時に、心の底から他人を「笑わせること」が如何に難しいことであるかということ。

つくづく、そう思った。

(2010年8月)




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