2010年9月21日火曜日

ピアノ・レッスン('93)         ジェーン・カンピオン


<男と女、そして娘と夫 ―― 閉鎖系の小宇宙への躙り口の封印が解かれたとき>



1  自然と睦み合う旋律と一体化した女、それを凝視する男 ―― 浜辺のシークエンスの決定力



幼少時より言葉を失った女は、非社会的で閉鎖系のミクロの宇宙に住んでいる。

そんな女が嫁ぐために、ニュージーランド南端に浮かぶ「異界」の島にやって来ても、そこに住む者たちは「異界」の住民であり、嫁いだ夫も女にとって、1850年代の「異界」の地を開拓する、「入植者」という名の一人の他人でしかない。

夫の一族に強引に形式的な結婚式をさせられて、婚礼衣装を着せられても、型通りのセレモニーを済ませた後は、女は件の衣裳を親族の前で破り捨ててしまうのだ。

女の中で、常に他者の侵入を頑なに拒む歪んだ意志がある。

それがどこから生まれたものであるか定かでないが、映像は、排他的な女の頑なな自我の、その尖った有りようの断片を見せるだけだ。

「聞く価値のあるお喋りは少ない」

こんなことを娘に語る閉鎖系の女が、内側に構築した小宇宙にコンタクトできるのは、他者への反応が不可避なときに、手話通訳としての中枢の役割を担う、殆ど分身化した幼い娘だけである。

従って、娘の特殊な日常性は、母の閉鎖系の小宇宙のうちに絶対依存的に吸収される分だけ、この時代の、この時期の少女の、ほぼ等身大の自我のサイズの振舞いが削り取られている。


いつでもそこに帰っていく以外のない、母と娘が濃密に織り成す閉鎖系の小宇宙で、女の深くて激越な業(ごう)を沈黙の世界に閉じ込めているかのような、その固有の感情ラインがナチュラルに噴き上げていく唯一の媒体になるのは、海路遥々、「異界」の島まで運び入れた一台のグランドピアノだけ。

「私自身は自分に声がないと思っていない。ピアノがあるから」

これは、女自身による冒頭のナレーション。

子供のように小さい体の女と、圧倒的な存在感を顕示するグランドピアノとの、どこか有機的で奇妙な関係律は、それだけで充分に相互補完的な融合感を表現していたのである。

グランドピアノによって表現される旋律の有機的な躍動は、女の内側深くで貯留されていた様々な情動系の集合である。

女は、この特殊で固有な感情表現によってのみ世界と繋がっているのだ。

従って、世界と繋がる表現媒体である、女のグランドピアノを土地と交換した夫に対する感情は、もはや交叉する隙間すら持つことなく、凍結されてしまった。

「犠牲に耐えるのが家族だ」

これが、夫の言い草だった。

原住民であるマオリ人の独自の文化と馴染むことを拒む、近代合理主義で固めたプロテスタントであるに違いない、夫の本音が放たれた決定的な一言によって、女の閉鎖系はより狭隘化し、他者からの不埒な侵入に対する元来の排他的な感情は尖鋭化するに至る。

こんな厄介な女の、その閉鎖系の小宇宙に侵入して来た男がいた。

女の中のピアノの存在価値の大きさを唯一理解できたその男は、内側に激しい情念をストックする女が放射するフェロモンに誘(いざな)われるようにして、双方の距離を加速的に縮めていく。

その起動点は、悪天候と運搬の困難さ故に、浜辺に置き去りにされたグランドピアノを演奏する女の、神々しいまでに眩く、煌(きらび)やかで、弾ける肢体が放射する天上の音楽の如き風景の中枢に、男が立ち会ってしまったからだ。

それは、女が娘を随伴して、男に頼んで、浜辺に置き去りにされたピアノを弾きに行くときの、物語の起動点になったシークエンス。

荒波寄せる浜辺の一画で、木箱に入ったグランドピアノを弾く女の、限りなく天に開いた零れる笑みに合わせるかのように、軽快に側転し、踊る少女。

映像で初めて見せる女の恍惚感が、原始の自然と睦み合い、溶融する。

言語を無化するパワーを自給し得る、至福の境地に達したカタルシスが、「異界」の地の海岸のスポットを占有するのだ。

それは、そこで開かれた時間の引力の只中で、自然と睦み合う旋律と一体化した女の神々しい表情を、時折、凝視する男の感情が決定的に変容した瞬間だった。

男は木箱を取り除く。

女と少女の連弾が繋がった。

それは、母と娘の連弾というイメージと切れて、〈性〉を獲得した女と、未だ獲得し得ぬ女との競演に近い何かだったと言える。

この浜辺のシークエンスが、物語の大枠を充分に語る濃密さを湛(たた)えていた。

台詞なき、特化された映像の決定的な構図が、そこにあった。



2  男と女、そして娘と夫 ―― 閉鎖系の小宇宙への躙り口の封印が解かれたとき



男と女の関係を加速化させた深層を貫流するものを考えるとき、親和動機への自然抵抗を抑制し得るような、全人格的に寄せ合う何か強力な磁力が作用したとしか思えないのだ。

後述するが、それは女の人格総体に張り付く、「異界」というバリアを払拭させるに足る強烈な何かだった。

浜辺で女を情感的に把握した男は、その女の情動の振れ方を包含し、遂には、ピアノなしに求め合う関係への自然な律動感を構築し得たのである。

女の中から、「他者」という観念が無化し得る、一貫して情感的だが、そこに自我の安寧の基盤に関わる一つの固有の関係様態が形成されたのである。


情感的に把握されることの歓びと、繊細で柔和な神経網によって包括されることの歓びが、女の身体に濃密に絡まったとき、それまで経験したことのない心地良き皮膚感覚の決定的親和力を分娩したのである。

その辺りを再現してみる。

1回の情事との交換条件で、ピアノのキーを一つ返すという男との約束が10個になったとき、男は女に「君も裸になれ」と要求した。

抵抗なく裸になって見せる女の身体には、男の身体を受容するに足る情感的昂揚が生まれていた。

しかし男には、それが把握できない。

発語しない女は、閉鎖系の小宇宙への侵入を拒む外見的姿勢を崩すことはなかったのだ。

「ピアノを君に返す。君を淫売にしては自分が情けない。君は俺を愛せない」

女との関係を繋ぐ男には、女を「淫売」にする「取引」を恥じる心を持っていたのである。

その心を感受する女の自我は、閉鎖系の小宇宙への躙(にじ)り口の封印を、繊細さを併せ持つ一人の「他人」に対して解いたのだ。

しかし男の唐突な侵入によって、女の閉鎖系の狭隘な躙(にじ)り口を唯一人往還し得た、娘の「非日常の日常」の世界が根柢から揺さぶられてしまった。

〈性〉を未だ獲得し得ない少女期の、危うくも難しい時間を漂流していた娘は、母の暴走を阻止するための行動に打って出たのである。

「レッスンは進んでないわよ。ママが自分の好きで弾いているんですもの。全然、弾かないときもあるの」

それは、この時期の少女の能力が手に入れた、それ以外にないような義父への間接的リークであった。

しかし、この間接的リークが抱える劇薬性の威力を計算し得る、少女のクレバーな戦略は充分に的を射る破壊性を持っていた。

夫は、なお形式性を払拭し得ない「夫婦」の破綻の現場を確認するが、それでも不倫関係への直接的破壊の手段に打って出ることはなかった。

その情事が秘密裏に遂行されているだけならば、夫のプライドラインの最低限の防御を保証したと思ったのか。

この辺りの男の心理描写は、作り手の幻想の世界の範疇に収斂される何かであると言えるかも知れない。

かくて、グランドピアノが女の元に戻って来た。

「ピアノが戻ったのに、なぜ弾かない?」

これは、夫の言葉。

女の中で、ピアノと等価の、或いは、それ以上の価値を持つ存在が捕捉された証左を示すものだった。

だから女は、「レッスン」なしに男の元に通い、無抵抗に男女の関係を繋ぐのだ。

「ママなんか死んじまえ!」

これは、男に会いに行く母を止めようとする娘の叫び。

それでも溢れる情動を抑制しない母は、そこでは、〈性〉を発動する一人の女以外ではなかった。

「君のことを思って、食事も喉を通らず、眠れない」

告白する男。

眼を輝かす女。

男の頬を叩き、自ら求める女。

オークランドの西海岸・ブログより
浜辺のシークエンスの再現である。

しかし今、女の前にグランドピアノがない。

それでも、女の中に生きるピアノと同質の旋律が、男と女が睦み合う恍惚のうちに溶融し、深紅の彩りを湛(たた)える小さなスポットを燃焼させるのだ。

それを目撃する夫。

男に会いに行く山林で、夫は妻を犯そうとして、抵抗するだけの女。

寝ている夫の身体に触れる女は、特定化された男の肌の感触を確かめたいのだ。

無論、満足する訳がない。

「そのうち、僕を好きになるだろう」

あまりに物分かりが良い夫は、そう洩らすだけ。

しかし、娘だけは納得できないのだ。

母を奪われる恐怖が加速的に突沸(とっぷつ)したとき、娘は2度目の抵抗を身体化する。

女の夫であり、娘の義理の父に、母が送った、ピアノのキーに記した男への愛のメッセージをリークするに至る。

そして、悲劇が起こった。

泥濘の中で、夫は女の指を切断してしまうのだ。

当然の如く、何も解決しなかった。

「去るがいい。君ら二人で」

悲劇を惹起した夫は、「解放」という名目で、「異界」の島から二人を放逐したのである。



3  睦み合うべき運命の必然性を感じさせる奇跡的な融合



男と共に「異界」の地を離れた女は、大切なグランドピアノを海に投棄した。

それは、女にとって、ピアノという最大の表現媒体なしに生きることの価値を獲得した事実を意味するだろう。

女は、新しい〈生〉を手に入れたのである。

男と過ごす新しい世界での新しい生活において、女の閉鎖系の小宇宙は、男が侵入可能な分だけ削り取ったのだ。


自らも海中に沈みながら、自力で生還を果たした女は、男と過ごす新しい生活の中で、音が存在し得ない深い海底に眠るピアノの夢を見る。

「意志が生を選んだのか。その力は私と多くの人を驚かせた。(略)夜は、海底の墓場のピアノを思い、その上を漂う自分の姿を見る。海底はあまりにも静かで、私は眠りに誘われる。不思議な子守唄。私だけの子守唄だ。音の存在しない世界を満たす沈黙。音が存在し得ない世界の沈黙が海底の墓場の深いところにある」

「海底の墓場のピアノを思い、その上を漂う自分の姿を見る」女にとって、それは常に「私だけの子守唄」となっている。

そして今、発語の練習を始める女と、それを見守る男との新しい生活の中で手に入れた新しい〈生〉の時間を繋いでいるのだ。

更に、母への特殊な依存関係を延長し得なくなるだろう娘の、その非日常の日常の時間の起伏を限りなく平坦に変容させた未来をも予想させる、予定調和の包括的な軟着点がそこにあった。

惚れた男と共に、腕力で切り開いた人生が垣間見せる、地獄の前線での共存を捨てられない女と、そんな女を繊細で柔和な神経網によって包括し切る関係の振れ方は、睦み合うべき運命の必然性を感じさせる奇跡的な融合であったと言えるのだろうか。

結局、女の夫は写真結婚のパートナーでしかなかったのだ。

「聞く価値のあるおしゃべりは少ない」

娘が語る、女のこの言葉の圧倒的な閉鎖系が、作り手が夢想する、文盲でありながら(女の失語症と並列される「抵抗虚弱点」)、繊細で包容力のある男の懐の中で溶融したのである。

そういう映画だったのだ。



4  「文化的一元主義」の狭隘なメンタリティを相対化する、「文化的多元主義」の包括力



本稿の最後に、女と二人との男との関係を要約してみよう。

女はなぜ、夫をあれほど毛嫌いし、顔に入れ墨を入れて、マオリ語を話す男に惹かれたのか。

恐らく、こういうことだろう。

海路遥々、辺境の「異界」の地にグランドピアノと共に降り立った女こそ、その土地に定着する開拓白人や原住民から見れば、「異界」に棲む何者かであったに違いない。

辺境の地にとうてい似合うとは思えない、巨大なグランドピアノに執拗に拘泥し、言語を発することのない子供のように小さい痩躯の女。

夫と、その親族の者たちは、失語症の女を「知的障害者」と訝る場面があった。

彼らは、一貫して排他的で、心を開くことを拒む女こそ、「異界」に棲むフリークスの如く俯瞰し、冷眼視していたのだ。

ロケ地のNZロトルア広場

悪天候で、浜辺に置き去りにされたグランドピアノを、窓辺からひたすら想う女の精神世界それ自身に対して、同じ白人仲間からの冷たい視線が集中的に放射されたのである。

女にとって、まさに命の如きピアノを、開拓地と交換した夫との心理的距離は、既に親和力のモチーフを共有する隙間すら入り込めない様態を露わにしていたのである。

この夫の精神を支えているのは、プロテスタントの勤勉精神を背景にする「文化一元主義」と言っていい。

「文化一元主義」の狭隘なメンタリティが捕捉する女のイメージは、内側に激しい情念を蓄えた身勝手な「異界」の住人の、本来的な我が儘が延長された何かでしかなかったのである。

そんな夫に対して、顔に入れ墨を入れた男だけは、女を「異界」に棲む者とは見なかった。

音楽に対する知識も関心もない男だったが、ピアノを命とする女の心象風景を正確に把握し、それをサポートする振れ方まで示したのである。

無論、そこには肉体的衝動に駆られる男の欲情が濃密に媒介されていたが、しかし、何より男は原住民の文化を理解し、白人との橋頭堡の役割を担う「文化多元主義」(マルチカルチュラリズム)の持ち主であった。

対フランス戦でのオールブラックスの「ハカ」(ウィキ)
因みに、プロラグビーリーグの試合前に、「ハカ」という民族舞踊を踊るオールブラックスで有名なマオリ人は、身体装飾としての刺青を顔面に塗ることでも知られるが、本作の男もマオリ語を流暢に駆使するほど、先住民族としてのマオリ人の文化に同化していたのである。

男に内在する、この精神風景は極めて重要である。

この精神風景なしに、自己完結的な閉鎖系の小宇宙という、もう一つの「異界」に棲む女への理解は殆ど不可能と言っていいからだ。

更に、この精神風景が男の自我に張り付いていなかったら、固体としてのグランドピアノと同化していたかのような、「変人の女」との男女関係による性的欲情の処理という、限定的な享楽の世界にエロスを閉じこめてしまって、とうてい「君を淫売にしては自分が情けない」などという自己嫌悪の言葉が、男の人格を介して発せられることはなかったはずである。

女もまた、男のこの精神風景に最近接したからこそ、グランドピアノを介在しない男との全人格的関係の継続を切望したのだろう。

この男が放射する、抑性的に露呈する裸形の異性愛感情に触れることで、女は男の全人格のうちに、身も心も自己投入していったのである。

もうそこでは、相手を異端視する一切の負性の感情が剥ぎ取られていて、魂と魂が純粋に溶融する時間のみが睦みのうちに踊っていたのだ。

ジェーン・カンピオン監督
「文化一元主義」と「文化多元主義」という決定的な相違こそ、女の男性観を決定付けたのである。

既にイギリスとのワイタンギ条約の締結があっても、土地の返還を巡る、マオリ族による白人への反乱が終焉し得ない不幸が延長されていて、ニュージーランド政府の植民地意識と先住民族との矛盾の行方が、遂に武力衝突なしに済まなかった歴史状況を背景にするとき、「本当に奴らの土地か?耕す訳ではない」と洩らした、女の夫の自我に巣食う「文化一元主義」の狭隘な能力によっては、女の閉鎖系の狭隘な躙(にじ)り口を開くことが叶わなかったのは必然的だったと言えるだろう。

それが、本作への私の基本的理解の一つである。

―― 確かに、女に関与する男の顕著な物分かりの良さと、その欲望が充分にコントロールされた理念系の人物造形の仮構性には、物語の嘘臭さが張り付いていた。

それにも拘らず、女の内側深く張り付く固有の〈性〉の自己運動が、ほぼ完璧に捕捉された映像の構築力は抜きん出るものがあった。

それは、観る者に充分なインパクトを与える、「作家性」の勝利でもあったとも言えるだろうか。

(2010年9月)

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