2010年10月21日木曜日

名画短感⑬      獅子座('59)


エリック・ロメール監督



ファーストシーンとラストシーンの内実が同質のものでありながら、その時間枠の間に描かれた主人公と、その主人公を取り巻くパリの風景が劇的に変容していくさまを、ユーモラスなエピソードを挿入しつつも、しかしそこで奏でられていた通奏低音は、如何にも初期ヌーベルバーグの作品らしい、既成の映画文法に馴染まない構成力をもった一篇だった。

ファーストシーンとラストシーンの内実が同質であるというのは、一貫して外部要因と偶然性に依拠して生きてきた、作曲家もどきの男の元に、莫大な遺産が転がり込んできたという、それ以上ない僥倖にに恵まれた奇跡譚。

ところが、ファーストシーンでの遺産相続の話が実現の運びに至らなかったことから、「運だけは誰にも負けない。40歳を過ぎれば、幸運か不運かが分る」と豪語していた男の転落人生が開かれていく。

それ以上ない僥倖に飛びついた勢いを推進力に、我が物顔で大判振る舞いしていた男の表情から次第に生気が消え、男の元に集まった仲間たちとの縁も希薄化し、冒頭の20分辺りまで見せていた、華やかなるパリの風景のみならず、そこで暮らす人々の視線もまた、怠惰な男とは無縁な相貌を露わにしていくのだ。

万引きにしくじり、生ごみの中から食べられるものを拾って食べたり、セーヌの遊覧船の客が落としたスナック菓子の袋を取ろうと必死に投石し、それをキャッチしたものの、中身は水で溶けていたりという始末。

それでも、ひたすらパリ市街を歩く男。

靴底が剥がれても歩き続けるのだ。

遂に男は、ホームレスから食い物をもらう羽目になり、大道芸の真似事をして、空腹をほんの少し満たすに足るだけの〈食〉に有り付こうとする。

ダークサイドに堕ちていく、男の人生と風景の加速的変容は、このマッチョの体躯を持て余す男が、どこまでも外部要因と偶然性に依拠して呼吸を繋いできたことの、その怠惰な人生を累積させてきたネガティブな結晶点であると言っていい。

風景の尖った変容は、それを捕捉する男の視線の変容でしかないからだ。

「何たる猥雑さ。汚らわしい。汚いパリめ。猥雑な街。不潔だ。汚らわしい」

これは、パリ市街を彷徨する男が、夜の街路で呟く恨み節。

しかしその落魄ぶりは、それまでもそうであった男の怠惰な人生を単になぞったものではなく、男が信じた獅子座の運勢の澎湃(ほうはい)の如く、40歳にして初めて手に入れた大強運を取り逃がした後の圧倒的な落差感ゆえに、男が初めて、その楽天的な視界に収めた苛酷なリアリズムの風景だったのである。

一切は、外部要因と偶然性に人生を委ねてきた男の、その生来的な「変りにくさ」が撒いた種だった。


作り手は本作の基幹モチーフに、そのような脳天気な人生を揶揄する意図を持って、そこに存分なアイロニーを塗り込めていたか否かは不分明だが、少なくとも、即興演出とロケーション撮影という、ヌーベルバーグの王道を行く本作のうちに、苛酷なリアリズムを経験した男に再び巡ってきた強運な人生の向こうに待機する、件の男の「変りにくさ」が延長される近未来のイメージを活写したことだけは疑い得ないだろう。


同時にそれは、本作が、獅子座の星座へのズームによってエンドマークに軟着したように、獅子座の運勢が持つ、「ドラマチックな人生を好み、成功するか、大失敗するかのいずれかという、極端なアンバランスさ」を特徴づける、浮沈の顕著な運命に対する抗い難さを描くことで、「人生の底」を見た者の非力さと絶望をも映し出していたようにも思えるのだ。

エリック・ロメール監督(ウィキ)
しかしこの映画が、既成の映画文法と切れているのは、エリック・ロメールらが依拠したカイエ・デュ・シネマの面々が指弾して止まなかった、「詩的リアリズム」に張り付く「暗さの美学」と、ハリウッド的予定調和の「逆転劇」の否定を、映像構成のうちに包括していることで検証されるだろう。

要するに、こういうことだ。

「奴が死んで、俺が相続か。遺産だ。奴が死んだぞ!皆、俺のうちに来いよ!」と男が通行人に叫ぶことで、一篇の滑稽譚と化したラストシーンの「逆転劇」を描くことで、「『人生の底』を見た者の絶望の極点」を叙情含みの「詩的リアリズム」に相応の犯罪性を張り付けて、悲劇的に閉じていく表現技法の流れ方を拒否すると同時に、「『人生の底』を見た者の絶望の極点」から「真人間」に立ち直っていくという、ハリウッド的予定調和の「逆転劇」とも切れた映像構成を構築したのである。

同一人物が、天国と地獄の双方を見たときに侵入する未知なる風景感覚の、その圧倒的な落差感を包括しつつ、最後には一篇の滑稽譚と化す展開こそ、既成の映画文法に馴染まない構成力をもった作品の証左だったという訳だ。

人間の変わりにくさをユーモラスに描くことと、「人生の底」を見た人間の風景の変容を同時に描き出すことを、既成の「詩的リアリズム」や、ハリウッド的予定調和の「逆転劇」のうちに収斂させなかったという一点こそ、本作の生命線だったのである。

(2010年10月)

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