2010年10月9日土曜日

恋人たちの食卓('94)       アン・リー


<現代家族の流れ方に溶融する自己完結的な映像>




1  「解体の危機に瀕する家族の在り方」の中で、特化された関係の「微妙な距離」感



人間は自分の中にあって、自分が認知する性格傾向とほぼ同質のものを相手の中に確認するとき、その性格傾向が「肯定的自己像」に近いほど、相手に対する親和動機が高くなるだろう。

人間の性格傾向は、多くの場合、「自己像」のうちに固められているので容易に変化する何かではない。

ところがその性格傾向のうちに「否定的自己像」が幾分でも張り付いているなら、その性格傾向とほぼ同質のものを認知する相手に対して、「微妙な距離」を確保せざるを得ないだろう。

「微妙な距離」とは、必要以上に相手の性格・行動傾向を意識してしまうことによって、相手とのナチュラルな適正スタンスが取りにくい距離感のことである。

本作の主人公の父親は、次女の中に、その「微妙な距離」を感じ取っていた。

「頑固さ」、「プライドの高さ」、「率直さの欠如」など、まるでこの父娘は「似た者同士」だった。

その二人の性格傾向に対して、本人たちは決して「否定的自己像」のイメージのうちに固めていた訳ではないだろうが、それでも、そのような性格故に、相手に対して素直に接触できない「微妙な距離」が存在することを、暗黙裡に了解し合っていたはずだ。

この「微妙な距離」が、常に二人を裸形の自我をコンフリクトさせ、しばしば直接対決も辞さなかった。

それが最も端的に表現される場が、日曜ごとに父親が娘たちに振舞う、豪華な中華フルコースの洪水の如き「団欒」の渦中であった。

既に一流ホテルの名シェフを引退していた父親にとって、味覚に対する劣化を防ぐ必要があったのだ。

味覚に対する劣化をを意識させる何かが、彼の中に存在していたこと。

それこそが由々しき事態だったのだ。

そのため彼は、このような形で豪華な晩餐を催すのである。

父親にとって味覚への拘泥は、その拠って立つ自我の安寧の決定的基盤であり、それ故に、その「商品価値」を貶める訳にはいかなかったのである。

しかし、幼少の頃から父親の味覚に親しんできた次女にとって、味覚への拘泥もまた、いつしか父親譲りの高感度能力を培養するに至り、「女コック」を夢見る思いを形成してきたのである。

彼女は、性格傾向のみならず、父親の味覚に関わるDNAを、そのまま継承してきたのだ。

本作の中で、料理のことに言及するのは次女だけであった事実が、如何に彼女が味覚への拘泥を示すことの証左であった。

「変ね、昔の思い出は料理のことばかり」

これは、彼女が恋人に語った言葉。

然るに、彼女は、決して自宅では料理を作らない。

彼女が自宅で料理を作ることへの抵抗感を、身を持って感じているからだ。

抵抗感の供給源である頑固な父親の存在と、その父親譲りの頑固さを持つ次女。

しかも、この父親は、台湾での伝統的家族観に由来する封建的な思考の持ち主だった。

「コックは、女が選ぶ職業ではない」


この父親の抵抗力に弾かれて、次女はいつしか、どうしても最近接させることができない「微妙な距離」を、父親との間に形成してきてしまったのである。

この父親と次女の関係が、本作で描かれた家族像の中枢に位置している。

そう把握するのが自然である、と私は思う。

高校の教師の長女や、大学生の三女である、他の姉妹に関わるエピソードの挿入は、本作のテーマの稜線を、「解体の危機に瀕する家族の在り方」として伸ばす役割を果たすことで、物語の奥行きを広げていくが、どこまでも、この家族の中枢的な関係は、父親と次女の関係のうちに収斂される何かであると考えていい。



2  現代家族の流れ方に溶融する表現によって完結する映像



以上の把握をベースに、本作を包括的に要約してみよう。

父親のリードによる「食の連帯」によっても歯止めが効かなくなった、「家族」というミニ共同体が必然的に流れていく、その緩やかな解体の危機にあって、小津安二郎的な「取り残された父親の悲哀」という、存分に余情を乗せた軟着点へのシフトではなく、取り残されるはずの父親もまた、「第二の人生」(娘の幼馴染との再婚)に旅立つ見事な逆転の発想によって、「現代家族」が必然的に抱える、その変容のリアルな様態を肯定的に描き切った一篇 ―― それが本作だった。

そこには、小津安二郎的な「余情の美学」に張り付く感傷が排されていた分だけ、インビジブル・ファミリー(注)に象徴される現代家族の有りようが、多分にユーモア含みで切り取られていた。


(注)嫁いだ娘などが近くに住んで、実家に戻って来る「疑似同居家族」のこと。


「だから、父と暮らすの。私を頼りにしてるから」

これは、アムステルダムの支店長という大栄転による、海外行きを断念した、航空会社勤務のキャリア・ウーマンである次女の言葉。

彼女は、海外行きを断った理由として、姉妹の結婚や知人の不幸などを挙げて、恋人に説明していたのである。

しかし、そんな次女の思いに情緒的に流されていくだけの、馴染み深いホームドラマの父親像は、ここではほぼ完璧に否定されていた。

売却予定の自宅にあって、存分に「女コック」の時間に陶酔する次女と、その次女が作ったスープを飲む父親が相変わらず味覚論争を発火させるが、最後に父親が放った一言は、頑固一徹の父が、味覚論争で譲らない娘との和解を誘導する言葉だった。

「お前が作ったスープの味は・・・味覚が戻った」

それは、「似た者同士」の父娘の表面的な溶融の類であったかも知れないが、新規蒔き直しの人生を選択した父親と、夢にまで見た自己像を獲得した娘との、新しいステージでの、より進化する内的交流を予約させるに充分な交叉だった。

 アン・リー監督
「食」を通して現代家族の緩やかな解体と、それを補填するに足る、新しい家族像の立ち上げをもイメージさせる映像は限りなく新鮮だった。

本作の成功は、「家族の解体」という重いテーマを、情緒的に流さなかった作り手の独特の表現世界の爽快さにあったと言えるだろう。

同時に、「父親三部作」の3作目で完結する本作は、3作通じて父親役を演じた俳優(ラン・シャン)のキャラクターが、現代家族の流れ方に溶融する表現によって閉じられるということを意味するのだろうか。

ともあれ本作は、ほろ酔い気分の中で、父親がシェフ仲間に洩らした、以下の言葉に集約されようか。

「飲む、食べる。男と女。食と性は人間の欲望だ。一生、それに振り回される」

男性の場合は女性とは若干異なるが、脳科学的に言えば、間脳の一部で視床下部にある性欲中枢と満腹中枢の近接によって、性的欲求(本能にあらず)と食本能の繋がりが指摘される事実を、今更ながら再確認する映像でもあったということか。

(2010年10月)

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