序 「アッパー・クラス」、「ミドル・クラス」、「ワーキング・クラス」の3階級の英国社会
ここに一冊の著書がある。
その著書名は、「階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見」(新井潤美著 中央公論新社刊)
本作を読解する上で重要だと思われるので、そこに言及された些か長文の論稿を引用したい。
「そもそもロウアー・ミドル・クラスとは具体的にどのような人々を指すのだろうか。ジェフリー・クロシック編『イギリスにおけるロウアー・ミドル・クラス』(1977)では次のような定義がなされている。
―― イギリスにおける『ロウアー・ミドル・クラス』は二つの主なグループに分けることができる。一方では商店経営者や中小企業の経営者といった古典的なプチ・ブルジョアジーがおり、もう一方には新しいホワイト・カラーの俸給生活者がいた。このなかで特筆すべきなのは事務員だが、ほかにマネージャー、販売外交員、学校の先生や、ある種類の店の店員も含まれていた。さらに、下級の知的職業階級者もおそらく含まれていただろう。彼らは確立したミドル・クラスに数えられがちだが、下級の事務弁護士などの中には、仕事の規模がかなり小さく、ぎりぎりのところでようやく営業していた人々がいたはずだからだ ――
ここで『確立したミドル・クラス』と呼ばれているのはいわゆる『アッパー・ミドル・クラス』と呼ばれる人々である。
『オックスフォード英語辞典』第二版によると、『アッパー・ミドル・クラス』とは、『上流社会においてアッパー・クラスのすぐ下に位置する階級』とあり、初出は1872年になっている。つまり、同じミドル・クラスでも実はアッパー・ミドル・クラスはアッパー・クラスとともに『上流階級』に属し、『ロウアー・ミドル・クラス』は、『ワーキング・クラス』と同じ階層に分類されるのである。(略)
今日でも便宜上『ミドル・クラス』と大きく分類されている人々の間にはこのように、自分がアッパーかロウアーかという、はっきりとしたアイデンティティが存在しているのである。 前述のように、『アッパー・ミドル・クラス』は、いわゆる『アッパー・クラス』と同じ『上流階級』に属するわけであり、この二つの間にはっきりとした境界線をひくのは難しい。
J・F・C・ハリソンの『後期ヴィクトリア朝の英国 一八七五―一九〇一』(1990)によると、『ミドル・クラスの最上部分は貴族階級と親しくつきあい、親戚関係も築いていた』のである。ハリソンは『アッパー・ミドル・クラス』について、『ロンドンの金融家と商人、そしてイングランド北部と中部の製造業者、という二つのグループにはっきりと分けられる』と書いているが、それ以外にも、イギリスの長子相続制によって、親から土地を受け継ぐことができずに軍隊に入る、知的職業につく、あるいは商業に携わることを強いられた、上流階級の次男、三男たちがいた。彼らは職業についていても自分たちが『ジェントルマン』であるという自覚をもっていた。また、知的職業においても、クロシックの言うように、階級の差ははっきりしていた。(略)
ヴィクトリア女王(ウィキ)
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彼らについては後の章でもう少し詳しく述べるが、『ワーキング・クラス』出身者であり、両親よりも高度な教育を受けさせてもらい、その結果、あらたにミドル・クラスの仲間入りをなしとげた人々が主な部分を占めていた。そしてこの頃から、軽い読み物や雑誌、芝居などの娯楽の場においてこの新しく勢いをつけた『ロウアー・ミドル・クラス』を揶揄し、嘲笑し、笑いの材料としたものが目立って多くなっていったのである。(略)
じっさい、細かい階層から成り立っているイギリスの社会は、一方では他国の人々に驚かれるほど、階級間の動きが可能であった。商人が富を築いて土地を買って貴族の仲間入りをすることも可能ならば、また一方では、長子相族の結果、貴族の仲間入りをすることも可能ならば、また一方では、長子相続制の結果、貴族の次男、三男が職業についたり、あるいは商人に弟子入りするという、逆方向の動きもあった。
このように、ある程度の動きが可能であればこそ、微妙な階層の差に対するこだわりが強くなり、動く者に対する動かない者の軽蔑も強くなるのかもしれない。しかも、当然のことだが、上から下に動こうとする者に対する風当たりの方が強い」(前掲書より)
要約すれば、英国の階級には、大別すれば、「アッパー・クラス」、「ミドル・クラス」、「ワーキング・クラス」の3階級に分けられているということ。
更に、「ミドル・クラス」も、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウアー・ミドル・クラス」に2分されているということ。
そして、高度な教育を受け、教養豊かな知識で武装し、上昇志向があるが故に、「ロウアー・ミドル・クラス」は階級意識が強く、それ故に、揶揄の対象になっているということ。
以上の把握を前提にすれば、本作が、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウアー・ミドル・クラス」の「対立と和解」をテーマに据えつつ、そこに「ワーキング・クラス」の悲哀を挿入させた物語であることが容易に理解できるだろう。
1 異なった文化を持つ者たちの階級社会の縛りの中で
かつて高度経済成長下で、長屋住まいの我が家の父母が、何かのアンケート調査で、自分たちの生活レベルを「中の下」などと記したことでも分るように、当時、大半の日本人は自らの生活レベルを、「ミドルクラス」と答えていたのを想起するとき、本作で描かれた英国の階級社会の複雑な様態について到底理解すべくもないだろう。
理解すべくもないその国の階級社会の縛りの中で、異なった文化を持つ者たちについて、情感豊かに綴った物語を簡単にフォローしていきたい。
本作で複雑に絡み合った登場人物たちの関係構図を要約すると、以下のようになるだろう。
ヘンリー・ウィルコックス |
愚かな行為の主は、彼の長男のチャールズ。
自分の財産の絶対的基盤を絶対的に確保しようと、一貫して振舞う男である。
そしてその男によって、本来出会うべきはずのない若者が、行くべきでない場所に出向いて行った挙句、圧殺されるがの如く、絶命した一人の若者。
その名は、レナード・バスト。
「僕が彼女にしてあげることは、共に飢えることだ。金持ちならやり直せる。だが僕らは、一度職を失ったら、それまでです。食後の満足は金持ちにしかない」
レナード・バストとジャッキー夫妻 |
「アッパー・ミドル・クラス」と称される「上位中流階級」に位置する実業家のヘンリーと、普通ならクロスしようもない彼が出向いた場所こそ、彼らの階級の象徴である場所である「ハワーズ・エンド」。
そこだけは堂々とした威厳を放つ、ロンドン郊外に屹立する古式床しき豪邸であった。
2 「博愛主義の履き違え」、或いは、「大金を恵んでもらう貧しき者」という自己像を否定する矜持
本作は、その若者と対極に位置する、ウィルコックス家との関係を結ぶに至る一家の物語を中心に進行してく。
その一家とは、シュレーゲル家。
ドイツ系の血を引く、「ロウアー・ミドル・クラス」と言われる比較的裕福な階級である。
この階級は、余暇の中で多彩な議論を繰り広げる、教養豊かな知識人の宝庫とも言われるものだ。
シュレーゲル家・右からヘレン、マーガレット |
妹の名はヘレン。
このヘレンが偶然、ベートーベンの講演に足を運ぶことで、一つの縁が作られた。
ヘレンとの関係を介してレナード・バストもまた、「ワーキングクラス」の隅っこにあって、更に、思春期に両親を喪っていたジャッキーと結婚しながらも、夜の星座を見るために一晩中歩き続けたり、読書に耽ったり等々、アイデンティティの拠点を確保べく、彼なりの教養を見せる青年だった。
直情系のヘレンは、そんな寡黙なレナードの困窮を援助するために、必要以上の同情心を寄せていく。
「彼は良心の呵責など全く感じない男よ。頭も心も空っぽで」
彼とはヘンリーのこと。
レナードの妻のジャッキーを、若い時に弄(もてあそ)んで捨てたヘンリーに対して、ヘレンはレナードに毒づくのだ。
ヘレンはまさに、貴族を憎悪したベートーベンの生き方をなぞっている。
しかし、同情心の根柢には、相手を救済するという実感から得られる自己満足感が横臥(おうが)している。
それはしばしば、同情される者の誇りを傷つける棘を隠し持っているから厄介なのだ。
現に、彼は自ら彼女への援助を求めたことは一度もない。
常に彼女の方が動いていくのだ。
ヘレンとレナード |
ヘンリー・ウィルコックスの娘の結婚パーティで、レナード・バストとジャッキー夫妻が飢えているのを知って連れて来たことで、彼らが凌辱されたと逆恨みして、ヘレンは、姉のマーガレットの夫になるヘンリーへの憎悪が原因で、一切の理由を明かさない旅に出たのである。
その際、彼女はレナードに対して、5000ポンドの大金を小切手で送る直接的援助という行為を平然と結ぶが、そのメンタリティを貫流するのは、「貧しき者を助ける」ことの実感から得られる自己満足感以外の何ものでもないだろう。
先のパーティでは、「博愛主義の履き違えよ」と姉に批判され、小切手送金という直接的援助の行動の際には、「あまりに非現実的だと、身を滅ぼすよ」と弟に諭される始末だった。
「当方には必要ないので、お返しします」
これが、自分の家族には僅か10ポンドの援助を求めても、他人に依存しないレナードからの返事。
当然である。
「5000ポンドの大金を恵んでもらう貧しき者」という自己像を否定する矜持によって、レナードの自我が支えられているとも言えるのだ。
そこに異性愛の感情が絡んだとしても、その自我の支えとは、ワーキングクラスの隅っこで、「食後の満足は金持ちにしかない」と吐露する如き身過ぎ世過ぎを継続させても自壊しないような、ギリギリの世界で呼吸を繋ぐ厳しさを、「5000ポンドの大金の恵み」を具現する同情視線のうちに吸収される事態を否定する矜持であるだろう。
レナードとヘレン |
3 「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴としての「ハワーズ・エンド」
一方、「神智学」を読むむマーガレットは、教養豊かで温和な性格の女性。
シュレーゲル家の姉に当り、直接行動主義の妹のヘレンとは対極的な性格だ。
そんなマーガレットに親近感を抱いたのは、ヘンリー夫人であるルース。
階級意識を持たない二人の関係は、夫人の死の床で、「ハワーズ・エンド」をマーガレットに相続するという遺書を認(したた)めるほどだった。
まもなく夫人が逝去し、その遺書が、計算高いウィルコックス家の家族会議の渦中で炎に燃やされるが、マーガレットにはまるで関知しない出来事。
今度は、そんなマーガレットの率直さに惹かれたヘンリーが、彼女に結婚を申し込み、快諾されるのである。
ヘンリーとマーガレット |
この婚約から、階級の離れた二つの家族の関係が生まれるが、妹のヘレンは納得できない。
ヘンリーを嫌っているからだ。
既にこの時点で、ヘレンはレナードへの援助を延長させていて、ヘンリーに再就職の依頼をしたものの、拒絶されていた経緯がある。
「それも人生なんだ。貧乏人に同情するな」
ヘンリーは、ヘレンにそう答えたのだ。
これが、事業の才能があるが、教養に欠けるヘンリーの明け透けな階級観を反映する言葉だった。
更に前述したように、ヘンリーの若き日の誤ちがパーティ会場で露呈され、その屈辱感による怒りから、マーガレットとの婚約解消という事態を出来した。
他人の前では甲斐甲斐しく社交を繋ぐ誠実さを見せつつも、一人部屋に籠って咽び泣くマーガレット。
まさに、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウアー・ミドル・クラス」との階級の落差が顕在化した事態だった。
一方、ヘレンはレナードへ同情の延長上に、異性愛感情がリンクして結ばれる。
ヘンリーの凌辱行為を許せないヘレンが家を出たのは、その直後である。
数ヵ月後に戻って来たヘレンは、レナードの子を身籠っていて、「ハワーズ・エンド」に赴いた。
そのようなヘレンの生き方を認めないヘンリーとその家族は、彼女を身籠らせたレナードを邸に呼び、冒頭に触れた事件に繋がったのである。
長男を「故殺罪」で逮捕され、すっかり消沈し、空洞感を広げるヘンリー。
彼女こそ、異文化間の葛藤や摩擦を、限りなく希釈化させる役割を担う最も重要な人物だったという訳だ。
ジェームズ・アイヴォリー監督 |
そこに、「多文化共存の思想」を主唱するヒューマニズムが垣間見えるだろう。
最も階級意識が強いが故に、揶揄の対象になっていると言われる「ロウアー・ミドル・クラス」の中にあって、最も階級意識が希釈だったマーガレットと、結果的に、「ワーキングクラス」の青年の生命を代償にしてまで、「アッパー・ミドル・クラス」に「反逆」したヘレンの、その行動様態を貫流する階級意識の濃度の深さの対比のうちに、本作の人物造形の妙を読み取ることが可能であった。
複雑な葛藤を精緻に描き切った秀逸な人間ドラマは、ヘレンが産んだ子供の幸福の未来を予想される軟着点に収斂されていった。
この異文化間の葛藤が最終的に集合する「ハワーズ・エンド」で、遂に沸点と化した矛盾が故殺事件に雪崩れ込み、結局、マーガレットのような人格像の挿入によってしか軟着点を見い出せない物語の結晶が、そこに表現されていたのである。
「ハワーズ・エンド」とは、程なく大戦に突入する英独という国民国家の問題も含めて、「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴でもあったのだ。
4 階級社会の複雑な様態が延長されている現実 余稿として
「ハワーズ・エンド」 |
「階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見」から、著者の新井潤美が記した「あとがき」の一節を引用して、本稿を閉じよう。
「イギリス人にとって、それと気づかれないほど当たり前になっているこの階級意識の中で、『ロウアー・ミドル・クラス』は特に興味を惹く存在である。同じ『ミドル・クラス』というカテゴリーに入れられていながら、アッパー・ミドル・クラスとの間にははっきりとした違いがある。それはあまりおもてだって言われることはないが、『ロウアー・ミドル・クラス』という言葉には、聞いた人が思わずくすっと笑うような、滑稽なイメージがまとわりつく。隣人の目を気にし、虚勢を張り、視野が狭く、心が狭く、趣味が悪い・・・・・・実態はどうであれ、彼らのイメージは散々なのであるが、それがまた喜劇の格好の材料でもあり、また、そのいかにも哀れで人間臭いさまは、ペーソスにもあふれている。そしてこのような彼らのイメージを作り上げることによって。自分たちの優位を確認しようとするアッパー・ミドル・クラスの人々。
英国の階級社会を象徴する画像 |
英国の階級社会の複雑な様態が現代においても、なお延長されている現実がそこにある。
(2010年11月)
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