<ヨハネスという投げ入れる祈り、幼子という微笑みのイノセンス ―― インガの蘇生という奇跡の構造>
1 清澄な風景の農民一家の日常に突き刺さる、危うい棘の内実
1930年代のデンマーク・ユトランド半島。
その一画に大農場があった。
勤勉なボーエン家の所有である。
既に妻を亡くし、一代で大きな大農場を築き上げた父は、3人の息子を持ち、幸福な日々を送っていた。
信仰心の希薄な長男ミケルと、その妻インガ、そして長男夫婦の間に2人の娘。
いずれも真面目な働き者。
最も信仰心の篤い次男のヨハネスは、この国が生んだ孤高の哲学者であるキルケゴールの影響を受け、いつしか、自らをキリストだと語るほどの「狂人」と化していた。
一方、三男のアーナスは、極めて純粋無垢な青年であるが、父とは対立するキリスト教宗派に属する仕立て屋の娘のアンネと、真剣に結婚を考えていた。
当然、キリスト教宗派の相違が2人の結婚の最大の障壁になっていて、心優しきインガの同情を買っていた。
3人目を身籠っているインガは、男児を産むことを義父と約束し、アーナスの結婚をサポートする努力が実り、義父に仕立て屋との関係修復のための訪問を実現させたのである。
しかし宗派的なプライドの高い2人は、最後まで意地を張り合うばかりで、より対立的関係を増幅させるだけだった。
これが、清澄な風景の長閑な農場を所有する、純朴な農民一家の日常に突き刺さる危うい棘の内実だった。
2 ヨハネスという投げ入れる祈り、幼子という微笑みのイノセンス ―― インガの蘇生という奇跡の構造
ボーエン家に、あってはならない事態が出来した。
産気づいたインガが、難産の危機に遭ったのだ。
インガの存在の大きさを感受する家族は、皆オロオロし、不安を募らせるが、結局死産となり、医師の楽観的見立てに反して、遂にインガ自身も昇天してしまったのである。
“汝らは我をたずねん。されど、我が行く所に来ることはできぬ”
キリストを自称する「狂人」のヨハネスは、家族がインガを救えなかった悔いによってか、「ヨハネ福音書」の中の言葉を残して、家を去っていった。
慌てふためく家族はヨハネスを捜すが、行方知れずだった。
そんな折、深い哀しみに打ち拉がれるインガの家族の前に仕立て屋が現れ、自責の念を伝え、娘を連れて随伴して来てアーナスとの結婚を承諾するが、そこに突然、正気に戻ったヨハネスが帰還して来た。
式も終わり、インガの納棺目前だった。
帰還したヨハネスが、眼の前の家族らに向かって挑発的言辞を吐いたのだ。
「インガの復活を神に祈ろうとは、誰も思わなかったのか」
「ヨハネス。それは神への冒涜だぞ」と父。
「違う。皆の中途半端な信仰こそ、冒涜だ。祈っていれば、神は耳を傾けたはずだ」とヨハネス。
「妻の遺体の前で、そんな話はよせ」とミケル。
「兄さん、真の信仰を持つ者が、何故いないんんだ」とヨハネス。
ヨハネスはインガの傍に行き、思いを怒りに変えた。
「インガ、朽ち果てろ。この世は腐ってる」
インガの幼い娘が、ヨハネスを促す。
「伯父さん、急いで」
「幼子よ。幼子は天国で最も偉大な存在だ」とヨハネス。
「早くして」と幼子。
「私にやれると信じているのか?」とヨハネス。
「うん。信じてる」と幼子。
微笑む幼子。
「見事な信仰心だ。願いは果たされよう。私がイエスの名を呼ぶと、母さんは生き返る」
ヨハネスはそう言って、少女の手を握り、インガに呼び掛ける。
「死者よ、我が声を聞け」
「頭が変だ」と言って、牧師はヨハネスの勝手な振舞いを止めさせようとするが、医師が制止した。
「命を救いたいと思うことが変なのか」
ヨハネスの怒りは、なお継続力を持っている。
「・・・イエス・キリストよ。願わくば、インガを蘇えらせたまえ。お言葉を与えたまえ」
ヨハネスの祈りも、継続力を持っている。
幼子はずっと、母であるインガを見守っている。
「インガ、イエスの御名において、汝に銘じる。起きよ!」
それが、ヨハネスの最後の祈りとなった。
蘇生するインガ。
復活したのだ。
インガを抱擁し、復活の至福に感涙するミケル。
これが、「ヨハネスという投げ入れる祈り、幼子という微笑みのイノセンス ―― インガの蘇生という奇跡の構造」であった。
この「大復活劇」という奇跡の構造を映し出して、一貫して静謐な映像は閉じていった。
3 「狂気」のヨハネスの「信仰」の深さをも呑み込む、澱みのない風景の支配力
本作のテーマは、「信仰による復活」である。
そこで具現した「大復活劇」を本気で信じる者たちが、宗教プロパガンダのトラップにインボルブしない程度において、些か大上段に構えて描かれる違和感の根柢には、近代合理主義に馴染み過ぎた者の視線が濃密に媒介されているからなのか。
出会い頭に、そんな説教を喰らいそうな、「信仰」に関わる心の有りようが問われそうだ。
本作の核心は、「信仰」の深さとは無縁に、単に非合理の世界の存在を疑わない少女の「思い」が推進力となって、「正気」に戻ったヨハネスの、キルケゴール的な「主体的信仰」のパワーを導き出すラストシークエンスに収斂される何かだろう。
因みに、ヨハネスの「狂気」の「信仰者」という人物造形には、「狂気」にまで突き進まねば、「信仰」の本質に肉薄できないというメッセージが包含されているに違いない。
家族成員の「主体的信仰」の不足によって、インガを救えなかったと悟った「狂気」のヨハネスは、まさにそれを根源的に問うためにこそ「正気」に戻されたということか。
この「狂気」のヨハネスの人物造形のうちに、後にナチス・ドイツに殺害される遥か以前の、無名の牧師時代に書き下ろした、本作の戯曲の作者であるカイ・ムンク牧師の「狂気」の「信仰」が投影されているのだろうか。
その詳細を知り得ない私には、一切が不分明である。
しかし、これだけは言えそうだ。
本作で最も重要な人物が、「信仰」の深さからではなく、「和解と寛容」の精神によって、均しく善良ながらも、家族の狭隘な観念を突き抜くインガの存在であるということ。
そのインガは、対立するキリスト教宗派に属する仕立て屋の娘アンネを愛する、義弟の三男アーナスの「愛」を実らせたいと必死に願うのだ。
それは祈りではない。
純粋な懇望と言っていい感情である。
そのため、義父が望む男児の出産を約束し、その挙句、死産となり、自らも絶命するに至るのである。
それは、まさにインガこそ、本来的なキリスト教精神の持ち主であることを示唆するものだろう。
だからこそ、ラストシークエンスにおいてのみ、神秘性漂う静謐な空気感が、悲嘆に暮れる空間の一画を支配し切る只中で、「大復活劇」という奇跡的浄化を具現するのである。
カール・ドライヤー監督 |
それが何より、無神論者の私には眩過ぎたのである。
ラストシークエンス以外は、「狂気」のヨハネスの「信仰」の深さをも呑み込んで、長閑な農場を所有する純朴な農民一家の生活が淡々と綴られていった。
寧ろ、その澱みのない風景の支配力のうちにこそ、「大復活劇」を具現したと思わせる力があったのだ。
「大復活劇」を信じるか否かという、その精神の有りようこそ狭隘であると思わせる何かが、そこに映し出されていたのである。
それでいいのだと思う。
(2001年1月)
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