2010年12月16日木曜日

サイコ('60)      アルフレッド・ヒッチコック


<精神異常の闇の深奥に到達した一級の心理劇>



  1  精神異常の闇の深奥に到達した一級の心理劇



 「ただ一か所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った。まったく強烈で、思いがけない、だしぬけの、すごいショックだったからね」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)

 このヒッチコックの言葉から、有名なシャワーシーンへの拘泥が判然とするだろう。

 ヒッチコックは、映画の前半の三分の一に過ぎない、このシャワーシーンを「最も暴力的なシーン」と設定して、観客の恐怖感の記憶を固定化させることで、その後の物語の流れを少しずつ緩やかにするという表現技巧を駆使していく。

 以下、本人の言葉から確認してみよう。

 「この映画の中で最も暴力的なシーンだ。それからは、映画が進むにつれて、暴力的なイメージはしだいにすくなくなる。最初の殺人の衝撃の記憶だけで、そのあとのサスペンス・シーンを恐怖にみちたものに盛り上げるには充分だからね」


 更に、ヒッチコックは語る。

 「観客心理をわきまえたうえで観客をうまく完璧に誘導してやらなければならない・・・観客の心をある方向に向けさせたかと思うと、さらにまた別の方向にむけさせ、そして、つぎに何が起こるかというところからはできるだけ遠ざけてしまうということ・・・映画の前半の三分の一でスターを殺すなんてことは常識ではありえないことだ。だからこそ、わたしはあえてジャネット・リーというスターを殺した。そのほうがさらにいっそう思いがけないショックをあたえることになるだろうからね」

 それは、人間が如何に「初頭効果」(最初に形成された印象度の強さが、その後にも影響を与えるということ)のインパクトによって、自己の感情が引き摺られていくかという心理を検証するものである。

 その辺りが、凡俗なホラームービーと分れるところだろう。

 凡俗なホラームービーは、「初頭効果」のインパクトの高強度によって観客に与えた感情を維持するために、更に、より過激な暴力描写の連射による、所謂、「驚かしのテクニック」をエスカレートさせるシークエンスを繋いでいくのだ。

 観る者の心理は、その連射によって形成された感情の「閾値」を上げていかねばならなくなり、次第に疲れ果てたところで映画が閉じていくという、定番的なパターンのうちに収斂されるだろう。

 確かに「サイコ」においても、幾つかの「驚かしのテクニック」を駆使しているが、しかしそれは、より過激な暴力描写の連射というよりも、次々に観客を裏切っていく物語展開の巧みな表現技巧によって、事件の本質に肉薄する観客のアプローチを削いでしまうという、ほぼ完璧な映像の仕掛けの範疇に収斂される何かであると言っていい。

 それは紛れもなく、人間の恐怖感情の心理構造に見合ったものである。

 要するに本作は、物語展開を読み解くことで安寧を得るだろう、一般の観客心理を矢継ぎ早に壊していくことのうちに、真の恐怖が横たわることを検証し得た、殆ど史上初の実験映画なのである。

フランソワ・トリュフォー
「この映画は異常性に向かってどんどんエスカレートしていく構造になっています。まず姦通のシーンにはじまって、大金の持ち逃げ、そして殺人、ついでまた殺人があり、最後に精神異常(サイコ)に到達します」(前掲書)

 このトリュフォーの言葉は、前述したヒッチコックの説明と決して矛盾しないのだ。

 「異常性に向かってどんどんエスカレートしていく」物語展開が、過激な暴力描写をより希釈化させていく最適テンポの展開の中で、最終的に精神異常(サイコ)の闇の深奥に到達することで、一級の心理劇としての完結点が確保されるからである。



 2  「人は皆、罠にかかっていて、そこから逃げだせない」 ―― ノーマンの心象風景



 加えて、この映画が出色なのは、そのリンクを簡便に済ます程に、「観客の同化をゆるさない映画」(トリフォー)であるという点である。

 「観客の同化をゆるさない」からこそ、観客には、より客観的、且つ知的なスタンスの確保が保証されるだろう。

 容易に軟着点を手に入れられない数多の観客は、カオスの杜に捕捉されつつも、映像が提示した人間の問題の奥の深さを感受し得るのだ。

 このスタンスが、犯人のノーマン・ベイツに対する心理的アプローチを容易にし、ラストシーンでの精神分析医の説明を咀嚼可能にするとも言える。


 ―― 件の精神分析医の説明に辿り着くまでのノーマン・ベイツの心象風景を、物語から確認してみよう。
 
 「人は皆、罠にかかっていて、そこから逃げだせない。もがいたところで、互いに傷つけ合うだけ。少したりとも動くことはできない」

 これは、既婚者であるサムとの結婚を願って、会社の金を横領して逃げて来たマリオンが、郊外の人気の少ないモーテルに宿泊した際に、そのモーテルを運営するノーマン・ベイツが語った意味深な言葉。

 「自ら、罠にはまる時もある」とマリオン。
 「僕も罠の中だが、もういい」とノーマン・ベイツ。

 本作の根幹に関わるノーマン・ベイツの心象風景が、そこに透けて見えていた。

 更に、ノーマンは初対面の若い美女に、自分の過去まで語り継ぐのだ。

 「母さんは病気なんだ。父が死んだ時、僕は5歳。そんな母さんが、数年前、ある男と出会った。母さんは男の言いなりに、このモーテルも建ててやった。男が死んだ時、母さんには衝撃が大き過ぎた。男の死で、母さんは全てを失った・・・僕は母さんを捨てられなかった・・・憎いのは、母さんを変えてしまった病気なんだ」

 ノーマン・ベイツが語った言葉の中で、最も重要な〈自己史〉の一端が、そこに捨てられていた。

マリオン
彼は明らかに、このとき、マリオンに一目惚れしていたのである。


 この直後の、マリオンのシャワーシーンでの惨殺。

 そして、マリオンの居所を捜索する、私立探偵アポガストが到達したモーテルでの惨殺。


 後者の印象深い惨殺場面のショットについて、ヒッチコックは説明する。


 「キャメラを思いきって高い位置に持っていくことにした・・・主要な理由は、階段の全景のロングショットと出刃包丁で切りつけられた瞬間の男の顔のクローズアップとのコントラストを強調するためだった」(前掲書)

 
マリオンのシャワーシーン
以上の2つの「失踪」を問題視した、マリオンの妹ライラとサムが動くことで、物語展開はノーマン・ベイツの心象風景の核心に迫っていく。

 「ベイツ夫人は、恋人が既婚者だと知って毒殺した。そして自分も同じ毒を呷(あお)った」

 ライラとサムに語られた保安官代理の言葉は、予想されたものとは言え、観客を欺く映像が提示した決定的な台詞であるだろう。

 「ノーマンが、ベッドの中の二人を見つけた」
 
 保安官代理夫人が、夫の言葉をフォローする。

 この会話の後、モーテル内での、ノーマンと母との会話に繋がれていく。

 「ごめんよ。お前が間抜け面で言うもんだから」
 「母さん・・・」
 「地下の貯蔵室に隠れろだって。やなこった!一歩たりとも、この部屋から出ないからね。全くなんて息子なんだ」
 「あの探偵のように、きっとまた誰か来る。ほんの数日でいいから隠れてよ」
 「あんなジメジメしたとこ、一度で沢山だ。もういい。お前など私の部屋から出ていけ!私に触らないで!」

 ここで、ノーマンが母を抱き上げながら移動するシーンが、俯瞰ショットで映し出された。

 この時点で、再び観客を欺くヒッチコック。

 ベイツ夫人の死は、真実だったのか。

 そう考える観客が多いだろう。

 「あれは幻覚だったかも」と言う、サムの言葉が補完されるからだ。

 「私の眼で確かめたいわ」

 ライラはそう言って、サムと一緒にモーテルに直行した。

 モーテルに着いたサムが、ノーマンの相手をする間に、ライラは屋敷に忍び込んだ。


 ライラが地下室で見たもの ―― それは女性の服装を纏(まと)ったベイツ夫人のミイラだった。

 叫び声をあげるライラ。

 ライラの後方から襲いかかる老婆。

 その老婆を、後方から羽交い締めにするサム。

 老婆の正体は、ノーマン自身だった。

 事件は解決したが、ベイツ夫人のミイラの存在によって、欺かれ続けた観客は、一切が合理的に説明できることに納得するだろう。

 但し、ベイツ夫人の声色の問題を除けば。



 3  強い人格としてのベイツ夫人の支配力 ―― ノーマンの精神分析



 事件の解決後も、関係者には、ノーマンの心象風景の本質の理解は不分明だった。

 物語展開の終焉は、ノーマンと接見した精神分析医の説明によって明らかにされていく。

 その精神分析医の長いレクチャーを再現しよう。

 「ノーマンはもういない。元々、半分の存在だったが、それさえも奪われた。ノーマンの心の半分は母親だった。

 始まりは10年前。彼が母とその恋人を殺した時だ。実父の死後、彼は常に危険な状態だった。彼の母は息子に依存し、多くを求め、長年、二人だけの世界で暮らした。だが、母に恋人ができ、彼は捨てられると思った。その恐怖で二人を殺した。母殺しは耐えがたい犯罪だが、誰よりも犯人にとってそうだった。

彼は自分の犯罪を消し去りたいと願い、母親の死体を盗んだ。そして盗んだ死体を地下の貯蔵室に隠し、保存処理も施した。

 やがて、ノーマンの半分は母親として振舞い始める。

 時には、2つの人格が共存し、会話さえした。母親の人格がすべてを支配する時もあった。完全なノーマンはいないが、完全な母親は存在した。

 ノーマンの激しい嫉妬心は、母親の嫉妬心になった。そのため、彼が他の女性に魅了されると、母親の嫉妬が燃え上がる・・・

 彼はお姉さん(マリオンのこと)に魅力を感じ、欲情した。母親はそれに嫉妬し、彼女を殺害。犯行後、ノーマンの人格が現れ、孝行息子の如く、彼は母の犯した罪の痕跡を消した・・・

 女装の理由は、母親が生きていると信じたいための行為だ。一つの心に二つの人格が宿れば、必ず戦いが起こる。ノーマンの中の戦いが終わり、強い人格が勝ったんだ」(筆者段落構成)

 それ故、現在は、より強い人格としてのノーマンの母親だけが残っていて、ノーマンはもう存在しない。


 精神分析医は、そう言い切ったのだ。


ノーマン・ベイツ
この説明で判然とするのは、ノーマンが「解離性同一性障害」であるということである。

 「解離性同一性障害」とは「解離性障害」の一種で、所謂、多重人格と呼ばれる状態を指すもの。

 19世紀後半に発表されたスティーブンソンの小説、「ジキル博士とハイド氏」という二重人格で有名な物語によって、既に人口に膾炙(かいしゃ)しているだろう。

 要するに、本来一人の人間を、その内面に潜む二つの異なった人格に振り分けて、相互に背馳する行動を描いた極端に誇張された物語だが、1932年には映画化されている。

 更に1992年には、「24人のビリー・ミリガン」(ダニエル・キイス著)が出版され、強盗・強姦事件の犯人であったビリー・ミリガンが24人もの人格に分離されていて、「多重人格障害」(解離性同一性障害)という概念まで話題になったほど。

 この「多重人格障害」という概念は、WHO(世界保健機関)によって公表された分類である、「ICD(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)-10」における呼称であるが、自我同一性の欠損による疾患として把握されている。

 しかし、その原因にはあまりに不分明の部分が多く、誤診の可能性のリスクが常に付きまとうので、独断的判断は危険であると言っていい。

 唯、この「解離性同一性障害」と思われる人物の犯罪の心理的風景の本質を、精神分析医の鋭利なレクチャーによって物語を終焉させる映像が、既に50年前に製作されていたのである。

 さすがに、精神分析の影響が最も大きかったアメリカの専門性の分化に、正直、驚かざるを得ない。


クロルプロマジン・Drug Expressより
但し、現在は認知行動療法(行動主義に立脚した心理学的アプローチによる行動療法・心理療法)の有効性の確認や、クロルプロマジン(向精神薬)の普及によって「閉鎖病棟」の開放化を具現したことで、精神分析は相対化されるに至ったことも事実。

 そして、エビデンス(根拠)の問題は、未確認の状況を常態化させているが、私個人としては一定程度、人間心理の分析の学習の参考に利用している。

 ―― さて、その映像のこと。

 残念ながらと言うべきか、精神分析医の説明を借りて分析するノーマン像について、最も重要な彼の自我の形成過程に触れていないのだ。

 当然である。

 映像の被写界深度の深さ(パンフォーカス)は、そこまでの支配能力を持っていないし、その必要性もないからである。

 しかし、「人生論的映画評論」の視座で言えば、彼の自我の根幹を形成したノーマンの母親の人格像の内にこそ、自分への占有感情を作り出したノーマンの自我形成に関わる起動点が伏在している事実を疑えないからだ。

 従って、「ノーマンの個人の犯罪性」という把握のうちに、一切を収斂し切れない厄介な問題が置き去りにされているのである。

 映像のラストシーン。


 強い人格としてのノーマンの母親のモノローグが、ノーマンの人格の内側から真情を吐露するのだ。

 「息子の罪を話なんて、母としては辛いけど、私が殺人犯にされるのは御免よ。もっと早く、あの子を追い遣るべきだった。昔から悪い子だけれど、遂には、私が何人も殺したと言おうとした。まるで、私が何かできるみたいじゃない。鳥の剥製のような存在なのに・・・」

 ボイスオーバーのように流れてくるベイツ夫人の声だけが捨てられて、人格異常と紛う方ないノーマンの表情を覆い尽くすのだ。

 それは、まさに「サイコ」の世界の独壇場だった。

 単に「面白いだけの映画」に終わらなかった映像の余韻は、50年経ても、なお息づいているのである。

 「映画というのはシェイクスピアの芝居のように、観客のために作られるべきなんだよ」(前掲書)

 このヒッチコックの言葉こそ、低予算の制約の中で、本作に全力投入した希代の映画監督の本領発揮というところだろう。

(2010年12月)

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