2011年3月24日木曜日

黒水仙('47)      マイケル・パウエル


<「内的秩序」の防衛力の「脆弱性」>



1   全きリアリズムの世界に身を預け入れた尼僧たちの挫折の物語



ヒマラヤ山麓の小さな村で、子供たちの教育や奉仕活動のために、カルカッタ(現在のコルカタ)の尼僧院から、強い使命感を抱いて赴いた5人の英国の尼僧が、そこで直面する苛酷な自然環境と「異界」の文化風土によって、次第に疲弊し、信仰心を希薄にしていく。

領主と親交を持ち、すっかり現地に土着した、唯一の英国人男性のディーンは、それまでもそうであったように、彼女たちの能力の限界を見抜き、雨期まで持たないとシニカルに言い切った。

そんな厳しい全きリアリズムの世界に身を預け入れた、若き尼僧院長の名はクローダー。

以下、疲弊し切ったクローダーと、ディーンとの会話。

また、ディーンへの一方的想いから、クローダーへの激しい嫉妬に悩む尼僧であるルースの尖った視線が、僧院の陰になった潜みから投げかけられていた。

「この土地は人を変えます」と尼僧クローダー。
「あなたさえね」とディーン。
「私、そんなに?」
「そう。良くなった」
「良くなった?」
「人間らしくね」
「人間?皆、人間ですものね。昔、私にも好きな人が。アイルランドにいた頃で、幼馴染でした。皆、決めていました。結婚するものと。でも、野心家の彼はアメリカへ行くつもりでした。私を同行せずに。彼は多分、結婚など考えていなかったのね。小さな町で、皆が私の恋心を知っていた。居づらくなって・・・」
「それで、修道会に?」

頷くクローダー。

「誇りが傷ついた訳だ」
「動機はどうあれ、神の御業は不思議です。そこに充足があったのです。理解しにくいでしょうが、自分を神に捧げ、全てを忘れていました。ここへ来た日に、彼を思い出しました。彼を愛した頃が蘇ってきたのです。王子を見ても、彼のことが・・・外の世界も押し寄せて来て、私を夢想させた。もう一度忘れるために、もがいている毎日です」

嗚咽するクローダー。

「深刻に考え過ぎないことだ。嵐は過ぎる」
「シスター・フィリップが去る上、今朝、修院長からの手紙でシスター・ルースが誓願を新たにしないと」
「残念だ」
「そして、あなた!ここに来て以来、皆、事あるごとにあなたを頼りにして」
「他に誰もいないからだ。ここを去るんだ。すぐに」
「逃げろと?」
「それしかない」
「仕事をやりかけで?」
「そうだ。修道院には向かない。全てを誇張するものが大気中にある。引き上げるんだ。何かが起こらないうちに」

この会話の中に、強い使命感を抱いて赴いた5人の英国の尼僧の疲弊感が凝縮されていた。

激しい嫉妬感も手伝って、いよいよ精神を病むに至るシスター・ルース。

信仰心を捨てて、髪を切るシスター・ルースは、クローダーにその思いを噴き上げた。

「魂胆は分ってるわ。監禁する気よ!その手に乗るものか!」

口紅を塗りたくることで、シスター・ルースは尼僧院の存在価値を否定するのだ。

まもなく、彼女はディーンの前に現れた。

片想いの対象人格であるディーンに、彼女は想いを告白するが、当然、相手にされることはない。

自棄的になったシスター・ルースが取った行動は、クローダーへの殺意を具現化することだった。

狂気の笑みを浮かべた彼女は、断崖絶壁に建つ尼僧院の鐘を突くクローダーを突き落とそうとした瞬間、足を踏み外し、そのまま落下していったのである。

それは、心身共に疲弊し切った尼僧たちの奉仕活動の終焉したことを告げる、決定的な事件となった。

初志を貫徹できずに、カルカッタに帰還するクローダーと、彼女を見送るディーン。

二人は握手を交わして、別れを惜しんだ。

ヒマラヤ山麓に降る雨に濡れて、哀感を込めたディーンの表情が映し出されて、映像は閉じていった。



2  「内的秩序」の防衛力の「脆弱性」



限りなくどろどろとした、世俗の塵界と切れた世界で呼吸を繋いでいて、そこに特段の不満がなければ、人は世俗の世界で記憶していた人並みの感情を剥き出しにすることはないだろう。

そこに、「内的秩序」が形成されているからだ。

しかし、この「内的秩序」は絶対的なものではない。

と言うより、「絶対的秩序」などというものを構築し得るほど、人間の能力は絶対的ではないのである。

だから、私たちが作る「内的秩序」は、全て「相対的秩序」であると言う他はない。

厄介なのは、この「相対的秩序」を履き違えて、そこに過剰な幻想を抱くのも、私たち人間の性(さが)であるということだ。

このような人間の厄介さを、私は「脆弱性」と呼んでいる。

人間の「脆弱性」を経験的に理解し得ない者は、理解し得ない分だけ現実から遊離し、拠って立つ物語の破綻のリアリティの侵蝕によって、無秩序の世界に放り投げ出されるだろう。

そこに、人間の不幸の一つがある。

本作で描かれた世界とは、詰まる所、このような人間の「脆弱性」であると言っていい。

相対的に保持されていた、「内的秩序」の安寧から抜け出した者たちがいた。

彼女たちは、尼僧院という特殊なシステムの「内的秩序」によって形成された、その能力の範疇を遥かに超えた、全きリアリズムの世界に飛び出していったのだ。

そこは、彼女たちが経験的に繋いでいた世界と、殆ど対極にある「異界」の小宇宙であった。

恐らく、それまで以上に無知が蔓延(はびこ)る「異界」の文化風土の中にあって、普通に呼吸を繋ぐ人々の外気が彼女たちを囲繞し、不断に難題を持ち込んでくる。

村の赤ん坊の病気に何もできなかった無力感に象徴されているように、彼女たちは、そこに出来する様々な出来事に充分に対応できない能力的劣化を見せつけられたばかりか、人間の普通の感情が塒(とぐろ)を巻く臭気に搦(から)め捕られることによって、彼女たちが依拠していた「相対的秩序」が加速的に破綻していく。

本来、そこにアクセスしなければ遭遇しなかったに違いない、世俗の普通の欲望系がダイレクトに侵入して来ることで、或る者はは絶え絶えになっていくのだ。

激しい嫉妬に取り憑かれた尼僧は、その嫉妬によって自滅していくに至った。

能力の範疇を遥かに超えた難題の累加で、精神的に疲弊し切った尼僧は、転任を申し出た。

この世界と縁を切ることで、辛うじて自己防衛を果たそうとしたのである。

結局、使命感という名で集合した尼僧たちの物語は、彼女たちが勝手に「異界」と見做す、「非文明」の世界の秩序と融和できずに自壊する運命をなぞっていった。

尼僧院を借景とした本作の内実は、「異界」の文化風土の中で翻弄される尼僧たちの苦悩を通して、人間の「脆弱性」を描いた作品であると見ることが可能だ。

どれほど武装したつもりでも、人間の自我が構築する「内的秩序」の防衛力は高が知れているのである。

本作から私が受けた感懐は、それ以外ではなかった。

三原色に分解して記録する手法であるテクニカラーで描いた本作は、人間の感情を原色系の色彩によって露わにする表現技巧を駆使したつもりだろうが、映像としての完成度は決して高くない。

それは、、禁断のスポットでの〈性〉の問題をテーマにした、「尼僧ヨアンナ」(1961年製作)と比較すれば瞭然とするだろう。

「黒水仙」という、原題(Black Narcissus)通りの本作もまた、「世俗の欲望系」を意味していると思われるが故に。

表現も過剰であり、物語構成にも瑕疵が多過ぎる。

とりわけ、シスター・ルースの嫉妬による自滅のシークエンスに至っては、過剰極まる露骨な描写の挿入によってしか表現し得ない、その精神病理の心理描写の稚拙さが、物語の均衡感を内側から崩してしまっていた。

何のことはない。

これはデボラ・カーの美しさを際立たせるための一篇だった。


(2011年3月)

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