<個性の顕示を捨てない文化的風景を見せる母娘の絆の物語>
「スーパーマン」や「スーパーウーマン」が登場せず、「善悪二元論」による人物造形を押し付けることなく、且つ、特段に洒落た会話も、映像を決定付ける感動譚のエピソードを全く拾うことをせず、更に、俳優目当ての映画鑑賞のモチベーションも殆ど感じられない。
そこに日常性を危うくするエピソードの幾つかを散りばめただけで、物語を、一貫して淡々と繋ぐ映画と130分付き合うことは些か難儀だったかも知れない。
と言うより、本作は、非日常の極点である〈死〉によって閉じる、30年に渡る母娘の絆の物語でありながら、特別に憎み合うことはないものの、外気はたっぷり吸入するが、そこだけは密閉された、二人分の容量を持つカプセルに収まったような母娘の、その関係様態の葛藤の日々を延長させつつ、適度な距離を取り、それぞれの〈個〉としての〈人生〉を、殆どごく〈普通〉に感受されるような振れ方で描き切った映画だった。
この類の映画は、情感系映画の洪水の如き邦画に馴致した人たちには、殆ど馴染まないのではないか。
そこには、ロマンティシズムの片鱗もなければ、「愛こそ全て」などという奇麗事でまとめ上げる物語構成を、明らかに拒む作り手の意志が垣間見えるからだ。
だから、感情移入の是非によって、映画の「完成度」の高さを決めるアプローチの狭隘さでは、とうてい拾い上げられる何ものもないだろう。
一日たりとも娘のことが気がかりで、娘夫婦によて形成された物理的距離感を、一本の電話で補完していく母の愛情の内実は、母性による「無限抱擁」という括りの中で収斂されるまでもない。
それでも、そこには〈人生〉がある。
そこで描かれた登場人物への感情移入を遮断するかのような人物造形を思うとき、特段に美化されるような〈人生〉ではない、ごく普通のサイズの〈人生〉がある。
その〈人生〉は、キャラクターとしての求心力に乏しい者たちの〈人生〉であるからこそ、観る者の適温性の許容値を超えないものだろう。
それ故、中々思うようにならないけれど、それでも簡単に捨てることができない〈人生〉なのだ。
ジェームズ・L・ブルックス監督 |
それでもロマンティシズムの芳香を切り捨てた人生を繋ぐ物語を描くなら、恐らく、このようなものになると思わせる説得力があった。
しかし、その説得力は、ウェットなアメリカ人の自己主張と、娘が入院する病院で怒鳴り捲る母の尖り方に象徴されるように、どこにあっても、個性の顕示を捨てないと思わせる文化的風景を前提にする何かだった。
娘が残した孫たちを引き取って育てる、シャーリー ・マクレーン扮する勝気な中年祖母の〈人生〉の稜線が、この物語の見えない辺りにまで延ばされていて、そこから開かれる〈人生〉の新しい展開の艱難(かんなん)さを暗示しつつ閉じていく物語には、一切の欺瞞的言辞が侵入する余地が全くなかった。
そこがいい。
恐らく、そこだけが印象付けられた、ある種、典型的なアメリカ映画の一篇だった。
(2011年3月)
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