<「閉鎖系の空間」を「解放系の空間」に変容せしめた「思春期爆発」の決定力>
1 思春期状況に呼吸を繋ぐ少年少女たちを捕捉する、「非日常」の未知のゾーンの危うさ
本作の基幹テーマは、映像の冒頭のシークエンスのうちに凝縮されている。
某地方都市の木曜日の夜。
市立中学校のプールで密かに泳いでいた一人の少年が、たまたま、プールサイドで踊り戯れている5人の女子中生によって悪戯され、溺死しそうになったシークエンスである。
それは、コースロープを体に巻きつけられ、プールの水を繰り返し飲まされるという、相当に悪質な悪戯だった。
為す術なく、救いを求める一人の女子中生。
野球部のランニング練習で、偶然通りかかった被害少年の二人の親友が、事態の深刻さに驚き、必死に蘇生させようとしたが、容易に蘇生しなかった。
まもなく、事故の連絡を受けた担任教諭が急いで駆けつけて来て、5人の女子中生に厳しく説諭して、一件落着というもの。
このシークエンスが示したもの ―― それは、「日常性」と「非日常」の狭間の往還で揺れる中三生が、悪戯半分の「日常的行為」を逸脱したとき、そのボーダーが曖昧になっていればいるほど、彼らの未成熟な自我が、「非日常」のゾーンに捕捉されてしまうリスクが高いということ。
即ち、14、5歳の思春期状況に呼吸を繋ぐ少年少女たちが、「非日常」のゾーンのうちに、いとも簡単に「境界越え」を果たしてしまいやすいということだ。
更に、「境界越え」の先にある、「非日常」の未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまうときの、少年少女たちの自己解決能力の脆弱さである。
要するに、「非日常」の未知のゾーンからの蠱惑(こわく)的で、様々なシグナルに対して、「何でもやってみなければ分らない」という、能動的好奇心と共存する危うい心理が、今にも飽和点に達しつつある程にプールされた彼らの情動を引き摺り出して、それを外部に噴き上げていくには、噴き上げさせていくに足る条件さえ揃っていれば容易であるということだ。
そのようなナイーブな内的状況を最も尖らせている特殊な時期こそが、「青春前期」のとば口に当たる14、5歳の思春期状況であり、その特殊な状況下で噴出した熱量の供給源が、そこで惹起する「理解不能」の行動様態の継続力を保証してしまうのである。
そんな難しい時期にある少年少女たちにあって、哀しいかな、自己解決能力の脆弱さを一定程度克服していく時間を持ち得るのが、彼らが社会に自立的に這い入っていくまでの、「青春前期」のとば口に当たる思春期過程の渦中でしかないという制約が、厳として存在するのだ。
この時期は、自己解決能力を養うモラトリアムであると言っていい。
スチール写真より |
映像に戻る。
このとき、マウスツーマウスの蘇生法を遂行した少年だけが、学習された内実を会得していることで、一定の自己解決能力を検証したのである。
しかし、他の中三生たちは、自分の力で何もできない状況下にあって、ただ狼狽し、時間を持て余して、プールサイドで遊んだりする始末なのだ。
最終的に、彼らにとって、「仮想敵」である担任教諭に一切を丸投げしたという現実こそが、「境界越え」を愉悦する彼らの、不可避なる思春期状況下の自己解決能力の脆弱さを露呈させるものであった。
この映像の冒頭のシークエンスは、そこから開かれる「嵐の3日間」の前兆と言っていい。
自己解決能力の脆弱さを露呈させつつも、このプールサイドに集合した8人の中三生たちの、飽和点に達しつつある情動を噴き上げさせていくに足る条件が、台風という自然災害の襲来によって揃ったとき、少年少女たちは、殆どそれ以外にない自己運動を開いていったのである。
マウスツウマウスの蘇生法を遂行した少年の名は、三上恭一(以下、三上)。
そして、その少年と共に、ランニングをしていた中三生の名は、清水健(以下、健)。
そこにいた5人の女子中生たちの中に、本作で独自の自己運動を開いていく高見理恵(以下、理恵)がいた。
三上(左)と理恵 |
更に、担任教諭の名は梅宮。
「熱中教師」とは無縁な人物だが、少年少女たちの「仮想敵」としての一定の役割だけは果たしていた。
前述したように、冒頭10分間弱までの物語の展開の中で、「溺死事故」に関わった者たちの自我が抱える危うさや不安心理が凝縮されていて、これが、台風の到来を期待する理恵の思い通りに進行する事態の推移が濃密に絡み合い、台風一過の「大騒ぎ」の後の、退屈極まる「日常性」のうちに流れ込んでいく物語が閉じていくのである。
2 「全身思春期」の少年少女たちの情動の氾濫
翌日の金曜日。
ここに、三上と理恵の簡単な会話がある。
場所は、彼らの教室。
「あーあ、台風来ないかなあ。ねえ、来ると思う?」と理恵。
「お前、最近、変だなぁ」と三上。
「そっちこそ変だと思う」
「どこが?」
「野球辞めてから大人しくなった」
窓から上半身を出したり、机に寝転ぶようにじゃれていたり、といった理恵の仕草は日常的風景なのだろうが、三上には台風の到来を期待する理恵の思いが測り切れないようだった。
担任教諭の梅宮の恋人の母親が教室に闖入(ちんにゅう)し、数学の授業が台無しになる騒ぎが出来したのは、この日のこと。
そして、土曜日。
日常化した三上のコールに起きられず、学校をサボる理恵。
鏡台の前で髪を後ろに束ね、、布団に潜り込み、「母さん・・・」と声をあげながら、自慰行為に耽るのだ。
理恵が、学校を前に軽く会釈して家出したのは、その直後だった。
その頃学校では、昨日の担任教諭の梅宮の不祥事に、一部の生徒たちがボイコット反応を示し、再び、数学の授業が台無しになる騒ぎが出来した。
「昨日のことを説明して下さい」
梅宮に詰め寄る美智子。
冒頭のシークエンスで、救いを求めて走っていた女子中生である。
サボる他の少女。
ここで、美智子を非難する少年と健が喧嘩し、統制困難な事態になった。
嵐の前の小爆発である。
「お前ら何か変だよな。何で、こうなっちゃっうわけ?」
お手上げ状態の梅宮の言葉。
台風間近なのだ。
ここで、俄(にわか)に雨が降る。
「多分、僕が一番初めに雨を見た」
「溺死事故」の少年の言葉だ。
風雨が激しくなってきて、校内放送で生徒たちの速やかな下校を求めている中で、校内に残った生徒たちのドラマが開かれていった。
自分が詰問した梅宮の答えを待つ美智子を、片思いの健が迫って行く。
台風・イメージ画像 |
美智子の下着に手をかけ、それを暴力的に裂いた。
しかし、そこまでだった。
美智子の背中を目視したからだ。
片思いの健は、否が応でも想起せざるを得なかった。
桜咲く陽春に、この少年は、美智子の背中に酸をかけて重傷を負わせてしまったのである。
「こっち来て見なさいよ!この傷、一生残るわよ!どう責任とんの?」
その日、健は保健室の養護教諭から厳しく叱られたのである。
一方、台風の夜に、「全身思春期」を体現した少年少女たちがいた。
家出したらしい理恵のことで悩む三上は、帰りそびれていた。
演劇部の部室に閉じこもっていた3人の女子中生もまた、帰宅の意志を持たず、嵐の渦中で情動を騒がせていた。
美智子への「贖罪」観念を萌芽させていた健たちも、校内に残っていた。
この6人が、今や誰もいない空間を占有しているのだ。
それは、「全身思春期」の少年少女たちの、封印を解いた情動の氾濫の前触れと言っていい空気を作り出していた。
3 思春期彷徨の少女の「非日常」
一方、家出した理恵は、台風直下の東京にやって来た。
彼女もまた、「全身思春期」の少女の彷徨を、未知のゾーンで弄(まさぐ)っていた。
そんな少女が、軟派目当ての大学生(?)の下宿先に上がり込んでいた。
その大学生の下宿先で、束ねた髪を後ろから撫でられていたとき、理恵は唐突に切り出したのだ。
「あたし嫌なんです。閉じ込められるの。閉じ込められたまま年とって、それで土地の女になっちゃうなんて・・・耐えられないんです。三上君は卒業したら東京の高校に入るって言うし、そしたらあたし・・・あたし帰ります」
「全身思春期」の少女が語ったのは、自分に冷たい反応をする三上への想いだった。
「帰るって今からか?泊っていくんじゃなかったのかよ」
怒りの感情を露呈する、軟派目当ての大学生。
「そのつもりだったんですが、やっぱり、御迷惑だろうし」
「迷惑じゃないよ。お前、泊っていけよ。明日、日曜日だし。一日東京で遊んで行って、それから帰ればいいだろう。な、いいだろう?」
苛立つ大学生が、帰ろうとする理恵を軽く平手打ちし、座らせようとする。
「でも、皆心配しているだろうし。やっぱり、帰ります」
それでも帰ろうとする意志を曲げない少女に、大学生の方が諦め気味になった。
「お前、本当に帰るのか?」
「はい」
「俺、送んないぞ」
「大丈夫です。一人で。声掛けてくれて、感謝しています。本当に。どうもありがとうございました。さようなら」
これは、「思春期のジレンマ」を最も象徴的に表現したエピソードと言っていい。
映像総体の中でも、極めて重要なシーンである。
「閉じ込められる」青春前期で揺れる自我が、それを拒否しても、自己の近未来にもなお、「土地」や「家族」に「閉じ込められる」生活が延長されることへの不安を感受してしまう、「思春期」ならではの「閉塞感」を瑞々しく表現し得たからである。
帰途、東京を襲う台風とは無縁な、無国籍的なアーケードの一画で、柔和で醇朴(じゅんぼく)な音色を特徴とする、オカリナを吹く男女と遭遇し、興味深く足を止める少女。
白い布で互いの体を巻き付けて、ドーランを塗りたくった男女の、「自由自在」なパフォーマンスを見て、少女は解放感を得るのだ。
もうそれだけで、「母」を求めた少女の思春期彷徨は、充分に意味を持つ「非日常」の時間となっていた。
4 「思春期爆発」の危うさが内包する映像のパワーが炸裂した後に
校内に残っていた三上が、皆の家庭を心配して、担任教諭の梅宮に電話する重要なシーンがある。
恋人の親との和解を果たしたことで、懇親の飲み会を自宅で愉悦し、すっかり酩酊した梅宮の態度に立腹する三上。
彼は観念系の濃度の深い「哲学少年」なのだ。
「あなたは悪い人じゃないけど、でも、もう終わりだと思います」
「哲学少年」は、担任教諭に向かって、「糾弾」するのだ。
「もしもし、何だって?」と梅宮。
もう、酔いが醒めている。
「僕はあなたを認めません。一方的過ぎるかも分らないけど」
それでも、「糾弾」を止めない「哲学少年」。
「何言ってんだ、バカ野郎!俺はなあ、酔っぱらってるけど、よく聞こえてるんだぞ・・・いいか、若造。お前はな、今、どんなに偉いか知らんがな、15年もたちゃ、今の俺になるんだよ。あと、15年の命なんだよ、お前。覚悟しとけよ!」
これは説諭ではない。
担任教諭という「記号」を捨てた男の、経験的人生訓である。
「僕は絶対にあなたにならない!」
そう叫んで、電話を切る「哲学少年」。
これもまた、このようなタイプの少年の、それ以外にない「思春期爆発」なのだ。
まもなく、「思春期爆発」を噴き上げた「哲学少年」を交えた6人は、広い体育館の中でカセットの音楽に合わせて踊り始めていく。
全員下着姿になって、彼らなりの「思春期爆発」を愉悦するのだ。
思春期彷徨をなお繋ぐ、東京の少女と軌を一にして、体育館を飛び出した6人は、豪雨に濡れながら、「もしも明日が」を叫ぶように歌い出す。
もしも明日が 晴れならば
愛する人よ あの場所で
もしも明日が 雨ならば
愛する人よ そばにいて
今日の日よ さようなら
夢で逢いましょう
そして 心の窓辺に
灯りを灯しましょう
もしも明日が 風ならば
愛する人よ 呼びに来て
それが、7人の「思春期爆発」のピークアウトだった。
「哲学少年」の三上を残して、全員が教室内で眠ってしまうのだ。
曜日が変っても眠らない「哲学少年」は、教室内の机と椅子を積み重ねて壇を作り、そこに上った後、覚醒した6人を前にして、「人生最後」のスピーチの披露を放ったのである。
「皆、今からいいもの見せてやるから、起き上がって見ていてくれ。俺、分ったんだ。なぜ、理恵が変になったか。なぜ、皆がこうなってしまったか。俺は分った。つまり、死は生に先行するんだ。死は、生きることの前提なんだ。俺たちには、厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。だから、俺が死んで見せてやる。皆が生きるために。いいか、よく見てろよ!これが死だ!」
猛烈な台風の渦中にある、「思春期爆発」を嘲笑した担任教諭の「存在性」を否定すると同時に、「厳粛に生きるための厳粛な死」を自ら検証するために、「哲学少年」は「死のダイブ」を敢行したのだ。
しかし、「個は種を超えられるか」ということを、東大生の兄に問いかけた「哲学少年」の壮絶な自死の結末は、「厳粛な死」というイメージとあまりに乖離したものだった。
それは、泥濘の中に、まるで倒立して開いた両足だけが晒されたオブジェにも似て、滑稽な外観を呈していた。
この「狂気」の如き構図の意味は、観念系の濃度の深い「哲学少年」への、痛切なアイロニーと読むことが可能だろう。
残酷なる構図を見せる作り手の「狂気」によって相対化させるには、既に「遊び」の範疇を越えていると言えるかも知れないが、「非日常」の極点としての〈死〉を提示する程に、「思春期爆発」の危うさが内包する映像のパワーは存分に炸裂していた。
台風一過の、月曜日の朝。
クリアになった心で、理恵が「プール事故」の明と出会い、いつもと違う「パートナー」を組んで登校していく。
この構図がラストカットとなって、それぞれに「思春期爆発」を通過した少年少女たちの「日常性」が復元したのである。
4 「閉鎖系の空間」を「解放系の空間」に変容せしめた「思春期爆発」の決定力
精巣からテストステロン、アンドロゲン、卵巣からエストロゲンが分泌され、性別による個体差を明瞭に分ける「性的二形」の現象によって、性的成熟を顕在化させる「第二次性徴」が発達する時期 ―― それを「思春期」と呼ぶ。
思春期・イメージ画像(サイトより) |
「自分とは何か」
「自分は何を求めているのか」
そんな〈生〉の根源的問題をも包括する自己提示を為すが故に、なお内側で封印された情動が噴き上げていく事態の到来は、「思春期」の〈性〉と〈生〉を爆発させ得るだろう。
そんな「思春期爆発」を、作家的表現力によって映像化した傑作が「台風クラブ」である。
「思春期爆発」を惹起させる事態が、台風という自然災害であったことが、何より映画的なのだ。
台風という自然災害が、「思春期爆発」を惹起させる破壊力を持ち得ることを、ここまで象徴的に描き切った作品を私は知らない。
本作で登場する、中学三年生という極めて難しい時期にある少年少女の、右上がりで「進軍」し、その固有の航跡を顕在化させる自我が、台風の最も激しい渦中に捕捉されることで、内側に封印されたものが噴き上げていく情動の昂揚を抑えられず、その中で揺動する心理を見事に映像化した本作は、邦画史に残る奇跡的傑作と成り得たと言えるだろう。
本作の中で、象徴的に描き出された〈性〉と〈生〉についての描写を、本稿では二点に絞って批評した。
その一つは、理恵の家出である。
もう一つは、学校という「閉鎖系の空間」に閉じ込められた少年少女たちが、縦横無尽に繰り広げた「大騒ぎ」である。
彼らは「閉じ込められた」という意識を、「閉じこもる」というよりも「占有する」という意識に反転させることで、「閉鎖系の空間」を「解放系の空間」に変容せしめたのだ。
詳細は前述した通りだが、両者ともに、〈性〉と〈生〉についての「思春期爆発」を、台風という自然災害による「短期爆発」のうちに象徴的に描き切って、蓋(けだ)し秀逸だった。
ところで、学校という「閉鎖系の空間」を、「占有した」という意識に反転させながら、生身の人格を目の当たりにしたことで、抑制系の自我の琴線に触れ、情動の昂揚を昇華させた少年がいた。
「ただいま」、「おかえり」と呟く健である。
彼は「集団の舞い」の中に、「思春期爆発」を身体化させたのだ。
因みに、その少年が呟く「ただいま」、「おかえり」という意味は、「母」を求める理恵と同様に、このフレーズを必要とする「愛情欠損」の現実を示唆いているというシンプルな読解も可能だが、ここでは、「未だ親という保護者を必要とする子供」である現実から解放し得ない、「思春期のジレンマ」の様態をシンボライズさせたイメージと考えた方が正解かも知れない。
なぜなら、この映画の良い点の一つが、大人と子供を明瞭に分離させているところにあるからだ。
ここには、「金八先生」という「あるべき大人=教師」の視線を拒否し、そこに、「与えられた任務のみを遂行する人並みの教師」像を対峙させ、最後まで「生徒」の視線で描き切ったこと。
それが最も良い。
相米慎二監督 |
ただ、情動が騒ぎ、噴き上げ、抑えられないほど暴れ出す。
それでもなお、この「思春期爆発」を経験することは全く悪いことではない。
寧ろ、必要なことなのだ。
そして、「思春期爆発」の壁になる、「仮想敵」である大人の存在もまた、もっと必要なことなのだ。
多分にM教師(問題教師)的な異臭を放つが、それでも「与えられた任務のみを遂行する人並みの教師」像を、肩肘張ることなく、淡々と繋ぐ中学教諭を演じ切った三浦友和の表現力に、プロの俳優の凄みを感じた程である。
二度目の鑑賞だったが、今回、つくづく良い俳優であることを認知させられた次第である。
(2011年5月)
いつも 見させてもらってます
返信削除なかなか興味深いです
ありがとうございます。
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