2011年6月22日水曜日
エグザイル/絆('06) ジョニー ・トー
<極道の生きざま漂う「哀感」を表現し切れない脆弱さ>
1 「即興演出」的なアナーキー性の臭気を撒き散らす、「黒社会」での暗闘
「女」と「暴力」の絡みを濃密に描くアメリカン・フィルムノワールと違って、「男の観念」・「力の論理」という「極道の情感体系」に加えて、「友情と背反」を基本テーゼにする香港ノワールには、「友情」というファクターが欠かせないが故に、その映像に張り付く「即興演出」的なアナーキー性によって、リアリティを増幅させる効果を持ち得ていた。
そのリアリティも、今や、「マカオのカジノ王」スタンレー・ホーが独占してきたカジノ産業にアメリカ資本が流れ込むことで、少しは風通しが良くなってきた、中国返還間近のマカオを舞台にした本作では、そこもアメリカン・フィルムノワールと違って、美形の俳優を起用することなく、強面だが、どこか人の良い5人の極道が、「男の美学」を身体表現して見せることで倍加するだろう。
極道たちの「友情と背反」という香港ノワールの基本テーゼは、「敵味方」に分れた冒頭の銃撃戦と、その銃撃戦の呆気ない収束によって、些か強引な「友情」の復元を立ち上げるのだ。
殆ど「予定調和」的な「友情」の復元は、暗殺指令を出した「黒社会」(「三合会」に象徴される、香港ノワールの題材とされる裏社会のこと)への「背反」と化すが故に、食卓を囲むことで、反転させた〈状況〉の只中で、「友情」を復元させた、この5人の極道の前途に待ち受ける、極めてハイリスクな〈状況〉の恐怖突破の様態が物語の核となって、「即興演出」的なアナーキー性の臭気を撒き散らす、緊迫感溢れる「黒社会」での暗闘を執拗に描き出す。
然るに本作は、残念ながら、銃撃戦を雑然と繋ぐ平板な物語以上の完成度を持ち得なかったし、それ以下の愚作の類に含まれるほどの瑕疵は免れたと言えようか。
2 極道の生きざま漂う「哀感」を表現し切れない脆弱さ
ただ私は、殆ど完璧なフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」(1972年製作)、「ゴッドファーザーPART II」(1974年製作)を奇跡的例外とすれば、単にスタイリッシュなだけでなく、〈状況〉の変化によって揺れる人間の複雑な感情を描き切ることで、「人間ドラマ」として精緻な構築力を示した、ジョエル・コーエン監督(と言うよりも、コーエン兄弟)の「ミラーズ・クロッシング」(1990年製作/禁酒法時代のマフィア間の抗争)という名画を、フィルムノワールのほぼ最高到達点と考えているので、この映像の完成度と比較すると、「純化された男の友情」という情感世界のうちに、「男の美学」を収斂させただけの娯楽ムービーとしての本作には、どうしても物語性の脆弱さが目立ってしまって、肝心の「増幅されたリアリティ」のファクターが充分に生かされていないと思うのだ。
何より、「エグザイル/絆」は、人間の描き方が粗雑過ぎる。
「インファナル・アフェア」(2002年年製作)で良い味を出していた、ブレイズ役のアンソニー・ウォンの人格像が弱いのだ。
アンソニー・ウォンの人格像のうちに、「男の美学」に収斂されるだろう、「破滅の美学」に流れ込む極道の生きざま漂う「哀感」を、殆ど全人格的表現する役どころを求められていたにも関わらず、他の4人の極道の存在性が、アンソニー・ウォンが内包する自家撞着、即ち、「絶対ルール」を持つ裏社会の組織への「背反」に関わる、微妙な心の振れ具合を十全に補完し得ていないので、何となく、「破滅の美学」に流れ込むフラットなフィルムノワールに終始してしまったという印象が拭えないのである。
加えて言えば、「破滅の美学」などという情感体系とは無縁なウーの、殆ど自滅的な死に衝撃を受けた、彼の妻の存在感があまりに希薄なのだ。
彼女の取って付けたような表現の脆弱さは、詰まる所、物語構成の脆弱さの産物と言っていい。
だからこの映画は、ヤミ医者に外科手術を依頼するシーンで、「敵味方」の双方もやって来るという、安直なエピソードのご都合主義に象徴されるように、単に「空き缶」や「赤子の鈴」などの小道具を駆使した、「普通に面白いだけの粗雑な娯楽作品」というカテゴリーを、全く突き抜けることのないスラップスティックと思しき凡作だったという外にない。
正直、ここまでベタ過ぎる演出を見せられると、スラップスティックの粗雑な娯楽作品と把握しつつも、いい加減、満腹気分を延長させられて食傷気味になるということだ。(画像はジョニー ・トー監督)
(2011年7月)
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