2011年7月15日金曜日

ほえる犬は噛まない('00)     ポン・ジュノ

<ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の様態>



1  過剰な「健全幻想」への挑発のメンタリティをも内包する毒気溢れる長編デビュー作



無自覚に矛盾を犯す人間の多用で複雑な感情・行動傾向を精緻に把握し、洞察する能力の抜きん出た高さを最強の武器にして、それを映像表現していくポン・ジュノ監督の力技は、恐らく、現代の映画界において、一頭地を抜いていると言っていい。

言うまでもなく、この能力を推進力にして映像表現に踏み入っていけば、他人から見えにくい人間の内深くに封印された情感世界を抉(えぐ)り出すことで、通常、私たちが「見たくないもの」や、「見ることから回避しているもの」の裸形の様態を、束の間、眼を背ける選択肢を失って、しばしば執拗に「見させられる不快感」を拾ってしまうことになるだろう。

それは、抉り出された人間の、内深くに封印された情感世界が晒されたときの、冷厳で徹底したリアリズムのあられもない様態であるが故に、少なくとも、「健全幻想」に馴致した多くのモラリストの不興を買うことにもなる。

それでも、人間の内深くに封印された情感世界を欺瞞的言辞で糊塗する「健全幻想」の、その過剰な部分を破壊し得ることで手に入れられる均衡感こそ、何より、真に「健全なる社会」の有りようであることを信じて止まないモチベーションが、ポン・ジュノ監督の作家性の高い映像表現を根柢から支え切っているのだろう。

東京国際映画祭で絶賛されながら、自国で不入りだった、本作の「ほえる犬は噛まない」こそ、ポン・ジュノ監督の長編デビュー作として選択された作品だった。

高層団地の管理事務所に勤務するヒロインが、仕事に対して全く無気力で、如何にも男勝りで、車のサイドミラーを跳び蹴りで破壊するような、パワフルな親友と勤務中にクロスワードパズルに興じていたり、ルール違反のペット飼いなどという辺りは、ギリギリの所で、普通の小市民の生活風景の範疇に収まるだろうが、ところが、そのペット犬を食い、賄賂を取る韓国の教授の露骨な描写を物語の骨格に据えたとなると、些か穏やかでなくなるだろう。

その事実をもってしても、誇り高い自国民から忌避されるに違いないからだ。

ポン・ジュノ監督
そんな毒気溢れる映画を、ポン・ジュノ監督は長編デビュー作として選択したのである。

まさに、過剰な「健全幻想」への挑発のメンタリティをも内包する、ポン・ジュノ監督の映像表現の確信犯的な視座が見据えるのは、自虐的というフラットな把握とは切れた、ルールを守らない自国民への風刺を含む、アンモラルの象徴としての、賄賂社会である韓国文化へのアイロニーであったと言えるのか。

そこには、女性が呆気なく解雇される男性優位の社会構造への批判的視座も見え隠れするが、恐らく、386世代のポン・ジュノ監督らしい反権力的なスタンスを保持しつつも、過剰なイデオロギーを投入させない戦略が、ここでも堅持されていて、スタイリッシュでポップなブラックコメディというジャンルもどきの衣裳を纏(まと)いながら、その本質は、冷厳な人間ドラマのリアリズムの中に、警備員の都市伝説的なホラー話に象徴されるような、様々なエピソードを織り交ぜた、ポンチ絵とも思しき戯画的絵柄や、奇抜な着想に富んだカットを存分にインサートさせる、実に個性的な映像が分娩されたのである。



2  ヒューマンドラマへの決定的変容を顕在化させた夫婦の、〈小さな非日常〉の突沸



高層団地という限定的スポットの中で出来した、「連続小犬失踪事件」。

それは、学長への賄賂なしに大学教授のポストを得られない現実を認知しながら、身重の姉さん女房に食べさせてもらっているが故に、賄賂の工面も為し得ず、その類の振舞いに引いてしまう男の悲哀が生んだもの。

ユンジュを演じたイ・ソンジェ
件の男の名は、ユンジュ。

大学の非常勤講師である。

留守番専門の自宅にいても女房に頭が上がらず、最低ランクの職業と揶揄される非常勤講師の中途半端な状況が延長されて、世渡り下手のユンジュの自我にストックされたストレスは、いつしか、ディストレス(浄化困難な不快感が継続された心理状態)にまで膨張するに至る。

そこで封印し切れなくなった過剰な情感のアナーキー性の行き着く先は、ディストレスの格好の捌(は)け口を仮構すること。

狭隘な「日常性」を象徴する、高層団地という限定的スポットの中で、キャンキャン吠えるペット犬の耳障りな鳴き声が、ディストレス状況の加速的広がりを極めていくことで、ユンジュはデッドエンドの心理状況に搦(から)め捕られていくのだ。


このデッドエンドの心理状況に搦め捕られていく、抑制困難な内的プロセスの自壊性とアナーキー性の膨張こそが、本作の物語の骨格にあり、その変容の内的プロセスのうちに、通常、私たちが「見たくないもの」や、「見ることから回避しているもの」の裸形の様態が集中的に表現されていく。

ユンジュのデットエンドの加速的膨張を際立たせているのは、高層団地の管理事務所に勤務し、迷い犬の捜索の依頼を受けた少女のために、必死に奔走するヒョンナムの存在である。

ヒョンナム


と言っても、黄色いパーカーのフードを被って、勝負服に身を包んだヒョンナムは、犯人を捕捉し、市民栄誉賞を手に入れさえすれば、テレビに出演できるという世俗的願望が彼女の推進力になっていたのである。


銀行強盗を撃退した女性行員の勇敢な活躍のテレビ報道が、ヒョンナムを駆り立てていったのだ。



そんな彼女の、分りやすい性格が、本作のもう一つのキャラクターの芯となっていて、彼女が高層団地の限定スポットの中で、犯人(ユンジュ)を必死で追走するシーンは、まさに、デットエンドが破裂し、自らをコントロールし得ないユンジュの心的状況を際立たせるものだった。

然るに、「連続小犬失踪事件」に関わる一件は大した事件に進展せず、単に、「日常の中の小さな非日常」という文脈のうちに収斂されていく。

それは、多様な人間の多様な人生で構成される、世俗という名の大きな包括力の内に処理されていくことを検証する何かであった。

一方、妻への不満を溜め込んでいたユンジェは、妊娠した妻から世話を頼まれたペット犬(スンジャ)を、散歩中、見失ってしまうのだ。

それを知って、怒りを噴き上げる姉さん女房の妻に、ユンジェの憤怒も収まらない。

以下、そのときの夫婦の激しい会話。

「キジョンも教授になった。ジュヒョンも教授だ。なのに、お前は何だ?亭主の心配もせずに、高い犬を買って、クルミなんか食って!」
「バカ亭主。スンジャがどんな犬か知ってる?」
「何だってんだ。言ってみろ」

憤怒の収まらない年下の亭主に、ユンジェの妻は、自らが置かれた厳しい状況を吐露していく。

「退職金で買った犬なのよ。妊娠した女がリストラされないと思う?11年間勤めて、退職金はたったの1648万ウォン(注)。私が自由にお金を使ったことがある?スンジャは40万ウォンで買ったの。残りは、あんたが教授になるための使おうと。でも、私がバカだった」

嗚咽しながらも、静かに自分の思いを訴える妻。

そんな妻の思いを、全く想像だにしなかったユンジェは衝撃を受ける。


まもなく、ユンジェはチラシを作り、妻のペット犬探しを始めるのだ。

ディストレスにまで膨張するに至った、他人のペット犬を殺した男が、妻のペット犬探しを始めるエピソードは、既にアイロニーを突き抜けていた。

それは、スンジャという固有名詞を与えられたペット犬を想う妻の気持ちを通して、ペットの存在を自我の安寧の基盤にしている人たちへの想像力を駆動させる契機となった。

若い夫婦の感情の齟齬(そご)が来(きた)した、しごく日常的な風景が生んだ〈小さな非日常〉の一件によって、本作からブラック・コメディの色調が消え、明らかに、ヒューマンドラマへの変容を顕在化する突沸(とっぷつ)であった。

これが、ラストシーンでの、ユンジェの贖罪感に繋がる伏線となったのである。


(注)2011年現在で円換算すると、1648万ウォンは約122万円ほどである。従って、40万ウォンは約3万円ということになる。



3  狭隘な日常性を突き抜けて、外部世界に自己投入していく生き方の有りよう



他方、犯人を捕捉して市民栄誉賞を手に入れることで、あわよくば、テレビに出演できるという世俗的願望が束の間の夢と消えたヒョンナムは、市民栄誉賞を取り損なったばかりか、街頭活動を活発化させたペナルティーを受けるに至った。

高層団地の管理事務所を解雇されたのである。

黄色のレインコートの軍団を味方につける幻想のシーンが印象深い、「不正義」を追う「正義」の「追跡ゲーム」において、束の間、交差した二人だったが、件の「正義」の、「イエローガール」が解雇された事実を知った「不正義」の逃走者は、「イエローガール」であるヒョンナムに、自分が犯人であったことを告白するのだ。

しかし、真実を告白されたヒョンナムは、既に、拠って立つ「正義」の御旗を降ろしていたばかりか、ペットの捜索を依頼しに来た少女が、新しいペットといる現場を視認したこともあって、「不正義」の逃走者であったユンジェの犯罪性を問題視せず、笑みを返して一件落着するに至る。


コメディラインからヒューマンドラマへの変容を見せた物語は、一定の予定調和のラインに辿り着くが、ラストシーンの構図が示したものこそ、本作の基幹テーマと言うべき何かだった。


充分な賄賂を用意せずに、教授に昇進したユンジェだったが、ヒョンナムによって救われたペット犬のスンジャを挟んで、妻と添い寝するユンジュの構図に象徴されるように、贖罪感をなお延長させながら、和解に結ばれるラストシーンは、男勝りでパワフルな親友とハイキングに行く、笑みを湛えるヒョンナムのラストカットに対応しながらも、微妙なズレを表現していると言える。

それでも、その微妙なズレは、高層団地という限定的スポットで疾走し尽くした二人の主人公が、その狭隘な日常性を突き抜けて、本来、それを求めて止まないはずの外部世界に自己投入していく生き方の有りようでもあったのだ。

これが、ごく普通に生きる者たちの人生のライトサイジングに見合った、ごく普通の人生の有りようである。


長編デビュー作として、かくも毒気含みの作品を選択したポン・ジュノ監督は、そう言っているようでもあった。



4  ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の様態



最後に、本作を観念的文脈で整理してみたい。

「近代」の利便性が凝縮された、高層団地という限定的スポットの中で出来した、「連続小犬失踪事件」。

「近代」の代名詞である高層団地の中において、ルール違反のペット飼いに象徴されるのは、「近代」という快楽装置の記号であり、そこに中流階層のステータスがべったりと張り付いている。

同時に、「近代」の代名詞である高層団地の限定的スポットでは、中流階層のステータスとは無縁に、そこで飼われるペット犬を食う浮浪者が夜な夜な蝟集(いしゅう)し、さながら、高層団地の「異界」的存在性が炙り出すものは、ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の様態である。

韓国の急速な近代化によって、この包括的共存の様態が産まれたという把握は間違っていないだろう。

ポシンタン(ウイキ)
1988年のソウルオリンピック開催と、それに次ぐ、2002年のFIFAワールドカップの際して、既に牛肉は食っても鯨肉は認知しないという自己基準を、上から目線で他国に押し付ける欧米諸国の批判に直面し、韓国政府は犬食に対する取締りを実施したが、「ポシンタン」という犬食料理の文化が根強い庶民階級では、歴史的継続力を繋ぐ「犬食文化」は壊滅しなかったのである。

それ故、ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の裸形の様態が、まさに「これが現在の韓国の姿である」というアイロニカルなメッセージを込めて、毒気含みの本作のうちに集中的に表現されるに至ったのである。

学長への賄賂なしに大学教授のポストを得られないという、丸ごと「前近代」の現実の中で苛まれ、大学教授のステータスを手に入れることに苦労した挙句、厖大なディストレス状態を延長させてしまった本作の主人公は、中流階層のステータスである、ペット犬飼いの「近代性」を憎悪する屈折した感情傾向を、「ペット犬殺し」という尋常ではないアンチモラルな行動にエスカレートさせていったのだ。

ところが、身重の姉さん女房との究極のバトルの結果、中流階層のステータスである、ペット飼いの「近代性」を憎悪する男は、あろうことか、自らの手でペットを飼育するという矛盾の渦中に放り込まれてしまうのである。

以上が、この男を通して描かれる本作は、「近代」と「前近代」とのコンフリフトの観念的文脈であると把握する見方もまた可能であるだろう。

(2011年9月)

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