2011年7月9日土曜日

リンダリンダリンダ('05)     山下敦弘


<「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場>



  1  「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈の暑苦しい臭気を蹴飛ばして



 観る者に、冒頭から見せるのは、校内の廊下の長回しのシーンによる、学園祭の準備風景。

 既に、この作品が、「学校生活」という退屈極まる〈日常性〉の中の、「小さな〈非日常〉」を描く映画であることを示唆していて、それを自然な会話を内包する映像によって提示していくのである。

 「この映画は残念ながらどうでもいいシーンをだらだらと撮りすぎ。最後まで何の驚きも感動もなく終わってしまった」(ユーザーレビュー)

 だから、この類のレビューを眼にすると、いかに観る者が、「驚き」や「感動」を予約する作品に馴れ過ぎていることが判然とするが、それは逆に言えば、〈日常性〉の中の、「小さな〈非日常〉」を描く映画の面白さに疎(うと)くなっていることの証明でもあるだろう。

 本作は、同じ作り手による、「松ヶ根乱射事件」(2006年製作)のように、ランドセルを背負った児童が、雪の上に倒れた女の胸や下半身を触るという、冒頭から〈非日常〉の「毒素」を振り撒く映像や、或いは、相米慎二監督の「台風クラブ」(1985年製作)のように、自然災害によって十全に機能し得なくなった、〈日常性〉の空洞を埋めるかの如き現出した〈非日常〉の「狂気」を描く映像ではない。

 とりわけ、中学校の一部生徒が下着姿になって、彼らなりの「思春期爆発」を炸裂させながら、「もしも明日が」を叫ぶように歌い出す映像の「狂気」は、殆ど常軌を逸していたと言っていい。

 「毒素」や「狂気」と地続きな、それらの〈非日常〉の作品の逸脱性と比較すると、本作で描かれたのは、前2者の作品の〈非日常〉の有りようとは明瞭に切れて、本質的に無秩序であるが故に、外的強制力によって「規範体系」を仮構した学校空間という、〈日常性〉から決して逸脱することなく、そこに生まれた限定的な解放空間である学園祭という、「小さな〈非日常〉」の主体としての「生徒」たちの自己運動の様態である。

 そして、何より重要な点は、高校軽音楽部のガールズ・バンドの学園祭での「本番」を描く本作では、着地点が約束されているので、その「約束された着地点」へのプロセスをフォローしていく物語によって構成された映像が芯となる、言ってみれば、「青春爽快篇」という「感動譚」が自ずから期待され、殆ど約束されてしまうのだ。

 ところが、本作は、確信的に「青春爽快篇」という「感動譚」という、観る者との間に形成されているはずの「暗黙のルール」を蹴飛ばしているのである。

 本作の中で、「青春爽快篇」という名の、「感動譚」のシャワーを被浴するのは困難なのだ。


 
と言うより、本作で拾われた幾つかのエピソードを観る限り、高校軽音楽部のガールズ・バンドを立ち上げたのは良いが、相当、その内実は粗雑であった。

 何より、女子4人組によるバンド自体が、既に、ギター担当の女子の指の負傷を契機にして、近親憎悪の関係にあると言われている、「似た者同士」の「キャットファイト」によって内部破綻していたのである。

 本番まで残り3日しかないのに、未だボーカルすらも決められない高校軽音楽部のガールズ・バンドの、粗雑極まる内実から物語が開かれていくのだ。

 大抵、このような物語では、「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈で構築されていくので、観る者は、そのドラマの熱き展開を、「驚きと感動」のうちに心情的に予約してしまうだろう。

 しかし、この映画は、そうした「驚きと感動」のドラマの熱き展開をも確信的に蹴飛ばしているのだ。

 「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈の暑苦しい臭気を、そこに嗅ぐことができないのである。

 要するに、「努力」して「頑張る」という、私たち日本人が最も好む心情ラインに合わせた物語構成を拒んでいるということだ。

 明らかに、アンチ・ハリウッドの異臭を存分に含んだリアリズムが、其処彼処(そこかしこ)に拾えるのだ。

 まさに本作こそ、このような時代に生きる思春期の生徒たちの息遣いや、〈生〉の有りようを精緻に捉え切っていて、それが見事に嵌った作品だった。



 2  「ピアプレッシャー」を突き抜ける、ガールズバンドの新たな立ち上げ



 本作の序盤に、興味深いシーンがあった。

 「似た者同士」の「キャットファイト」によって内部破綻していたガールズ・バンドだが、ギター担当の女子に代って、それを引き受けた負けず嫌いの女子が中心となって、乗りの悪い空気の只中でボーカル探しをしているシーンである。

 負けず嫌いの女子の名は、恵(けい)。

 「キャットファイト」の当事者である。

 彼女の両脇には、ドラムを担当している人好きのする響子と、ベース担当で寡黙な望(のぞみ)が座っていた。

 そこに現れたのが、恵と共に軽音を支えていた凛(りん)子。

 彼女こそ、「キャットファイト」のもう一方の当事者だった。

 当然、眼を背け合う二人。


 凛子は、両脇の穏和な二人に語りかけていく。

 「何、どうしたの?中止でいいよね?阿部に後で言っておくけど」

 阿部とは、一人で悪戦苦闘する軽音の部長。男子である。

 「もう言った。やるって」と望。

 まじまじと、両脇の穏和な二人を見る凛子。

 想定外の反応に驚いているが、決して心中を露呈しない。

 「あのさ。ブルーハーツをやろうと思って」
 「3人で?」と凛子。
 「あと、ボーカル探してね」と響子。

 ここに、「間」が出来る。

 気まずい空気が漂流しているのである

 この映画は、一貫して、絶妙の「間」で、観る者の小さな笑いを誘うのだ。

 「凛子やってよ、ボーカル。やろうよ」と響子。

 ここでまた、「間」が出来る。

 今度は、「誘われた者」としてのプライドラインが刺激されているから、凛子は、敢えて「間」を愉悦しているように見える。

 だから、以下の言葉に繋がったのだろう。

 「だったら、もう一回、あれやってみようよ。萌、ダメだけど、ちょっとアレンジ変えて・・・」

 萌とは、骨折をした女子の名である。

 彼女たちは本来、5人組のガールズバンドだったのだ。

 ここで、今まで沈黙を守っていた恵が、異議を唱えていく。

 彼女は、これだけは譲れないものを持つかの如く、明瞭に自己主張するのだ。

 「ブルーハーツ嫌なんだったらいいよ、凜子。萌抜きで、あれやるなんて考えられないし。いいよ、他にやりたいって言う人は、いっぱいいるだろうしさ」
 「あ、そう」と凜子。
 「だって、嫌なんでしょう?」と恵。
 「嫌じゃないけど、やって意味あるのかなって・・・」と凜子。
 「別に、意味なんかないよ」と恵。

 当然、ここに気まずい沈黙が流れる。

この「間」が、一連のシークエンスの中で、最も気まずい空気を漂流させていた。

 まさに、この情景こそが、近親憎悪の関係にあると言われている、「似た者同士」の「キャットファイト」の因子になった事態を検証するものだった。

 この気まずい空気を、恵自らが打ち破っていく。

 「ピアプレッシャー」に強い彼女の性格傾向が、端的に表現されたカットであった。

ソンさん
「ソンさん!」

 遠方を歩く韓国人留学生に、大声で呼びかける恵。


 以下、その際のソンさんとの会話。

 「ソンさん、バンドやんない?」
 「ハイ」
 「ボーカルでいいよね」
 「ハイ」
 「やるの、ブルーハーツだから」
 「あ、ハイ」
 「嫌じゃないよね」
 「嫌じゃないよ」


 ところが、その直後、安請け合いしたことを悔いて、「ダメダメ、無理」と逃げの一手だったが、ヘッドフォンで「リンダリンダリンダ」を聴くや、忽ちのうちに感情移入を果たし、涙に咽ぶ韓国人留学生のソンさんがいた。

 以上のシークエンスのうちに、この個性豊かな映画のエッセンスが集約されていると考えるので、それを次稿でまとめてみたい。



 3  「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場



 「ピアプレッシャー」(仲間意識を求める気持ちの強さが心理圧になる)、「感情優先傾向」、「脱力系」、「目標勾配(目標に近づくほどモチベーションが高まる)の脆弱性」、「合目的的な行動傾向との不具合感」、「局所最適傾向」(全体のバランスへの軽視感)、「場当たり性」等々。

 まさに、これらの要素が、一連のシークエンスの中に読み取れるのである

 とりわけ、「やって意味あるのかなって・・・」、「別に、意味なんかないよ」という件(くだり)の、凜子と恵の遣り取りこそ、本作のガールズバンドの学園祭へのスタンスを言い表していて、本作を貫流する基幹テーマとなっていると言っていい。

 この恵の言葉が意味するものは、「好きだからやる」という一言に要約されるだろう。

 難しい理念系に縛られることのない時間を、「今、このとき」、愉悦したいからガールズバンドをやるのであって、それ以外ではないのだ。

 彼女たちの青春もまた、「今、このとき」、ブルーハーツのロックに惹かれるから動いたのであり、それは「好きだからやる」という感覚的把握でしか捉えられないものなのである。

 その心情傾向は、「感情優先傾向」であり、「場当たり性」であり、「合目的的な行動傾向との不具合感」であり、「局所最適傾向」や「目標勾配の脆弱性」を晒しつつも、「脱力系」の気分の中で、彼女たちなりに、「小さな〈非日常〉」の主体としての自己運動を繋いでいこうとする人格的表現の様態なのだ。

 その端的な例は、韓国人留学生であるソンさん(まもなく、「ソンちゃん」に呼称が変り、友情の形成を検証していく)の振舞いに見られるだろう。


 
健気な行動において際立っていた彼女は、異国の地から馴れない文化への同化の格好のツールとして、万国共通である音楽への共感を自然裡に果たし、「努力」、「根性」というメンタリティを、「脱力系」のメンバーの中で、唯一、身体表現して見せたのである。

 彼女のこの身体表現が、「脱力系」のメンバーの「感情優先傾向」を誘導していくのだ。

 まさに、そのひた向きな行動傾向が手ずから生み出した、彼女の存在感の大きさこそが、ラストシーンの炸裂を作り出したと言っていい。
 
 一人でカラオケ屋に行って、店員との滑稽な遣り取りをするソンさん。

 「飲まないと歌えないんですよ」と店員。
 「それ、変だよ」とソンさん。
 「どこでもそうですよ」
 「飲みたくない」

 押し問答の結果、飲まないで歌っているソンさんが、そこにいた。

 文化の違いが露わになっているシーンだった。

 「努力」、「根性」というメンタリティを繋ぐソンさんへの、観る者の感情移入を決定付けるシーンがあった。
 
 演奏会場となる体育館で一人、ソンさんがステージ中央に立って、ブルーハーツの「コピーバンド」を立ち上げた、ガールズバンドのメンバーを紹介していくシーンである。

 言語交通が不自由なソンさんが、本番を最も意識するのは当然なのだ。

 そんなソンさんの、アドリブのような可笑しさが拾われていた。

 深夜の学校に忍び込んで練習に行く際に、暗みから細い道を上って行く前の仲間に、「パンツ見えてる!」と言う場面は、「脱力系」のメンバーの中に、ソンさんの素朴な人柄が認知された事実を物語るものであった。


 これを見ていく限り、本作は、天然系のソンさんの牽引力なしに成立し得ない物語であることが判然とするのである。

 本番の時間になっても、ガールズバンドのメンバーが居眠りして、出演時間に遅刻してしまい、豪雨の中、駆け付けた末に、本番の炸裂に流れ込むという物語のラインは、余りに見え見えの設定だったが、恐らく、この「約束された着地点」なしに済まない映画だったと言う外にない。

 だけど、これだけは言えるだろう。

 本作が、「純粋」、「連帯」、「努力」、「根性」、「献身」、「仮想敵との葛藤」等々という、「青春映画の王道」を相対化し切った映画であったということ。

 従って、この映画の最も素晴らしいところは、「青春映画の王道」に付きものの、「大人から見た理想の思春期のあり方」という、理念系の暴走が完璧に抑制されていた点にあったということ。


 理念系の暴走が抑制されることによって、飾ることのない等身大の裸形の青春が、ごく自然裡に映像提示されていたのである。

 「純粋無垢」の青春の熱き「連帯」の結晶であるが故に、「愛こそ全て」などという、欺瞞的言辞に流れいく理念系の暴走から解放されていたこそ、かくもリアルな裸形の青春を切り取ることが可能であったのだ。

 「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場 ―― それが、本作に対する私の把握の全てである。

(2011年7月)

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