<「殉教者なら死ななければならぬ」 ―― 確信的に創出された「愛の殉教者」のラストシークエンスの破壊力>
1 「人の琴線を震わせる何か」を狙った「ヘビーなミュージカル」の毀誉褒貶
少年時代に、コミュニストであった両親が、「カス」だと嘲笑していたミュージカルを好きだった男がいる。
しかし、彼が観たミュージカルは、「涙にむせぶようなヘビーなもの」ではなく、軽い内容のオペラであるオペレッタの範疇に入るものだった。
そんな男が後に、ニューヨークを舞台にして少年ギャング団の移民同士の抗争を描いた「ウエストサイド物語」(1961年製作)を観て、大きな感動を受けた。
それは、男女の愛と死を描いたものでありながら、ドラマチックな内容の濃い物語に仕上がっていて、いつしか男は、シリアスなミュージカルを映像化したいという夢を膨らませていった。
そのモチベーションが推進力になって、その映像描写の極端さに物議を醸すなど毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしながらも、明らかにオペレッタと切れた、「ヘビーなミュージカル」としての評価の高い本作に繋がったのである。
「人の琴線を震わせる何か」
それが、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だった。
従って、男は、「ミュージカル・シーンとドキュメンタリー的なシーンの2種類で構成されている」映画の骨格を作り出すことで、深いドラマを描くことが可能であると信じて、「ヘビーなミュージカル」に結ばれる実験的映像に挑んだのである。
目的は、作品を情感豊かな映像に仕上げることだった。
「エモーションと音楽のミックス」による実験的映像は、ハリウッドのミュージカルに馴染んでいた多くの観客の心を不快にさせ、しばしば、完全否定される俗流ムービー扱いを受けるに至ったが、男はそれをも承知で、自分なりの「ヘビーなミュージカル」の創作に自信を深めていった。
それは、本作がカンヌを制したこととは無縁な何かだった。
「ドッグヴィル」より |
ドキュメンタリー的なシーンを際立たせるダッチロールの如き映像によって、「ドグマ95」のゴールデンルールが検証されるに至ったとされるが、実際の所、本作は、「1台のカメラでひとつのシーンを撮るのではなく、固定式のカメラを数多く用意して撮影を行った」のである。
何と、そこで使用されたカメラは100台を優に越えていたのだ。
広大なスタジオ内にあって、クレーンショットを多用するミュージカルの正統派路線ではなく、そこだけは、限界状況の辺りにまで心理的に捕捉された、ヒロインの特化されたエモーションを拾い上げるべく、ミュージカル・シーンに浄化されて、それを多くの固定カメラで記録するという表現技巧によって質の高い映像を作り出したと、男は信じて止まなかった。
恐らく、男の意図は成就したのだろう。
因みに、男が本作の舞台をアメリカにしたのは、アメリカのミュージカルに対する挑発的意図を持っていたのではなく、ミュージカルの発祥の地としてのアメリカを尊重したからに他ならないのである。
故郷を追放されたドイツ人少年が異国の地を放浪する様態を、実存的作風で描く未完の作品として著名な、フランツ・カフカ(画像)の「アメリカ」(1914執筆で、原題は「失踪者」)を例に出して、カフカ同様にアメリカの地を踏んだことのない男が、「自由の女神像」に象徴される件の国を「神話の国」とさえ呼ぶ、「何でもあり」のアメリカという帝国的な国民国家の存在の深い内懐ろには、男にとって、容易に否定し難い程に魅力的な文化が混淆しているらしいのだ。
だから、本作が「アンチ・ハリウッド」という短絡的なラベリングで括るのは、多分に「勝手読み」の愚を免れないと言えるだろう。
ただ男は、物語の中に唐突に侵入してくる、多くのハリウッド製ミュージカルの軽薄さとは完全に切れた、人生の重量感を拾い上げる「ヘビーなミュージカル」を構築したかったのである。
それだけのことだった。
2 「アート」という、現実逃避よりももっと崇高なもの
人生の重量感を拾い上げる「ヘビーなミュージカル」の構築を目指した映像は、観る者の情動を激しく揺さぶるものだった。
エミリー・ワトソンのエモーションの独壇場の感のある、「奇跡の海」(1996年製作)でもそうであったように、男が構築する映像の推進力になっているものは、必要以上の「勝手読み」を置き去りにするエモーショナルな直接性に満ちていて、そこに共通するのは、理屈を捏(こ)ねくり回すだけの形而上学的なメタファー抜きの、観る者の情動への直球勝負を厭わない沸騰し切ったメンタリティである。
そのメタファー抜きの直球勝負を厭わないメンタリティから分娩されたのが、「セルマ」という、抜きん出て愛情豊かな人物像であった。
ここに、そのセルマと、トレーラーハウスを安く貸与してくれていた、隣人の大家である警察官のビルとの、印象深い会話がある。
恐るべき疾病に捕縛されたセルマの、告白的な会話だ。
「最初から分ってたの。私の眼が遺伝すると・・・なのに産んだのよ」
「強い人だ」とビル。
「強くないわ。耐えられなくなると、ゲームをするのよ。工場で働いていると、機械が色んなリズムを刻み始める。すると夢の世界になって、音楽が始まるの」
セルマは、その後、ゲームと呼ぶミュージカルの話に触れて、その思いを吐露していった。
「最後の曲は聞きたくないわ。ラストの合図は嫌。子供の頃に思い着いたの。最後から二曲目が始まると映画館を出てしまうの。そしたら、映画は永遠に続くでしょ」
こんなセルマの生き方を、「愚昧」であると決め付けられるのか。
「現実に耐えられなくなったとき、生に耐える手段」として、「ほんの1、2分、ミュージカルに出ていると空想する」だけの特化された彼女の行為を、果たして、訳知り顔なモラルの視座で現実逃避と嘲罵(ちょうば)して、切り捨てられるのか。
その行為は、かつて「サウンド・オブ・ミュージック」を演じることになっていた練習と時を同じくして、「人生最大の目的」に辿り着こうとしている、「夢と現実の交差地点」であるとは言えないのか。
「セルマは過酷な現実世界で、ささやかな喜びを見いだし、それを抱きしめる」
苛酷な現実世界をゲームに内化する能力を持つ彼女は、充分に、人生のアーティストであるとは言えないのか。
紛れもなく、この能力の発現は、それ以外にない、彼女なりの適正サイズの自己防衛戦略のリアルな様態であるだろう。
仮に、その個性的な防衛戦略の発現を現実逃避と言うなら、なぜ、現実逃避することが指弾されねばならないのか。
大体、苛酷な現実世界の不断の攻勢からギリギリに耐えている自我が、それを破壊されずに済ますに足る唯一の手立てを発見し、その戦略的な具現化を延長させている時間を現実逃避と指弾するほど、私たちの自我は鎧の如く堅固であると考えているのか。
それこそ、人間の根源的脆弱さを認知し得ない度し難きオプチミズムではないのか。
「音楽、歌、そしてダンスで構成される虚構の世界への思慕と、現実の世界への思いやりを併せ持っていることである」
このように、彼女が創り出すミュージカルは、他のミュージカルと全く違って、「映画から拾い集めたメロディ、セリフ、ダンスを現実世界の中に見い出して、融合させる」のだ。
だから、これは現実逃避ではない。
それよりもっと崇高なもの。
アートである、と言っていい。
これは人生と渡り合っていくため、そして、「人生を自らの中に取り込むためにセルマの精神が求めた手段なのである」
「ヘビーなミュージカル」の構築を目指した男は、そのような文脈の中で確信を深めるに至ったのである。
3 融通の効かない「幼稚な大人」の、捨ててはならない黄金律
ヒロインのセルマは、日常の風景を自らの中に取り込むので、彼女の空想による、「ミュージカルシーン以外はリアルでなければならなかった」ということ。
この設定が重要だった。
つまり、「現実世界の不完全さや醜悪さが映画の甘美な世界をさらに輝かせている」のである。
本作では、この二つの危うい世界がパラレルに描かれていた。
彼女のミュージカルは、「伝統と本質が衝突するパンク・ロック」であると言えるだろう。
それは「伝統の破壊ではなく、基本に立ち返る動きであるが故に、彼女が許容する唯一の暴力だった」のだ。
だから、彼女の感情の迸(ほとばし)りは、音楽のみで表現されることを必至にする。
「歌はセルマにとって自己の内面との会話なのだ」
ヒロインの日常的光景を、極度にリアルに描く「スーパーリアリズム」に徹したため、ロケを敢行し、「小道具」の使用もなかった。
更に、リアル感を出すため、ロジックを跳ばしたのも計算づく。
「人間の行為は理屈通りにいかないのだ」
男は、そう言い切って止まなかった。
当然過ぎる把握である。
従って、ミュージカルのシーンに移るのは、ヒロインのセルマが苛酷な状況に置かれたときに限られていた。
それまでの文脈で言えば、異論はない。
一つ一つ、例証していこう。
まず、視力の劣化が進んで、工場でミスを重ねて注意されたとき。
これが、一度目。
「彼女は走り去る列車の貨物台をステージに見立て、心の中でミュージカルを唄い踊っていた」
そして、帰宅した彼女が、手切れ金とも言える給与を、秘密の貯金箱である缶の中に入れようとしたとき、あろうことか、缶の中は空っぽだった。
彼女の秘密を知る唯一の人物である、大家でもある警察官のビルが犯人だったのだ。
因みに、先の会話の中で、妻の浪費によって金欠状態であるビルとの、「秘密の共有」が結ばれていたが、この「秘密の共有」に拘泥するセルマの心象風景については本作の胆なので、後述する。
ともあれ、ビルの家を訪ね、愛児ジーンの眼の手術費用を取り返すために、混乱の中でビルを誤殺してしまうセルマ。
理性が抑制機能を喪失した彼女の、このときの限界状況下で現出したのが、三番目のミュージカル・シーン。
「何もかも悪い方にいく。バカなセルマ。時間を下さい。涙を流すだけの。心臓の鼓動が乱れるだけの。それだけの時間があれば許されるでしょうか。心から悔いています。私は仕方なくやっただけ」
苦衷(くちゅう)に喘ぐセルマのミュージカルの風景は、男が「自己の内面との会話」と呼ぶには、あまりに痛々しいものだった。
「母さんは仕方なくやっただけ」
そこに、母を想うジーンが、買ってもらったばかりの自転車を乗り回すシーンが挿入されていく。
そして、四番目のミュージカル・シーン。
それは、法廷で不利な状況になり、セルマに死刑判決が出る直前のシーンである。
自分に不利な状況下になるのが分っているのに、なお、真実を語ろうとしない女が法廷にあって、口を噤(つぐ)んでいるのだ。
「秘密です」
そう言って、彼女はビルとの間で交した「秘密の共有」を守り通そうとするのである。
真実を話すことで、ビルの妻に与えるインパクトを防ぎたかったのか。
そうではないだろう。
ただ単に、彼女は、「秘密の共有」を守り通すという絶対規範に忠実に従っているだけなのだ。
それらの規範は、彼女にとって捨ててはならない黄金律なのである。
最低限の「損得原理」を弁(わきまえ)ず、融通の効かない「幼稚な大人」のように見える、セルマというヒロインを、一体どう見るべきなのか。
以下の稿で、それを考えてみよう。
4 「殉教者なら死ななければならぬ」 ―― 確信的に創出された「愛の殉教者」のラストシークエンスの破壊力
まず、先のビルとの会話の中で、妻の浪費によって金欠状態である彼との間で、「秘密の共有」が結ばれていた。
これが、ビルの妻が証言する法廷で真実を述べなかった理由とされるが、思うに、この極端な人物造形は、「神の愛」=「脊髄損傷患者となった夫への愛」を遂行するために、娼婦となって息絶えるベスを描いた、「奇跡の海」のヒロインの「殉教」のメンタリティと同質の構造性を持つと言っていい。
要するに、本作の作り手である男は、ここでも、「愛への殉教」を惜しまない人物造形を構築しているのである。
そう考えない限り、説明できないのだ。
ここで、観る者は、この極端な人物造形の設定をフラットなリアリズムの視座でフォローしていくと、「感情移入できない」などという心境下で、一種の思考停止状態のトラップに陥り、自分の情感濃度に引き寄せられない歯痒さによるオイストレスを解消するために、本作を「駄作」扱いする批評家のコメントに相乗りすることで、自我の小さな安寧を手に入れるかも知れない。
然るに、敢えて書きたい。
この作り手である男は、「愛の殉教者」としてヒロインの〈生〉の有りようを極限まで描き切る映像を、ほぼ確信的に創出しているのである。
このことは、絞首刑を延期しようと思えば可能だったのに、新たな弁護費用にジーンへの手術代を充当せねばならないという現実を知ったセルマが、冤罪を晴らす一切の努力を放棄する重い決断を経て、理不尽な死への107歩を、優しい女性看守のサポートを受けつつ、震えながら歩んでいくラストシークエンスのうちに検証できるものだった。
ここでもまた、彼女は、苛酷な現実世界の限界状況下で、殆ど自壊の危機に瀕した自我が、それを破壊されずに済ますに足る、唯一の手立てである世界のうちに自己投入していったのだ。
ミュージカルである。
しかし、言語に絶するほどに、苦衷(くちゅう)に喘ぐ彼女のミュージカルの風景は、マキシマムに達した空想を摂取する情動の噴出だった。
五番目のそれは、絞首刑寸前のシーンへと繋がる最後のミュージカルだからだ。
そこで、冒頭の「序曲」でもあった、「The Next-to-last Song」のテーマが唄われるのである。
以下の歌詞の通り。
いとしいジーン
あなたは私のそばにいる
だからもう怖くないわ
早く気づけばよかった
私は独りぼっちじゃない
これは最後の歌じゃないの
バイオリンは奏でない
コーラスも歌わないし
誰も踊ってないわ
これは“最後から二番目の曲”
それだけよ
母さんの言ったことを忘れないで
パンはきちんと包むのよ
ベッドも毎朝直しなさい
これは最後の歌じゃないの
バイオリンは奏でない
コーラスも歌わないし
誰も踊ってないわ
これは“最後から二番目の曲”
それだけよ
この「The Next-to-last Song」を、ヒロインに唄わせることの意味は何か。
なぜ、冤罪のヒロインが、これほどまでに追い詰められ、煩悶し、震え慄き、絞首刑の瞬間の構図に至るまでのカットを、木戸銭を払った観客に観せなければならないのか。
「殉教者なら死ななければならぬ」
それだけのことだ。
男の言葉である。
「刑罰というより復讐の色合いが濃い」死刑制度に対して、反対の立場を鮮明にする男にとって、「処刑シーンは神が監督に与えた贈り物」だった。
男は、そう言い切ったのだ。
「冤罪」という位相の異なる問題とは峻別して、「復讐の色合いが濃い」刑罰だからこそ、法で守護されている被告に対する個人の癒されぬ思いの束を、主権の拠って立つ国民国家が代行してくれるが故に、死刑制度の存在意義があると信じる私と違って、男は死刑制度の「残酷さ」を容赦なく炙り出していく。
だが、本作は死刑制度の是非を問う映像ではない。
どこまでも、苛酷な現実世界の限界状況下に拉致された、「愛の殉教者」の〈生〉の有りようを描いた物語である。
「殉教者なら死ななければならぬ」という、〈生〉の有りようをなぞって人物造形されたヒロインは、「奇跡の海」のベスと同様に、男によって確信的に創出された「愛の殉教者」であり、それ以外ではなかった。
好むと好まざるとにかかわらず、男は、そういう映像を構築したのである。
「殉教者なら死ななければならぬ」限り、そこだけは過剰に長い、破壊力のあるラストシークエンスの描写を不可避としたということだ。
それだけのことである。
5 底知れない情動を噴き上げて生き抜き、それ以外にない硬着陸点を選択することで死に抜き、昇天していった女の物語
男の名は、言うまでもなく、ラース・フォン・ トリアー(画像)。
コペンハーゲン出身の、しばしば物議を醸す発言を繰り返す、極めて発信力の高いデンマーク映画界の奇才である。
自分の精神が病んでいることを隠さない男は、まさに「アート」のフィールドでこそ、その才能を開花させたと言えるのか。
それがたとえ、本人の愚かさや愚直さに起因していたとしても、苛酷な状況に置かれた人間の心理を中途半端に済ますことなく、それを極限まで追い詰めていくときの臨界点まで描き切る、その類稀な作家精神だけは認知せざるを得ないのだ。
多分に厄介なメロドラマ的な感傷が張り付いていながらも、内面的掘り下げが希薄な「感涙映画」と切れている本作は、挑発的で、毒気含みの作家精神の極点にまで届くに足る一篇だった。
そんな本作の中に、こんな印象深い会話があった。
「なぜジーンを産んだ?遺伝すると知りながら」
セルマに常に寄り添うジェフの、厳しい発問だ。
「赤ちゃんを抱きたかったの。この腕に」
これが、セルマの答え。
我が子に対する強い責任意識となったであろう、セルマのこの切実な想いが、単にミュージカル好きな彼女をして、「愛の殉教者」に変容させた心理の根柢に横臥(おうが)している、と私は思う。
苛酷な状況に置かれた人間の心理を中途半端に済ますことなく、それを極限まで追い詰めていく映像作家であるラース・フォン・ トリアー監督が、現代の「愛の殉教者」を、奇麗事だけで立ち上げて、奇麗事だけのカットで済ます訳がないのだ。
ヒロインをサディスティックなまでに苛め抜いた挙句、マキシマムに達した空想を摂取する情動の噴出の中で殉教させる。
容赦ないのだ。
それが現実でもあると同時に、究極の理念系の落とし所なのか。
ヨブに襲い掛かるサタン (ウィリアム・ブレイク・ウイキ) |
言語を絶する理不尽な試練に対して全人格的に耐え抜くヨブと違って、セルマの場合、自己防衛戦略の最強のツールとしてのミュージカルのうちに自己投入していくことで、自壊の危機に瀕した自我を絶対状況の際(きわ)から反転させ、鮮度を高めて復元させるのである。
特定他者への「愛の殉教者」であることによって、セルマは底知れない情動を噴き上げて生き抜き、そして、それ以外にない硬着陸点を選択することで死に抜き、昇天していったのである。
確かに、そこにはエゴが存分に張り付いているだろう。
しかし、そのエゴを指弾できるほど、私たちは崇高なのか。
気高いのか。
トリアー監督は、日常の中に溢れる雑音を音楽に変容させていく能動的才能によって、限界状況を突破し得るような極端な人物造形をすることで、自らが招来させた苛酷な状況による、自縄自縛に陥った魂の極限性を、「何かを作るのではなく、既にそこにあるものを探っていく」という強い思いのうちに、まるでそこだけはドキュメンタリー的な筆致で描き切っていたのだ。
それこそが、内面的掘り下げが希薄な「感涙映画」と決定的に切れている所以なのである。
少なくとも、トリアー監督にとって、本作が「奇跡の海」と同様に重要な映像であることだけは確かだろう。
【なお本稿は、鉤括弧の多くの部分を含めて、トリアー監督自身の言葉を引用しつつ、検証的に批評している。因みに、参考文献は、(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ラース・フォン・トリアー著 石田泰子訳 杉山緑訳 2000年12月 角川書店刊)である。】
(2011年10月)
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