序 骨の髄まで生真面目な筆致で貫徹した作品
この骨の髄まで生真面目な筆致で貫徹した作品を、アメリカの著名な映画俳優が片手間で作った映画であると見てはいけない。
これは紛れもなく、一人の有能な映像作家による作品なのだ。
片手間どころか、この映像で表現されたものの質の高さは群を抜いていた。その繊細で精緻な描写の表現力に、私はただ舌を捲いた。
これほどの映像を作り得る能力を持つ男が、一貫してスター俳優として映画出演を重ねていたのは、このような作品を世に出したいがための制作費稼ぎであったことを、私は改めて確認した思いである。
この映画に於けるその傑出した心理描写の見事さは、とてもこれが、アメリカで作られた作品であると思えないほどだった。
因みに、この監督が「普通の人々」を撮っただけの人物でないことは、その14年後に、「クイズショウ」という秀作を世に出したことでも証明済みである。(画像は、本作でアカデミー監督賞、作品賞等を受賞したレッドフォード監督)
1 父と息子が取り残されて
―― そんなロバート・レッドフォード監督の処女作である「普通の人々」のストーリーを、詳細に追っていこう。
静かな聖歌隊の音楽が流れて、一人一人の健康的な高校生の表情が次々に映し出された後、突然、映像は悪夢にうなされた少年の表情にシフトした。その表情の主は、聖歌隊の最後にその力強い歌声を発していた少年だった。
夫婦が映画を観て、夜半に帰宅した。
息子の部屋から光が零れているのを見て、父親は彼の部屋に入っていく。
「眠れんのか?」と尋ねる父に、首を横に振る息子。
「本当に?勉強かい?」と尋ねる父に、「イエス」と答える息子。
「他の医者に行ったら?」と尋ねる父に、「ノー」と答える息子。
「もう、一ヶ月経ったよ」と父。
「必要ないね」と息子。
「あまり無理するなよ」と労わった父は、息子の部屋を出た。
父の名は、カルヴィン・ジャレット。有能な弁護士である。息子の名はコンラッド。
息子の部屋に立ち寄ろうともしなかった母の名は、ベス。
家族は、シカゴの閑静な邸に住む中流家庭の様相を見せていた。
翌朝、腫れぼったい眼で起きて来たコンラッドに、母は朝食を勧めるが、「食欲がないんだ」との言葉に、躊躇(ためら)うことなく「嫌ならいいの」と反応するや否や、「待ちなさい。そのうちに食べるよ」という父の言葉を無視してまで、そこに用意した息子の食事を平気で捨て去った。
一日の始まりを告げる食卓に、気まずい表情の父と息子が取り残されたのである。
「食べないと強くなれんぞ」
息子を気遣う父の言葉に、息子は「食べたくない」と答えるのみ。
「友だちが来るから」
一瞬の間(ま)の後に捨てられた息子の言葉に対して、「良かったな」と一言寄せて、父は感情を合わせていく。
「どうして?」
息子の突っかかるような反応に対して、父はどこまでもフォローしようする。
「最近は、お前の友だちとも会っていない」
そんな父の言葉を無視して、息子は家を後にした。
2 悪夢にうなされる少年
コンラッドは、級友たちの迎えの車で登校した。
車内で無邪気にはしゃぎ回る仲間を余所目(よそめ)に、彼は本を読んだ振りをして、明らかに、その会話に加わることを避けていた。
列車の轟音に、思わず彼は反応するが、女の子をからかう仲間の声で我に戻った。そのとき彼の視界は、線路の向こうに広がる墓地の光景を捉えていた。
授業を受けても、休憩時間でも、彼は集中できないでいる。部活の水泳でもコーチに叱咤される始末なのだ。
授業の合間に、彼は校内から電話をした。相手は精神分析医である。しかし、相手が多忙のため用件を切り出せないで終わった。
その夜の家族の没感情的な食卓の後、ベッドの中で少年はいつものように悪夢にうなされていた。
3 精神分析医 バーガー医師
バーガー医師 |
退院後一ヵ月半が経過することを話した少年は、その分析医に「憂鬱感は?」、「周囲に危険人物と見られているか?」などという質問をされた後、唐突にストレート球を投げつけられた。
自殺のことを聞かれたのである。
「自殺の方法は?」と分析医。
「カミソリで」とコンラッド。
「退院して、歓迎されたか?」との質問に、コンラッドは頷くだけ。
「友人関係も良好か?学校は?先生とも摩擦はないか?」、との質問にも頷くだけ。
「全然?」との質問にも頷くコンラッドに、分析医は、「じゃあ、なぜ?」と来院理由を尋ねたのである。
「自己抑制をしたいと・・・」
「なぜ?」
「心配かけないために」
「誰に?」
「主に父です」
「お母さんは心配しないのか?」
「知りません。なぜ、そんなこと聞くんです。心外だ」
こんな会話の後、分析医はまたストレート球を放り込んできた。
コンラッド(右) |
この質問にも、コンラッドは躱(かわ)していくのみ。
結局、彼は週二回分析医の下に通うことを曖昧に約束した。「ここは好きになれませんね」と言い添えて。
帰宅後、コンラッドはバーガー医師を訪ねたことを父親に報告した。
「医者に?そりゃ良かった」と父。
「行ったんだ」
「いつ?」と父。
「今日」
「知らなかったわ」と、台所で聞き耳を立てていた母が反応してきた。
「どうだった?」と父。
「高くつくから止めてもいいよ」と息子。
「金の心配はいらん」と父。安堵している。
クリニックで自分の心を全く開かなかったコンラッドは、分析医の下に週二回、水泳を休んで通うつもりでいるらしい。
コンラッドの両親 |
そこで、息子のことを友人から聞かれた父は、精神科医に週二回通っている事実を正直に話したのである。
それを耳にした妻は、夫の軽薄な発言を責め立てた。帰途の車中での会話である。
「なぜ、コンラッドのことを言ったの?」
「いけないか?」
「人は素直にとってくれないわ」
「精神科医にかかるのは、今やステイタス・シンボルだ」
「悪趣味としか思えないわ」
「悪趣味だ?」
「プライバシーの侵害よ!私たち家族のよ!秘め事なのに」
この家族は既に、決して人に話してはならない「秘め事」を持ってしまっているのである。
その「秘め事」の張本人である息子のコンラッドは、その頃、精神科医とカウンセリング中だった。
「夢を語れと?」とコンラッド。
貧乏揺すりを止めないでいる。苛立っているのだ。
少年は、精神科医の定番である、「夢分析」を求められていると勝手に判断したようだった。
「夢は好かん」とバーガー医師。
「医者は夢が好きですよ」とコンラッド。
心は求めているのに、まだ相手を受容できないでいる。苛立ちがピークに達している。
「どうした?何だ」
「分りません。ただ・・・苛立って・・・」
「おい坊主、夢も大事だが・・・起きてるときのことも大事なんだ。何を隠している?苛立ちの原因は?」
「鎮静剤で治るよ。違います?」
「お前が来たときは生ける屍だったが、鎮静剤は必要ない」
二人の会話が繋がったのはここまでで、後はこれまでと同じように噛み合わない会話に流れていく。
コンラッドが鎮静剤を求める理由が医師には見当がついているが、それを本人が自ら表現するのを待っているかのようだった。
4 カレンの闊達さ
コンラッドは、入院時代の親しいガールフレンドと再会した。
「でも心配だった。電話であなたが沈んでたから」とカレン。
「気が滅入っていただけさ。でも元気だよ。水泳もやっているし」とコンラッド。
「水泳を?いいじゃないの。それはいいわね」
「控え選手で終わりそうだけど・・・」
「またそんな・・・両親も喜んでいるわよ」
会話が弾んでいるようで、今一つ噛み合わない二人。
何か、どこかで無理をしているのだ。コンラッドが他者と心を通わせる会話を成立させるのは、非常に困難であるように見える。
「今日の君はとても素敵だ」とコンラッド。
「あなたも」とカレン。
「懐かしい?」とコンラッド。
「何が?」
「病院さ・・・全然懐かしくない?」
「いいえ・・・医者には?」
「通ってる。君は?」
「紹介されて暫く通ったけど、意味なかったわ。陳腐な先生でね。自分で治すよりないと悟ったの」
カレンのこの言葉に、コンラッドの表情は固まった。
それでもカレンは続けた。
「あなたは違うわ。自分のしたいことをするのが一番・・・」
コンラッドは相手の言葉を切って、吐き出した。
「嫌々行かされたから、いつまで続くか」
これで会話は中断した。
「なぜか時々、病院が懐かしくて・・・」とコンラッド。
彼は病院の話題に拘っている。
「忘れなきゃ」とカレン。
「愉しかったよ」
「あれは病院。ここは実社会」
「君は偉いよ」
噛み合わない二人の空気。
カレンは演劇部の部会を理由に、席を立った。
そのカレンがコンラッドを励ますように、言葉を残した。
「愉しいクリスマスを。頑張りましょう。生涯最良の年にしなきゃ。これは努力次第よ・・・・電話して。とても元気そう」
そう言った後、店を出かかったカレンは振り向いて、「元気出して!」と一言。
カレンはコンラッドの気持ちを見透かしていたのである。この短い遣り取りの間、コンラッドの表情からは一度も笑みが洩れなかったからだ。
5 浄化しなければならない空気の澱み
自宅の広々とした晩秋の庭で、コンラッドはリクライニング・チェアでその身を横たえていた。そこに母が近寄って来た。
「何してた?」と母。
「考えてた」と息子。
「何を?」と母。息子の心に寄り添うように尋ねた。
「あれこれ・・・」
「髪が伸びて似合ってきたわ」
息子はそれに答えない。
「鳩を思い出したよ。ほら、車庫にいたろう?いつもママの車の上に乗ってた」
「いたわね。よく驚かされた。バタバタって・・・車を出すとね」
「ペットはあいつだけだった。兄貴が犬を飼えってせがんだの覚えている?フットボール位の可愛いの」
それには直接的に反応しない母は、一言で片付けようとした。
「・・・・私たちには懐かなかったわ」
「兄貴は本当は猟犬が欲しかったんだ」
「庭を荒らしに来るの」
そのリアクションに当惑する母は、「寒いから着なさい」とだけ言って、室内に戻って行った。
息子の顔色を見定めるような母の余所余所(よそよそ)しさ。それは、母と息子の間に横臥(おうが)する空気の澱みを彷彿させる描写だった。
邸に戻った母に、今度は息子が近づいた。
何か語りかけようとするとき、電話が鳴って、母はその場を去るように受話器を取って、存分に笑顔を振り撒いていた。
このとき、息子の記憶が喚起された。
電話口での母親の笑い声によって、かつての母子三人の庭の芝での団欒の光景が、コンラッドの脳裏を鮮やかに駆け抜けたのである。
そこには母がいて、その母に高校最後の日の出来事を話す長男バックがいて、その傍らにコンラッドがいた。そのとき、母親は若々しく闊達で、どこまでも朗らかだった。
しかし今、眼の前にいる自分の母は、笑い声を放つことで空気の澱みを浄化しようとする、何か作られた表情に流れているように見える。
二人の間には、浄化しなければならない空気の澱みが存在してしまうのだ。そのことを感じ取ったコンラッドは、母の眼の前から逃げるように姿を消した。消さざるを得なかったのである。
6 澱んでいたものを、堰を切ったように吐き出して
自分の意志で水泳を辞めて、孤独を深めたコンラッドに、ガールフレンドができた。
ジェニン(右) |
そのハイテンションな感情の勢いで、彼は先日、不本意な別れ方をしたカレンに電話をかけた。そこで彼は今、自分が元気で頑張っていることを伝えたかったのである。しかし、生憎カレンは留守だった。
「最高の気分なので話したくて」とコンラッド。
電話の相手に、そう伝えた。
しかし、コンラッドの「最高の気分」は長く続かなかった。無断で水泳を辞めたことを母親に難詰された息子は、心の奥にあるものを吐き出した。
「見舞いに一度も来なかったのは、海外旅行で忙しかったからだ。僕なんか眼中にないんだ!」
「そんな話は止めて、ここは病院じゃないわ」と母。
その母は、自殺未遂を図って入院した息子の見舞いに行かなかったのである。息子には、そんな母の気持ちが許せなかったのだ。
「病院のことなど知らないくせに!」
「ママは行ったけど、風邪を引いてて入れなかった」と父。
父は、今度は妻を庇っている。
しかし、そんな父の態度も息子には腹立たしかった。
「入院しているのが兄貴なら、ママは風邪など引かなかった!」
「バックは入院などしないわ!」と母。
お互いに心の奥で澱んでいたものを、堰を切ったように吐き出した瞬間だった。
孤絶する父 |
「何てことだ。話して来る」と夫。
「また繰り返し?彼の横暴を許して謝るの?」と妻。
「謝るんじゃない」と夫。
「いつもそうよ!退院してから、あなたは謝ってばかりよ!」と妻。
「理解しようと努めてるんだ!」と夫。
それは、映像で初めて見せる夫であり、父である男の激しい感情の表出だった。
「彼の言い方を真似しないで」
「喧嘩はもう止めよう・・・行ってやろう」
しかし妻は、表情でそれを拒んだ。
父が一人、息子の部屋に入っていく。息子の心に懸命に寄り添おうとする父の言葉が、虚空を舞っていた。
7 嗚咽するように、呻くように吐き出し続けた少年の心に
コンラッドの孤独が、いよいよ深まっていった。
ジェニン |
学校へ行っても、悪友からジェニンのことをからかわれて、取っ組み合いの喧嘩をする始末。
その日、「病院へ戻れ!」という悪友の嘲罵を後ろ姿で浴びて、コンラッドは早々に帰宅したのである。
帰宅するや早々、彼は再び受話器を取った。
カレンと話したかったのである。今度は沈鬱な気分で、何かを吐き出したかったのである。彼は追い詰められていたのだ。
「カレン、いますか?友人のコンラッドです」
一瞬の沈黙の後、相手方から返ってきた言葉は、あまりに残酷なものだった。
「死んだよ」
「何です?」
コンラッドの表情が固まった。
「自殺した」
コンラッドの体は崩れ去り、その自我は耐性の臨界点を越えてきた。
カレンと別れたときの彼女の快活な表情と励ましが蘇ってきて、コンラッドはもたれるようにして洗面室に走り込み、洗面台で顔を埋めた。蛇口の水を溜め、そこに両手をゆっくりと沈めてゆく。
剥き出しにされた両手首には、カミソリで切った跡が何本も筋が入っていて、そこに封印された記憶が生々しく蘇ってくるかのようだった。
この瞬間、コンラッドの脳裏を、それまで記憶の奥に閉じ込めていたものが一気に噴き上がってきたのである。
兄を事故死させたあの凄惨な記憶が蘇り、コンラッドの表情は激しく呻く魂を抑制できずに、完全に我を失っていた。フラッシュバック(注1)が起こったのだ。
あのとき、コンラッドはボートから落ちた兄を助けるべく、その両手を思いっ切り差し伸ばしていた。しかし兄の助けを求める手を、固く自分の手の中に留めることができず、遂にその手を離してしまったのだ。コンラッドは兄を救出することができなかったのである。
フラッシュバック(イメージ画像・All About プロファイルより転載) |
フラッシュバックの中、コンラッドは走った。ひたすら走った。
彼の向かった先は、精神分析医のバーガーだった。彼には今、この人しかいなかった。この人に縋るより他にないのだ。
「大変だ」とコンラッド。
少年は泣きながら、何かを懸命に堪えている。
「何が?」とバーガー。
精神科医は少年の異変を感じ取っている。
「助けて!」
「何があった?」
「押し寄せてくる。止められない・・・逃げられないんだ。忘れられない」
「何を?」
「したことが・・・」
「何をした?」
「彼にしたんだ」
「何を?」
「何か起こると、誰かが責任を取らなきゃ!」
「何が起こった?」
「故意にやったんじゃない。バックだ!故意じゃない!バッキー!」-
「君に責任はない」
「あるよ!帆が下りなかった。壊れて・・・ロープが引っ掛かった。ロープが動かない。なのに僕は何もせずに・・・手遅れになった!それは僕の分担だったんだ!」
「仕方ないさ!」
「掴まったのに・・・掴まったのに・・・兄貴は放した。なぜだ!」
「疲れたからだ!」とバーガー。
彼も今、分析医としての正念場だった。
「大馬鹿もん!」
全てを吐き出したコンラッドは、頭を抱えてうずくまった。
「彼にも責任はある」とバーガー。
精神科医は、静かに包みこもうとした。
「不注意だった。事態を予測できなかった」とコンラッド。
少年は少し落ち着いている。
嗚咽するように、呻くように吐き出し続けた少年の心に、相手の言葉を聞く余裕が出てきていた。
「誰にも予測できんさ」とバーガー。
精神科医は、彼の心のリズムに合わせている。
「悪天候になったときに、戻れば良かったんだ」
「それは誤ったな。なぜ放した?君の方が強かったからだ。君は耐えられたんだ・・・いつまで自分を責める」
「止めたいよ。でもできない。兄を愛してた」
「知ってる・・・何が契機でここへ来たんだ」
「カレンが自殺した。さっき分った・・・元気だったのに」
「違う」
「元気だった!言ったんだ・・・とてもいい調子で・・・知ってれば助けたのに・・・」
「一度会ったから、君の責任か?」
「違うよ。ただ・・・とても辛くて残念で・・・放っといてくれ!」
「気持ちは同じだ」
「不公平だよ。こんなこと・・・」
「同感だ」
「一つの間違いで・・・」
「それは何だ?言えよ」
涙が涸れないコンラッドの口調には、先程までの激しさは見られなかったが、分析医のこの問いに、その一言を呻くように吐き出した。
「僕はヨットに残った」
「そうだ・・・もう克服できるな」
「怖いんだ」
コンラッドは泣き崩れる中で、その思いを、また一つ吐き出した。バーガーは応えていく。
「感情は苦痛を伴う。苦痛を感じない者は不感症だ。分るか?今、生きていることを感じ取れ」
「辛いだけだ」とコンラッド。
「いや、快い」とバーガー。
「なぜ分る?」とコンラッド。
「友人だから」とバーガー。
「あなただけが頼りだ・・・本当に?」とコンラッド。
「良き友だ」
確信的にそう言い切ったバーガーに、コンラッドは息子のように、その身を預けていく。涙で彼の肩を濡らして、その涙を分析医は、良き友だちのようにしっかりと受け止めたのである。
長く心の中に封印していたものを吐き出した少年の自我が、重要な局面で決定的に救われた瞬間だった。
8 必然的だった関係修復
翌朝、コンラッドはジェニンの家を訪ねた。
「この間のデートのことで・・・とても愉しかった」と少年。
「笑ったりして馬鹿だったわ。でもあれは照れ隠しよ」と少女。
少女は、先日の自分の思いやりに欠けた態度を弁明した。
「照れ隠し?」
「彼らに見られて照れたの。私は照れると笑うの」
「彼らに悪意はなかった。酔ってただけだ。僕が追い返せばよかった。僕は最近ヘマばかりやってる。君の気持ちを知りたくて・・・やり直したい・・・」
「いいわ」
「いい?」
頷くジェニン。
若い二人の関係の修復は早かった。全てコンラッドの内側の混乱が招いたものだった。
そのコンラッドが立ち直る契機を掴んだら、関係の修復は必然的だったのである。ジェニンもまた、異性としての彼に好意を寄せていたからだ。
9 もう一人の家族を失った父子の会話の情景
そんなコンラッドのちっぽけだが、しかし今は信じられそうな幸福感情の対極に、家族の亀裂の深さは既に修復できないものになっていた。夫婦の関係を裂くような存在として、依然として息子のコンラッドが、そこにいる。
自ら母のもとに向かい、抱擁するコンラッドの行動に、それに感情を合わせられないようにして、母の心がそこに放擲されていた。
夜の床に入ったベスの隣に夫がいないことに気づいた妻は、階下で一人涙ぐんでいる夫を見て、話しかけていく。
「何か・・・飲む?」
夫が何か呟いた。妻はその言葉を確かめる。
「何?何て言ったの?教えて・・・」
問いかけられた夫は、ゆっくりと、選ぶように言葉を繋いでいった。
「君は美しく・・・気まぐれで・・・慎重だ。頑固だ。しかし・・・弱くて、独りよがりだ。言ってくれ。本心から。私を愛しているか」
「気持ちは変わらないわ」と妻。
その妻に対して、夫はこれまで我慢していた思いの丈を吐き出したのである。
「平穏だった生活は一つのことで・・・一変した。君は慌て、混乱した。バックだけを愛していた。バックの死と共に、君の愛は葬られてしまったよ。バックではなく、自分を愛していたのか・・・ともかく君は葬られてしまった。君の正体が・・・分らない。空しい人生だった。悲しい・・・君への愛も自信がない。明日が分らない」
夫の告白に動転した妻は、夫に反応することなく自分の部屋に戻って、荷造りを始めた。その引き攣(つ)ったような表情は、嗚咽を必死に抑え、それでも噴き上がってくる感情に翻弄されているようだった。
翌朝早く、コンラッドは車の音で眼が覚めた。
カーテンを開けて窓の下を覗くと、タクシーが自宅前から発車するのが見えた。彼が階下に下りたとき、そこに両親はいなかった。
邸の外に父が立っているのを見て、息子は近づいた。
「パパ」
「庭が寂しくなった」
「どうしたの?」
「ママが出て行った」
「何処へ?」
「多分、ヒューストンだ」
「なぜ・・・?僕だね・・・僕が原因だ」
「自分を責めるな。誰の責任でもない。結果がこうなっただけだ!・・・怒ってしまった」
「これからは、もっと怒ってよ・・・怒り散らせばいい。兄貴のように」
「お前は違う。自分に厳しかった」
「ウソだよ」
「本当だ。お前を案じたことはない・・・無関心だった・・・」
「僕が触れ合いを求めなかったからだ」
「パパがきっかけを作れば良かった」
「僕はパパが全能だと思っていた・・・パパさえいれば、何の不安もなかったよ。パパを尊敬しているんだ」
「尊敬しすぎると失望するぞ」
「しないさ・・・愛しているもの」
「パパもだ」
そこにいたのは、ほんの少し強くなった息子と、堪えきれない寂しさで裸の感情を剥き出しにする父。
二人の男が、もう一人の家族を失った自邸の前で固く抱擁しあった。抱擁を求めたのは父だった。それを受け入れたのは息子だった。
父の思いの幾片かを受容するだけの強さが、コンラッドの内側に作り出されていたのである。
このラストシーンの父子の会話の情景は、痛々しいまでの感銘を観る者の脳裏に鏤刻(るこく)せずにはおかないだろう。
実家に戻った妻であり、母であるベスが、再びこの邸に戻らないとは言い切れない。
然るに、彼女もまた激甚な不幸にヒットされ、それを癒すべき多くの時間が必要であったと思われる。それを癒すには、不幸の原因を多分に内包するシカゴの自邸では無理なのかも知れないのだ。
映像はこれ以上何も語らないが、しかし、これだけは言える。
そこに残された父と息子の情緒的結合力は、確実に強化されていくであろうことを。
そのようなイメージを観る者に与えるこの秀作は、最後まで抑制的に走り抜けていった。その潔さが、私の心を圧倒的に鷲掴みにしたのである。
* * * *
10 無残に剥ぎ取られた自我が粉々に砕かれたとき
映画「普通の人々」の原題は、「Ordinary People」。
そのままの邦題名である。
確かにこの映画で描かれた家族は、「普通の人々」であるに違いない。尤も下積みの労働者の眼から見れば、豊かな生活を営む有能な弁護士の家族が、「普通の人々」である訳がないと言えるかも知れない。
しかし、この家族の成員の本来の観念や思いは、「普通の人々」の枠を逸脱するものでないことは間違いない。
普通の人々の日常性は、概して退屈である。
そのときは極端に緊張し、膨大なストレスを溜め、逃げ出したくなった人生の日々のように見えたとしても、後になってそれを思い起こすと、「何であのとき、あんなことで悩んでいたのか」と回顧されることも決して少なくない。
もっと前向きな人なら、「あの体験があったからこそ、今の自分がある」と振り返ることもあるだろう。しかし、それは全て後から回顧して言えることであって、実際は波乱万丈と言わなくても、常識的には破綻のない人生など存在しないのである。
思うようにならない人生だからこそ、人はそれを少しでも改善しようと努めていく。当たり前のことだ。人生が運命的に定まっていると考えている人でも、明日の時間の安全を絶対的に保障してくれる人生など存在しようがない。未知の時間を抉(こ)じ開けていくからこそ、人生は面白いとも言えるのだ。
では、その退屈極まる日常性の中に非日常の破壊的襲来があったとき、人はそれとどう向き合い、対峙し、克服していけるのか。
普通の人々が普通の暮らしを普通に続けているとき、そこにその日常性を激烈に揺さぶるような非日常の破壊的襲来に対して、そこでのスーパーマン的解決のストーリーの展開はおよそ考えにくいだろう。
心的外傷後ストレス障害(イメージ画像・サイトより転載) |
無残に剥ぎ取られた自我は粉々に砕かれて、解体されてしまうかも知れない。ここまでくれば危機であるだろう。人生最大の危機であるかも知れない。
こんな危機が人生に必ず襲来してくるとは言い切れないが、その可能性を否定できないところにこそ人生の怖さがあるとも言えるのだ。
11 人生とは思うようにならないもの
―― 私事を書けば、その慎重な性格から、不断に自分なりの「仮想危機トレーニング」を繰り返してきたが、それでも自分が交通事故に遭遇し、それによって脊髄損傷者(注2)になるという現実だけは確実に想定外だった。そしてそのことで、身体の自由が奪われる人生を送ることになるイメージなど思いもよらなかったのだ。
実に人生とは、思うようにならないものである。
そのことを痛感している、今日この頃なのだ。人生には、自分の努力とか、才能とかで突破できない事態がしばしば起こり得るのである。どうしても、なるようにならない人生の危機というものが、この世に厳然としてあるのだ。
(注2)私事を書けば、私は「ブラウン・セガール症候群」という稀有な脊髄損傷を2000年来負っている。その症候群は、理論的言えば、脊髄の右半分が損傷すると身体の左側の温痛覚、右側の深部覚・触圧覚、右側の運動の機能が喪失し、脊髄の左半分が損傷すると、その反対の機能が喪失するという障害を現出する。私の場合、脊髄の左半分を損傷し、その障害が典型的に現出していて、そこに脊髄損傷特有の中枢性疼痛が常態化しているという障害の現状を負っている。
12 「3人+『不在なる1人』の家族」の際どい精神的風景の中で
―― 映像の世界に入っていこう。
どうしても、なるようにならない人生の危機が、普通の人々の家族を激甚に襲ってきた。長男の事故死である。
その危機に対して、家族三人の受容の仕方は三者三様であるが、それぞれの成員の心奥に深く澱む、見えにくい辺りだけは明瞭に異なっていた。
父の場合は、「失ってはならないものを、失ったときの辛さ」であるが、母の場合は、「決して失ってはならないものを、奪われたときの辛さ」である。
そして息子の場合は、「将来を嘱望されていた者の死の現場に立ち会って、その死を自らの力で防ぎ切れなかった辛さ」である。
辛さの感情は、当然、悲哀の感情を随伴する。
まず父の場合は、「記憶の闇に流せない深い悲哀」であるが、母の場合は、「記憶の闇の奥深くに絶対に流せない、許し難き感情を内包した悲哀」である。
そして同様に、息子の場合は、「永久に記憶の尖りに張り付いて消えることがないと信じる、自罰性を本質とする贖罪観念を内包した悲哀」である。
簡潔に書けば、父は息子を一貫して受容し、その楯になろうとした。幸いにも、父だけが家族内の直接的な攻撃の対象にならなかったからである。(それ故にこそ、父の置かれた立場の難しさが却って際立ってしまうのだが)
日常的には空洞感を潜在化させている、「3人+『不在なる1人』の家族」の際どい精神的風景の中で、母は息子を拒み、しばしば不必要なほど攻撃的になるのだ。
そんな母に対して、息子は抑制臨界点を突き抜けて、内側に過剰にプールされた感情を吐き出すと同時に、自らの人格総体に攻撃の刃を向けてしまうのである。息子だけが二重の攻撃に晒されてしまっていたということだ。
この圧倒的なまでに非武装の自我をヒットする心理的暴力によって、息子の精神は次第に復元力を失い、遂には解体の危機に晒されるに至ったのである。
一度試みた過去を持つ自殺の未遂者は、大抵繰り返されると言う。そんな危機のボーダーに浮遊するコンラッドの自我の状態は、紛う方なく、瀕死の体にあったのだ。
フラッシュバックを現象化するギリギリのところで何とか抑えていながらも、常に揺動して止まない少年の魂の危機を救ったのは、一体何だったのか。
それは簡単に答えられるようで、実はとても難しい。
彼の父か。彼のガールフレンドか。それとも精神科医か。少なくとも、彼の母ではない。彼自身が自らを救い出していったのか。そうであるとも言えるし、そうでないようにも思われる。
では、一体何なのか。
私はそれを、こんな風に考えてみた。
どうしても何かを吐き出さざるを得ない内的状況があって、それを吐き出したら楽になるかも知れないという、追いつめられた者がしばしば現出する、縋り付きたくなるような思いがあった。
そして、それを今、吐き出さなければ危ないと感じた臨界点の辺りで、遂にそれを吐き出した。
そういうことを可能にした環境が彼を救い、その環境に半ば本能行動的に身を託した純なる魂がそこにあった。
その魂は、そうしなければ自らが呆気なく解体される恐怖の前で立ち竦み、その隙間に未だ力を持っていた少年の自我が、明らかに〈生〉の方向に振れたのである。
従って、この魂の救済は、その魂を見守る環境にサポートされた自己救済だったとも言えるのである。
その自己救済の契機になったのは、直接的には、女の子の自殺であった。
思えば、彼は思春期の短い時間のうちに、二つの不幸な死と出会ってしまったのだ。
その現実が持つ圧倒的な重量感によって、彼の中で恐怖が生まれた。死に対する恐怖である。死に対する恐怖を覚える能力が、彼の自我にはまだ残っていたのである。これが、彼の「再生」に向けたエネルギーに直結したのだった。
某心療内科・精神科にて(イメージ画像・HPより転載) |
分析医は直接患者を治癒する役割を負った職業というよりも、患者の心の問題の奥にあるものを分析し、それを患者に提示し、患者と共にその出口を模索する役割を負った仕事であると、私は考えている。
いずれにせよ、全ては患者次第なのである。患者の中に生きようとするエネルギーがどれだけ残っているか、それが最も肝心なことなのだと思う。
コンラッドには、それがあったのだ。生きようとする意志が、死に向かうエネルギーよりも少しだけ多かった分だけ、死への恐怖感をギリギリのところで塞ぎ、少年は自らの危機を脱したのである。
13 PTSDの克服の艱難さ
―― ここで、少年の内面世界を考えてみる。
所謂、「普通の人々」の主人公の少年であるコンラッドの心的状況を端的に言えば、PTSDという風に説明できるだろう。ここでは、そのPTSDについての理解から始めていきたい。
ここに、分りやすい文献を参考して、自分でまとめた文章がある。
かの有名な「DSM-Ⅳ」(注3)をベースにした小冊子の要約である。因みに、「父と暮らせば」という映画の批評の際に書いた文章だが、ここでもそれを引用する。
近年、何かと話題になるPTSDとは、心的外傷後ストレス障害のこと。
それは現実の死、激しい外傷、或いは、「自己と他者の身体的統一感が保障され得なくなるような事態を経験、あるいは目撃、遭遇し、それに対する反応として、強い恐怖感、無力感」(1994年、アメリカ精神医学会の「心的外傷」についての定義・注)や、それに伴う罪悪感情、自責の念が継続的に起こっている精神状態という風に把握できるものである。
即ち、何某かの深刻な心的外傷(トラウマ)を経験すると、自我による人格統一が困難になりやすく、しばしば自己防衛のために、外傷の記憶を封印する手段として様々な心的機制を図っていく。
例えば、外傷に対して「あのときは何も感じられなかった」と体験者自身が後に語ることが多い「感覚鈍磨」の反応を示したり、もっと積極的に、外傷を封印する「回避反応」に逃げ込んだりするというケースがそれだ。
また外傷の鮮明な再体験をすることで、自我を直撃する場合もある。これが、よく言われる「フラッシュバック」である。
それは極めて強い感情の襲来で、自我の抑制力が瞬間的に劣化した状態であると言っていい。
しかし、外傷体験者の多くが経験する症状の中で重要なのは、「過覚醒」という反応である。これは外傷体験後、暫くは平穏な状態が続くが、次第に落ち着きを失って、不眠になったり、集中力が続かなかったり、訳もなく他人に怒りを覚えたり、時には外傷について考えているうちにパニックに陥ったり、更には、心臓の動悸が激しくなって気を失うような恐怖を感じたりするような過剰反応のことである。
これは、アドレナリンが循環系に流れ込むために起こる反応。
このような状態が継続化することによって、PTSDの病理が常態化する場合があるということだ。とりわけ、心的外傷に他者の不幸が絡んでくると、そこに強い罪悪感情が形成されて、「あのとき、自分が犠牲になれば良かった」という気持ちが生まれたりするのである。
〈注:正確には、1994年、アメリカ精神医学会発行の「診断マニュアル第Ⅳ版DSM-Ⅳ」の外傷の定義に基づく〉(「心に傷をうけた人の心のケア」クラウディア・ハーバート著 勝田吉彰訳 保健同人社刊より要約)
(注3)「精神障害の診断と統計の手引き・第4版」のことで、PTSDや人格障害についての定義がある。私は全くの門外漢なので、このような素人分析の危うさを自認しているつもりだが、本稿の記述については、あくまでも映画評論の方法論的アプローチとして、参考文献からの学習の範囲内での言及であることを了解されたい。
兄の事故以降の少年の心の闇は、PTSD以外の何ものでもなかった。
それでなくとも真面目な少年が、兄の死の現実を認知し、その倫理的債務を負って生きていくにはあまりに重すぎる。その重圧感に耐えられず、少年は自殺を図ったが、それが未遂に終り、入院することになった。しかし少年の心の闇は、入院によって解放されるレベルの病理を超えていたのである。
退院後、精神科への通院を拒み、コーラスや水泳に打ち込むことで、一見普通の高校生活を継続しているように見えたが、不眠の日々の中で、少年の心の体力の劣化は次第に顕在化しつつあった。少年には、「感覚鈍磨」や「回避反応」に丸ごと逃げ込む余地が充分に与えられていなかったのだ。
なぜか。
少年の母の存在が、彼の心の出口に、どこかでいつも冷めた視線で立ち塞がっていて、少年にとって自我を裸にする場所としての家庭が、その本来の機能を果たしていなかったからである。
家に戻れば、自分が犯した重過失行為の責任で死んだと信じる兄の部屋が、そのままの状態で保存されていて、そこに母が繰り返し、空洞化されたその心を預けに来るのだ。
そんな母と視線を合わす少年は、全く噛み合うことのない会話を重ねるばかり。
少年にとって、兄の部屋に心を預けるだけの母の存在は、自分を暗黙裡に咎める攻撃的な尖り以外の何ものでもなかったのである。
長男の死を全人格的に受容していないように見える母もまた、「対象喪失」によって受けた心の疾病を負っていた。
彼女の中で、既にその身が解体されていた長男の人格性は、なお生きていなければならない何かであって、常にその決定的な「不在性」が枢要な問題であったのだ。(彼女の「精神的疾患」についての言及は後述する)
ともあれ、次男とその母の、この決定的なまでの精神性の乖離が露わにした問題の深さは、殆ど、修復の余地がない心理的文脈と言っていい。
かつては、幸福の幻想に酩酊できたかも知れないこの家庭は、今や「情緒の共同体」としての役割を喪失してしまっていたのである。
そんな家庭の内に、自我の拠って立つ基盤を構築できない少年にとって、果たしてPTSDの克服(注4)は可能であったと言えるのか。
否である。
結局少年は、再び精神科の扉を叩くことになった。
彼の自我は、悪夢にうなされる不眠の日々に戦慄する恐怖に、もう堪え切れる臨界点を越えつつあったのだ。PTSDの克服の艱難(かんなん)さを痛感させられる思いである。
コンピューター画面がヘルメットの中で見える(イメージ画像・ブログ)
|
14 不眠の地獄の中で
―― 閑話休題。
不眠の苦しみは、恐らくそれを経験した者でなければ分らないであろう。
そんな不眠の地獄を描いた小説の中に、「氷河が来るまでに」(森内俊雄著)という印象深い作品があり、当該作品からの引用は避けるが、そこで描かれた不眠と鬱の地獄は凄惨な様相を呈していた。
余談だが、私にもかつて二度、不眠の地獄を味わった経験がある。
一度目は、小学校中学年のとき。私はそのとき就眠中に癲癇(てんかん)の発作で、二回にわたってパニック症状を起した。
以来、8年余り抗てんかん剤を毎日欠かさず服用し、一応寛解(注5)の状態にまで収拾したが、しかし最初の癲癇の発作以来、暫く不眠の地獄に陥ったのである。まさにそれは、地獄の世界と言える何ものかだった。それを服用することが許容されるか否かは別にして、昨今のように、「ナイトール」とか、「ドリエル」等の睡眠改善薬が市販されていない時代下にあって、就眠に対する異常なまでの恐怖感が生まれたからである。
二度目の不眠症は、今から6年前に経験したガードレールクラッシュによって惹き起こされた。2000年5月のことである。
「幸いにも」、一命をとり止めた私は、難治不能の脊髄損傷者になった。
以来、身体の自由を喪った生活を進行中の私は、日夜、就眠導入剤なしに就眠できない日々を送っている。
最近は就眠へのシフトが多少楽になってきたが、事故当時は就眠導入剤を服用しても、僅かな眠りしか獲得できず、朝を迎えるまでに何度も覚醒してしまう状態が続いた。それは多分に、入院時に大量投与されたステロイド剤に起因するのであったかも知れないが、当時の私には、まさに「夜の果てへの旅」(注6)の途方もない長さに、ただ狼狽する日々がどこまでも続くという恐怖しかなかったのである。
不眠の地獄の原因は、「悪夢」に対する恐怖感に尽きた。
その二回の経験の中で、私が見た悪夢は、およそ言葉で言い表せないほどの戦慄感に充ちていた。小学生のときのそれは、「死神」としか説明できない何ものかが、しばしば夢の中に現われてきて、私を徹底的に苦しめた。
二回目のときのそれは、凄惨な殺人の生々しい状況の中に私が囚われていて、そこから脱出できない苦悶が私の自我を日夜切り裂いていたのだ。直接、事故の再現がフラッシュバックのように起こることもあった。これは、明らかにPTSDの症状と言えるだろう。私の場合、それが不眠の地獄という形で現出したのである。
(注5)病気の症状が軽減されるが、決して完全に治癒されることがない状態のこと。「精神分裂病」(現在、「統合失調症」という名で呼ばれる)が代表例。
(注6)私が二十代のとき愛読したセリーヌの小説のタイトルで、世の欺瞞を呪詛する絶望的な文学の内実が共感を誘った。
15 「対象喪失」という名の心の疾病
―― 映像の世界に戻る。
「普通の人々」のコンラッドのことを考えるとき、私は彼が経験した異常なる地獄の凄惨さに身が凍える思いがする。コンラッドの心情に深く想像力が及ばない者は、恐らくこの作品を、その根底に於いて理解することは難しいだろう。
彼の地獄はまさに、彼だけが生還してしまった事態への圧倒的な贖罪感に起因する。しかも彼は、それを自宅で繰り返し追体験しなければならない状況に置かれたのである。
前述したように、少年の母もまた「対象喪失」による心の疾病を負っていて、今では形だけの次男に過ぎないコンラッドの自我は、その母からの無言の心理的圧力を日々に累積させて、遂に飽和点に達してしまったのだ。
コンラッドの母ベスが、「対象喪失」によって受けた心の疾病を負っていたと思えるような印象的シーンがあるので、例証してみる。
豊かな中流家庭の、広々とした場面での母子の会話がそれである。
庭の芝生で椅子に物憂げに横たわっていた息子に近づいた母は、その息子に近づきながらも流暢な会話が繋げないでいた。
その母はコンラッドに、「髪が伸びて似合ってきたわ」と語りかけたとき、明らかに、事故で死んだ長男バックの面影を次男に見ていたと考えられる。
なぜなら、そこで満足な会話をせずに邸に戻った母を追いかけて話しかけようとしたとき、次男コンラッドが、母子三人でその庭に団欒を結んでいた過去の思い出を、突然のように甦らせる描写がそこに用意されていたからである。
電話口で笑いを見せる母の視界には、芝生の団欒でロングヘアの長男の話に哄笑した表情が再現されていたのだ。
コンラッドはその微妙な空気を感じ取ったからこそ、直ちに母の眼の前から姿を消したのである。
母の脳裏に忘れ難く張り付いている長男への思いの深さが、彼女をして、いつまでも「現在」という時間を普通の日常性の枠内で流していけないのだ。
彼女こそ、実は精神科に通うべきペイシェントだったのである。
彼女は単に、「冷たい母親」ではなかったと言うことだ。
16 非日常の激甚な不幸がヒットしてきたとき
コンラッドのPTSD |
そこに現出した感情関係の悪循環の構造性が、一家の中枢に澱んでしまっていて、その親和力を削り取るだけの日常性は、かつてそこに存在したであろう光沢を、確実に剥落させる時間でしかなかったのである。
辛うじて、父の存在が家族関係の決定的な崩壊をギリギリに防いでいた。しかしそれは、そこにしか辿り着けない時間の流れを、ほんの少し遅らせる役割しか果たせなかったのである。
結局、父の役割は、心の病を負った二人の間に挟まれて、何とかそれを融合し、和解への方途を模索する存在性にあった。
しかし彼が抱えた問題の根茎は、あまりに深かったと言えるだろう。
それは、小手先の饒舌で解決し得る問題のレベルを遥かに越えていたに違いない。この父もまた、口では言えない深い痛手を負っていたことを忘れてはならないのである。
従って、この作品のテーマを、安直にコンラッド少年の魂の救済と、その再生の枠組みの内に限定してはならないのである。
それは、普通のサイズで呼吸する現代家族の危機と、その救済の可能性という、最も現代的であるが故に深甚なテーマを、実験的に描いた作品であると把握する必要がある。
だから、この映画の登場人物は、「普通の人々」でなければならなかった。
演技指導するロバート・レッドフォード監督① |
17 情緒的結合力の劣化が、尖りをもって晒されて
では、作り手は映像を通して、その深甚なテーマにどう応えていたのか。
映像で観る限り、作り手はそこに明瞭な答えを出していないが、一つだけはっきりさせた点がある。普通の人々によって成る一つの家族から、一人の母親が離脱したという事実である。
彼女は妻としての役割と、母としての役割の双方を自ら放擲したのだ。
彼女には、この家族と共に、今後も継続的に「家庭」を保持していくという意志が、復元力を持ち得ないほどに劣化してしまっていた。なぜなら、彼女が負った心の疾病をを癒す能力が、その家庭に存在し得ないばかりか、内深く広がる悲哀をより深甚なものにする危険性すらあるからだ。
彼女もまた、その家族の一員であったが、まさに、その家族内で現出した激甚な不幸に、全ての家族が当事者性を持ってしまったことで、「家族内親和力」の幻想の破綻が一気に表面化し、崩落してしまったのである。
その最も重要な原因の一つに、事故死した長男に対する母親の深い思い入れの感情があった。しかしそれは、時として溢れんばかりに過剰であったが、それによって他の家族との情緒的結合力を直接的、且つ、暴力的に破壊する程には異常ではなかったと言える。
彼女も「普通の人々」のカテゴリーを逸脱していなかったのである。それでも、この家族は、大きな崩れを顕在化してしまったのだ。
なぜなのか。
現代家族の本質的属性とも言うべき情緒的結合力の劣化が、そこに尖りをもって晒されてしまったからである。
家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。
現代家族(イメージ画像・ウイキ) |
「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。
この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は忽ちのうちにその幻想=物語を剥ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいかも知れないのだ。
18 「不在なる者の人格性」を追っても手に入らない不条理な感情
「普通の人々」の家族もまた、以上の危機をなぞるように、その崩壊のさまを炙り出していた。
長男の死に次男が関わり、長男の方を、より愛していた母の自我が受けたダメージの大きさは、次男を理屈の上では愛せても、心の奥深くで受容できない心理を晒す形で随所に映像化されていた。
そんな一例。
次男であるコンラッドが自殺未遂を起こして入院したとき、見舞いに行かなかった母の行動心理について考えてみる。
映像では、そんな母の冷たさを、次男に難詰される場面が紹介されていた。
このときの次男の心理を考えるとき、そんな母の態度が、「兄を助けられなかった弟」である自分に対する冷たい仕打ちと捉えられたとしても、全く不思議ではないだろう。その反応は、思春期の少年としてはあまりに当然のことだった。
しかしこのとき、母が次男を見舞いに行かなかったのは、次男との感情のクロスの中で予想される空気の澱みを、明らかに回避したとしか考えられない。
そこには、長男の事故死以降、適正な関係を確保できなくなった次男に、「当てつけ自殺」をされたと考える母の「許し難さ」の感情が、紛れもなく見え隠れしているのだ。
彼女にとって、次男の存在は許し難き者だったのである。
例えば彼女は、単に、水泳を親に無断で辞めただけに過ぎない次男の行動を、「反抗」としか捉えなかった。
常識的に想像すれば、水泳に打ち込めないコンラッドの心理が、水泳が得意だった兄が水死したという現実と脈絡を持っていたと考えるのは自然である。
彼の兄がコーチの期待を一身に背負っていた記憶を、彼は引き摺っているから、そこでのプレッシャーが、彼の自我を抑圧的に包囲したことで生まれた関係の距離感は、まさにハイスクールでの疎外感と通底していて、彼の部活離脱はその内的状況に於いて必然的だったと言えようか。その深層に、彼の「水」に対する馴染みにくさが澱んでいたと考えることもできるだろう。
演技指導するロバート・レッドフォード監督②
|
そんな母の深層にあるものは何か。
恐らく、彼女の中では、長男の死を認めていないのだ。
正確に言えば、認めることを拒んでいるのである。だから、彼女の中では常に長男の幻影が纏(まと)わりついていて、その「不在なる者の人格性」を追っても手に入らない不条理な感情が、しばしば抑制を著しく失って噴き上がってきてしまうとき、そこに他の家族との不必要なまでの摩擦を惹起させてしまうのだ。
心理学的に言えば、彼女はその心が一定の軟着点に辿り着くのに必要なほどのグリーフケア(注7)を受けていないのである。
グリーフケアを受けていないから、彼女の中ではいつまでもグリーフワークが自己完結することなく、内側に抱えた不条理の感情を引き摺って、虚空を浮遊する以外になかったとも言えるだろう。
グリーフワークのプロセスを十全に形成できていないかのように見える彼女は、最も愛した長男の幻影を追うことを止められず、いつもそこに寄り添うようにして、保存された長男の部屋に心を預けに行った。長男の死の認知を拒んだ彼女は、葬儀の場でも涙を見せなかったばかりか、その感情を固めた状態で常に家族との不自然なるクロスを捨てていくのである。
恐らく、その心的現象は、現実を受け入れることを拒む生存戦略としての、一つの「感覚鈍磨」と特定し得るものであるに違いない。
先述したように、その現象の本質は、母親の自我の不断の緊張を中和化させる戦略であったと把握するしかないのだ。この母の負った深い悲哀の感情こそが、この作品の中で決定的に重要な役割を果たしているのである。
それ故、素人見解を敢えて言語化すれば、彼女のその心的現象を以下のように把握することが可能であるだろう。
即ち、彼女の心的現象は、彼女なりのグリーフワークのプロセスの、その初期ステージにある者の悲哀を映し出したものと言えないだろうか。
モーニングワーク(注8)という言葉もあるが、「感覚鈍磨」という戦略を選択せざるを得なかったかのような彼女の一貫した無感動と、それに脈絡する次男への報復的なプロテストの振舞いは、まさにそのプロセスをなぞっていく現象であるという見方も充分に可能なのである。
「グリーフワークのプロセス」を精緻に描いた秀作・「息子の部屋」 |
しかも、この過程の中で決定的に無視し難い事態は、最愛の対象を喪失した彼女の日常性の中に、その現実を惹起したと信じる次男の存在が、目障りなほどに立ち塞がっているという「不条理性」それ自身である。
彼女は長男を偏愛しすぎた故に、あってはならないこの現実を、「家族の親和力」という極めつけの幻想によって突破するにはあまりに困難であり過ぎたのだろう。
グリーフワークの「喪失期」というプロセスには、自分以外の者に責任を転嫁し、そこに向かって敵意を剥き出しにする現象も散見されると言うが、彼女の場合、その敵意に似た感情を、あろうことか、同様にグリーフワークを最も必要とする存在である次男に対して、過剰なまでに攻撃的に向かっていく心理的文脈の条件が、あまりに揃い過ぎてしまったと思われる。
彼女の内側では、長男を「不在」にさせた次男への、憎悪にも似た感情が抜き難く塒(とぐろ)を巻いていると言うことではないか。
そんな妻に精神科に通うことを勧める夫に対して、「他人の力を借りない」と頑に拒んだその心理の奥にあるものもまた、深い精神的疾病を負った感情であると考えれば得心がいくであろう。
彼女こそ、何よりもグリーフケアを必要としたのである。
グリーフケアを必要としたにも拘らず、一見冷静な日常性を構築しているかのように見えた彼女に、グリーフワークが自己完結していく時間が待機しているか否かについて、映像は何も語らない。
しかし、彼女が実家に帰郷していくラストシーンの描写は、彼女の精神世界が少しでも一応の安寧を手に入れる可能性を考えるとき、極めて正鵠を得た映像表現であったに違いない。
彼女の帰郷はそれ以外に選択肢のない行為への逃避であると言うよりも、寧ろ、彼女のグリーフワークの新たな継続を保証する道筋であったかも知れないからである。そう考えるのが、遥かに理性的なる把握であると言えるのである。
恐らく彼女にとって、更に他の家族にとっても、このようなハッピーエンドに流れない心理的文脈こそ大正解であったのだ。
一家の食卓風景 |
従って、その辺の心理的文脈を繊細且つ、終始丁寧な筆致で描いたこの映像は見事と言う外にない。切にそう思う。
19 自我を不必要なまでに武装化して―― 或いは、グリーフワークの艱難さ
―― この映像の母親の内的状況を、客観的に整理してみよう。
彼女に責められるべきところがあるとすれば、長男を偏愛した性格的な特性であって、恐らくそれ以外ではないであろう。
その一点に於いて、確かに母親としての資質に欠ける面があったと思われるが、果たしてその性格の特性が、社会的人格性の許容範囲を逸脱するものであったかについては議論が分れるかも知れない。
しかし、これだけは言えようか。
たとえ決定的な「対象喪失」の悲哀に、その自我が捕縛されていたとしても、事故を原因として出来したもう一つの由々しき出来事、即ち、次男の自殺未遂という現実に対して、一人の母親が拒否反応を示した振舞いは、決して社会通俗的な倫理性に於いて看過できないであろう。
然るに、この問題は、社会通俗的な倫理のカテゴリーでは処理し切れない困難な問題を抱え過ぎている。それが偏愛の結果とは言え、最愛の息子であった人格的対象を喪失したことによる甚大なる悲哀の感情を、「母性の欠如」という見えやすい共通了解事項によって安直に説明するのは乱暴であるだろう。
それが極めて繊細な問題であるばかりか、その問題が内包する艱難(かんなん)さを普通の人間が抱え込まなければならない事情の中では、普通の人間学的、心理学的な反応による現象以外にどのような行動文脈が想定されると言うのか。
恐らくそこに、客観的な視線を持ったプロフェッショナルなグリーフケアの導入が媒介されない限り、このような事態の軟着点への模索は困難であるに違いないのである。
思うに、「普通の人々」の家族の本質とは、自分が負った傷の大きさを海外旅行やゴルフ外出などで徹底的に抑圧し、それを塞いだつもりでも決して塞ぎ切れない落差に翻弄された、妻であると同時に母でもあるベスの、その存在の空洞感に象徴化された、言わば、「仮面家族性」についての物語の内にこそあったのだ。
以上の把握によって、この映像が二人の人物、即ち、母親とその次男の心の闇へのアプローチの内に物語のライフラインが結ばれていて、その心情理解の濃度の差異が映像読解の内実と、映像総体に対する評価を分けるであろうと、私が主観的に判断した次第である。
二人の自我が負ったグリーフワークと、それを自己完結させるに至る艱難さこそが、映像の中枢的テーマであると考えたのである。(画像は、全葬連「第54回全国<愛知>大会」におけるグリーフワークのティーチイン)
自我を不必要なまでに武装化することを余儀なくされた二人の悲哀の様態は違(たが)えども、グリーフワークの過程を切に求められた内的状況の艱難さは、その過程に踏み込んだ者でなければ理解し得ない難しさをも同時に提起して、映像は家族の未来について一切語ることなく静かに閉じていったのである。
当然の如く、それについて語れるほど、このような内的状況に置かれた者の確信的判断が下される訳がないからだ。
それ故に、私は本稿のテーマを、〈自我を不必要なまでに武装化して―― 或いは、グリーフワークの艱難さ〉という風に定めた所以である。
(注7)愛する者を喪った悲嘆のプロセスをグリーフワークというが、この過程をケアする作業のこと。この過程があることで人の心の成長が保証されると言える。
(注8)「対象喪失」(愛するものと生き別れること)によって生まれた悲哀や絶望の感情を、自我の中で受容していく一連のプロセスを「モーニングワーク」と呼ぶ。フロイトによって提出された概念で、日本ではこれを「喪の仕事」と呼ぶこともある。グリーフケアは、この「喪の仕事」をサポートする作業と言っていい。
20 「仮面家族性」の現象が空気を支配して
家庭とは、自我を裸にする場所である。
とりわけ現代家族は、自我を裸にできる解放空間としての情緒の共同体である。それなしに、現代家族を語れないと言っていい。
従って、家庭が自我を裸にする場所としての役割を劣化させてしまったら、その家庭の本質的な継続力は次第に萎えてきて、いつの日か破綻し、解体の危機に瀕するだろう。
繰り返すが、「普通の人々」の家族が本来持っていた親和力は、長男の事故死によって瀕死の危機に晒され、やがてそこにしか辿り着けないような結末に流れていった。
事故以来、家族の成員それぞれが、それぞれのレベルの何某かの心的外傷、或いは、それに類似する悲哀の様態の差異によってその発現が分れるが、いずれにせよ、それぞれが自分の心の奥にあるものに鍵をかけ、心情をストレートに吐露していく親和力を強化できずに、逆にそこにかつてこの家族に現出しなかったであろう、「仮面家族性」の現象が空気を支配してしまったのである。
本音を隠し、家族の者に対する視線を「擬似社交」の技術で捌(さば)いていく限り、そこに澱んだ空気が家族の成員の自我に、不必要なまでの武装を強いていくしかない。
父のカルビンも母のベスも、そして次男のコンラッドも、それぞれの自我を不必要なまでに武装化し、そしてそこで武装化された自我が隠したはずの尖りがしばしば噴き上がってきて、衝突してしまったのである。
その衝突は、まるで他人の喧嘩のような衝突の様相を呈していた。そしてその関係にあって、最も家族の中枢の位置から離れていたベスが、最終的に家族からの離脱を図ることで、仮面家族の欺瞞性にピリオドが打たれたのである。
結局、ベスは最も愛していた者を喪失させた次男の苦悩を、自らが抱えた内的な問題の困難さによって、最後まで引き受けることをしなかった。
と言うより、その状況突破を意志的になし得る能力と条件の、圧倒的な肉厚のバリアの故にできなかったのだ。
そして、次男の苦悩だけを受け入れるようにしか見えない夫の苦悩をも引き受けなかったのである。引き受け切れなかったからだ。
哀れむべきかな、この家族の不幸は、その家族の内部で悲劇が起こってしまったことに全て起因するのである。
従って、彼女の中で長男の幻影が、その自我を深々と支配する限り、この家族の再生が困難であることをイメージさせる以外に、この映像の括り方はなかったに違いないであろう。
21 緊張含みの展開が途切れない精緻で完璧な映像
この作品は、何とも痛々しい映画だった。
心理描写も極めて説得力があって、最後まで緊張含みの展開が途切れずに、精緻で完璧な映像によって貫徹された。とりわけ、精神科医とコンラッド少年との正念場のやり取りについての描写は、本稿の会話の箇所を何度読み返しても感銘深いものがあり、充分に得心もいく。
脱帽である。
学ぶべきテーマの多い作品であった。主役三人の演技も素晴らしかった。文句なしの傑作である。
(2007年4月)
普通の人々を観て、心打たれ、この思いを言葉にしてくれている人はいないかと、このサイトに辿りつきました。Sasakiさんの評を読み、更に映画の感動が深くなりました。
返信削除多くの方が自身の映画評を公開していますが、これほど気持ちよく読める文章は稀です。私には難しい言葉ばかりで、十分には理解できていないとは思うのですが。
私は、成瀬は稲妻で惚れこみました。黒沢は野良犬がダントツです。だから、それを取り上げていらっしゃることで、信頼できる方だと確信してます。私はまだまだ観ていない名作があるので、今後の映画人生の大切な案内役として、長く読ませていただきます。これからも鋭くて優しくて明快で知的な映画評を宜しくお願いします!
コメントをありがとうございました。
返信削除