<耕して天に至る>
1 必要な時間に必要な動きを、必要なエネルギーによって日常性を繋いで
乾いた土
限られた土地
映画「裸の島」で、冒頭に紹介されるこの短いフレーズの中に、既に映画のエッセンスが語られている。
映画の舞台は瀬戸内海に浮かぶ、僅か周囲四百メールの小島。
この狭い限られた土地はボタ山のように、天に向って遠慮気に突き出していて、しかも土壌は乾ききっている。
この劣悪な自然環境下で、自給自足の生活を営む四人の家族。
この映画は、彼らの一年の日常性をドキュメンタリー風に、淡々と、時には哀感を込めて綴った物語である。
二人の息子を持つ中年夫婦は、この積み上げられたような痩せた土地に段々畑を作り、そこで麦や芋を栽培している。
夫婦はまだ夜が明けきらぬうちから伝馬船(櫂によって操作される小型和船)に乗って、隣の大きな島に水をもらいに行く。
これが、家族の一日の始まりである。
四つの桶を天秤棒に担いで往復するこの作業は、夫婦の日常性の重要な一部になっているのだ。
伝馬船が戻って来る頃には日が昇っていて、息子たちはその間飯を炊き、朝食の準備に余念がない。水を運んで来た夫婦は昨日もまたそうであったように、小さな庭に作られた食卓につき、黙々と朝食を済ませ、次の作業に移っていく。
登場人物たちの台詞がないこの実験映画で、家族のこの日常的な描写に不自然さが全く感じられないのは、四人がそれぞれの与えられた役割を果たしていて、そこに流れるような生活の律動感が存在するからである。
必要な時間に必要な動きを、必要なエネルギーによって日常性を繋いでいく。
そこに作られた秩序は、既に家族一人一人の身体に溶け込んでいて、絶対的な不文律になっているかのようだ。
夫婦は天秤棒を担いで、ゆっくりと耕地を上っていく。
夏の陽光が夫婦の身体を灼き尽くすかのような厳しさの中に、水を一滴も零すまいとする表情が伝える緊張もまた、彼らの日常性の一部なのだろう。
2 黄金の水に対する思いの深さ
夫婦は冬に蒔いた種から出芽した生命に、桶の水を柄杓(ひしゃく)で汲み取って土に染みこませるように撒いていく。
子供を育てるような優しさを髣髴させるこの描写が語るのは、単に生命への畏敬ではない。
恐らく、命の次に大事であろう黄金の水に対する彼らの思いの深さが、そこにある。
それを象徴する印象的なシーンがあった。
天秤棒を担いで上る妻が躓(つまづ)いて桶の水を零してしまったとき、それを見ていた夫が、その場で立ち竦む妻の頬を思い切り平手打ちにしたのである。
それだけだった。
妻は別に涙を流すわけでもなく、夫もまたそれ以上責めることもない。
会話のない映像の不自然さが若干気になるが、それは恐らく、このような事態を何度も経験してきた者たちの、その日常性の範疇に属する事柄なのだろう。
だから謝罪とか、励ましとかいう言語的アプローチを不要にしてきたと言えようか。
同時に、黄金の水に関る失態は、農作業の生命線を脅かす恐れがあるという黙契がそこにある。
夫の一撃を黙って受容する妻がそこにいて、「失態を減らせ」と深く願う夫が、その傍らで見守っている。
相互の強い信頼関係なしに成立しない構図が、そこに垣間見えるのだ。
3 充分に叫び、充分に受容する ―― それで何かが完結する
然るに、水の失態に涙しなかった妻が、慟哭するシーンがある。
小学生の長男が急病に倒れ、医者を呼ぶ間もなく天に召されてしまったのである。呆然と立ち竦む
夫を前に、我が子を喪って絶望的に打ちひしがれる妻。
映像を通して、長く保持されてきた名もなき家族の物語の秩序が、初めて破綻を見せる瞬間だ。
夫の一撃を受容する日常性に裂け目が生まれでき、あってはならない非日常の恐怖が、家族という絶対的物語を崩しにきたのか。
懸命に堪える妻がいて、それを見守るしかない夫がいた。
長男が通っていた学校の同級生たちが乗った船が家族の島にやって来て、そして戻って行く。
葬儀が終わったからである。
帰って行く船をいつまでも見守る妻の、抜け殻のような身体は、耕地の高みの辺りで漂っていた。
かつて経験したことがない非日常の襲来に、彼女の心は落ち着く場所を失って、そこで漂っている以外になかったのであろう。
夫が近寄るが、漂流する妻をただ見守るしかないのだ。
その日について、映像はそれ以上語らない。
それは、束の間、裂けた日常性が回復する時間を待つかの如き冷厳だが、しかし確信的な眼差しでもあった。
翌朝早く、いつものように伝馬船が、穏やかな海に一筋の線を引いて、そして水を入れた四つの桶を乗せて家族の島に戻って来た。
天秤棒を担ぐ妻がいて、夫がいる。
彼らの日常性は破綻を見せることなく繋がっているようだった。
二人が天秤棒を担いで、耕地を上っていく姿はいつもと同じ。
上り切ったところで二人は天秤棒を降ろし、芽吹いた生命に潤いを与える作業に入っていく。
しかし、その時すでに、妻の内部で日常性をギリギリに保持していたその自我が、臨界点を超えてしまっていた。
彼女は突然桶の中の黄金の水を放り投げ、その水を待っていた作物をむしり始めたのだ。
狂乱したかのような振舞いの後、妻は耕地に平伏(ひれふ)して慟哭する。
語りのない映像が、そこだけは特段の意味を持つかのような、家族の裸形の音声を記録したのである。
天にも届かんばかりの、妻の号泣。
映像は私たちに、非日常の世界に囚われた一人の母親の悲しみだけを突き出して見せた。
変化の少ない映像に、最も鮮烈な表現が炸裂したのである。妻の心を思いやる夫は、妻の有りっ丈の叫びを全身で受け止めているようだった。
彼には今、妻の極限的情念の炸裂を受け止めることしかできないのだ。
充分に叫び、充分に受容する。
それで何かが完結する。
平穏な日常性を崩しにかかった災いの内面的な処理はもう、時間に任せるしか術がない。
夫はそう括っていたに違いないであろう。
家族の糧である耕地に感情を埋めきったのか、黙々と作物に水をやる夫を横目で見て、妻は憑きものが落ちたかのように、静かに立ち上がった。
彼女の為すべき仕事は一つしかない。
夫の仕事は自分の仕事でもある。
それは、孤島に張り付いて生きる家族の仕事でもあるのだ。
4 「耕して天に至る、乾いた土」を潤し、潤し、また潤していく
「耕して天に至る、乾いた土」を潤し、潤し、また潤していく。
この生活命題が、彼女の日常性の中枢にある。
その日常性に如何なる破綻が忍び寄っても、潤すことで手に入れることのできる秩序を簡単に手放したりはしないのだ。だから彼女は強いられた者のようではなく、その内側から、ただそこでのみ安堵に至る秩序の中に復元していくのである。
その世界では、余分なものは必要ない。
今必要なものを、必要な分だけ手に入れればそれでいい。決して過剰に流れない彼らの日常性が今ここにあり、明日もまたそこにある。家族を一人喪ったばかりの夫婦が、明朝早く、いつものように伝馬船を漕いでいるに違いない。
* * * *
5 日常性の中にこそ感動がある
「裸の島」という映画史に残る傑作を世に出した新藤兼人は、インタビューの中で語っている。
「私はこの作品を通して、乾いた現代人の心に水をまきたかった。厳しい境遇に生まれ、希望などないと感じている人の心にも染み込んでいく水を、繰り返し繰り返しまき続けたかったのです。それは私が母の姿を見ていたからでしょう。どんなに絶望しても、今日1日を生き抜けば、また明日も生きている。人間というのは生きていくものなのだと」(asahi.com:「就職・転職ニュース『今週のスペシャル』2004.10.17新藤兼人」より)
また間接的に、監督自身が語った話が残っている。
佐藤忠男 |
「家庭で妻の日常の仕事というものを見ていると、日常のこまごました主婦の作業というのもじつにたいへんなものだと思う。食事の支度から、子どものめんどうから、しつけから―― と、そこで彼はそれをもっとこまぎました個々のしぐさに分解して具体的に説明してみせたのだが―― 考えてみると生きるということはこういう一見単調でなんでもないような日常的な行動の繰り返しなのであり、それは、よく見ればよく見るほど感動的なものなのである。
自分は農民の出身であるが、自分の幼いときの記憶をたどると、自分の母親も、一日中、じつに忙しそうに、働きづめに働いていた。そこには別に変わった事件は何もなく、きまりきったことの繰り返しなのだが、それが感動的に思い出せる。映画でそういう感動を表現することができないか。映画はお話であり、お芝居であるという既成の観念をいったん捨てて、生活そのものの細部から生命の実体をつかんでみたい・・・」(前掲書より/筆者段落構成)
佐藤忠男はこの話から、監督自身の思いを紹介して、「なんでもない日常生活のなんでもない行動の繰り返しを、なんとか感動的なものとして表現しきってみたい、という映画作家としての意欲」を読み取っている。
そして、「全世界の女性の味方」を標榜する監督の思いは、まさに「なんでもない日常生活のなんでもない行動の繰り返しに耐えている人たち」である女性の存在様態と脈絡するから、必ずしも、ヒロイックな感動を描く作品的必要性がないことを説明してみせたのである。
更に、佐藤は書いている。
「多くの女性は、事件も変化もない、日常生活というものに耐えている。新藤兼人は、その日常生活というものを一見平板な時間の流れのまま、感動的なものに変えて見せようとするのである。いや、無意味なものを有意義なものに変えるという錬金術みたいなことをやろうとしているのではない。凡庸な眼には退屈にしか見えないながめを、まごころをこめて見つめ直すことによって、そのおなじながめの奥にある生の真の意味にまで“まなざし”をとうたつさせようとするのである。
そして、そういう“まなざし”を人々に要請してやまない新藤兼人の思想の核心にあるものこそは、毎日毎日、おなじ作業を忙しげに繰り返しやまなかった、幼い日の記憶のなかにある母への憧憬であり、それをあらためて想起させる家庭の主婦の日常というものなのである。
(略)その日常生活のなかで女性が感得し得る感動こそが真の感動なのであるというひとつの哲学でもあるのだ。言いかえれば、そうした感動以外のところでのヒロイックな感動というものには深い警戒を持つということであり、それは英雄の否定ということになる」(同上/筆者段落構成)
以上の一文は、新藤兼人という映画監督が、一貫して、黒澤明流の英雄活劇を好まない作品を放ち続ける理由を端的に説明していて、興味深いものがある。
私は正直に書けば、新藤作品は些か暑苦しすぎて敬遠する部分も多いのだが、寡黙で貫いた「裸の島」という作品だけは特別である。
その作品で描かれた、「日常性の中にこそ感動がある」というテーマ表出に深く共鳴するからである。
6 過剰な快楽と塵芥の中に、せめて自分に見合った日常性を
―― 本稿を括っていきたい。
この作品を通して、果たして、監督のこのような思いがどれほど観る者の心に伝わってきたか、今では疑問の余地が残るところである。
監督の思いを実感的に理解するには、何よりも、ここで描かれている人々の日常性に対するごく普通の共感が必要となるだろう。
それは、「古き良き日本」への過剰な共感であってはならない。
都会生活で味わった、取るに足らない失意や孤独を癒してくれるものとしてこの映画と付き合っても、私たちには映像のリアリズムとの距離を埋めることは困難であるだろう。
だから私たちには、突飛な物語しか作れない。
それは、突飛な物語と束の間遊ぶことはできても、幻想の突破力を遂に手に入れることはできないのである。
また、この映画によって潤される必要のない者には、監督の思いどころか、孤島に生きる人々の日常性の厳しさを理解することなど到底及ばない。
夫に叩かれた妻にフラットな感情で同情した分だけ、私たちは、もうこの映画に入れないだろう。
映画に記録されたごく普通の人々の日常性と、私たちの日常性との間に存在する距離は、恐らく永遠に埋まらないに違いない。
従って、この映画と付き合うのはとても難行だし、とても厄介なことなのだ。
こういう時代があり、そのような人々がいた。そしてこの国のどこかに、限られた土地で、乾いた土に水を絶やさないで生活をする人々が、今もいる。
しかし、映像の農夫たちが何も語らなかったように、今もその人たちは寡黙な生活を生きているはずである。
少なくとも、語るべき本質的な事柄が大して存在しないにも拘らず、自分の埒もないフラットな言葉を受け止めてくれる相手を、何かいつでも必要以上に求めてしまう私たちの関係依存性の過剰さとは、どこかで切れている生活がそこにあり、なお、その変哲もない日常性を繋いでいると思われるからだ。
だから私たちは、安直に、自然との困難な共存を強いられている人たちの、その圧倒的な生活の厳しさに共感しない方がいい。
過剰に共感するのはもっとたちが悪い。
私たちに共感される人たちは、人がどう思おうと、単に自分のサイズに合った日常性を、ごく普通に生きているに違いないのだ。
高度に発達した文明の恩恵を素直に認知できない者に限って、自らの文明漬けの生活を殆んど確信的に手放せない弱みが引き金になって、しばしば、自然と隣り合って生活しているような風景に、過剰な思い入れをするから余計に始末が悪いのだ。
どうやら私たちは、過剰な視覚文化の中で想像力を貧弱にさせた結果、様々な意味での距離感を失ってしまったらしい。
環境や状況に於ける自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。だから、いつまでたっても等身大の生き方に逢着できないのである。
近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥の中に、せめて自分に見合った日常性を構築するしかないのだ。
私たちはこのリスキーだが、しかし快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。
これはもう避けようがない。
いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。
避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。
散々甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるのは止めたほうがいい。
文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていくしかないのである。
7 それ以外にない場所を持ち、それ以外にない人生を生き、そして土に還っていく
一方、「裸の島」の家族は、疑う余地のない自分たちのごく普通の日常性を、ごく普通に生きている。
変化の少ない日常性が偶(たま)さか非日常の恐怖に捕まっても、それ以外にない日常性を築いた人々の復元力は圧倒的である。それ以外にない場所を持ち、それ以外にない人生を生き、そして土に還っていくのだ。
全篇を通して流れる叙情的な音楽は、時には優しく、時には哀切に、語りのない映像を巧みに代弁してくれるだろう。
この音楽に誘(いざな)われて、それ以外にない日常性に帰還する夫婦の確かさに深い感銘を受けるのである。
その夫婦のものでしかない確かさが、モノクロームの映像に張り付くようにして完結するとき、そこに深い余情が残された。
これは乾いた土を潤す夫婦の、その日常性の確かさをリアルに写し撮った映画だった。
8 潔い覚悟が生み出した映像
新藤兼人監督 |
近代映画協会という独立プロの最後の一作として、残された僅かな資金で製作された完全燃焼の映画でもあったのだ。
男たちが覚悟を括った後から、遅れるようして絶賛の評価が追いかけてきた。
男たちの仕事は、これを起点に再稼動していった。
そして今、九十歳を越える新藤兼人という男が、何十回目のメガホンを取ろうとしている。
覚悟をもって突き抜けてきた人生に、まだ満足のいく軟着点が見つからないのであろうか。
(2005年10月)
【2012年5月29日、老衰のため100歳で逝去された、「全身映画監督」の人生を生き切った新藤兼人監督に、謹んで哀悼の意を表します】
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