<強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨>
1 記録映画作家としての力量の脆弱さ
人の心は面白いものである。
自分の生活世界と無縁な辺りで、それが明瞭に日常性と切れた分だけ新鮮な情報的価値を持ち、且つ、そこに多分にアナクロ的な観劇的要素が含まれているのを感覚的に捕捉してしまうと、「よく分らないけど、面白かった」という気分を運んでくることが多々あるだろう。
この「靖国 YASUKUNI」という映画と出会ったときの人々の普通の感覚は、恐らく、そのような類の感懐をもたらす何かであったに違いない。しかしそれは、本作の作り手が恐らく確信的に仕掛けてきた、極めて創作性の高い映像の稚拙なトリックに嵌り込んだ感性の所産でもあるだろう。
ここには「死」、「暴力」、「祭り」という人間の非日常的な世界を具現する要素が、そこだけは見事に嵌め込まれていて、この見透かされた映像の凡作の極みを中和することで、ほんの少し「底」を突き抜けたと感受させるような構成力を持ち得ていたとも言える。
「靖国」という名の異次元の世界が運んできた不思議なる映像宇宙の内に、危うく、厄介で非日常的な触感をもたらす情報群は、作り手によって特定的に切り取られた負の時間を自在に往還し、舞い、低音旋律の徘徊に随伴する気分が心地良い辺りでシャッフルされるから、極めて印象度の濃密な情報が「選択的注意」(情報を特定的に選択すること)によって相応の自己完結を果たすのである。
声高にならない映像の怖さがしばしば散見されるが、この映画は本質的な所で、その「怖さ」にも届き得ていなかったのだ。
―― その辺りを本稿の問題意識の中枢に据えながら、映像のラインに沿って、その都度、必要な分だけの解釈を加えてフォローしていきたい。
まず、一人の老人の殺陣のカットが披露された。
そのシークエンスの中に、刀の鋳造を予想させるカットが含まれて、すぐにその老人が刀匠である事実が判明する。刀匠の節くれだった手がアップで映し出されながら、限定的なボキャブラリーの中で日本語を駆使する作り手のインタビュー(画像は李纓監督)が、静かに開かれていくからだ。
まもなく、タイトルとパラレルに映し出された際に、恐らく、「靖国の刀匠」としての厳しい表情が期待されたに違いない当該人物の本来的な柔和さが、アップの被写体の構図の中に、より一層の善良さが際立ってしまっていたのである。刀匠の人柄の片鱗は、「感謝状」(注1)を自ら読み上げる描写の中で微笑ましく切り取られていた。
「洵」(まこと)という字を読めずに、それを「ここ」と読んでしまった際、恥じらいを含むその声は小さく、いかにも遠慮げであったエピソードの裏に、本作の作り手によって読誦を頼まれても断れない人の善さが透けて見えたのである。
(注1)「御祭神奉慰の御特志を以て右御奉納下され 洵に有難く深く感謝の意を表します 昭和58年7月8日 靖国神社宮司 松平永芳 旧日本刀鍛錬会殿」。因みに、ここでその名が出てくる松平永芳こそ、1978年に、14名のA級戦犯を合祀した人物である。
そしてその描写の直前に、本人には預かり知らないだろう「肉食系」のキャプションが、それもまた声高にならない程度の抑制的な音楽の律動感を随伴して、遠慮げに紹介されていたのだ。
「昭和8年から終戦までの12年間、“靖国刀”と呼ばれる 8100振の軍刀が靖国神社の境内において作られた」
この辺りの描写に関して、現実の資料を提示して異論を唱えている人がいるので、以下、その主要部分を抜粋する。
そのテーマは、「映画『靖国』が隠していること」。
執筆者は、「靖国」(新潮社刊)の著者でもある坪内祐三(評論家/画像)である。なお以下の稿は 、「15年戦争資料」というHPからの引用である。
「・・・このままでは質の高い日本刀を作る鍛錬技術がすたれてしまうという危機意識が、昭和8年の日本刀鍛錬会設立となったわけだが、2度目の危機は、敗戦直後のいわゆる『昭和の刀狩り』の時に訪れ、製作の復活がゆるされたのはサンフランシスコ講和条約締結以後の事だ(『靖国刀』巻末の『関係者一覧』の履歴を見て行くと刈谷さんは昭和27年に講和条約記念刀を製作していてどうやらそれが刈谷さんの戦後第一作のようだ)。
こうして日本刀の鍛錬技術は命脈を保たれ、昭和57年7月、靖国刀を作っていたかつての仲間達18人が集まり、日本刀鍛錬会の創設50周年に当たる昭和58年7月8日に合わせて新たな靖国刀を合作することを決めた(つまりそれがこの映画の冒頭に登場する感謝状の意味なのだが、その点に関しての何の説明もないから映画を見ている人間は今でも毎年のように靖国刀が靖国神社に奉納されているような──しかも御神体として──誤解を受ける)」(「文芸春秋 2008年6月号」より)
要するに、このとき刈谷氏が読み上げた「感謝状」とは、日本刀鍛錬会の創設50周年に当たった際に鋳造した靖国刀であって、靖国神社のオフィシャルと関連づけるには無理があるというものである。
以下、その辺の指摘についても、執筆者は書いている。
「まるで靖国神社がオフィシャルでそのような刀を製作しているかのような誤解を見ている者に与えそうだが、その誤解は、それに続くキャプションで増幅されて行く。つまり黒のバックの画面に、小さく、『昭和8年から終戦までの12年の間に"靖国刀"と呼ばれる8100振の軍刀が靖国神社の境内において作られた』というキャプション(実際は横書き──以下同)が流れる。そして刈谷さんがその"靖国刀"を作った刀匠の最後の生き残りであることを知らされる。そして刀匠のアップの直後は、本作の中枢である『日本刀』という象徴性に被されたイメージを、明瞭に具象性を持ったキャプションの内に繋がっていくのである」(同誌より)
執筆者は、日本刀が靖国神社の御神体である映像の説明を明確に否定していることも書き添えて、本稿は先に進もう。
「明治2年 靖国神社設立 天皇のための聖戦で亡くなった靖国の神“英霊”として祀り続けている 246万6千余の軍人の魂が移された一振りの刀が靖国神社の御神体である」
「靖国神社の御神体=日本刀」という誤謬については、多くの人が指摘している所だが、本稿はその辺の問題点を特段にピックアップするものではないので、ここからは、本作を映像のストーリーラインに沿ってフォローしていこう。
8.15。
後ろ姿の軍服のラインの先頭に立つ民間団体の老人が、ゆっくりと言葉を噛みしめるように、その堅固な思いを明瞭に結んでいく。
「大東亜戦争。終戦60周年。祖国のために殉じ、戦争の犠牲となられた戦没者の英霊の御霊よ、安らかに眠りたまえ 母国の英霊の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます 合掌」
その後も、8.15の定例行事のように、次々と軍服に身を包んだ人たちが参拝していく。
暫くすると、制服を着た青年たちの参拝風景が印象的に映し出された。本作の宣伝ポスターに使われたあの有名な構図が、そこに記録されたのである。
彼らは恐らく、去年もそうであったうような出で立ちで粛々と柏手を打ち、参拝を終えるや、ラインを乱さず参道の中枢を抜けて行った。正真正銘の我が国の現役自衛官であるが、映像を観る者は、彼らが本物の自衛官であることを特定できないイメージの中で、ある種の怖さと滑稽さを持って、この構図を解釈したとも思える。
その後、この現役自衛官からの抗議があったという報道を眼にすることはなかったが、本作の作り手による、些か強引なこの手法は、ポスターの主の立場の難しさ(提訴できない弱み)を知悉(ちしつ)した上での確信的行為とも考えられるのである。
因みに、この撮影に関しては、有村治子参議院議員(自民党)が国会で取り上げた「肖像権」の問題として、本作の上映に関わる一連の騒動の中で耳目を集めたが、しかしこの国には未だ「肖像権」という明瞭な定義による立法化が為されていないので、単に「人格権」の問題の範疇の内に処理されているのが現状だ。撮られる者もその事実を認知しているはずだから、後に映像公開された際に、製作者側に抗議するという問題が生じるだけである。そこで生じるのは、「人格権」の侵害の有無というレベルの問題であるが、その本質は、自分が望んでいたイメージが再現されたか否かという次元の、所謂、「期待権」の誤差にしか存在しないとも言われている。
それについては、本稿に限定すれば、筆者自身の問題意識の枠外にあるので、稿の最後で格好の引用文を利用させてもらうことで、引き続き自らの継続的な問題意識にしたいと思っている。
―― 本作に戻る。
8.15に群れを成す組織化された人々のラインは、本作が15分を過ぎた辺りに「天皇陛下万歳!」を唱和する描写によって一つの小さなピークを見せた。
「刈谷直治(90歳) 現役最後の靖国刀匠 今も“靖国刀”を作り続けている」
このキャプションの挿入によって、刀匠の名が、「刈谷直治」(画像)という人物であることが観る者に了解される。
このシーンの中で、本作の作り手は刈谷氏に、当時、どんな気持ちで刀匠たちが境内の中で靖国刀を作っていたのか、英霊に守られているという思いがあったのか、という意味の発問をする。
更に、そこに何か特別な意味を持っているのか、という途方もない作り手の問いに、適切に反応する言葉を持ち得ないで沈黙するばかりの印象を与える刈谷氏。相手のインタビューに誠実に答えようとする思いがありながらも、何某かの事情があるのか、くぐもってしまう刀匠の、困り果てているかのような表情が映し出されていくのである。
「困ったね…ううん…」と刈谷氏。
笑顔を消さないように努めているようだった。
「覚えていることだけでも…気持ちとか、印象とか・・・当時のね…」と作り手。
静かな口調の中に、作り手は戦前の刀匠の軍国魂を必死に探ろうとする。
結局、何も答えられない刀匠がそこにいた。
当然ではないだろうか。
思い出せない現実があると同時に、当時、高々20代の青年が、靖国神社の刀匠たちの心の世界の何が理解できたのかという問題もある。そして何より、「現役最後の靖国刀匠」と言われる刈谷直治氏が、その頃、果たしてどのような立場にいたのかについて全く判然としないのである。
この映像からほぼ明瞭に読み取れるだろう心理的風景 ―― それは「現役最後の靖国刀匠」が、作り手の発問に誠実に答えようとしながらも、その答えを持ち得ないで済まなそうに振舞うその誠実さである。
或いは、この描写での刈谷氏の心理的風景を、以下のように考えられなくもない。
即ち、ごく「普通の時代感覚」で考えた場合、当時、刈谷氏は「普通の日本人」のそれと違(たが)わない、ごく「普通のレベルの愛国心」の持ち主であり、その思いの延長線上に、靖国刀の鋳造に対する、氏なりのごく「普通の矜持」を持っていたことが推測される。
従って、作り手の本質的な発問に対して、刈谷氏がお茶を濁すような反応を示したとしても全く可笑しくないのだ。そんな心理的風景がそこに漂流していたと仮定しても、いや、それならばこそと言うべきか、本作のの作り手は、微妙に揺れているかも知れない相手の内面とシビアに対峙して、「現役最後の靖国刀匠」の深奥に斬り込んで、そこで露わにされた裸形の世界に鋭利に肉薄していくべきではないのか。そこにこそ、自らが特定した被写体の内面世界の深い部分に届き得る、確信的表現者が獲得した映像的到達点が見られるのではないか。
しかし私たちがそこで出会ったものは、あまりに緊張感を失った時間が晒す、気まずい沈黙が運ぶ精気の稀薄な空気感以外ではなかった。既にこの時点で、記録映画作家としての力量の脆弱さが検証されてしまったのである。
2 強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨
更に、「ストーリーライン」を追っていこう。
その後、映像は戦前と戦後の「靖国神社」の点描に、「現役最後の靖国刀匠」の鋳造の仕事振りをオーバーラップさせていく。靖国刀を奉納した際の、戦前の描写が描かれるのだ。
「刀匠たちの作った靖国刀は、戦場の将校たちに供給された」という字幕。
次の場面は、メディアの批判の対象を浴びることになった、靖国参拝についての小泉首相(当時)の会見。
「靖国の問題は外交問題にしない方がいいと思います。…二度と戦争を起こしてはいけない、ということが日本人から可笑しいとか、いけないとかいう批判が、私は未だに理解できません。まして外国の政府が、この『心の問題』に対して、一政治家の『心の問題』に対して、『靖国参拝はけしからん』ということも理解できないんです。『精神の問題』、『心の問題』に対して政治が関与することを嫌う言論人、知識人が私の靖国参拝を嫌うことも理解できません」
7月のみたままつり(イメージ画像・ウィキ)
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「小泉さんのあの件で、ある方に『どう思う?』って聞くと…私は行ったっていいと思うの…でも偉いね、あの人は。自分で決めていたと思うわ。行かなきゃ、行かないって言われるし、行ったら、行ったって言われるし…」
そこでは、人々の率直な思いが吐露されていて、とても興味深いものがあった。「小泉首相を支援します」というプラカードを掲げるアメリカ人と、「境内からアメリカ人は帰れ」、「ヤンキー・ゴーホーム」と叫ぶ中年の愛国者。そして、「南京大虐殺」を否定する人たちの署名運動。
「百人斬り競争の両将校」と書かれた当時の新聞が紹介されたり、靖国に軍服姿で参拝する一人の老人の無言の振舞いが、恰も、「現代の日本」の負の断面を象徴するかの如く映し出されていくのだ。
その声高に振れない映像の隙間を支配するのは、大日本帝国陸軍の正式行進曲としてあまりに有名な「抜刀隊」という軍歌。
それがBGMとして流れていくことで、「小泉首相の会見」→「中年の主婦たちの会話」→「『ヤンキー・ゴーホーム』と叫ぶ中年の愛国者」→「『南京大虐殺』を否定する人たちの署名運動」→「『百人斬り競争の両将校』の話題を誇らしげに伝える、当時の新聞」→「軍服姿で参拝する、一人の老人の無言の振舞い」というラインが繋がっていくのである。
我は官軍我(わが)敵は、天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は、古今無双の英雄で
之に従う兵(つわもの)は、共に慓悍(ひょうかん)決死の士
鬼神(きしん)に恥(はじ)ぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を
起こしし者は昔より、栄えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は、進めや進め諸共に
玉散る剣(つるぎ)抜き連れて、死ぬる覚悟で進むべし (「抜刀隊」の歌詞)
靖国刀(イメージ画像・ブログより)
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観る者に呆気なく見透かされてしまうようなドキュメンタリー映画の稚拙で、深みのない描写のラインの一つの逢着点が、そこにあった。
―― ここから、映像は刀匠、刈谷直治氏の仕事場の風景に戻る。
相変わらず懲りないインタビューが、再び開かれた。
今度は、作り手の勝負を賭けたような直接的な発問が連射されていく。
「数回使うと斬れなくなるのではないか?」、「戦地で本当に役に立ったのか?」などという鎌を掛けるような作り手の質問に、刀匠は「囚人を試し斬りにした」とか、「連続して使っても大丈夫で、戦地に役に立っていたのだ」という反応を結んでしまったのである。
作り手は日本刀の斬れ具合を、刈谷直治氏の口から言わせたいのだ。
「機関銃を斬った」という例を出すことで、誠実な氏は素直に答えていくが、作り手は「百人斬り競争」に靖国刀が使用された事実を検証したいようなのだが、丹念に観る者にとってあまりに見透かされる類の発問だった。
この辺りから、映像の本来的な目的を知らされていないだろう刈谷氏は、作り手の描いた物語のラインの内に吸収されていくのである。それもまた、あまりに見透かされた手口であったと言わざるを得ないだろう。
ドキュメンタリー映画としての突破力の欠如が、まもなく露わになっていくのは自明の流れ方であった。そして何より由々しき描写のラインは、この刀匠のインタビューが、刈谷氏の地元である高知県の仕事場で撮影されているという事実である。更に言わずもがなのことだが、先述したように、戦後の靖国神社には、「靖国刀」の鋳造所が存在しないという点である。
それ故にこそと言うべきか、刈谷氏とは殆ど没交渉であったか、それとも、「刀匠」のポジションとは無縁であった分だけ「時代」と乖離していたと思われる、「当事者性」の稀薄な「現刀匠」との接続の頓挫を埋めるために、昔の古い粗悪なる「軍国日本」を象徴すると思わせるに足る、多くの写真をコラージュさせた遣っ付け仕事に終始する以外になかったのだろうか。
―― その後のシーンは、「合祀を取り下げろ」、「戦争反対」、「私たち台湾原住民の祖霊を返せ!」というシュプレヒコールの激越な描写が映し出された。
その空気感の延長に、合祀の取り下げを求めて7度にわたって来日している、台湾原住民である高金素梅さんの、靖国神社への抗議の折衝が開かれた。相手は宮司ではなく、単なる社務所の職員。
「私たちは日本人ではありません。親族の魂を連れて帰る権利があります。彼らの魂も怒っています。生前、彼らは自由を奪われて、今は魂さえも閉じ込められている。神道こそ、他の文化を尊重すべきです。神道なんて偽物です。魂の意味を分っていない。人は死んでも尊厳は残ります。覚えておいて。私たちは諦めない。必ず戻って来ます」
―― 次のシーンは、浄土真宗遺族会事務局長の肩書を持つ、菅原龍憲氏(島根県大田市 正蔵坊/画像中央)のインタビュー。
父を先の戦争で喪った氏もまた、靖国神社への合祀取り下げ訴訟の原告の当事者でもあることは、夙(つと)に知られている。
「靖国神社は、戦前とどこも変わっていません。叙勲というのは…遺族たちは理不尽に死を余儀なくされてたわけでしょ。ところが、その怒りとか恨みとか悲しみとか、まさに国の責任ということに於いて、国にぶつけようとしたいですよね。国策によって駆り出されたわけですから…でももう、国の方は勲章を出して褒め称える…戦死も名誉の戦死といいますから、まさに行き場を失うわけですね、遺族の思いというのは…結局、勲章という、褒め称えられるという…遺族の悲しみは全部そこに吸収されていくと言いますかね…そういう倒錯した構図というのが、私はここにあると思います。つまり、国の戦争責任が問われない形で、遺族たちにも文句を言わせないという…そういうことに大変な危惧を果たしていると思いますね、勲章というのは…」
「危惧を果たす」という言葉は意味不明だが、氏の言い分は、叙勲によって戦争責任を相殺しようとする国家の犯罪性を、靖国神社の現在性の内に収斂されるという所だろうか。
その直後のシーンは、昭和53年に靖国神社が実施した、A級戦犯の合祀のキャプションと、その中心人物である東条英機の写真。
―― そして、高知県にある刀匠の仕事場の映像に繋がった後に待っていたのは、某民間団体による参拝の場面。
戦後教育を批判する団体代表(?)の説教が、「靖国」という名の異次元の小宇宙を支配した。相当の高齢者とお見受けする老人の声が境内を響かせて、その甲高い声を、記録映像作家の作り手が、淡々と普通に聴く者のように拾っていく。
その映像の流れの一つのピークアウトが、「軍事博物館」としてあまりに有名な「遊就館」(画像)の映像であった。
ここで映像が拾っていくのは、館内の展示物それ自身と言うよりも、その展示物にリヴィジョニズム的な意味づけを被せようとする館内のアナウンス。
以下の内容である。
「そこに真実の歴史があります。虚偽も仮面も剥ぎ、日本のことを知って下さい。(略)今ならまだ間に合います。戦場に散った友のために。日本がもし混迷しているのなら、大東亜戦争は日本人が、日本を守るために戦った戦争であることを。そして、今現在においても日本が侵略戦争をした。日本軍は悪いことをしたと主張するならば、それは虚偽の歴史に操られているとは言え、日本人の名誉と誇りと尊厳に対する罪ではないでしょうか」
8月15日。
この国の愛国保守団体として著名な、「日本会議」のセレモニー。
石原慎太郎東京都知事、稲田朋美衆議院議員(自民党)のフラットなスピーチが拾われていくが、専(もっぱ)ら作り手の関心は、小泉首相の靖国神社参拝に反対する日本青年の激しい抗議と、彼によってセレモニーを妨害されたと怒る関係者が、当人に向かって「中国に帰れ!」と怒号しながら自らの興奮を抑え切れず、その青年を殴打する光景の方にあった。
延々と繰り返される恥ずべき暴行を、ここぞとばかり、カメラは画面一杯に大写しで記録していく。
救急車の搬送を勧める隊員を拒む青年は、「こんな暴力に屈すると思ったら、大間違いです!」と叫ぶその身体表現の内に、カメラを意識した自己顕示を含ませているようにも見えるものの、恐らくその意識によって加速されたであろう、抑制の効かない感情の飽和点による異状な興奮の様態を晒していた。
暴行事件の直後に用意された映像は、小泉首相の靖国神社参拝であったことは自明だった。
―― 日本刀の鋳造に勤(いそ)しむ、刀匠の仕事場。
空気の読解に鈍感のようにも見える本作の作り手は、なお執拗に、靖国に対する特別な思い入れの有無を刀匠に尋ねていく。
沈黙するばかりの刀匠が、今度は逆に小泉首相の靖国神社参拝について、作り手に聞いていったのである。作り手はそれに答えず、その発問を刀匠に返していく以外になかったようだった。この時点で、刀匠の内面世界に全く肉薄できていない致命的欠陥が晒されたのである。
作り手がどうしても聞きたいと思っている事実が、果たしてそこに開かれていったのか。
「刈谷さん、どう思いますか?」
「私もね、小泉さんと一緒のようなもんですわ。靖国神社は国のために亡くなった人の霊を慰めるためで…それから、将来(戦争が)起こらないようにという…一緒ですわ。怒られるかも分らんけど…」
終始、笑って話すだけの刀匠が、そこにいた。
「映画『靖国』が隠していること」の執筆者は、このときの刀匠の反応を、「刈谷さんはここでもぶれない」と書いていたが、私は刀匠の表現は、そのような限定的な把握によっては抑えにくい、心理的に微妙な差異があるように見えた。
それは、「怒られるかも分らんけど…」という中和化された言葉を挟んだように、「自分のための映画を作る」と思い込まされた相手への配慮から、決して空気を汚すことなく、且つ、ここだけは自分の思いを表出しようと小さく括った刀匠の、その心理的反応だったと思えるのである。
結局、この描写は、この国の高年者にほぼ平均的に支持された感のある、ごく普通のサイズの愛国心を乗せた意見しか言えないことに集約されたように、相手を気遣う「善良な刀匠の人柄」を映し出しただけだったのだ。
然るに、本作の作り手が、「善良な刀匠の人柄」を強調するために、このインタビューが企画されたのではないだろうことは、既にこれまでの映像のラインによって明瞭である。
「お茶も差し上げんで…」
この一言が、全てを語っていた。
作り手の発問に満足させるような答えを出せなくて、その後の長い沈黙の気まずい間(ま)を自ら解きほぐすかのように、刀匠はとうとう、この一言に流れる以外になかったのか。
ここでも映像は、刀匠のシーン以外の描写で見せた切っ先鋭い映像を作り出せないのだ。観る者が却って、作り手に同情する場面が極まった瞬間でもあった。
観る者に同情されるドキュメンタリー映画 ―― それは些か自壊の爛れの様相を露呈するものだったと言えるだろう。
相手と対峙し、そこから作り手の狙いに見合った「成果」を手に入れるための緊張関係が、一貫して刀匠とのインタビューの中に拾い上げられていないのだ。
緊張感を失った刀匠とのインタビューと、それ以外の緊張感溢れる場面との決定的な落差 ―― その由々しき問題が炙り出されてしまったのである。
なぜなら後者の場合は、先に言及したように、ポスターに使われた現職自衛官や軍服姿の愛国者、境内で「小泉参拝」の是非を語り合った中年婦人等々、そこにある種の「期待権」の誤差が後に判然としたかも知れないが、いずれも「肖像権」の問題を含めて撮影される事実を認知しながら、撮影対象人格としての普通の振舞いを表現していたのである。だからそこに、撮影者と撮影対象人格との無言の葛藤が存在したが故に、一定の緊張感を生み出すことに成就し得たと言えるのだ。
靖国神社で造られた日本刀(イメージ画像・ウィキ)
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その決定的な逸脱のさまが、やがて本作の括りの中で一層鮮明になっていくが、もう少し映像をフォローしていこう。
「休みのときは、どんな音楽を聴いているんですか?」
遂に作り手は、こんな発問に跳んでいくのだ。しかしこの発問は、映像のストーリーラインの布石となっていたようにも見える。
刀匠はこのとき、作り手の狙いに合わせるかのように、昭和天皇の短歌や、東京オリンピックでの繁栄を称える録音記録を聴かせたのである。しかし刀匠が、そこで提出した録音コレクション(?)の「趣味」は、明らかに普通の庶民感覚の範疇に収斂される類の何かであったと言えるだろう。作り手は恐らく、その事実を把握していたに違いない。
然るに、映像はこの描写を起点にして、殆どここぞと言わんばかりに、戦前の日本軍国主義の侵略性を、その当時のフィルムの繋ぎによる遣っ付け仕事によって結んでいった感の深い印象だけを、そこに置き去りにしていったのである。
詰まる所、刀匠の配慮によっても埋まらない落差を無視するかのようにして、既に破綻しかかった記録映画のラインは、殆どそこだけがテーマ設定の中枢であったと思わせる映像を強引に繋いでいくのだ。
明治天皇の肖像→軍馬の行進→靖国神社の奉納と、境内での演武の儀式→靖国刀の大写し→武道訓練→「靖国刀」(?)による処刑のスチール→刀による試し斬り→国民学校(?)での武道訓練→昭和天皇の閲兵→昭和天皇による靖国神社の参拝→南京入城→処刑のスチール→軍刀を手にして、特攻機に乗り込む海軍将校→特攻攻撃→原爆投下→昭和天皇による戦後の靖国神社参拝
「日本刀(靖国刀)=靖国神社=侵略戦争というストーリーラインの中枢に、精神的支柱としての「靖国」=国家神道が君臨し、そこに参拝する昭和天皇が存在せり」
―― こんな映像文脈が一転して、カメラクルーが映し出したのは詩吟の風景。
吟じるのは刀匠である。
吟じられた詩吟は、徳川光圀の作とされる(?)「日本刀を詠ず」(「「詠日本刀」」)。
以下の通り。
「蒼龍、なお未だ雲霄に昇らず 潜んで神洲剣客の腰に在り 髯虜鏖(みなごろし)にせんと欲す策無きに非ず 容易に汚す勿れ日本刀」
「容易に汚す勿れ日本刀」というメッセージを伝えたいようである。
―― ラストシーン。
靖国神社を俯瞰する映像の最後は、現在の大都市、東京の夜景であった。
エンディングには、ポーランドの音楽家、ヘンリク・グレツキの第3交響曲として名高い「悲歌のシンフォニー」の第1楽章が流れていく。重苦しい曲調が、癒しを求める観る者の心に寄り添って、声高にならないように配慮した作り手の心情への親和動機を高める効果を生み出したに違いない。
―― 然るに、本作を観終えて、終始、私の中で拘りを持ったのは、以下の把握に尽きる。
靖国神社(イメージ画像・ウィキ)
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「死」、「暴力」、「祭り」という非日常の現象様態が、時間軸を縦横に往還しつつ同居する、不思議なる異次元の世界と、日本刀の鋳造という匠の世界の日常性が、最後まで生き生きした律動感を持って交差できずに破綻した記録映画が、そこにあった。
恐らく本作の作り手は、非日常の破壊的イメージを惹起させる、日本刀という特別な具象媒体によって、両者をクロスさせる意図の内に、本作で展開されたこの創作的な世界を開いたと想像させる。
しかし、刀匠の日常性鋳造の世界を幾ら抉(こ)じ開けようとしても、そこに見えてくるのは、人間味溢れる善良な老人の、ごく普通の日常言語でしかなかった。だからこの創作過程で、作り手は刀匠とのインタビューへの鋭利な突っ込みを、殆ど断念したと想像するに足る様相が眼に見えるのだ。
それでも、この二つの世界を交差させることで得られる創作性のモチーフを自壊させないために、作り手は刀匠の精神世界の描出を断念できなかったに違いない。
とうとう最後には、異なった二つの世界の決定的な隙間を埋めるかの如く、「容易に汚す勿れ日本刀」という漢詩に集約される日本刀の持つ象徴的価値を、「現役最後の靖国刀匠」に吟じさせることによって、本作を閉じていかざるを得なかったように思えるのだ。
要するに、「靖国 YASUKUNI」という固有名詞が内包するイメージの決定力を、作り手の恣意的な把握(注2)とは無縁に、全く異なった二つの記録映画が交差することなく、パラレルに進行するという明瞭な創作的失敗を露呈させる何ものでもなかったのである(注3)。
有村治子参議院議員 |
その発言内容は、以下の通り。
「私の映画が具体的に示しているのは菊と刀で、その二者の間の関係だ。最後に問い質す最もカギになるのは、やはり天皇の問題だ。天皇の問題が解決されず、永遠に曖昧に過ごされれば、靖国神社の問題を解決することはできない」
(注3)但し、本作を失敗作と断じる筆者の把握とは異なって、「水俣-―患者さんとその世界」(1971年製作)で有名なドキュメンタリー映画作家、土本典昭に代表される著名人による「絶賛の評価」も多い事実も添えておく。
以下、土本典昭(画像)のコメント。
「九十歳の刀鍛冶とその日本刀を物そのものとしてとらえ乍ら、軍人の“魂”とされ、神社の“神体”とされた歴史を天皇と軍人の寫眞と交錯させ、この“神体”が戦争へのよみがえりにつながっていることを見事につたえている。“私たちは日本人ではない”と叫ぶ東アジア人の“英霊”の声は戦後六十年の虚構をあばいている。これは“考える映画”の秀作である」(映画「靖国 YASUKUNI」公式サイトより)
3 ドキュメンタリー映像作家としての覚悟の稀薄さ
映像をもう一度、検証してみたい。
刀匠のシーンには、必ずと言っていいほど、「肉食系的映像」か、又はそれを伝える字幕が挿入されているのである。
それらを具体的に羅列していくと、以下の通りである。
「昭和8年から終戦までの12年間、“靖国刀”と呼ばれる 8100振の軍刀が靖国神社の境内において作られた」
「明治2年 靖国神社設立 天皇のための聖戦で亡くなった靖国の神“英霊”として祀り続けている 246万6千余の軍人の魂が移された一振りの刀が靖国神社の御神体である」
「刀匠たちの作った靖国刀は、戦場の将校たちに供給された」
これが冒頭と、その後の刀匠のシーンの中のキャプションである。
この中に、撮影の被写体となることを許容しながらも、映像化されたフィルムへの「期待権」を削られたという疑義を持たせる範疇を越えて、「表現の自由」の枠組みを逸脱したと主観的には思われるが、法的にそれが保護の対象として認知されるか否かについては難しいだろう。また実際に、訴訟に繋がっていない事実もあることを考えれば、その事実確認の問題は第3者が介入すべきことではないかも知れない。
いずれにせよ、終始、相手を気遣って笑顔を絶やさない刀匠のシーンが、恐らく、当人が予想だにしなかった肉食系の字幕に挟まれながら挿入されたのである。
「天皇陛下万歳!」を唱和する描写の後に、「仮谷直治(90歳) 現役最後の靖国刀匠 今も“靖国刀”を作り続けている」という字幕が出て、刀匠へのインタビュー。
「現役最後の靖国刀匠」の鋳造のシーンの後には、「刀匠たちの作った靖国刀は、戦場の将校たちに供給された」という字幕の挿入。
「百人斬り競争の両将校」の話題の辺りの描写に、「抜刀隊」の歌が繋がって、その直後に、刀匠の仕事場での「日本刀の斬れ味」に関するインタビューシーン。
そしてA級戦犯合祀と「遊就館」の映像→戦争肯定を垂れ流す館内のアナウンスを繋いだのも、刀匠の仕事場(高知県)のシーン。
小泉首相の靖国神社参拝に関わる場面の後で、現役首相の参拝の是非についての刀匠へのインタビュー。
当然の如く空回りに終わったが、「現役最後の靖国刀匠」が、まさに現役の総理大臣と時間軸を重ねることで、「靖国刀の現在性」を強調したのである。完全に映像のトリック以外ではなかった。
そして、問題のラストシーン。
昭和天皇の参拝 |
以上、ストーリーラインの区切りに、必ずと言っていいほど、「現役最後の靖国刀匠」のその「現在性」が語られ、そこに特段の意味を被せて強調されていく。しかし、これでもかと言わんばかりの「現役最後の靖国刀匠」の「現在性」は、前述したように、「ごく普通の好々爺の、普通のサイズの日常性」を映し出すだけだった。
それ以外にない絶好の被写体と出会って、その対象に挑んでいくはずの作り手のインタビューは、次第に記録映像作家としての空洞感を露わにしていって、そこに形成された沈黙が生んだストレスから自ら解き放つ思いを乗せるかのようにして、肝心の刀匠から「お茶も差し上げんで…」と言われる始末。
本作の作り手を満足させられないで気を遣う好々爺は、もうそこでは、「現役最後の靖国刀匠」の精神世界を表出する「匠なる職人」ですらなかったのだ。その弛緩した空気感を伝える映像の底の浅さに、思わず吹き出してしまったほどだ。「この映画は、もうその後に何を繋いできても終わりだな」と率直に感じ取ってしまった次第である。
そしてとうとう、何か苦し紛れの軟着点を確保しようとしたのか、本作の作り手は、そこに「詩吟を吟じる刀匠」という浅薄な構図を映し出していったのだ。
全くその心を感受し得ない映像のラストは、あまりに悲哀ですらあった。ドキュメンタリー映画の決定的な勝負所に、決定的に敗北した作品のラインの崩壊を目の当たりにして、私の内側に極め付けの同情心が惹起してしまったのである。
恐らく、異国の青年監督が努力する記録映画の、「少しでも、撮影のお役に立ちたい」と必要以上に配慮する刀匠の善意が、ここでも目一杯開かれたに違いないだろうが、残念ながら、何もかも見透かされてしまうような、その見え見えの演出の底の浅さに言葉を失うほどだった。
ともあれ、一切を「日本刀」=「靖国刀」 (画像)という固有名詞に被せられた、その破壊的暴力性の内に収斂させる映像を結んでいくときに、戦前の怪しげなフィルムやスチールを継ぎ接(は)ぎさせることで自己完結したかのような手法の乱暴さ、がさつさは、静謐な画像を観る者に印象づける「ナイーブさ」を幾ら衒(てら)っても、とうてい隠ぺいしようのない表現力の未熟さであったと言えるだろう。
誤解を避けるために敢えて言及するが、多分にイデオロギーが含まれているか否かに拘らず、私はそれがどのような種類の映画であったにせよ、表現化された作品の映像化を断じて否定するものではない。
いずれにせよ、「肖像権」、「期待権」という問題が、私権や人権感覚の拡大的定着の時代状況下にあって、「表現の自由」との微妙な軋轢が出来する事態の到来はある意味で必然的であるが、いよいよドキュメンタリー映画の製作の困難さを予想させる流れに対して、作り手の本気の覚悟がより問われることになっていくだろうこと位は認知すべきである。
残念ながら、本作の作り手には、ドキュメンタリー映像作家としての覚悟の稀薄さが垣間見られてしまったのである。
繰り返すが、「反日映画」と批判される覚悟で作ったはずの本作の最大の欠陥は、「靖国」という名の境内で展開された、「死」、「暴力」、「祭り」を同居させたイメージの内に、その不思議な異次元の世界をほぼ見事に映し出したと思わせる映像とは裏腹に、「靖国最後の刀匠」との対峙を通して、緊張感溢れる表現作家としての、底を突き抜けていくような覚悟性が最後まで見られなかった点にある。
自分の当初の思惑のラインが具現できなくなって、何か殆ど気分が乗らないのではないか、と感受してしまうようなインタビューシーンの覇気の欠如が、イデオロギーの濃度を脱色させて、冷静に本作と付き合ってきた鑑賞者には感じられたに違いない。少なくとも、特段の偏見や先入観もなしに、この映画を観たと自負する私の場合はそうだった。
先述したが、この作り手が、刀匠の人柄の良さを記録することを目的に、刀匠に関わる描写を映像化したものであると思えるならば、「映像構成の失敗」という一点を除く限りにおいて、さして特段の不都合もないのかも知れない。
しかし、本稿で検証してきたように、何回かに分けて挿入された刀匠のシーンは、その前後において極めて強引に挿入された、「肉食系的映像」とのリンクを意図する含みがあったと想定する指摘を否定できるだろうか。「肉食系的映像」の前後に、「穏やかな刀匠の人間性」によって浄化するというモチベーションが、作り手の内側に含意されていたとは到底思えないからである。
恐らく、日本刀を鋳造する90歳の刀匠の記録映画を作り得たならば、そこに映し出される記録映画の感動は、作り手の表現力の力技さえあれば、或いは、それ自体、価値ある一作を残したかも知れないだろう。また、異次元の世界が醸し出す、多分に「肉食系的映像」のみで勝負していたなら、それはそれで、観る者に深い印象を残す記録映画として評価されるに足る作品になったとも思われる。
その真偽のほどが問題視されている、曰くつきのスチールなどを挿入することなく、そこに一つの明瞭なメッセージ性を持った、「靖国」という名の異次元の世界の、その不思議な宇宙の現在性を表現することで、一つの覚悟を括った、底を突き抜けた映像をリアルに現出させたに違いないだろう。
結局、本作は「強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨」を印象を残すだけの表現世界の破綻は、その強引さという一点によって検証されてしまったということだ。
「反日」だろうが、「昭和天皇の戦争責任」、「靖国刀の暴力性」、「戦争神社の弾劾」だろうが、何でも良いのだ。自分の「思想」や「イデオロギー」に拠って立って、「どうしてもこれだけは言いたい」何かを表現したければ、思い切って自由に表現すれば良いのだ。それが許容される国の有り難さを感受できないと言うなら、本作で紹介された「靖国合祀取り消し訴訟」の人たちのように、その表現を妨害すると信じる者を訴えればいいだけのことである。
だが、本作のような「政治的意図」を持っていると思われやすい映像を作るには、作り手の相当の覚悟が求められるであろう。それだけのことだが、それが当人に不本意な「状況」を作ってしまって、作り手の思惑と無縁な辺りで暴れてしまうリスクをも随伴したとき、一切は作り手に還元されていくリバウンドを引き受ける覚悟 ―― 何より、それこそが決定的に問われるに違いないのだから。
4 「映画制作とは、対象の扱い方に関するモラルの問題も含意する行為」
―― 最後に、「肖像権」に関わる表現の困難な状況性につて、対象の尊厳を損なうことのない、「倫理」という観点からの由々しきテーマに言及した一文の抜粋を紹介することで、本稿を閉じたい。
「・・・そしてドキュメンタリーについての文章でもっとも論じられる点は、撮影行為そのものと、映画作家と撮影対象の間の関係だ。ドキュメンタリー作家は、その対象をどのように扱うことが許されているのだろう? 対象の尊厳を損なうことなしに、彼らの姿をどのように見せることができるのか。
第2の行為(アクト)もまた広く議論されているが、しかしほとんどの場合、記号学的観点から語られている。それは、メッセージとしてのドキュメンタリーと、 リアリティの関係である。つまり表現という行為(アクト)だ。“客観性”、“真実”という考え方は、依然として、ある映画がドキュメンタリーかどうかを判断する基準となっている。
第3の行為(アクト)は、倫理という観点からはほとんど論じられていないが、しかしそれを論じる必要性は日ごとに高まっている。ドキュメンタリーが表現される手段と、それを配給する者、放送する者だ。(略)映画制作とは、対象の扱い方に関するモラルの問題も含意する行為(アクト)(第1の行為)であることを、またドキュメンタリーとは真実を語ること(第2の行為)であることを、否定する人は誰もいないだろう。(略)
映画作家は撮影対象に対して、どのように責任を持てばいいのだろう? その答えはたいていの場合、“インフォームド・コンセント”だ。映画作家は、撮影対象に対して自分がどのように描かれるか、そしてそれが彼らの人生にどのような影響を与える可能性があるかについて、知らせなければならない」(「山形国際映画祭ドキュメンタリーHP」より「善と悪、そしてドキュメンタリー ――表現の義務論と解釈の倫理について」から抜粋)
(画像の全ては、映像からの転載にあらず)
(2009年4月)
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