1 「想像力の戦争」を巡る知的過程を開く映像
様々な想像力を駆り立てる映画である。
説明的な映像になっていないからだ。
遠慮げなナレーションの挿入も、映像の均衡性を壊していない。
観る者に、本作の余情を決定付けた、ラストナレーションに違和感なく誘導し得る重要な伏線となっている、件のナレーションの抑制的価値が担保されていたからであろう。
そこがいい。
イーストウッド監督の、「チェンジリング」(2008年製作)までの作品群の殆どを観てきているが、恐らく、本作がイーストウッド監督の最高到達点か、或いは、それに近い評価を与えるに相応しい極め付けの映像ではないか、と私は個人的に考えている。
確かに、本作においても、多くのイーストウッド作品に特有な「善悪二元論」的な描写(後述)を内包させていたが、そこもまたイーストウッド監督らしく、いつものように抑制的な技巧を存分に発揮し、映像総体を過剰な情感で流すことはしなかった。
本作に限っては、その抑制的な技巧が相当程度奏功していたと思われる。
思うに、想像力を駆り立てる映画とは、既にそれだけで、読解を求めて思考遊泳する観る者の視座とイコール・フィッティング(対等な競争条件)の関係に立っていると言えるだろう。
なぜなら、観る者は作り手の意図と、作り手によって創造され、そこから相対的な自在性を確保して表現する、本作の登場人物の内面世界の微妙な振幅の双方を想像しなければならないからだ。
その時点でもう、作り手と観る者は、「想像力の戦争」を巡る知的過程を開いている。
そこがいい。
そのような映画が、最も秀逸な表現作品であるに違いない。
では、本作をどう把握すべきなのか。
一体、この映画は何を主題にしたものなのか。
以下の稿で、それを勘考してみたい。
2 孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画
少なくとも、これだけは言える。
本作が「ボクシング映画」でも、「尊厳死」の是非を問う映画ではないということだ。
だから、スポーツシーンへの不必要な言及や、「社会派」的な視座の導入は、本稿のテーマにはならないだろう。
「海を飛ぶ夢」より |
本作は、近年のハリウッドの宿痾(しゅくあ)とも言える、「驚かしの技巧」の過剰な連射に関わる範疇から切れていた分だけ、映像構成を貫流するに足る充分な重量感を持ち得ていたということだ。
閑話休題。
孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画。
これが、本作に対する私の基本的把握である。
恐らく、それ以外のメッセージは末梢的であるに違いない。
そして、何より本作は、一方の孤独な魂が抱えた人生の軌跡について殆ど何も語られないが故に、そこに張り付く「贖罪」的な観念の束の重量感が、よりリアリティを持って観る者に襲いかかって来るのだ。
フランキー |
この男の魂のパートナーとなる女の軌跡については、不必要なくらい語られているが、この男の人生の軌跡に関しては、読まれることのない娘に対する手紙の返却というエピソード以外に、映像は殆ど手掛かりとなる何ものも提示してくれないのだ。
しかし、この時間の空白を、作り手は、決定的成功を手に入れられなかった元ボクサー(スクラップ)のナレーションと、彼との会話等を通して、ジグゾーパズルのように埋めていく映像構成の技巧を導入することで、説明的映像に陥らない程度の瑕疵を充分に補填していたと言える。
そこから読解できる一つの真実。
それは、物語の起動点の23年前に遡る。
男は現役時代のボクサーであったスクラップの「止血係」として、109戦目の試合に臨み、そこで彼の視力を奪ってしまった過去に拘泥し、一つの看過し難きトラウマの如く、己が「不徳」の行為を責め抜いていた。
以来、支配下選手に対して、「自分を守れ」と訓戒する生き方を信念とする男は、必要以上に慎重な性格を露わにしていった。
男について、一方の孤独な魂の主である、マギーに語ったスクラップの言葉がある。
「止血係だったフランキーは、あのとき、何とかして試合を止めさせ、眼を救いたかったと思っているんだ」
アイルランド人であるフランキーの教会通いも、そこから開かれていた。
その二つは偶然ではない。
「三位一体」の意味を、見知りの神父に訊ねるエピソードに象徴されるように、男の教会通いの意味がどこにあったかについて、件の神父の反応によって検証されるだろう。
神父もまた一つ覚えの常套句の如く、「娘さんに手紙を?」という私的表現を、男に添えてくるのだ。
「尊厳死」の問題に関わる、映像後半の重い展開の中で、初めて本気で自分にアドバイスを求めてくるフランキーに対して、神父が放った一言は蓋(けだ)し印象的だった。
「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ」
男が背負っている罪の内実を特定できないながらも、映像がフォローする男の後ろ姿には、特段の目的もないのに毎日ミサに通って来る男の、その孤独な魂の陰翳が深々と捕捉されていた。
熱心なカトリック教徒の男には、「聖者」との会話それ自身を必要とする何かがあったのだ。
理由はもう、それだけで充分なのである。
あとは、観る者が想像して欲しい。
映像は、そう言いたいのだ。
そんな男が、自らのアイデンティティの安寧の、重要な基盤になっていた対象人格がいた。
有能な黒人ボクサーのウィリーである。
常々、「才能のない者を見てると、胸が痛む」と言い放つフランキーにとって、8年間かけて育ててきたウィリーの才能は、充分に世界を制する可能性を秘めながらも、一向にタイトルマッチのチャンスを与えようとしない男の慎重な性格は、スクラップから「あんたは過保護なんだ」と非難される始末だった。
結局、ウィリーに三行半を突き付けられたフランキーは、内心の喪失感を見透かされることを恐れたのか、誰も理解できないアイルランド・ゲール語(アイルランド共和国の第一公用語で、英語にあらず)の本を読み耽るばかり。
いや、ケルト系の文化を伝承するゲール語の世界への沈潜は、男にとって、まさに孤独な魂を癒す格好の時間なのだろう。
「あんたの年じゃ辛いだろう」
スクラップ |
「お前と違って両目が見える」
フランキーはそんな強がりを言うが、深い友情で結ばれた元ボクサーには、何もかもお見通しなのだ。
このときのフランキーの心理には、恐らく、23年前のトラウマが横臥(おうが)しているが、しかし男の自我に張り付く心理の奥には、タイトルマッチで敗北したときの喪失による恐怖感情が澱んでいたに違いない。
男のはその後、世界を制したウィリーの試合をテレビ観戦するが、寡黙な映像は、男の孤独の陰翳を深々と念写していくのだ。
3 2人の心理的なタイムラグが縮まったとき
男の孤独が一層極まったとき、そこに一人の若いハングリーな女が、彼のジムに飛び込んで来た。
しかし、ウィリーを失って空洞感を容易に埋められない男と、その男を求める女との心理的なタイムラグが暫く続いていく。
その辺りの描写の精緻さは、自らが演じる主人公の内面に矛盾なく潜入した、イーストウッド監督の面目躍如といったところである。
ともあれ、この心理的なタイムラグを一気に縮めていくには、男の自我の空洞感にインパクトを与えるに足る何かが必要だった。
フランキーとマギー |
以下、フランキー相手に吐露するマギーの率直な思い。
「弟は服役中よ。妹は嘘を言い、育児手当を受給。父は死に、母は141キロのデブ。本当なら故郷へ帰って、トレーラーで貧しい生活をすべきね。でも、ボクシングが楽しいの。私にはこれしかないわ」
こんな言葉をダイレクトに繋ぐ女の気性に、「ボクシングは孤高のスポーツだ。自分一人で戦い、対戦者から勝利をもぎ取る」(スクラップのナレーション)格闘技こそ似合っていたと言えるだろう。
何より、それを見抜いたフランキーだったが、「根性だけの者は簡単に負ける」(ナレーション)というボクシングの奥の深さを認知していたのも事実。
自分で買ったスピードバッグ(日本で言う、「パンチボール」のこと)で、ジムで一人練習中のマギーは痺れを切らして、フランキーに直談判する。
「あなたがトレーナーならチャンプになれる。私を鍛えて。御慈悲はいらない。お情けもね。嫌なら、ただ練習を続ける」
ここまで言われたフランキ―は、初めてコーチを承諾したのである。
2人の心理的なタイムラグが埋まった瞬間だった。
少なくとも、そう見えた。
しかし、それは幻想に過ぎなかった。
「全て教えるから、100万ドル稼げ。歯を折られても同情はしないぞ」
笑みを浮かべながら、握手を求めるマギー。
握手する二人。
ところが、ボクシングの基本を暫くコーチした後、フランキ―はマネージャーを紹介して、コーチを退き、マギーを大いに失望させた。
この一件は、ウィリーのショックが尾を引いて、知り合って間もないマギーの存在が、孤独の深い闇にぽっかり空いた、彼の心の空洞感を癒す存在に成り得ていない現実を露呈したものである。
2人の心理的なタイムラグは、なお埋まっていなかったのだ。
そんな男が観戦するマギーの試合。
マギーの潜在能力を引き出せない現実を目の当たりにしたとき、男はようやく重い腰を上げた。
マネージャーの無能を見るに見かねて、フランキーがマギーを直接指導するに至ったのである。
好々爺然とした風貌とは切れていたが、自分が求める孤独な求道者のイメージに引き寄せられていくような、「道」のプロフェッショナルの適確な指導を受け、まるで水を得た魚のよう連戦連勝する女ファイターが、横幅24フィート以内の四角いリングの中で暴れ回っていた。
マギーの圧倒的強さ故、いつしか2人は、100万ドルものビッグ・マッチへの誘惑に抗することが難しくなっていくが、そこへの階梯には、なお高いハードルを越えていく必要があった。
しかし、2人の心理的なタイムラグが縮まっていくその時間は、そこから開かれる睦みの物語が内包する栄光と悲劇の端緒が、同時に、その必然性の芽を膨らませていく時間でもあった。
4 深い闇の如き孤独を知る者の魂の共振が拾われて
初回KOの強さ故、マギーに相手がいなくなり、暫くは試合を組むため、自腹を切って、相手のマネージャーに裏金を配るフランキーのカットが挿入されるが、結局、そんな御為ごかしの方略も限界を迎えたとき、もう男には、彼が最も嫌う「ギャンブル」的な試合に踏みこむ以外に女ファイターを納得させる術がなくなっていった。
慎重派の彼は、遂に階級を一つ上げるという賭けに出たのだ。
その試合において、鼻を強打されたマギーへのフランキーの応急処置は、持前の止血係の技術が効力を発揮して、危うい試合を逆転勝ちするに至る。
「モ・クシュラ」と言葉が、フランキーから発せられた最初の瞬間だった。
12戦KOの後、凄い話が飛び込んできた。
現ウェルター級チャンピオン、「ブルーベア」と仇名されるビリーとの試合の話がそれである。
当然の如く、慎重居士のフランキーは、この美味しい話を拒否する。
そんなフランキーの過保護の態度を批判するスクラップは、前述したように、23年前の試合で受けたトラウマをマギーに話した上で、ビッグ・マッチを受けることを促した。
そんな折、フランキーを一身に信じるマギーは、彼を伴って、トレーラー・ハウスに住む彼女の実家を帰参する。
生活保護を受ける母に家をプレゼントするためだ。
それは、苦労多き生活を繋いできたマギーにとって、唯一の親孝行の証でもあった。
「家なんか買わないで、金をくれれば良かった」
これが、マギーの実母の、あまりに素っ気ない反応だった。
マギーの母にとって、生活保護費が打ち切られる不安の方が重大事なのだ。
「私にはあなただけ」
孤独を実感するばかりのマギーには、もうフランキーの存在だけが全てだった。
「面倒は見るよ。良いマネージャーが見つかるまで」
フランキーの照れ隠しの反応の中に、深い闇の如き孤独を知る者の魂の共振が拾われていた。
この辺りの描写はとても良い。
戻るべき故郷を失った、女ボクサーの人生の選択肢が限定化されていくことで、より鮮明になっていく未来像が、そこに張り付く不安感情を払拭する心情世界が浮き上がってきたからだ。
同時にそれは、孤独な魂が、類似した精神風景を垣間見せる孤独な魂の中枢に、その思いを預け入れてく自然な心の流れが透けて見えて、映像後半の悲劇の重量感にリアリティを持たせていたのである
そして、この帰郷の延長線上に、ミリオンダラー(100万ドル)のファイトマネーを賭けたWBA女子ウェルター級世界戦が開かれた。
ここまでの道程は、僅か1年半の短期間だった。
「根性だけの女ボクサーに、技術を教示したフランキーの手腕」(スクラップの言葉)に因るものだった。
そんな女ボクサーの今回の相手は、名うての反則ボクサーのビリー。
ラウンド開始のゴングが鳴った。
試合は、反則ボクサーの反則攻撃にめげず、マギーが優位に試合を運んでいた。
悲劇は、ラウンド終了後に出来した。
ビリーの反則パンチをまともに受けたマギーは、コーナーの椅子に頸を強打し、そのまま転倒したのだ。
運悪く脊髄を損傷し、彼女は全身不随の状態と化した。
マギーの人生が決定的に反転していく、最も重い時間が開かれたのである。
5 “君は私の全て”というメッセージの圧倒的重量感
マギーの脊髄損傷は、身体の原状回復が不可能である厳しい現実を告げるものだった。
それでもフランキーは東奔西走して、マギーを「最高のリハビリ施設」に転院させた。
24時間、人工呼吸器で肺に酸素を送り込む生活が、マギーを精神的にも追い詰めていく。
そんなとき、殆ど遊びの出で立ちで、ようやく家族が面会にやって来た。
しかし、マギーの家族の用件は、財産を全て母親名義にする書類のサインを求めるものだった。
弁護士を連れて、彼らはやって来たのだ。
「口にくわえて書かせるの」
これは、手を動かせないマギーの不自由な現実を視認して、マギーの妹が臆面もなく放った言葉。
「信用できないわ。妹と弟を連れて帰って。生活保護費をくすねるために、家を持っていないことにしてるわ」
何もかも幻想が千切れてしまったマギーは、サインを拒んで、家族を部屋から追い出したのである。
サインを断念して、早足で施設を後にする家族。
マギーを襲う悲劇は、精神面のみではなかった。
神経細胞が壊死し、すっかり腐乱した脚の切断を宣告されたのだ。
その場に居合わせたフランキーが帰宅したとき、いつものように、娘に出した手紙が返送されていた。
寡黙な映像は、老人の孤独の極相を映し出していく。
寡黙な映像の真骨頂を見せる、この描写も見事であった。
少なくとも本作は、老人の孤独の極相を、物言わぬ絵柄だけで充分に映し出す効果において、一頭地を抜いていたと言えるだろう。
ともあれ、人工呼吸器で呼吸を繋ぐマギーには、今や、既に切断された脚を残す他の生体機能のみで生きる意欲を完全に喪失していた。
フランキーとマギーの深刻な会話を、映像は丹念に描き出す。
「このまま生きたくない。私は950グラムで生まれたのよ。パパは、“必死に生まれた子だ”って。死ぬときも必死よ。これが今の私なの。全て手にした。その誇りを奪われたくない。観客の声援を覚えているうちに死にたいの」
「手は貸せない。止めてくれ。頼らないで欲しい」
「あなたが頼りよ」
「ダメだ」
その夜、マギーは舌を噛み、自殺を図ったが、一命を取り留めた。
失血寸前で舌を縫合したが、彼女はまた舌を噛んでいた。
舌を噛み切る以外の手段を持ち得ないマギーには、その手段すら封じられてしまったのである。
尊厳死を求めるマギーの気持ちが充分に理解できていても、それを遂行することに躊躇するフランキーは、思い余って、馴染みの神父に相談した。
これまでにない真剣なフランキーの相談に対して、神父の反応はカトリックの倫理観を代弁するもの以外ではなかった。
「手を貸してはダメだ」
「分ってます。だが、彼女の頑固さをあなたは知らない。王座を狙えたのも、私の指導ではなく、彼女の努力だった。今、死にたがってるが、私は死なせたくない。でも、生かすのも残酷だ。これをどう解決すればいい」
「解決など考えずに、全てを神に任せなさい」
「彼女は私に助けを求めているんだ」
「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ。だが、その罪より、自殺を助ける方が大罪だ。手助けしたら、君はお終いだ。魂の闇に入り、永遠に自分を見失う」
「もう見失っている」
凄い会話である。
しかし本作のこの描写は、観る者を「驚かしの技巧」の得意な「アメリカ映画」のカテゴリーとは切れていた。
登場人物の懊悩を構築的に繋いできた映像構成が、相当の説得力を持ち得ていたからである。
そして、その瞬間を映像は描き切った。
「魂の闇に入り、永遠に自分を見失う」覚悟を持って、フランキーは動いたのである。
マギーの部屋に忍んだ男は、マギーに己が覚悟を告げた。
「人工呼吸器を止めるぞ。意識がなくなる。そしたら薬を入れる。もう眼は覚めない」
その後、男は自分の思いを間接的に伝えたのである。
「モ・クシュラとは“君は私の全て”という意味だ」
“君は私の全て”というメッセージの圧倒的重量感に、観る者は魂を鷲掴みにされるかも知れない。
「驚かしの技巧」の安直さを削っているからだ。
笑みと涙で反応するマギー。
そこに、もう言葉は不要だった。
男は人工呼吸器で繋がれた女を確実に楽にするために、充分な量のアドレナリンを点滴に注入した。
一切が終焉した瞬間だった。
「彼は戻って来なかった。どこに消えたか、見当もつかない。君を探して許しを求めに行ったんだといいが。だが、そんな気力はなかっただろう。安らげる所にいればいい。だが、これは俺の願望だ。これが、君の父親の有るが儘の姿だ」(スクラップのナレーション)
これは、ラストシーンでのラストナレーション。
この映画でのナレーションは、スクラップによる、「フランキーの娘」への手紙の内容という形式が取られていたのだ。
6 ジャンクなエピソード挿入によって埋められた、余情を残す豊饒な時間の空白
私には、最後まで気になった描写がある。
マギーの家族の面会のシーンである。
このシーンは、反則ボクサーのビリーの人格造形と共に、マギーの孤独を際立たせるための描写として利用されているのだ。
仮にこれが実話であったとしても、私には釈然としないのである。
敢えて、ここで「善悪二元論」を挿入する必要があったのか。
単に、面会に来ないという事実だけでも充分だったのではないか。
マギーの家族 |
反則ボクサーのビリーは「悪徳」そのものだし、マギーの家族は殆どゆすり・たかりのゴロツキ家族として描かれていた。
一貫して寡黙な映像を貫流させたことで、老人の孤独の極相を映し出すことに成就した映像が、このような描写なしにマギーの孤独の実相に迫れない、という作り手の映像感覚こそが、「アメリカ映画」のある種の鋳型の内に収斂されてしまうだろう。
余情を残す豊饒な時間の空白が、ジャンクなエピソード挿入によって埋められてしまったからである。
「アメリカ映画」の良心を代表する作り手のバランス感覚の見事さの内実は、どこまでも、「アメリカ映画」のカテゴリーの中で評価が定まる類の何かでしかないのか。
もっとも、「それが『アメリカ映画』だからだ」と言われれば、それまでの話。
ともあれ、多くの観客には、この種の「善悪二元論」のさり気ない導入に対して無頓着であるかも知れないが、そこに作家主義的な表現技巧を加えたにしても、私には、「人生の残酷」の現実を容赦なく提示して見せてくれる映像にこそ魅かれてしまうのである。
イーストウッド監督が優れた表現作家であることを認知するのに吝(やぶさ)かではないか、例えばラストシーンで、フランキーを失ったスクラップに、ここでもさり気なく救済の手(デンジャーの「帰還」)を差し伸べる括り方もまた、私にはどうしてもフィットできないのである。
但し、冒頭でも言及したように、一貫して説明描写を回避した映像が開いてみせた、「愛と希望、そして絶望の深み」という困難なテーマを描き切った映像の完成度は決して低くなかったであろう。
最後に、末梢的な点について一言。
本作が「尊厳死」の是非を問う映画でない事実を踏まえてもなお、気になった物語ラインがあった。
「アメリカ社会とDNRの実態」について調べて見る限り、本作の女子ボクサーが、「DNR指示」の対象外にある患者であるか否かについて微妙な問題であると思えたからである。
その辺りの医療の現実の検証が、私には今なお判然としないのだ。
以下、専門家のブログから引用してみる。
「DNRとは「Do Not Resuscitate(蘇生禁止)」の略であるが,癌の末期など救命の可能性が望みえない患者に『不要・不適切』な心肺蘇生を行わないことをいう。(略)救命の可能性のない患者だけでなく,高齢者などが,『尊厳死』の観点からDNRを希望することも多い。しかし,たとえば,救急医療の場で意識のない患者にDNRの意思を確認することは難しく,本人の意思に反して蘇生処置が施行されることが多く問題になっている。蘇生を望まない人が蘇生処置を受けることがないようにと,マサチューセッツ州では,DNRを望む高齢者に,DNRの意思が明示された腕輪を提供している」(ブログ・「アメリカ医療の光と影」李啓充 医師)
これを読む限り、本作の女子ボクサーが「DNR指示」を可能にしていると言えなくないだろう。
一切を、「映画の嘘」の問題に収斂させてしまえばいいということか。
(2010年5月)
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