<「無秩序な稜線伸ばし」を相対化し切ったSFゴシックホラーの凄味>
1 自己増殖する異界の完全生物との、閉鎖空間での戦争の果てに
内部で生産した工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトル、それが宇宙貨物船ノストロモ号だった。
ところが、その宇宙貨物船が地球に向かって帰航中に、電算機(マザー・コンピューター)が発信者不明の電波信号を受信したことで、7名の乗組員は、「知的生物からと思われる信号は調査すること」という命令を受けた。
ダラス船長はケイン一等航海士、ランバート操縦士を随伴し、武器を携帯して信号発信地へ向かうが、苦労の末に発見した宇宙船には、破裂して骨が曲がり、既に死に絶えた化石化した宇宙人(スペースジョッキー)だけが捨てられていた。
探査を続ける3人は、まもなく巨大な卵状の物体を発見し、それに近づいたケインは、突如飛び出して来た生物に顔面を塞がれてしまった。
ノストロモ号にケインを運んで、彼の救出のため、ダラスはケインに張り付く生物を突き刺したとき、その切り口から強い酸性の液状のラインが流れ、宇宙貨物船の床が溶ける始末。
「ひでえ所に来ちまった。早く修理して帰ろうぜ」とパーカー技師。
事態は、そんな流暢な次元を一気に越えていく。
ケインに取り付いていた生物は束の間姿を消したが、それを捕獲したリプリー二等航海士らの反対を押し切って、アッシュは科学者の立場から保存の必要性を説くことで、修理を終えた宇宙貨物船は、異界の生物を乗せて再出発するに至った。
まもなく、健康を回復したケインの第一声。
「急に息が詰まった。悪夢のようだよ。何か食わせてくれ」
いつもの穏やかな食事が開かれた。
突然、ケインが悶絶し始めたと思ったら、彼の胸部から謎の宇宙生物(エイリアン)の幼体が飛び出して来た。
ケインの体内で、エイリアンは成長し続けていたのだ。
ケインの体内に寄生した生物は、まさに宿主であるケインの体内で幼体に成長した後、その宿主を食い千切って孵化したのである。
更に、その幼体は脱皮を繰り返して巨大な成体(エイリアン)と化し、今度は、このエイリアンが他の宿主となり得る生物の捕獲を遂行することで、自己増殖していくのだ。
この異常事態の中で、宿主として利用され尽くしたケインは絶命した。
結局、ノストロモ号が受信した電波信号は、宇宙人の警告であることが判明するに至った。
ケイン亡きノストロモ号の6名の乗組員は、火炎放射器を用いてエイリアンをエアロック(気圧調整室)に導くことで、宇宙への放出を狙ったが、エイリアンの逆襲に遭って、一人ずつ命を落としていく。
まず、ブレット機関長が犠牲になった。
ダラス船長は、メインであるマザーコンピューターに助けを求めたが、その答えは彼を愕然とさせるものだった。
「異星人対策 現行方式の評価は?:データ不足 解析不能」
「他の手段はあるか?:データ不足 解析不能」
「生き残るチャンスは?:計算不能」
まもなく、ダラス船長もエイリアンの犠牲になった。
リプリー |
「異星人対策が進まぬ理由は?:解答不能」
「推理せよ:必要なし 特別指令937 科学部長専用」
「緊急質問 特別指令937とは何か?:・・・」
「航路変更 異星生物を調査せよ 標本を採集せよ」
「乗船員は場合により、放棄して良し」
信じ難き応答の中で、事情を説明しようとするアッシュを、リプリーは責め立てる。
アッシュがリプリーに襲いかかって来たのは、この直後だった。
逃げ惑うリプリーを、パーカー技師とランバート操縦士が救い、アッシュを斃したが、彼の頸が捥(も)げたことで、アッシュがロボットである事実が判明したのである。
「異星人を連れ帰らせるために、本社が乗せたんだわ」
このリプリーの一言で、マザーコンピューターの不可解な応答の謎が解けたのである。
アッシュは本社の命を受け、異界の生物を地球に運ぶ任務を負っていたのである。
捥(も)げた頸のアッシュが、パーカーの質問に答える。
「俺たちの命はどうなるんだ!」
「勿論、二の次だ」
「あの生物はどうやったら殺せるの?」とリプリー。
「無理だ。あれが何か分らんのか?完全生物だ。構造も攻撃本能も見事なものだ。素晴らしい純粋さだ。生存のため、良心や後悔などに影響されることのない完全生物だ。君たちも生き残れない。同情するよ」
思わず、アッシュの頸を蹴飛ばしたリプリーは、パーカーに命じた。
「船を爆破して、シャトルに移りましょう」
シャトルに移る準備の中で、パーカーとランバートがエイリアンに襲われ、命を落とすに至った。
アッシュの予言通りになっていくが、ノストロモ号の生存者はリプリー一人になった。
船の自爆装置の解除操作に失敗したリプリーは、地球から連れて来た唯一の動物である猫を連れてシャトルに乗り込み、ノストロモ号から分離させた状態で、地球に向かったのである。
まもなく、カウントダウンがゼロとなって、ノストロモ号は自爆した。
しかし、シャトル内でのリプリーが安堵の溜息を漏らす間もなく、その限定空間にエイリアンが潜んでいた。
リプリー |
2 「夢のまた夢」のイメージを遂行する時代を開いたとき
私はこの映画を久しぶりに再見して、ふと、二つのことを想起した。
南極ツアーと、スペースシップツアーである。
まず、前者。
これには、例えば、「チリからの日帰り南極フライトツアー」があり、以下のような触れ込み。
「南極半島北部にある南シェトランド諸島にある、キングジョージ島に到着します。到着後チリ軍の基地にあるエストレージャ村に向かいます。この村には南極で働く人々が住んでいます。天気がよければドレーク海峡方面へ行き、アザラシコロニーを訪問します。観光後、チリ軍基地へ戻り昼食(またはスナック)を食べます」(「チリ日本ツーリスト」より)
問題の料金は、2010年4月現在、一人当たり3000ドル未満だ。
ついでに書けば、「1泊2日南極フライト」でも、一人当たり4000ドル未満の低価格である。
他にも、「定番南極クルーズ12日間」のオプションでは、「トリプル・バス・トイレ共用」の料金で5000ドル未満の安さ。
そして、後者。
スケールド・コンポジッツ社のエンジニア・ブログより |
既に、ロシア連邦の「ソユーズ」による、10名近い宇宙旅行者を輩出していて、「スペースシップツー」による人類初の本格的民間宇宙飛行は、2011年6月に予定していると言われるのだ。
とりわけ、民間企業による「スペースシップツー」の有人宇宙飛行のイメージは、殆ど「エイリアン」と重なってしまうのである。
「エイリアン」で提起された深甚なテーマがリアリティを持ったと断じることはできないが、しかしイメージラインは限りなく近付いたと言えるかも知れない。
国家規模のレベルで言えば、2010年に予算の関係で中止が発表されたが、アメリカ航空宇宙局(NASA)による「コンステレーション計画」があった。
これは、火星探査を視野に入れた有人宇宙機計画だった。
更に、海洋の世界まで含めると、海洋研究開発機構(独法)による「しんかい6500」がある。
これは、ウイキによると、「世界でもっとも深く潜る運用」を可能にする「日本で唯一の大深度有人潜水調査船」であり、HPを読む限り、相当に意欲的な大プロジェクトだ。
以下、HPの一文。
「この有人潜水調査船は、世界の海洋では約98%、日本の経済水域では約96%の海底の調査が可能です。日本だけでなく世界中の海で“実際に深海に潜り、人間の目で確かめる”という利点を活かして活躍しています。船内の定員はパイロット2名、研究者1名の3名であり、パイロットは、訓練・経験をつみ、操船だけでなく、日常のメンテナンスや機器改善など整備作業を修得したものが認定され、調査潜航を行っています。研究者には、乗船に訓練の必要はありません」
以上、縷々(るる)述べてきたように、私たちの科学技術文明は簡単に南極ツアーを可能にし、今また、民間宇宙飛行を可能にする時代を開いてしまったのである。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)・HPより |
思うに、地上約400キロ上空に位置するこの世界最大のプロジェクトは、私たちの遥か昔の、「夢のまた夢」のイメージの世界であったに過ぎなかった。
それが今や、船外プラットホームを備えたJAXA(宇宙航空研究開発機構)保有の「きぼう」は、宇宙で約5ヶ月半滞在した野口聡一さんのケースでも分るように、「夢のまた夢」のイメージを具現する時代を開いてしまったのだ。
そして今、中国人民解放軍が発表した報道に、度肝を抜かれる事態が発生した。
以下、「北京共同通信」(2010年6月15日付け)が発信した情報である。
「将来の宇宙軍拡競争に備え、空軍と宇宙開発を統合した『空天一体』戦略を策定し『宇宙軍』創設へ向け準備を本格化させていることが分かった。宇宙軍の兵士養成も計画している。中国空軍筋が15日、明らかにした。
中国の宇宙軍構想の概要が明らかになったのは初めて。米国は1985年に宇宙軍を設立したが、2002年に戦略軍に統合され、敵のミサイル攻撃の防御や戦略核兵器などを担当。ロシアも宇宙軍を創設している。
中国政府は有人宇宙船打ち上げなどの宇宙開発の目的を『平和利用』と説明しているが、『制天(宇宙)権』確保へ長期戦略を進めていることが明確になった。
同筋によると、中国軍は04年7月に『空天一体化』と『攻防兼備』の宇宙戦略を策定。近い将来、空軍下に『航空宇宙作戦指揮センター』を設立し、空軍を中心に、将来の宇宙軍のための兵士を養成するという」
「惑星ソラリス」より |
3 内的宇宙の映像的読み替え ―― 或いは、闘争心と利己心溢れるフロンティアスピリット
人間が「夢」を持ち、それを科学技術の圧倒的推進力によって「可能性」に変えたとき、俄然、眼の色が変わる。
それは、飽くなき好奇心を決して手放すことをしない人間の痼疾(こしつ)であると言っていい。
私たちホモ・サピエンスは、抑制系の進化より解発系の進化の方を常に先行させてきたということ。
これは、解発系の進化の推進力である好奇心が、人間の基幹能力の一つであることを検証するだろう。
その基幹能力こそが、既に痼疾なのだ。
人間の本能行動の不備を埋めるが自我であり、その自我が未知のゾーンに踏み込むときの起動力は好奇心であると言い替えてもいい。
生存・適応戦略の羅針盤である自我が完成形でないという本質的な悲哀の様態に、人間の「脆弱性」という名の痼疾が深々と棲みついてしまっているのである。
そして、悲哀の痼疾としての好奇心の発現の一つの到達点が、前述したように、「スペースシップツー」(画像)に代表される宇宙旅行の大ロマンであった。
限りなく伸びる人間の「夢」の稜線が、ほんの少しの努力によって手の届くところまで来たと信じたとき、俄然、眼の色が変わった一群の人間は、もうその「可能性」を、自分が生きている時代に具現しなければ気が済まないという類の、何か異次元のスポットに搦め捕られたような不思議な感覚に捉われるのか。
その不思議な感覚は、本来「知恵のある人」を意味する、私たちホモ・サピエンスが未知のゾーンに踏みこんでいくときの、「プロセスの快楽」では殆ど収まりがつかない、実感的な肌触りを伝え得るような、確かな「達成の快楽」を愉悦する情感体系であると言えるかも知れない。
文明の利器を使って、文明の破壊を企図しているかのようにも見えるウサマ・ビンラディンを例に出すまでもなく、その不思議な感覚を、「傲慢・倨傲・不遜・尊大」などという感情と一方的に決め付けて、遥か秀峰の高みに立てるほど、人間相互の欲求濃度の濃淡感や、その倫理的落差は決定的ではないのだ。
遂に人間は、自らが開発してきた科学技術文明の大いなる歴史の稜線上に立って、なお未知のゾーンへの非武装なる侵入に自らを駆り立てていくのである。
飽くなき好奇心を決して手放すことをせず、文明の圧倒的進軍を常に既成事実化する、私たちホモ・サピエンスの本来的な痼疾(こしつ)。
この痼疾をセルフメディケーション(自己治療)する能力と併存し得ない、その驚くべき非武装さだけは、一貫して延長されてしまうのだ。
それこそ、私たちホモ・サピエンスが本質的に抱え込んだ、「脆弱性」という名の痼疾の本質であった。
それ故、偉そうな言辞を吐く資格など誰にもないのだろう。
私たちはもう、そのような生物体であるとしか言えないのだ。
この映画で描かれた世界の根源に横臥(おうが)する精神こそ、このような人間の不思議な感覚のマキシマムな推進力の有りようであり、その無秩序な展開のあられもない様態である。
未知のゾーンへの侵入に伴う緊張感、不安感、そして、そこに張り付くほんの僅かな恐怖感の実感的振幅。
恰も、人間はそれらを愉悦しているかのようなのだ。
それらの情感を代償にして手に入れるものの価値の希少性を、震える者の如く実感したいからである。
希少的価値の愉悦と、負の感情との共存にすっかり馴致した内面史の巨壁は、もうフィードバックし得ない辺りにまで逢着してしまったようである。
そしていつしか、それらの情感が常に内側でローリングさせて、危ういゲームの継続力を保証してしまったのだ。
或いは、このような心が騒ぎつつ、震える感情を繰り返し体験し、それを殆ど無自覚に拡大再生産していく歴史の内に、人間の科学技術文明の呆れるほどの好奇心がリンクすることで形成された共同戦線の突破力は、しばしば度外れな誤謬を犯しつつも、未知のゾーンの闇の奥を無造作に突き抜けていくコア・エネルギーを分娩してしまうのである。
「エイリアン」という、既に固有名詞で語れるほど著名なこの映画は、ゴシックホラー(恐怖・残酷・閉鎖系・怪奇性)のSF版の構造を持つが、単なるスプラッタムービーではない。
7人の乗組員が籠った宇宙船は、私たちの科学技術文明がコンパクトに凝集された、まさに内的宇宙であり、そして、そこに出現したエイリアンという異界の生物の存在は、未知のゾーンを呆れるほどの腕力で切り開いていくときに、必ず遭遇するアポリアの集合体であった。
私たちの闘争心と利己心溢れるフロンティアスピリットは、常にエイリアンとの遭遇を必然化する軌跡を作ってしまうのだ。
だからこの映画は、私たちの内的宇宙の映像的読み替えであり、そこで出来する小さな恐怖感が肥大してカオスの森に捕捉されたときの、人間のほぼ必然的な運命を集約させた物語ではなかったのか。
4 「無秩序な稜線伸ばし」を相対化し切ったSFゴシックホラーの凄味
「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない」
「完全な宇宙生命体」であるエイリアンとの最も危険な遭遇を、閉鎖系の限定空間をステージにして描く、ホラー性の濃度の深い映像を言い当てた、この有名なキャッチコピーが、本作の恐怖のSFワールドの全てを語っていると言っていい。
悲鳴がどこにも届かない宇宙空間には、人間の飽くなき好奇心を嘲笑うような恐怖に満ち満ちているのだ。
「ALIEN」の5つのアルファベットが、徐々に完成されていく導入のインパクトは、まさに人間の飽くなき好奇心を嘲笑うような恐怖の予約でもあった。
ところで、性器をモチーフとしていると言われる、エイリアンの造形で名高いスイス人デザイナー、ハンス・ルドルフ・ギーガーはシュルレアリスムの画家でもある。
そのシュルレアリスムの極致が、このエイリアンの造形であると言っていい。
このエイリアンの造形に象徴される「完全な宇宙生命体」との遭遇こそ、人間の飽くなき好奇心の果てに逢着した最大のアポリアであった。
最大のアポリアに翻弄されるリスクを覚悟せずに、工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトルの振舞いが被る悲劇は、良かれ悪しかれ、まるで「資本の論理」によって、宇宙にまで欲望の稜線を縦横に伸ばす過剰さを指弾しているようでもあった。
リドリー・スコット(画像)は、本作においても、「ブレードランナー」(1982年製作)と同様に、決して人間社会の未来に明るい希望を安請け合いしなかったのだ。
そこが良い。
何より本作は、「未知との遭遇」(1977年製作)、「ET」(1982年製作)という、観る者に目眩ましの如き、過剰な視覚効果による情感誘導して安売りした感のあるスピルバーグの、その底の浅いオプチミズムを相対化し切ったことが良い。
無論、スピルバーグの感傷過多な児戯的世界を屠るまでには至らなかったが、それでも老若男女を囲い込むディズニーランドの心地良き稜線を無秩序に広げる、安直なファンタジーの欺瞞性を相対化し、少なからず撃ち抜いたことは確かである。
「異文化との衝突とコンフリクト(対立)」というテーマ性に拘泥しているかのように見えるリドリー・スコットの映像世界は、見方を変えれば、ヴァンゲリスによる「Conquest of Paradise」(楽園征服)というBGMに象徴されるように、作り手と、その作り手が描いたコロンブスの思惑とは無縁に、「1492」(1992年製作)で再現された世界、就中(なかんずく)、白人たちの「Conquest of Paradise」を指弾するかの如き映像によって、結果的に、フロンティアスピリットの欺瞞を衝いただけでなく、今後も延長されるであろう「無秩序な稜線伸ばし」に、弱々しいが、しかしそれでも、一つのアピールになるであろう防波堤を構築し得たとも言えなくもない。
前述したように、私はこのような人間の「無秩序な稜線伸ばし」を、私たちホモ・サピエンスが本質的に内包する「脆弱性」という痼疾(こしつ)として把握しているから、そこにどのような文化的防波堤をも無力でしかないことを認知しているつもりだ。
だから、リドリー・スコットによる件の映像もまた、「アンチ」の精神で生きる者たちには、一定の浄化剤の役割を果たすかも知れないが故に、全く不毛な表現だとは思わないのである。
その全ての表現世界とは言わないまでも、幾つかの作品で、リドリー・スコットは明瞭な主題提起力を持った構築的作家であったし、これからもあり続けるだろう。
この映画が提示した主題提起力の重量感は、決して一回的消費のSFゴシックムービーには収まり切れないのだ。
そんな読み方もあっていい、と私は思う。
5 「無秩序な稜線伸ばし」を相対化するキャラクターの造形
この映画が拾い上げた、最も印象的な事柄。
それは前述したように、人間のフロンティアスピリットの「無秩序な稜線伸ばし」を相対化させたことにあるが、そして、その決定的な画像の内に、その「稜線伸ばし」を相対化するに相応しいキャラクターを作り出したことである。
即ち、リプリーという名の二等航海士を立ち上げたことである。
「圧倒的な強さと凶暴性を持ったエイリアンに敢然と立ち向かい、その子供まで産んでしまう強き女」
これは、「マイコミジャーナル」というHPで掲載された、「英MSN Movies」における、「1万人が選ぶ 『最も怖い映画』とは」というアンケートの結果である。
まさに、「戦う女性」の面目躍如と言ったところだ。
しかし彼女は、単に「スーパーヒロイン」の誕生を意味しない。
地球という小さな惑星で、男たちが強引に切り開いて来た、「無秩序な稜線伸ばし」の過剰さを相対化させる役割として、女性のサバイバルな戦争を描き切ったこと。
そんな風にも考えられないか。
彼女は終始、アンドロイドの科学者に異議を申し立て、その姑息な戦略を自らの全人格的な闘争精神によって撃ち砕いたのである。
自己増殖するために、宿主となり得る生物の捕獲を求めるエイリアンとのサバイバル戦で、彼女だけが唯一勝利したのは偶然ではないだろう。
そう思いたい。
幾つかの「滅び」のバージョンが存在している事実を知っているが、私はリプリーのみを生還させる括りこそが、最もこの種の映像に相応しいと勝手に考えている次第である。
ともあれ、「完全な宇宙生命体」であるエイリアンが、救命艇の中でリプリーを襲わなかった原因として、繁殖の故に短期間しか 生きられない生態寿命の限界を持っていたという仮説があるとは言え、当然の如く、その事実を科学的に認知していない彼女は、一貫して、怯えるだけの心理を克服し得た「戦う女性」であり、そして何より、男たちの「無秩序な稜線伸ばし」の野望の果てに現出した、「鬼っ子」であるエイリアンと全人格的に戦い抜いたこと。
そこが凄いのだ。
このようなストーリーラインの骨格は、リドリー・スコットの主題提起の根幹に関わる何かであったと思いたいのだ。
それが、私の「エイリアン論」である。
そして、もう一つ。
この映画で特筆すべきは、ゴシックホラー(恐怖・残酷・閉鎖系・怪奇性)のSF版という舞台設定を遺憾なく発揮して、最後までその姿を見せることをしない、地球という名の小さな惑星と、そこに呼吸を繋ぐ者たちの尋常ならざる生活風景を、観る者に恐々と想像させたところにある。
元々、内部で生産した工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトルが、太陽系から遥か彼方の恒星にまで「宇宙ドライブ」を敢行し、且つ、エイリアンとの遭遇によって露わになる、アンドロイドの科学者が極限状況を仕切っている風景を描き出すことで、地球と地球人の奇妙で、些かブラックなイメージが想像できるのだ。
そして本作では、エイリアンを駆逐したと信じるリプリーが、最後まで可愛がっていた、固有名詞を持つ 「猫」(ジョーンズ)の存在を象徴的に描いていた。
一見、気の遠くなるような「未来の世紀」における地球上では、引き続き、「ペット化された動物との共存」を延長させていたのである。
しかし同時に、アンドロイドの科学者との畏怖すべき共存をも、「未来の世紀」における地球上で普通に具現化していたというイメージは、「ブレードランナー」(画像)の世紀末的風景ほどではないが、充分にブラック・アイロニーであったと言えるだろう。
彼女が、「現代の地球に呼吸する普通の生物」の象徴としての「猫」を守り、それを連れて地球に向けて帰還する飛行こそ、人間の「無秩序な稜線伸ばし」を相対化する映像であったという把握も可能だろう。
それ故、エイリアンが「猫」に卵を産み落としていたなどという仮説は、私には邪道でしかないのである。
(2010年6月)
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