1 「物語」という衣裳を纏(まと)った、本作のプロット紹介
映像の冒頭に、サソリの生態のシーンが描かれて、説明書きまで加わっていた。
「魚の浮袋に似た6連の尾を丸め、対象物を刺して、液状の毒を放つ。孤独を好み、侵入者は断固として排除する。その芸術的とも言える素早い攻撃は、鼠さえ仕留める」
その直後の映像は、断崖絶壁の岩場で、酷い身なりの山賊がカトリックの司祭たちのミサを目撃し、それを洞窟で屯(たむろ)している仲間に知らせ、武器を持って移動するが、空腹なのか、倒れる者が続出する。
彼らは戦う気迫に欠け、抜け殻のようだ。
そんな彼らの視界に捕捉された、男と女。
彼らは睦みの真っ最中だったが、定礎式にやって来た人々によって、暴力的に妨害されたのである。
両脇を二人の男に抱えられ、連行されていく長いプロセスの中で、人目も構わず性欲の衝動を遮断された男は暴れ回っていた。
男は子犬を蹴り上げ、クロゴキブリらしき昆虫を踏み潰し、通り掛っただけの盲人を蹴り倒す始末。
両脇を抱える二人の男に、国際人権擁護団体の代表という肩書を自慢げに見せた男は、タクシーを奪い去っていく。
「かつての異教世界の女支配者は、数世紀を経て、教会の正座を占めた。その象徴であるバチカンの風景」
サン・ピエトロ大聖堂(イメージ画像・ウイキ)
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二頭立ての馬車が唐突に出現するパーティ会場では火災が発生し、傍でメイドが倒れていても、誰も介助をせずに遣り過ごすばかり。
そのパーティ会場の庭で、子供の悪戯に立腹した若者は、あろうことか、花畑に逃げたその子供を射殺してしまうのだ。
まもなく、例の国際人権擁護団体の代表を名乗る男が、恋人のいるパーティ会場に姿を現した。
傲岸な男は、ここでも暴走を止めることがない。
ワインを零されただけで、老婦人の頬に平手打ちを食らわせて、怪我をさせてしまう。
男の脳裡には、会場の向こうにいる恋人だけが気になってならないのだ。
遂に二人だけになった男と女は、再び屋外で睦み合う。
互いの指を舐め合って、一気に情欲を遂げようとするが、内務大臣からの電話が入り、渋々、男は女の元を離れて行く。
片や、またしても横槍が入って、男との睦みを邪魔された女は、男の代わりに彫像の足の指を愛撫するが、殆どオーラルセックスの画像なのだ。
内務大臣からの電話の内容は、職務の怠慢への厳しい批判の洪水。
「私の立場をどうしてくれる!」
こんな説教を受けた男は、逆ギレしてしまう始末。
「そんなことで騒ぎたてるな!」
女との睦みにしか関心がない男は、とうとう内務大臣を射殺してしまうという過激ぶり。
しかし、次々に現れる障害物によって、女の愛を占有できない怒りがピークアウトに達した男は、窓辺から羽毛の束を放擲したばかりか、司祭を投げ捨て、更に燃えた樅の木を投棄し、実際はイーゼルにも燭台にも見えるが、十字架のような象徴性を思わせる木形を燃やし、階上から投げ捨ててしまうのだ。
その間、ずっと太鼓が鳴り響き、男の内側の激しい感情を表現していく。
その直後の映像には、長い字幕がついていた。
「怒りのあまりに、窓辺から散らされた羽毛が地面を覆った瞬間、まさにその時、特にセリニィ城の残党たちがパリに戻ろうとしていた。
4人の名うての悪党どもは、最も獣じみた酒神の祭りを祝うために、120日もの間、この難攻不落の城に閉じこもっていた。彼らは、神も節操も宗教も持たぬ放蕩者であり、法などは堕落の象徴だった。
ほんの些細なものであろうと、彼らの犯す罪は、考え得る限りの汚辱にまみれたものである。彼らにとっては、一人の女どころか、あらゆる女の命さえ、一匹の蝿の重さすら持たない。
邪(よこしま)な目論見の元に、8人の素敵な娘たちと、同数の光り輝く少女を城に連れ込んだが、彼らの創造力はあまりに貧弱で役に立つことはなかった。
この4人の“怪物”どもは、下らぬ会話によって、常に自らを奮い立たせるために、4人の堕落した女をも連れて来ていた。そして今、これらの罪深い残党どもは、セリニィ城を離れようとしている。彼らのリーダーたる首謀者は、プランジィ侯爵」
マルキ・ド・サド |
そして、その直後に白装束を着た血まみれ(?)の女が出て来て、彼女はそこに倒れてしまった。
それを見た「キリストと思しき男」が助けに戻り、女を抱えて城の中に入って行った。
そのとき、城の中から女の悲鳴。
そこから出て来たのは、髭を剃った「キリストと思しき男」。
男は女を殺したのである。
ラストシーン。
ゴルゴダの丘で磔刑になった十字架が、周りに、雪の白で化粧した奇妙な物質を吊り下げていた。
2 確信的涜神者の挑発的信管投入
「象徴や比喩を使うことにより、宗教、愛欲、儀礼、社会通念といった常識に対して痛烈な批判を投げかけ、このことが反キリスト教として物議をかもした」((「黄金時代」東映株式会社ビデオパッケージ解説より)
この一文を読むまでもなく、本作は、確信的涜神(とくしん)者の挑発的信管投入の映像であると言っていい。
ルイス・ブニュエル監督 |
それが本作である。
「アンダルシアの犬」には、「夢魔」の「オートマティスム」(自動記述)という退路が確保されていた分だけ、シュールレアリスムの名において、存分に「観念としてのアナーキズム」の遊戯を享受することができたと言えるだろう。
しかし、本作にはそれがない。
払拭されてしまったのだ。
と言うより、遊戯的仮構性を確信的に削り取ってしまったのである。
本作は、60分程度のフィルムの中に「物語性」を作り出すことで、ブニュエルにとって、シュールレアリスムという方法論が単に表現技法でしかなかったことを露わにしたのである。
彼は本作において、拠って立つ表現者としての自我にとって本来的な敵を明瞭にし、それと闘う確信的な覚悟を持つことで、最も毒気に満ちた映像を作り上げたのである。
メモに眼を落しながら台詞を言う「女優」の例を見ても分るように、映像の内実は相当に粗雑だが、それ以上に明瞭な「主題提起力」による暴走を放置させたまま、自ら抑制の効かない暴れ方を展開させていったのだ。
その暴れ方がどこまで自覚的であるかどうか不分明だが、そこで構築された映像の持つ本質は、「アンダルシアの犬」を支えたテーマである、「挑発的否定と攻撃性の精神」をより鮮明化させたと言える。
恐らく、それ以外の表現を手に入れられないほどの、「主題提起力」による暴走の極北を記述してしまったのだ。
だからこそ、ブニュエルが敵対視したものを堅固に保守する者たちからのリバウンドも半端なものではなく、それ以上ないリベンジを受けることになった。
右翼による劇場への爆弾の投下と、50年間に及ぶ上映禁止。
この事実が、何より本作の基幹テーマである、「挑発的否定と攻撃性の精神」の本質を端的に物語るだろう。
第一次世界大戦の残虐性を内面的に吸収した一人の映像作家が、その後に待機する遥かに甚大な世界戦争への賭場口の遥か前で、このような映像を作ったこと。
それ自体、充分に衝撃的であった。
廃墟と化したゲルニカ |
良くも悪くも、最もアナーキーなる無神論者の表現作家。
それが、ルイス・ブニュエルだった。
(2010年4月)
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