<リアリズムによって貫流する、「人間ドラマ」の本質を拡散させたサスペンス性の陥穽>
1 愛情なき夫婦の矛盾が極まって ―― プロットライン①
男と女の運命的な出会いが、そこにあった。
男の名は、ローラン。
女の名は、テレーズ。
イタリア人であるトラックドライバーのローランが、殆ど間髪を容れず、人妻のテレーズに言い寄った。
「君と会うのは2度目だ。男と女の出会いは、これで充分だ。俺の財産はトラック1台だ。町から町をさすらう人生。独りぼっちの人生だ。だが、あんたにはカミーユがいる。あれでも夫だ。俺と一緒にどこかヘ逃げよう。フランス、イタリア、どこでもいい。俺はカミーユの友達にはなれない。木曜には競馬ゲーム。日曜には一緒に外出。いつか破滅だ。テレーズ。心を決めろ。皆を不幸にするぞ。俺が考えた末に出した結論だ。今すぐ発とう。何も言わずに」
カミーユとはテレーズの夫。
テレーズは、従兄でもある、病弱のカミーユの世話係という奇妙なポジションに甘んじていて、長く不遇を託っていた。
しかし女には、両親に早く死別してから面倒を見てもらっている叔母、即ち、夫の母親を安易に裏切ることなどできなかった。
そんな状況下で、男と女の根源的な〈生〉を巡る会話が開かれた。
「私を奪って、泥棒猫みたいに逃げるの?」
「それしかない。今の生活をきっぱりと断ち切るんだ。怖いか?」
「怖い?いえ。大した人ね。強くて、自由で、自分中心に生きているわ。気に入れば、すぐ奪うのね」
「安全な生活がいいのか?何も起こらない退屈な人生がいいか?変だな。君なら、すぐ承知すると思った」
「私は自分を抑えているのよ。あなたが欲しい。あなただけを思って生きているわ。寝ても醒めても。切ないほど恋しくて、息が詰まるの。そして眼が覚める。周りを見回すと、何も起こらない」
「男を愛して、信じ切れば、駆け落ちは簡単だ」
「簡単?両親が死んで叔母の世話になったのよ」
「世話の見返りに、息子の嫁にされたんだろ」
「従兄で、一緒に住んでいたの。妻になっても大して変わらないわ」
「ひどい話だ」
「私の看病で、彼は死なずに済んだのよ。私がいなければ・・・」
「虚しい人生だ」
テレーズ(左)とローラン(右) |
この小さな睦みの後に待っていたのは、二人が忍んで、逢引を重ねる時間の描写。
「そんな生活は止せ。死人のような人生だ」とローラン。
「死人と同じね。今、気付いたわ。バカだった」とテレーズ。
それでも、駆け落ちを決断できない女。
「昔の恩は裏切れない」
女の口癖だった。
留守に密会をするが、それを嫌う男。
正々堂々と、二人の関係を打ち明けたいのだ。
帰宅した叔母に密会の現場が見つかりそうになるが、「幸運」にも窮地を脱した二人。
ローラン(左)とラカン夫人(右) |
「事実を知れば、夫は逆上するわ」と女。
二人の関係が深くなるほど、愛情なき夫婦の矛盾が極まっていくのだ。
2 愛情なき夫婦のパリ旅行の顛末 ―― プロットライン②
遂に、ローランは我慢の限界が切れて、カミーユに打ち明けてしまった。
打ち明けられた夫は怒り狂っても、自分の不幸を吐露する妻に哀願する始末だった。
「僕を見捨てないでくれ。僕は病人だ。しばらく待てば死ぬよ」
そんな男にとって、自分だけをスポイルして育ててきた母、ラカン夫人の言葉は常に決定力を持っていた。
「お前は、嫁を甘やかしている」
この言葉で、全て決まった。
「パリ旅行をしたら、別れてもいい」という口実で、カミーユはパリの親戚の家に、テレーズを監禁しようと決意したのだ。
有無を言わせぬ、愛情なき夫婦のパリ旅行が開かれた。
テレーズとの電話でパリ行きを知ったローランは、慌てて、夫婦が乗る列車に自らの身を投げ入れたのである。
その列車内での、ローランとテレーズと逢瀬。
「彼は何か企んでいる。途中で降りよう」
このローランの一言に、戸惑うだけのテレーズ。
しかし、危険な逢瀬が招来した事件が、とうとう出来してしまった。
二人の逢瀬を目撃したカミーユは、ここでも卑屈さを曝け出すばかり。
「テレーズは俺の妻だ」
「テレーズは、お前を愛していない」
「愛する振りでいい」
「哀れな奴だ」
二人の男は列車内で争った末、ローランはカミーユをデッキから突き落してしまったのだ。
「どうすれば?」とテレーズ。
「シャロンで降りて、俺は自首する」とローラン。
「シャロンで降りたら、沈黙を守って。汽車に乗った事も、降りたことも。私一人でやるわ」
意外なほど落ち着いたテレーズの知恵で、ローランをシャロンで降車させたのである。
その後、カミーユの死体が発見され、テレーズは警察の調べを受けたが、叔母はショックのあまり半身不随になってしまった。
半身不随になったラカン夫人の、テレーズを訝る視線には、「愛する息子を殺した女」という無言の敵意が剥き出しになっていた。
その視線を嫌というほど感受するテレーズは、ローランに本音を伝えた。
「来ないで。叔母は気付いてるわ。眼で分るわ」
結局、事故という処分に落ち着いたものの、ローランへの情愛を希釈化させるに足る不安、苛立ち、倫理的葛藤などの感情に縛られたテレーズの自我は、容易に落ち着く時間を手に入れられないのだ。
この辺りまでの描写は、殆ど申し分ない。
心理劇としての精緻な演出が冴えていた。
それ以降の展開は、簡潔な説明でまとめてみる。
後述するが、私としては、本作はここまでの映画であると思っているからである。
その後のシークエンスは、「サスペンス映画」のフィールドにまで広がる展開が続くのである。
列車で同部屋だった水兵からの恐喝と、それに怯えるテレーズの感情の振幅は激しく、関係を絶ったローランの包容力に身を委ねたりもする。
そして、ラストシーンの悲劇。
まんまと恐喝に成就した水兵が、二人と別れて街路に出たとき、交通事故に遭って、あえなく事故死するという顛末だが、その際、水兵が「事件の真実」を認(したため)めた手紙が投函されることで、テレーズとローランの「完全犯罪」が自壊するというオチがついていた。
3 リアリズムによって貫流する、「人間ドラマ」の本質を拡散させたサスペンス性の陥穽
無論、私の主観的把握だが、「禁断の愛」のラインを越えた者たちに待つ選択肢は、大きく分けて3つしかない。
1つは、「不徳なる者たち」というラべリングを抱えながら、そこに立ち塞がる障壁を突き抜けて、あとは2人の愛の継続力の問題以外にない辺りまで「禁断の愛」を自己完結させてしまうこと。
2つ目は、「禁断の愛」に立ち塞がる障壁の前で失速した関係を希釈化させ、ラインの内側にまで戻っていくこと。
そして3つ目は、「禁断の愛」に立ち塞がる障壁を突き抜けられず、個々の裸形の様態を晒しつつ自爆することである。
本作は、ある意味で、「禁断の愛」のラインを越えたことによって、外部要因等による立ち塞がる障壁を突き抜けられず、無念にも自爆する映画と言っていい。
本作での2人の愛の無念さは、自分たちの暴走の果てに惹起した「事件」によって、「禁断の愛」の一定の自己完結にも逢着できず、その本質が自爆であるということを露呈した一つの様態である。
その辺りを、本稿のテーマに据えて言及したい。
「太陽がいっぱい」の評論にも書いたが、「サスペンス映画」についての私の狭義の定義は、「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が、映像構成の中で主要なファクターに成り得る映画ということ。
この把握から言えば、本作は「サスペンス映画」という衣裳を被せてあるが、その本質は、リアリズムによって貫流した「人間ドラマ」の固有の性格を持つと言える。
そこに、「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が希薄であるからだ。
リアリズムによって貫流した「人間ドラマ」の根柢を支え切っているのは、言うまでもなく、主人公であるテレーズの心理の振幅である。
本作は、テレーズの心理の振幅を通して、人間の〈生〉の根源的な問題を描く視座を捨てていなかったように思われる。
「罪悪感と責任回避の戦略」、即ち、「倫理的苦痛と自我防衛」、「義理による束縛への恨み」、「欲情と抑制」、「尖った視線を被浴する中での、選択的介護による贖罪という防衛行動」等々。
それにも拘らず、本作は、原作にはない、後半の目撃者による脅迫と、脅迫者の事故死というような、幾つかの偶然性に依拠させた映像構成に収斂させたことで、人間のドロドロのエゴイズム、情欲と愛憎の不健康感、そして、それらを包含する心的葛藤という基幹的描写が希釈化されていた印象が強いのだ。
即ち、サスペンス性の濃度を深めてしまったことによって、却ってリアリズムによって貫流した「人間ドラマ」の本質を拡散させ、主人公であるテレーズの心理の振幅の問題を、単に「脅迫に怯える者の脆弱性」という、状況限定的な不安心理の枠に閉じ込めてしまったと言えないか。
以下、テレーズの心理葛藤を象徴する会話を再現する。
「あなたを思う度に、死体が眼に浮かぶの。あなたを恨むわ。別れましょう」
「惨過ぎる」
「もう終わりだわ」
「君のために殺したんだ」
「頼んだ?」
「止せ、と言ったか?」
「私は無実よ」
「二人で殺したんだ。君も共犯さ」
「あなたが突き落としたのよ!」
「気でも違ったのか?」
「そうよ」
「二人の自由のためだ」
「夫の死が重くのしかかるの」
「殺した罪は、俺一人で被る」
「触らないで。近づかないで」
これは、事件後のテレーズの心理葛藤を端的に写し取ったシークエンスとして、映像の中で重要な時間列を占有している。
要するに、「禁断の愛」のラインを越えてしまったにも関わらず、その未知の時間列を支配し切れない不安に苛まれた自我の裸形の様態が晒されているのだ。
一切は、全てを捨てる覚悟を相応に保持していた男のケースと比較するとき、覚悟なしに踏み入れた「禁断の愛」の世界が分娩した事件によって、翻弄されるだけの女の脆弱性が露わになっているのである。
既にこの時点で、様々に立ち塞がる障壁によって、「禁断の愛」を自己完結し得ない2人の愛の継続力の脆弱性が予約されてしまっていたということだ。
案の定、女はこの会話の直後に、脅迫された不安・恐怖感情の高まりを抑制し得ず、一度は切れたローランに会いに行くという行動を身体化していた。
覚悟なしに踏み入れた「禁断の愛」の世界の本質的脆弱性が、そこにある。
ともあれ、テレーズの心理葛藤に勝負を賭けたはずの映画が、それを深化させていく内面描写を、前述したように、映像後半の目撃者による脅迫と、脅迫者の事故死というような取って付けたようなつまらないエピソードの挿入によって、リアリズムによって貫流した「人間ドラマ」の本質を拡散させてしまったのだ。
ここに、本作の致命的瑕疵があった。
私はそう思う。
4 「カミーユの歯が残した夫の頸の傷痕」という、詩情の臭気をも削り抜く毒気
「観客の心をとらえたのは、そうした物語を通じて表現されるペシミズムの強烈さでした。それは一見、非常にリアリスティックな目で描かれているように見えながら、じつはそうではありません。
人間への運命への敗北、ペシミスティックな世界観が、文学的な雰囲気のなかで肯定され、巧妙な詩的演出によって美化されているのです。要するに、フェデール、デュヴィヴィエ、スパークによる<詩的レアリスム>の本質は、『暗さ』の美学化に尽きるといってもいいでしょう。
最後には滅びてゆく人間の運命が、あいまいな文学的叙情性、高尚な哲学性の衣をまとって、深遠な人生観として賛美されているのです」(「フランス映画史の誘惑」中条省平著 集英社新書)
この著書で指摘された「『暗さ』の美学化」という表現が、どこまで的を射ているか判然としないが、本作は、ヌーベル・バーグによって徹底的に批判された、「詩的リアリズム」の映像文法に義理立てしたかのような印象を受けてしまうのは、私だけだろうか。
「暗さ」の映像群 ―― 大いに結構ではないか。
その良し悪しの問題は別にして、人間の問題の根源に迫る手法として、彼らは彼らなりに選択した特徴的な映像文法を堅持し、それに対する彼らなりの矜持によって、自分たちの表現世界を引っ張り切っていったではなかったのか。
ヌーベル・バーグの父・アンドレ・バザン
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カイエ派に何と指弾されようと、物語に張り付くロマンチシズムの切り取り方には個人的には違和感があるものの、人間の問題を真っ向から見据えて、その本質に肉薄したと信じる「詩的リアリズム」の大家たちが、時代との整合性を失ったと感受することで、文化の最前線から距離を置く(弾き出される)のは一向に構わないが、それでもなお、「脆弱性」という本質的な問題を内包する人間の心的世界が恒久的に変わらない以上、そんな人間の「脆弱性」の深奥を様々に照射し、それを個々の表現主題の内に拾い上げていく映像作家たちの課題もまた、充分に恒久的な存在価値を持ち得たとも言えるはずだ。
いつの世も、どこの社会でも、恐らく、この現実のアポリアは変わらないだろう。
1990年代に突沸した、「ポンヌフの恋人」(1991年製作)のレオス・カラックスらの「新詩的レアリスム」(?)の映像展開もまた、時代との整合性を回復したと信じる作家たちの一種の文化現象でもあった。
人間の「脆弱性」という本質的な問題が、常に恒久的なテーマの一つであるからだ。
予定調和のハッピーエンドに自己完結できない人生こそ、私たちのごく普通の人生の、ごく普通の様態である真実を認知する限り、それをあらゆる角度から精緻に描き切る映像展開もまた、常に求められるに違いないのである。
映画を観る者に、「夢を与える快楽装置」という絶対範疇の中で、娯楽作品がマスセールされていくのも結構だが、そのような嘘臭い文化に馴染まない一群の観客もまた、この世に存在することを忘れてはならない。
「暗さ」の映像群を「美学」にまで昇華させる必要など、どこにもないのだ。
エミール・ゾラ・(ウイキ) |
因みに、カミーユを水死させるという殺害後の男女の愛憎と、その心的葛藤の果てに、結局、心中に至るという物語の流れ方は、近代文学の一つの極点を示していたとも言えるだろう。
心中に至る男女の描写は、以下の通り。
「ふたりは無言のまま泣きに泣いた。これまでの泥沼の生活を思い、卑怯にもさらに生きつづけるなら、これからも同じ生活がつづくだろうと思った。過去を思いだすと、すっかり自分自身にあいそがつき、いやけがさしてきて、休息と虚無を限りなく望んでいるわが身を感じた。
ふたりは最後の眼差しをかわした。それは包丁と毒薬のコップを前にして、感謝をあらわすまなざしだった。
テレーズはコップに手をとって、半分飲み、ローランに差し出すと、彼は一気に残りをあけた。あっという間だった。雷に打たれたように、二人は折り重なって倒れた。やっと死に安らぎをみいだしたのだ。若い女の口は、カミーユの歯が残した夫の頸の傷あとにぶつかった」(「テレーズ・ラカン」下 エミール・ゾラ著、小林正訳 岩波文庫/筆者段落構成)
「『テレーズ・ラカン』で、性格ではなく、体質を研究しようとした」とゾラは、「再販の序」の中で書いている。
マルセル・カルネ監督 |
それが、ゾラの言う所の、「体質を研究」する文学的実験作品であるか否か定かではないが、そんな映画があってもいいではないか。
少なくとも、目撃者による脅迫と、脅迫者の事故死という安直な括りの内に映像を閉じるより、遥かに映像構成の均衡を崩す愚を回避できるだろうと思うのだ。
ともあれ、件の人間の真実の様態を、個々の映像作家の自在な思想によって様々に描き切ることで、袋小路に陥った人間たちの悲哀を記録し続ける映像が、切に求められる文化こそ、ある意味で、「健康な文化国家」の証とも言えるのだろう。
(2010年5月)
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