<「異性身体」を視覚的に捕捉していく緩やかなステップの心地良さ>
1 緩やかなステップを上り詰めていく男と女の物語 ―― プロット紹介
恋人を交通事故で喪ったトラウマを持つ(ほし)と、アメフトの選手としての挫折経験を引き摺る(ハル)が、パソコン通信によるメール交換を介して急速に関係を構築していく。
同時に、(ハル)は(ローズ)と知り合い、デートを重ねるが、(ローズ)が(ほし)の妹だと知った(ほし)は、(ハル)とのメール交換を途絶させてしまう。
(ほし)からのメールが途絶した理由を知った(ハル)は誠実に弁明するが、(ほし)の思いを変えることができなかった。
それでも(ハル)は、「僕だけでも」と題したメールを(ほし)に送っていく。
以下、(ハル)のメール。
「(ハル) 題名『僕だけでも』
これからも僕が勝手にメールを送ります。ほしが、遠い所に行ってパソコンを使えないと思うことにしました。ほしにメールを書くことが僕の日常なのです。今までのメールの記録を見て、自分が変わって行くのが解りました。ほし、ありがとう。これからもよろしく」
(ハル)のメールに込められた人間的誠実さに触れた(ほし)は、(ハル)の存在の大きさを感受して、自分の過去の告白を込めた長い返信のメールを出すに至った。
以下、(ほし)のメール。
「(ほし) 題名『ごめんね』
ハル、御無沙汰しています。メールを出さなくてごめんなさい。妹が、ローズだったなんて本当にショックでした。私たちがメールを交したり、新幹線の通過で会ったり、そんな事を長い時間を掛けて少しずつ積み重ねていたのに・・・・・・。(略)映画フォーラムで、(ハル)と云う名前を見つけた時、“春間次郎”のような気がしてとても嬉しかったのです。春間次郎は交通事故で亡くなりました。私は彼を忘れられない、どうして生きて行ったらいいのだろうと考えていました。(略)人間関係や見聞はパソコン通信で、職業は何でもチャレンジしてやれとか、彼のことを乗り越えるために私を変えるようにしてきたのです。そうやって新しい自分なりの生き方を自分なりに模索していたのです。(略)私にはハルが必要です」
更に、堰を切ったように溢れ出した(ほし)の思いは、遂に「暗黙の了解」の内に成立していたかのようなルールを突き抜けて、「一線」を超えていく。
「(ほし) 題名『東京に行きます』
知りたい、もっとハルを知りたい。ハルの存在をもっと確かにすれば、私が大きく変る様な気がするのです。東京に行きます。会って下さい」
当然、(ハル)の反応は受容的なものだった。
それは、相互の「異性身体」を視覚的に捕捉していく、その緩やかなステップを上り詰めていく二人の特殊な関係にあって、殆ど必然的な現象だった。
「(ハル) 題名『一番前で』
東京駅に着いたら、新幹線の一番前のホームのところに歩いて行ってください。僕が立っています。もちろん僕もフロッピーディスクを持っています。
東京駅での新幹線の一番前のホームでの初めての、しかし、最も心ときめかす瞬間。
それが、ラストシーンに全てを賭けた映像の括りとなったのは言うまでもない。
2 自我を不必要なまでに武装化せずにパートナーを発掘し、交叉する最適戦略
共同体社会でメリットがあるとすれば、「他人の不幸」に敏感に反応することだろう。
「他人の不幸」が、「自分の不幸」に直結してしまうからだ。
都市化社会にはこの制約がないから、「他人の不幸」に敏感に反応しないで済むのである。
しかし、人間には「集団」の内に包括されることの快感を求める「性(さが)」がある。
これは、恐らく本能ではない。
「他人の不幸」に敏感に反応しないで済む「匿名特権」を簡単に手放すことなく、都市化社会でこの快感を手に入れるには「疑似コミュニティ」を構築し、そこにアクセスすることが最も簡便な方法だろう。
本作で描かれたパソコン通信によるメール交換は、狭隘な視座で安直に語る者が、「都市の孤独」と呼ぶ幻想的空洞感を埋めるに相応しいツールであったからこそ、80年代後半から90年代にかけて燎原の火のように普及したに違いない。
急速に都市化した広東省・深圳の風景(ウィキ) |
それを一言で要約すれば、常に適正規模の自己投企を継続させていかなければ「埋没」し兼ねないと感受させるほどに、人間関係が希薄になりやすい都市社会の中で、自分のキャラに相応しいパートナーを見い出し、そのパートナーと継続的に関係構築する方略の有効性である。
しかし、それを具現していくのは容易ではないだろう。
例えば、「合コン」という「直接主義」に代表される視覚主体のサーチリスクが高いのは、その「直接主義」によって「非武装化された自我」が晒されることで、「関係前線」で手に入れる心地良さよりも、しばしば、当該自我が蒙る「低侵襲」の攻勢に対して殆ど太刀打ちできないところにある。
「異性身体」を視覚的に捕捉する合コンの「直接主義」が有効なのは、大学キャンパスや職場の同僚といった特定的空間をベースにして、合理的に稜線を伸ばした関係支配域というものに限定されるのではないか。
ところが、本作の「疑似コミュニティ」へのアクセスのツールとなったパソコン通信のメール交換では、HN(ハンドルネーム)に潜入することによって自己の仮装が自在に担保されているので、「非武装化された自我」が晒されるリスクから免れるのである。
視覚主体のサーチリスクの、「直接主義」のターゲットに捕捉される負荷から解放されているが故に、「異性身体」を視覚的に「低侵襲」される危うさを遮断できるのだ。
現実に、本作のヒロインは、「男」に成り済ましながら、パソコン通信の映画コミュに初めてクロスする、特定他者としての(ハル)と、暫くは、手探りのコミュニケーションを形成していたのである。
HN(ハンドルネーム)に潜入する「匿名特権」をフル稼働させ、メールで飛び交う言語によるゲームを愉悦していた(ローズ)の例は、その典型であろう。
彼女が未だ、(ほし)の妹である事実を認知できない段階で、トレッキングをエンジョイしていた頃の(ハル)との会話が印象的だった。
「どうしてローズは、いつもやらしいことり言うくせに、俺と愛し合おうとしないんだ?」
「愛し合いたいの?」
「愛し合いたい」
「だって、言葉だけでどこまで裸になれるかが勝負なんだから」
「そんな勝負、いつしてくれって言ったんだよ」
「とにかく、ハルは駄目。体の関係になったら情緒的になるタイプだから・・・兄貴が欲しかったんだ。姉だから」
言語によるゲームを愉悦する者と、それをゲーム化できない者との差は、「関係前線」で手に入れる心地良さの内実の差であると言っていい。
それは、恋人を交通事故で喪ったトラウマを持つ(ほし)と同様に、アメフトの選手としての挫折経験を引き摺る(ハル)が、パソコン通信によるメール交換をゲーム化できなかった心理の内実の差であるのだ。
(ハル)と(ほし)の二人は、「言葉だけでどこまで裸になれるかが勝負」への拘りとは無縁だったということである。
いずれにせよ、(ローズ)の言葉に象徴されるように、パソコン通信というツールの最大の利便性が、自我を「匿名特権」の内に潜入させた状態で、自在なコミュニケーションを可能にするという一点にあることは疑う余地がないだろう。
この決定的な利便性に関しては、インターネット社会の21世紀的状況において、ごく普通に利用され、消費されていると言える。
そこで最も重要なことは、敢えて自我を不必要なまでに武装化せずに、自分のキャラに会ったパートナーを発掘し、交叉し、その時間を少しずつ延長させていく行程を介して、本来、自分が求めるべきパートナーとの邂逅を具現できるということだ。
要するに、「合コン」の「直接主義」のハイリスクに比較して、自我が蒙るダメージをミニマムに抑えられるということだろう。
ツールからのアクセスも離脱も、原則的に選択的であるからだ。
良かれ悪しかれ、私たちは、このうような「最適利便社会」を構築してしまったのである。
しかし、それが本来的な「最適利便社会」であるには、ネット社会への私たちの馴致が完成形になっていないという致命的瑕疵を克服せねばならないだろうが、その言及は本稿のテーマから外れるのでパスして、映像に入っていこう。
3 「異性身体」を視覚的に捕捉していく緩やかなステップの心地良さ
些かナイーブな、本作の二人の男女は、まさにこの利便性の高いツールをフルに駆使して、その「異性身体」を視覚的に捕捉し得ない相手に対する裸形の自我に、ほんの少しずつ近づいていく。
そのプロセスを描くこと自身が、恐らく、本作の基幹テーマであったと思われる。
だからこれは、特定他者との「適正距離」の「軟着点」を模索する映像でもあった。
そして何より、その「異性身体」を視覚的に捕捉していく緩やかなステップを、繊細な筆致で丁寧に描き上げていた。
本作の二人の男女の場合、それでなくても守られている自我の武装を緩やかに解除していくプロセスは、相手の「異性身体」を視覚的に捕捉することを希求する、彼らの内的プロセスとパラレルな関係にあった。
この辺りの描写が、本作の見せ場でもあり、セールスポイントであったに違いない。
このパラレルな関係を、典型的に顕在化した描写がある。
(ハル)と(ほし)の二人は、相手の「異性身体」を視覚的に捕捉することへの思いを、一瞬の時間の内に委ねたのである。
出張で青森に行くことになった(ハル)が、盛岡の線路沿いの農地でハンカチを振る(ほし)と、束の間だが、存分の思いを投入したファーストコンタクトを具現した。
相互にビデオカメラを持ち、新幹線の車中からハンカチを振る(ハル)は、ビデオカメラでも隠し切れなかった、相手の「異性身体」を視覚的に捕捉するのだ。
(ほし)もまた、同様だった。
その後、二人は撮影したビデオを見返すことで、視覚的な接近を緩やかに進行させていく。
この映画は、「視覚の近代」の圧倒的な澎湃(ほうはい)とパラレルに分娩された、「身体性」を隠し込む文化が担保する、「匿名特権」という名のくすんだベールを、自らの意志と思いの形成的なプロセスの昂揚感に合わせて剥ぎ取っていく物語なのだ。
それ故、作り手は、この二人に安直な逢瀬を保証しないのである。(画像は森田芳光監督)
決定的な逢瀬に逢着するまでのプロセスそれ自身を、フレッシュな感覚で描き出したこと。
その鮮烈さこそが、映像の生命線であったと言っていい。
その意味で、この一瞬のコンタクトのシークエンスが、映像に占める役割は決定的である。
このシークエンスが、物語を根柢において支え切っていたからだ。
だから作り手は、このシークエンスを丹念に、丁寧に、且つ繊細に描き上げた。
ラストシーンに待機する、「予約された感動」の布石には、このシークエンスなしに存在しないのである。
それにも関わらず、作り手は、丁寧に構築してきた物語の内に、自ら貶めるような安直で、不埒な設定を挿入してしまった。
(ほし)と(ローズ)が姉妹であったという、三流のヒューマンストーリーの如き「奇跡的偶然性」への依拠を物語の中枢に据えてしまったのである。
この安直な設定の挿入が持つ意味は、「異性身体」を視覚的に捕捉していく基本ラインに沿って、緩やかに近接化しつつある(ハル)と(ほし)の関係を一時(いっとき)壊すことで、ラストシーンの決定的な復元力を提示したかったのである。
それが余計だった。
(ハル)と(ほし)の関係を一時(いっとき)壊すモチーフの挿入を描き出す必要もないし、仮に物語にメリハリをつけたければ、「二人は姉妹だった」という「奇跡的偶然性」への依拠なしに幾らでも方法があったはずである。
敢えて本作を、情緒過多な「奇跡の感動譚」にまとめる必要はなかったのだ。
その辺りが、私には気になってならない杜撰さだったが、それにも関わらず、それが1995年製作の段階において、新鮮な驚きと共感を与えた映像であり、その映像の半分を文字で埋めるという大胆な試みが成功裡に終始したのは、殆どアイディアの勝利と言っていいだろう。
(2010年7月)
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