2010年6月20日日曜日

伊豆の踊子('74)      西河克己


<「孤児根性」という寂寥感・劣等感を越える旅路 ―― 本作で削られた原作の本質性>



1  フラットな映像構成の単純さ、非武装性への苛立ち



筆者の拙稿、「新・心の風景」の中で、「北条民雄、東條耿一、そして川端康成 ―― 深海で交叉するそれぞれの〈生〉」を書き終えたとき、無性に観たくなった映画があった。

「伊豆の踊子」である。

この映画は、戦前以来6回も映画化されていながら、私には未だ鑑賞した記憶がない。

辛うじて、同じ西河克己監督による、吉永小百合主演の映画(1963年製作)を観た記憶があるが、殆ど覚えていない。

そんな頼りない記憶の中、たまたま手に入ったビデオで、山口百恵主演の「伊豆の踊子」を観ることになった。

当初、筆者の「人生論的映画評論」の題材にしようとしたが、82分というコンパクトな本作を一気に観終えたとき、あまりにフラットな映像構成の単純さ、非武装性への苛立ちが想像以上のものだったので、起筆することを一度は断念した次第である。

それでも、本稿を私に書かせたモチーフは、前出の「新・心の風景」において、川端康成の初期作品を何十年ぶりかで読み返して、新鮮な感動を覚えたからに他ならない。

従って本稿は、映画評論でありながら、本来の「人生論的」という形容を重視しつつ、この著名な作家の原作を意識したルール違反の内実になることを、前もって書いておこう。



2  「真っ裸のまま日の光の中に飛び出して来るほどに子供なんだ」



本作の「伊豆の踊子」は、「アイドル映画」としては、取り敢えず不合格ではなかったと言えるだろう。

「憧憬・熱狂・スター・清純・偶像・愛玩」等々と言った、「アイドル性」を保有する映画としての「アイドル映画」の要件を満たしていると思えるからだ。

しかし、「純愛映画」としては余りに薄っぺらで、原作で描かれた差別に関する描写は、単に映画の「純愛性」を強調する効果を狙った素材としてしか扱われていなかった。

それが「アイドル映画」の限界であるのは承知の上だが、それにしても、原作の至極内面的なテーマ性をここまで削り取ってしまったら、全く別の映画になってしまうという典型例がそこに垣間見えたのである。

それもまた良い。

言うまでもなく、映画表現が原作の忠実な映像化という枠に捕捉される必要がないからだ。

特定的に選択した愛好者の、その特有のファン心理を浄化する小さなパワーを持ち得たという意味で、不合格ではなかったと思える類の、「アイドル映画」としての本作の中に、2か所だけ私が気に入った印象的なシーンがあるので、それを再現してみたい。


その一。

「アイドル映画」の範疇の内に、上手に拾い上げていたそのエピソードは、主人公の内面を上手に浄化させた描写として重要であったと言える。

そのシーンとは、伊豆の旅をする主人公の旧制一高生の川島(一人称小説だから「私」)が、天城路で旅芸人の一座と出会い、下田まで一緒に同行することになったが、その一座の中で太鼓を背負う一人の踊子が、向かいの共同風呂に入っていて、全裸の状態で手を振るのを見て、「私」が少女の天真爛漫な振舞いに微笑む場面である。

「子供なんだと思った。私たちを見つけた喜びで真っ裸のまま日の光の中に飛び出して来るほどに子供なんだ。頭が拭われるように澄んで、私は心に清水を感じた」(「私」のナレーション)

このシーンは原作にもあり、ほぼ同様のナレーションで語っていたが、観る者に心地良い印象を与える出色の効果があった。


原作の純文学的な描写は、以下の通り。

「若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真っ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で精一ぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた」(「伊豆の踊子・温泉宿 他四編」川端康成作 岩波版ほるぷ図書館文庫)


この描写が出色なのは、踊子のかおる(画像/原作では、「薫」)に淡い思いを抱いた「私」が、その思いを相対化することで、旅芸人の一座の和んだ空気に自然に溶け込んだという実感を、ワンシーンの挿入によって繊細に表現できていたからである。

しかし残念ながら、本作は、この経験が「私」の「心に清水を感じ」させた、その自我が抱える寂寥感・劣等感(川端康成は、この屈折した感情を「孤児根性」という独特の表現で説明した)の風景を全く表現せず、原作の本質を改竄(かいざん)してしまっていた。

詳細は後述するが、原作の本質は、一切が「純愛」というテーマに収斂されるものではなく、まして、本作で強調された「旅芸人への差別」への指弾などではない。

但し、私のこの指摘は、どこまでも原作との関連でのみ有効であるに過ぎず、件のワンシーンを見る限り、「アイドル映画」のカテゴリーの中では出色の表現であったのは事実。

それは、「アイドル映画」のカテゴリーに収斂される「健全性」において、まさに格好の表現であったに違いないのだ。

件のワンシーンもまた、主人公の内面の率直な反応を捉えていて、原作で巧みに拾い上げていた重要なエピソードの一つだったのは間違いない。

同時にそれは、「読む者」と「観る者」に新鮮な感動を与えた場面として、それぞれの固有の時間の中で記憶される心地良い表現であったと言えるだろう。



3  「いい人ばかり何百人いたって、どうしようもないことが、世の中には多いのね」



かおると川島①・福岡市フィルムアーカイヴより
その二。

それは、主人公の旧制一高生に淡い恋慕を寄せる踊子の、その「純愛急行」の行方を危ぶんで、一座の者たちが会話するシーンがそれである。

以下の通りである。

「旅芸人の娘が、書生さんに惚れたってしょうがないよ」とのぶ。

のぶは千代子の母であり、踊子のかおるの祖母に当たる人物。

「かおるはまだ、子供じゃねえか」と栄吉。

栄吉は千代子の妻であり、かおるの兄でもある。

この栄吉との会話を介して、主人公の「私」が一座に溶け込んでいくという流れがあった。

「かおるちゃん、もう子供じゃないわよ」と千代子。栄吉の女房である。

かおると川島②
「書生さんが、もし大島(一座の故郷・筆者注)に来たりして、かおるの気持がもっとどうにかなったりしたら、お前さん、どうするつもりなんだい?あの子、なかなか一途なところがあるからね。そのときになって、お前さんかおるに何て言うつもりなんだい。かおるに辛い思いをさせるだけじゃないか。お前さんもぼつぼつ、かおるのことを考えてやらなきゃ。一番危ない年頃なんだから」

のぶのこの長広舌が、完全に空気を支配していく。

しかも、かおるが廊下で、一座の会話を聞いているのだ。

「あの書生さんは、そんな悪い人じゃないよ」と栄吉。
「分ってるよ、そんなことは。あの書生さんはいい人だよ。だけどね、そんなことじゃないんだ」

のぶのこの反応に対して、千代子が放った一言には決定力があった。

「いい人ばかり何百人いたって、どうしようもないことが、世の中には多いのね」

この言葉は良い。

人間社会の真実を衝いているからだ。

栄吉とかおる
無論、この一座の会話は原作にはない。一人称小説では拾えないのである。

その辺りが、映画の真骨頂とも言っていい。

人間社会の真実を衝く千代子の一言が存在しなかったら、恐らく、本稿を起筆する意欲を失っていたであろう。

「いい人ばかり何百人いたって、どうしようもない」世の中こそ、私たちがシビアに受け止めるべき人間社会のリアリズムの本質であり、怖さであるとも言えるのだ。

奇麗事だけでは世の中は渡れない。

そう言っているのだ。

これが、「アイドル映画」という看板興業の制約の内に、さり気なく挿入した作り手の主張であることは否めないだろう。



4  感傷過多な「悲哀の別離」の後に待っていたもの



本作のその後の展開は、この映画の予備知識がなくても誰でも読めるだろう。

かおると川島③
「純愛映画」の定番である、感傷過多な「悲哀の別離」が待機しているだけであるからだ。

かおるは外で待つ川島の所に行って、御座敷がかかったという理由をつけ、「活動」(活動写真=映画のこと)を一緒に観に行けないことを告げた。

そのとき、かおるは、川島から別離の「告白」を受けるのである。

「実は僕、明日の朝の船で東京に帰らなきゃならないんです。折角、皆と親しくなれたんだけど、学校の方の都合もあってね」

蹲(うずくま)るかおる。

夜陰の路傍で嗚咽している。

かおると川島④ ・「悲哀の別離」・福岡市フィルムアーカイヴより
翌朝の下田。

「悲哀の別離」がやって来た。

栄吉との別れを告げ、川島は下田港の乗船場で艀(はしけ)に乗り、巡航船に乗って帰って行く。

そのときだった。

岬の突端に出て、かおるはハンカチで手を振っている。

それを見た川島も、巡航船の甲板の上から手を振って、別れを惜しんだ。

映画は、このラストシーンの大袈裟な別離によって大団円を迎えると思いきや、本作の作り手は、少々、意地悪な味付けをして見せた。

踊り子が入れ墨の客に絡まれるという、際どいアップで映像は閉じていくのである。

このシーンは、「差別された旅芸人の悲哀」を強調するテーマ性として強引に挿入されていたのだろう。

西河克己監督
しかし、「アイドル映画」のカテゴリーと均衡の取れない当該シーンの挿入は、作り手のせめてものメッセージ性への意欲とも思えるが、本質的に映像総体の均衡感を壊してしまって、「カテゴリーキラー」の冒険の失敗を検証するだけという誹りを免れないかも知れない。

それでも私は、この括りを受容したい。

「悲哀の別離」のズブズブの感傷の余韻を引き摺らせないぞ、という作り手の意地が垣間見えるからである。

以上のエピソードは、無論、原作にはない。

原作のラストは、「私」である、主人公の川島が嗚咽する描写を添えていた。

以下、その一文を紹介する。

「汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干にもたれて沖の大島を一心にながめていた。踊り子に別れたのは遠い昔であるような気持だった。ばあさんはどうしたかと船室をのぞいてみると、もう人々が車座に取り囲んで、いろいろと慰めているらしかった。私は安心して、青の隣の船室にはいった。相模灘は波が高かった。すわっていると、時々左右に倒れた。船員が小さい金だらいを配って回った。私はカバンを枕にして横たわった。頭がからっぽで、時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどだった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった・・・」(前掲書より)

「涙がぽろぽろカバンに流れた」

「私」もまた、巡航船の船室で嗚咽していたのである。

しかしこの嗚咽は、単に踊り子との「別離」(悲哀ではない)の感情のみで反応したのではない。

伊豆半島・修繕寺温泉・ブログより
伊豆の旅をする主人公の旧制一高生の内面的モチーフが、踊り子との「別離」によって心の琴線に触れたからである。

本稿の最後に、5と6において、それについて言及したい。

その点にこそ、本作で削られた原作の本質が読み取れるからだ。



5  「孤児根性」という寂寥感・劣等感を越える旅路 ―― 本作で削られた原作の本質性①



では、本作で削られた、原作の本質とは何だったのか。

ここに、原作の中で、最も重要だと思える一文がある。

以下、引用してみる。


「いい人ね。」
「それはそう、いい人らしい。」
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね。」

この物言いは単純で明けっ放しな響きを持っていた。

感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。

私自身にも自分をいい人だと素直に感じることができた。晴れ晴れと目を上げて明るい山々をながめた。まぶたの裏がかすかに痛んだ。

二十歳の私は自分の性質が孤児根性でゆがんでいるときびしい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。

だから、、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようもなくありがたいのだった。山々の明るい下田の海が近づいていたからだった。私はさっきの竹の丈を振り回しながら、秋草の頭を切った。

途中、ところどころの村の入り口には立て札があった。

―― 物乞い旅芸人村に入るべからず。(「伊豆の踊子」より)


この文が、「孤児根性」という言葉の含みを全て語っているだろう。

16歳にして天涯の孤児になった寂寥感と劣等感からの解放を求めて、思い切ってその身を旅に預けた青年が、「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立て札に象徴される、旅芸人との淡い交流を通して、一座の人に「いい人ね。」と言われる歓びに自信を回復していくことで、少しでも新たに立ち上げる自我を手に入れた実感が瑞々しく表現されていたのである。

18歳のときの川端康成
これをみても分るように、当時、原作の主人公のモデルとなった川端康成は、自らの「孤児根性」を如何に脱却するかという喘ぎの中で旅に打って出たのである。

従って、その心情風景の振幅を描いた原作は、そこで出会った旅芸人一座とのクロスを通して、自我の空洞感を埋めていくに足る、極めて内面的な表現宇宙だったのだ。

だから所詮、このような重いテーマを純愛映画で拾い上げていくのは無理があるし、まして、アイドル映画の範疇に収まり切れる表現世界ではないのである。

「いい人ね。」
「それはそう、いい人らしい。」
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね。」

これらの言葉が、「二十歳の私」を救ったのだ。

「単純で明けっ放しな響き」の内に、一片の嘘がないという実感を持ち得たとき、伊豆の旅に打って出なければならないほど鬱屈感、閉塞感、寂寥感や劣等感に思い悩んでいた「私」の自我は、「自分をいい人だと素直に感じること」ができたのである。

そのことは、何より自己を客観化することを可能にして、「物乞い旅芸人」を差別しない川端康成の類稀な観察眼を育て上げていったのだ。



6  「孤児根性」という寂寥感・劣等感を越える旅路 ―― 本作で削られた原作の本質性②



以下、拙稿から引用する。但し、部分的に補筆・削除を施している。

川端康成。

川端康成ウィキ)
言うまでもなく、この国で最も有名な小説家の一人である。

大阪に生まれた川端康成は医師の子でありながら、3歳までに父と母を喪い、その後、祖父母に育てられている間にも祖母と姉を、更に16歳のとき、唯一の肉親家族であった祖父を喪うという不幸に見舞われ、天涯の孤児になるに至った。

結局、川端少年は母の実家に引き取られることになり、早くから、その境遇の寂寥感を文学への没頭によって紛らしていたように思われる。

ここに、祖父を看病する「十六歳の日記」の中で書かれた、彼の吐露がある。

「ああこの百枚の原稿を書き終わる時、書き終わるまでに、祖父の身は、不幸な足の身はどうなっているだろうか。(私は原稿用紙を百枚用意して、こんなふうな日記を百枚になるまで書き続けたいと思っていたのでした。日記が百枚になれば祖父は助かる。――何だかそんな気持ちもするのでした。そしてまた、祖父が死にそうに思えるからこそ、せめてその面影をこんなふうに日記にでも写しておきたいと思っていたのでした)」(『十六歳の日記』より 注:括弧内は二十七歳の時に書き加えた説明、「伊豆の踊子・温泉宿 他四編」川端康成作 岩波版ほるぷ図書館文庫)

「日記が百枚になれば祖父は助かる」という思いは、千羽鶴の発想と言っていい。

川端文学の原風景とも言える、胸打たれる一文だ。

この自我が川端文学の骨格を作り上げ、そこで作り上げられた川端文学の円熟化に伴って、川端康成という固有の自我もまた成熟していったに違いない。

成熟化した自我の内実は、他者を分け隔てない視線で観察し、偏見のバイアスを削り取った観察眼が吸収した曇りのない視座の内に、名もなき若い作家の、鮮度が高いが、しかし人間の根源的問題に言及した作品を評価し、それをバックアップする誠実な振舞いによって検証されたのである。

それが、新人発掘の才能を遺憾なく発揮した事例の象徴とも言える、「癩の作家」、北條民雄の「発見」でもあった。

川端康成は、北條の際だって尖った個性を把握しつつも、その振舞いの本質を理解しているが故に、彼を特段に咎めることなく、限定的な封鎖空間で可能な限り羽ばたく翼としての、その個性的作品群の飛翔に決定的な役割を果たしたのである。

川端康成キ)
それが川端康成であり、川端康成という広い奥行きを持つ自我の、稀に見る誠実な振舞いの実態であった。

川端のこの包括的観察眼の一切が、「十六歳の日記」から出発したか否か定かではないが、少なくとも、そこには、文学を通して自らを成長させていく自己運動を構築した、一人の男の真摯な軌跡が読み取れるのである。

もう少し、「十六歳の日記」をフォローしていこう。

「・・・祖父が死んだのは昭憲皇太后の御大葬の夜だった。

私は中学の遥拝式に出席しようかしまいかと迷っていた。中学校は村から二里ばかりの南の町にある。なぜだかわからないが、私は神経的に遥拝式に参列したくならなかった。しかし、その留守に祖父が死にはしまいか。おみよが祖父に聞いてくれた。

『日本国民の務めやさかい行っといで』
『わしが帰るまで生きてるか』
『生きてる。行っといで』

私はもう八時の遥拝式に遅れそうなので道を急いだ。下駄の鼻緒が切れた。(私の中学はそのころ和服だった)私はしょんぼり家へ帰った。意外にもおみよが、迷信だと言って、私を励ました。私は下駄を替えて学校へ急いだ。

遥拝式がすむと。急に不安が強くなった。

町の家々の御追悼のちょうちんが明るかったのを覚えているから闇夜だったにちがいない。私は下駄をぬいではだしになり、二里の道を走り続けて帰った。

祖父はその夜十二時過ぎまで生きていた。

私は祖父が死んだ年の八月家を捨てて、叔父の家に引き取られた。家に対する祖父の愛着を思うと、その時もその後屋敷を売る時も少しはつらかった。しかしその後、親戚や学寮や下宿を転々としているうちに、家とか家庭とかの観念はだんだん私から追い払われ、放浪の夢ばかり見る。(大正三年――大正十四年)」(『十六歳の日記』/筆者段落構成)

思わず、涙をそそられる誠実な文章に驚かされるが、この最後の一文は極めて重要である。

「親戚や学寮や下宿を転々としているうちに、家とか家庭とかの観念はだんだん私から追い払われ、放浪の夢ばかり見る」

これは、27歳の川端の過去を回顧である。


ノーベル文学賞の受賞の際の川端康成・ブログより
20才前後の彼が、「孤児根性」という言葉の重い含みに込められた、様々に屈折した感情を相対化するには、「家庭とかの観念」を払拭する何かが必要だったということである。

それが、「放浪の夢」にまで潜り込んだ自我を再建していく試みであった。

彼にとって、「旅」とは、それ以外にない自己防衛の戦略であり、もっと言えば、「孤児根性」を相対化した向こうに見えるだろう、発展的な自己構築の手応えを実感し得る未知なる時間と出会う試みであったに違いない。

この内面風景こそが、「伊豆の踊子」の「私」の昂揚感のルーツであり、旅芸人一座との交流の推進力であり、一座の人々からの人格称賛されたときの歓びであり、そして何より、踊子に象徴される一座の人々との別離の船内での嗚咽の本質であったと言えるだろう。

だから本来、「伊豆の踊子」はフラットな「純愛映画」ではなかったのだ。

(2010年6月)

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