2010年7月6日火曜日

奇跡の人('62)     アーサー・ペン


<様々な現実が交叉し、複層化した様々な条件が、限定空間で集中的に表現されたとき>



1  「躾の悪い山猿」との格闘技の世界が開かれて



ヘレンへの「教育」の困難さは、イメージ喚起能力の形成が、ヘレンの幼時的自我を脱却させる唯一の方法論であるにも関わらず、それを容易に持ち得ないことにあった。

「物」には言葉があり、それぞれ意味を表している。

そのことの理解なしに、イメージ喚起能力の形成は起こり得ない。

ヘレンの乱暴の本質は、彼女の脳が正常でありながら、「三重苦」によってイメージ喚起能力を持ち得ず、そのため人格相互間で、コミュニケーションが成立しない感情的苛立ちであり、それは自分の思いや欲求を相手に伝えられないストレスでもあった。

それは同時に、相手の訳の分らない振舞いの意味が把握できない不満であったと言える。

言うまでもなく、「共通言語」なしに、コミュニケーションは成立しないのだ。

暗中模索のアン(愛称アニー)・サリバンは、そのために、指話による言葉の獲得を目指した。

点字よりも指文字の方が効果的であるというアニーの信念は、ゲーム感覚の快感を随伴する経験則だった。

その経験則によって、「DOLL(人形)」という字を、アニー・サリバンはヘレンの手の平に書いたが、それが自分の抱いている「物」の名前であることを知るに至ったことは、ヘレンの聡明さの証明であると言えるだろう。

ヘレンに固有の、この知的条件は重要である。

ヘレン(右)とアニー(左)
なぜなら、程なくヘレンは、全ての「物」に名前が存在することを理解するようになったからだ。

だが、それは強制的なものだった。

然るに、アニーの最大の「敵」は、ヘレンをスポイルするだけの「教育」を常態化してきた、少女の両親だった。

だから、両親との衝突は不可避だったのだ。

食卓の場で、ヘレンが自分の好きなものだけを手を突っ込んで食べても注意しない両親を無視して、アニーはヘレンの振舞いを殆ど暴力的に押さえ付けた。

アニーは、両親に向かって叫んだ。

「躾の悪い山猿です!暴君に家中が支配されているんです!甘やかすのは哀れみの履き違えです!教えるよりも、同情する方が楽ですものね!」

「じゃ、何を教えた!」とヘレンの父親。

「今から教えます。皆、出て行って下さい!」

「雇われ人の分際で失礼だぞ!」と父。

「6年間も、同情しか知らなかった子が哀れです!」

部屋に鍵を掛けて、ヘレンに対するアニーの強制的な教育が開かれた。

ヘレン(左)とアニー(右)
殆ど、格闘技の世界が展開されたのである。

部屋の中で暴れるヘレンと、それを暴力的に支配するアニーの「教育」の構造は、基本的には「権力関係」の形成を具現させるものだったが、しかし、それ以外に方法がないと確信する20才の半盲の教師の、覚悟を決めた教育実践だったと言えるだろう。

この一連の行為は、20才の若さ故の暴走と受け取られても仕方ないが、それは、このような突破力なしに成就し得ない教育実践の艱難(かんなん)さを示すものであった。

まもなく、へとへとになって、格闘技の世界が展開された部屋から、アニーが出て来た。

同時にへとへとになったヘレンを、母親はこれまでもそうしてきたように、限りなく熱く、深く抱擁した。

母親のこの対応は、強(あなが)ち誤ってはいないだろう。

問題は、父親もまた、娘を存分にスポイルしてきたことである。

そのため、「甘えるだけの幼時的自我」を、ヘレンは延長させてしまったのである。

良かれ悪しかれ、この親子の一方的な甘えと依存の関係を、アニーは断ち切る必要があった。

そのための手段は、ヘレンを両親と離れた場所で教育することだった。

そのために、アニーが選んだのは、森の中の小屋でのマンツーマン指導であった。

閉鎖的空間でのこの指導は、「権力関係」の加速的形成を具現させる危うさを持っているが故に、教育の範疇を超えて、根柢から自壊しかねなかったのは事実。

それでも、この類のマンツーマン指導以外の方法論が存在したか否か、難しいところである。

ヘレン・ケラー①(ウィキ)
私たちは、「児童の権利を重視する現代の教育の視座」によって、南北戦争後の秩序の空洞が延長されていた150年前のアメリカ南部の一地方での出来事の是非を、安直に判断し、「裁く者」のように指弾する行為に走ることを自戒する態度を決して捨てないことを、絶えず肝に銘じなければならないのだ。



2  イメージ喚起能力を獲得した「WATER」の発見



2週間限定の、森の中の小屋でのマンツーマン指導は、一定の成果を収めたと言えるだろう。

黒人の少年を巧みに利用したアニーの「教育」は、ヘレンの嫉妬心を惹起させたことで、却って、指文字指導によるヘレンの学習意欲を加速させたからである。

2週間後、アニーはヘレンを迎えに来た両親に、依然として指文字の意味が理解できない現状を伝え、1週間の延長を申し出たが、両親は表面的な礼儀を体得したヘレンに満足したことで、やんわり拒絶した。

そして、ヘレンの帰宅祝いの晩餐会が、ケラー家で催された。

その晩餐会で、ヘレンのとった行動は、アニーを挑発し、両親を試すものだった。

ヘレンはアニーが首に着用させたナプキンを、その都度、床に払いのけたのである。

その行為が三度に及んだとき、「許せません」と言って、アニーはヘレンの食事を取り上げ、強制的に食卓から引き剥がし、連れ出そうとした。

テーブルを繰り返し叩くヘレン。

「娘が戻ったお祝いよ」と母。
「先生と話し合った。わがままは見逃せん」と父。
「たかが、ナプキンよ」と叔母。
「家に戻ったお祝いだ」と父。

彼もまた、ここで妻に歩み寄った。

「親の反応を試しています。私を試しています。許してはいけません」

完全に孤立するアニーは、それでも妥協せずに、4人の家族を前に自分の主張を貫いていく。

「私がいたら、ヘレンは学習します。手を離れたら最後です」

覚悟を決めたその言葉に、胸に抱くヘレンを、母は「お願いします」と言って手放した。

なお暴れるヘレンは、アニーの手を噛み、ピッチャーの水を顔面に吹きかけたのだ。

「手を出さないで下さい!干渉しないで!眼の見える子として扱い、物を見せてやります。邪魔しないで!水を汲ませます」

そう叫んで、ヘレンを抱いたアニーは屋外に出て行った。

「ウォーター」を発語するヘレン
アニーがヘレンを連れて行った場所は、ケラー家の庭にある井戸水のポンプ。

「WATER ウォーター。これが名前よ」

そう言って、アニーはヘレンに指文字を使って、「水」の言葉と意味を同時に理解させようとした。

ヘレンが反応したのは、そのときだった。

左手に垂れてくる井戸の水に対して、「ウォー、ウォーター」という言葉を発したのである。

次々にヘレンは、指文字を使って、「物」に対する正確な言葉を発するのだ。

「大地」、「ポンプ」、「木」、「階段」、そしてアニーの呼び声に応えて、屋内から出て来た「母」、「父」を特定し、最後にアニーの顔を両手で挟んで、指文字で「先生」と発したのである。

それは、ヘレンが初めてイメージ喚起能力を獲得した瞬間だった。



3  「キリスト教的使命感」と社会的自立への強い意志 ―― まとめとして①



ヘレン・ケラー②(ウィキ)
ここに、アニーが結んだ重要な言葉がある。

相手は、ヘレンの父のアーサーである。

「理解のない服従は、眼が見えないのと同じです・・・厳しい現実を生き抜くには、服従だけでは不十分です。愛してはいません。自分の子供ではないし・・・」

自分の教育を評価するヘレンの父に、アニーははっきりそう答えたのだ。

「理解のない服従は、眼が見えないのと同じです・・・厳しい現実を生き抜くには、服従だけでは不十分です」という言葉には相当の決定力がある。


しかし、ここでは、その直後の言葉に拘りたい。

自分の「生徒」への感情を、その「生徒」の父に向かって、アニーは「愛してはいません」と言ったのだ。


これは重要な表現である。

アニー・サリバン
アニーは、「愛」によって、ヘレンへの教育を出発させたのではないのだ。

少なくとも、「愛」による教育の必要性を過剰に語って見せる、現代の「お子様教」の信徒たちには看過し難いものだろう。

奇麗事を言わない映画の本領がそこに垣間見えて、私には痛快だった。

大体、会ったばかりで散々暴れ捲る娘を相手にする只中で、どうして「愛」などという胡散臭い感情が生まれようか。

では、アニーが、あそこまでヘレンに強権的に関わり、そのマンツーマン指導を簡単に断念しなかったのは、なぜなのか。

報酬の問題もあるだろう。当然のことだ。

それだけか。

そんな彼女の心象風景を伝える映像が、ファーストシーン近くで拾われていた。

ヘレンの父、アーサー・ケラー大尉の手紙による斡旋の依頼を受け、パーキンス盲学校の校長、アナグノスがヘレンの教育のために家庭教師として選んだのがアニー・サリバンだった。

「君には欠点がある。他人に折れたり、妥協しないことだ。失敗すれば、辿り着く先は、君が育った惨めな孤児院だ」

これは、性格がきついアニーに対する、アマグノス校長の、忠告含みの餞(はなむけ)の言葉。

「神様が私を試されて、戦いを掘り起こしているのよ」

これが、アニー・サリバンの答え。

相当、自信過剰な表現のように見えるが、しかしアニーの主観的世界では、このような「キリスト教的使命感」が駆動力になったとしても可笑しくない。

元々、アニーはボストンにあるパーキンス盲学校を、トップで卒業したほどの聡明な女性だった。

しかしそんな彼女だが、予算も少なく設備も貧弱な孤児院で、足に障害を持つ弟を喪う不幸を経験し、本人も9回の手術の結果、ある程度視力を回復させたという経緯を持つ。

既に9歳で母親を亡くしていて、足の悪い弟と離れ離れになった忌まわしき過去が、アラバマへ向かう列車の中で、アニーの脳裡に過(よ)ぎっていたのである。

だからアニーは、相当の覚悟を持ってアラバマ行きに臨んだのだ。

この時点で、彼女は20歳だが、今で言えば、完全に成人化した一個の人格と見ていいだろう。

彼女は明らかに、社会的自立を志向していた。

このモチーフが、彼女のアラバマ行きの原動力になっていた。

現在のパーキンス盲学校の礼拝堂・ブログより
しかも退路を断っていた。

このアラバマ行きには、帰りのチケットが存在しなかったのだ。

「キリスト教的使命感」と社会的自立への強い意志。

これが、彼女のアラバマ行きの基本モチーフだった。

私はそう思う。

ところで、アニーの自我に、「ホスピタリズム」の特有の症状が張り付いていたのだろうか。

それは、「知的能力の遅滞」、「日常的な情緒不安定感」、「他人への配慮の欠損」、更に「顕著な依存性」などの性格傾向などを示す「病理」と言われるが、この中で、アニーの性格と関連付けられるものは、「他人への配慮の欠損」のみであって、「顕著な依存性」という症状とは全く無縁であったと言えるだろう。

恐らく、その意味で、彼女の「ホスピタリズム」が認められるのは部分的であるという把握が正しいだろう。



4  様々な現実が交叉し、複層化した様々な条件が、限定空間で集中的に表現されたとき ―― まとめとして②



賢明な教師と聡明な生徒が出会ったり、熱血教師とエネルギッシュな生徒がマンツーマン関係を形成したりしても、必ずしも、成功した教育が約束される訳がないように、教育の成功は常に相対的であり、「この方法が全てを解決させる」などという手品は存在しないのである。

人間の現実は、一つではないのだ。

映画の中のヒロインも言っていた。

「現実は一つではないのよ。無数の現実が重なり合って、お互いを取り巻いているの」

この言葉は、「秋のソナタ」の中のリヴ・ウルマンの台詞。

まさに、人間の現実は様々な現実が交叉し、複層化して作られているものであるが故に、絶対的で普遍的な現実などというものは存在しないと言っていい。

ヘレンに対するアニーの、際だって個性的な教育が成功したのは、あらゆる現実の要素が重なり合った結果であると考えるべきである。

少なくとも、それらの現実をここで列記して見よう。

以下の通り。

① 「指話法」をマスターしたと信じる、盲学校卒の優秀な教師が存在したこと。

② その教師による「指話」を学習し得る、高い知能を持った生徒が存在したこと。

③ その生徒の家庭が、教師に対する不満を抱きながらも、教師による「教育成果」を客観的に評価し得る能力を持ち、その環境を作ったこと。

④ 教師の個人的性格として、「課題への成功イメージ」を具現しない限り満足できない、類稀な強い自我を持っていたこと。

⑤ そのような自我の有りようこそが、このような難しい課題への継続力、忍耐心、突破力を保証し、まさに、このケースでの教育的範例としてフィットしたこと。

⑥ そして、これが最も重要なことだと思うが、両者ともに社会的自立への顕在的(教師)、潜在的(生徒)なモチーフを内側にストックしていたこと。


このモチーフは、前者に「退路を断つ覚悟」、後者に「知的過程への好奇心」という感情傾向を分娩するに至った。

アーサー・ペン監督
以上、ここで列記した様々な条件が、限定的な空間内で集中的に表現されたとき、「ウォーター」の発見に繋がる革命的事態を惹起させたのである。

「物」と「意味」が繋がったことで、生徒は遂にイメージ喚起能力を手に入れたのだ。

イメージ喚起能力を手に入れた少女はもう、テーブルを叩き、部屋を暴れ回る必要がなくなった。

そこに至って、若い半盲(光に弱いから眼鏡の着用を常態化)の教師の「強い使命感」は自己完結し、自ら働くことで報酬を得るという決定的な社会的自立を果たしていく。

このような著名な実話を、奇麗事の言辞を殆ど吐かず、リアリズムに依拠した厳しい人間ドラマを完成させた作り手の手法は天晴れだった。

本作の閉じ方に大袈裟なBGMを用いることなく、そこだけは如何にもハリウッドらしい感動譚に仕上げていたが、しかし、そこで観る者を共振させた物語の残像は、決してハッピーエンドの大団円とは無縁な何かだった。

それでいいのである。

(2010年7月)

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