2010年7月10日土曜日

秋のソナタ('78)   イングマール・ベルイマン


<母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇>



1  炸裂する母娘の愛憎劇の極相を炙り出して①



「私は日々、生きる術を練習している。問題は自分が何者か分らないことだ。答えは見えない。誰かが、ありのままの私を愛してくれたら分るかも。でも、今の私にはそんな希望はない」

これは、牧師である夫のヴィクトールが、映像の冒頭で、苦労して記者になった妻のエヴァの、その処女作の一文を読み上げたシーン。

「いつか彼女に告げたい。ありのままの君を心から愛していると。だが、上手い言い方が見つからない。言葉にならないのだ」

これは、カメラに向かって語る牧師自身の思い。

そのエヴァが夫の許可を取って、国際的に著名なピアニストである母のシャルロッテに手紙を書いた。

7年ぶりに会いたいという内容だ。

13年連れ添ったレオナルドの逝去の報を知って、母を慰めたいというのが、その理由。

快諾する夫。

そして、母シャルロッテが牧師館にやって来た。

ヴィクトールとエヴァが静かに暮らす牧師館は、ノルウェー北部にある、風光明媚な平和な村にあった。

牧師館に到着早々、シャルロッテは、痛みで苦しむ中で死んでいったレオナルドの壮絶な最期の様子を、涙ながらに娘に語った。

「私、変わったと思う?」

話疲れたのか、母の声のトーンは一転する。

「昔のままよ」

エヴァ(左)とシャルロッテ
遠慮げに、娘は答えた。

笑顔を振り撒く母に、娘は身構えながら言った。

「ママ、話があるの」
「え?」
「ヘレーナがいるの」

母の表情が、途端に変容した。

「不意打ちね」
「そう手紙に書いたら、来ないでしょ?」
「来るわよ」
「いいえ、来ない」
「レオナルドが死んだ上に、ヘレーナと対面だなんて」
「2年前に引き取ったの。ヴィクトールと相談して決めたのよ。手紙に書いたでしょ」
「知らないわ」
「読まずに捨てた?」
「何てこと言うの?」
「ごめんなさい」
「今日は会う気になれない」
「ママ、ヘレーナはとてもいい子よ」
「ママに会いたがっている」
「なぜ、療養所から引き取ったの?」
「一緒にいてやりたいの」
「その方が良いと?」
「ええ。私が世話できる」
「あの子の病気、昔よりもずっと進んでいるの?」
「ええ。そういう病気だもの」
「案内して」
「いいの?」
「仕方ないわ。自分勝手な人間には参るわ」
「私のこと?」
「早く参りましょう」

母はそう言って、嫌なことを早く片付けたい思いで隣室に入って行く。

この母に、脳性麻痺を病む実妹のヘレーナに会わせることが、エヴァの目的だったのだ。

聞き取りにくいヘレーナの言葉を、エヴァの説明つきで、形式的な母娘の会話が成立するが、部屋で一人だけになったとき、堪えていた母の不満が小さく噴き上がった。

それでもシャルロッテは、脳性麻痺の娘と会ったときの複雑な感情に捉われていく。

「恥をかかせるために、私を呼んだのよ。負い目を持たせるために。・・・でも、泣いてはダメ。あの子の大きな瞳。両手で顔を挟んだとき、喉の引きつれが見えた。何てこと!昔は抱き上げて、ベッドへ運んでやったのに…あの柔らかい弱々しい体。あれが私の娘?泣いてはダメ・・・こんなの沢山」

一方、エヴァは夫に満足げに報告する。

「母はショックを隠して、笑顔を作ってたわ。非の打ちどころのない演技だった」

そして、夕食の場に現れた母は、「きっと喪服を着て来るわ。演技で」というエヴァの予想を裏切って、赤いドレスで颯爽と姿を見せたのである。

それもまた、エヴァの感情を見越して、逆手に取ったもの。

夕食後のシャルロッテは、「不安に怯える母」というイメージを発信するのを回避するかのように、敢えて饒舌に振舞っていた。

そんな母に、エヴァはピアノを弾いてみせた。

ショパンのプレリュード(前奏曲)を、たどたどしく弾く。

緊張感を隠し切れなかった。

「良かったわ」
「ホントに?」
「あなたがね」
「どういう意味?」
「折角だから、何か別の曲を」
「批評を聞きたいの」
「悪くなかったわ」
「ママの解釈を教えてよ」
「それほど言うなら。技術的にはまあまあだけど、曲想の話だけをしましょう。情感と感傷は違うわ。冷静かつ明瞭に表現しなくては」

そこに、ピアノの本格的な教授が開かれた。

目八分に見る態度こそ露骨に示さなかったが、結局、母は娘のピアノの技巧を否定したいのである。

彼女は自らピアノを弾き、模範を見せた。

得意げにプロの腕前を見せる母に、劣等感を感じる娘は距離感を覚えるだけだった。

「分ったわ」
「怒ってるのね」
「怒ってなんかいない。昔はママを尊敬したけど、うんざりした時期も少しあった。今は別の意味で尊敬している」

打ちのめされて、萎縮する娘がそこにいた。

その直後の映像は、散歩を勧める母を、4歳の愛児エーリックを喪ったエヴァが、その愛児の部屋で過去の辛い思いを語るシーン

劣等感を抱かされた娘が、母に対して明らかに心理戦争を挑んでいるのだ。

「人間は素晴らしい生き物。想像を超えた存在よ。人間の中にあらゆるものがある。悪人、聖者、預言者、芸術家、偶像破壊者、一人の中にその全てがある。現実は一つではないのよ。無数の現実が重なり合って、お互いを取り巻いているの。境界はない。思考にも、感情にも。恐れが境界を作るだけ」

それは、自分の劣等感を相対化し、境界を作って生きる母に対する存分のアイロニーだったが、その後のヴィクトールの言葉によって、それが愛児を喪ったエヴァの複雑な感情を表現したものであることが判然とする。

このとき、母が無言だったのは、噴き上がりつつある感情を封印するためだったのか。

死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、ヴィクトールはシャルロッテに語りかける。

「プロポーズしたとき、彼女は“あなたを愛してない”と。恋人がいるのか?と聞くと、“誰も愛したことはない。愛し方を知らない”と。そして数年が過ぎた頃、エーリックが生まれた。私たちは子供を諦め、養子を考えていました。だが、エヴァは別人のように変った。前よりも陽気に優しく、活発になった。だが、急に何もかも変った。エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」

エヴァは、エーリックの死を受容してないのである。

そう言っているのだ。



2  炸裂する母娘の愛憎劇の極相を炙り出して②



その晩、就寝中にうなされて、ベッドから起きてきた母に気付いたエヴァは、共に寝衣のまま会話を繋ぐが、その話題の発端も二人の不和の原因となった母の駆け落ちだった。

「私が憎いのね」
「分らない。なぜかママをここへ呼んで、会おうと思い付いた。もう、昔のことは水に流せると思ってた。ヘレーナの病気のことも。でも、まだダメみたい」

ヘレーナの叫びに呼応するように、エヴァは妹の部屋に駆けつけた。

妹の手を握り、眠りの世界に戻してあげたのだ。

「ママにとって、私は都合のいいお人形。手に負えないときはメードに任せっきり。ママの練習の邪魔をするのは厳禁だった。ピアノの音が止むと、そっと中へ入った。ママは優しかったけど、いつも上の空。気に入られたかった。私は醜い娘。足は大き過ぎ、泣きたいほど不格好だった。ママは言ったわ。“男の子なら良かったのに”そして優しく笑った。傷ついたわよ。そのうち突然、スーツケースが用意され、ママは外国の言葉を誰かと電話。ママは私に近づいて、体に腕を廻し、キスして抱き締めにっこり笑った。心はもう遠くにあり、眼は私を見ていなかった。そして去った。悲しかったわ。死んでしまうかと。パパの膝で泣いたわ。そして日が過ぎた。二人で孤独に耐えた」

酔った勢いで、内側で溜まっていた母に対する不満を、娘は吐き出した。

「留守にしても責め、家にいても責める。私だって、あの頃は苦しんでいたのよ。背中を痛めて練習できず、仕事はキャンセル続き。人生に絶望していた。家族と離れ離れの生活にも罪悪感が・・・」

母の弁明を拒絶し、エヴァは感情を噴き上げた。

「愛し合う親子だと思い込んでいたから、ママへの憎しみは歪んだ形で現れたわ。悪夢にうなされ、爪を噛み、髪を引き抜いた。泣き喚きたくても、声を出せなかった!叫び声すら上げられない!恐ろしかったわ!正気を失うかと思った」

殆ど絶叫だった。

その二人の話を、扉の向こうで夫が聞いていた。

「産みたかったのに、ママが引き裂いた。一度でも他人を思いやった事がある?」
「中絶が嫌なら、なぜ承知したの?」

母も絶叫していた。

「不安だったのよ!ママに支えて欲しかった!」
「努力したわ!だからこそ、中絶を勧めたのよ!今まで、恨みつらみを隠していたのね!なぜなの?」
「話したって、ママは逃げるだけ。感情が欠けているわ。私とヘレーナを嫌っている。自分のことしか眼中にない、心の狭い人間。いくら愛しても、ダメな子としか思ってくれなかった。自分が傷ついた腹いせに、私を傷つけた。弱い部分を全て痛めつけ、命あるものを全て殺した・・・私だけじゃない・・・ママは自分を愛さない者を絶対に許さず、私に愛を強制した。自分の愛情を口実にして、“あなたとパパとヘレーナを愛してる”と。そして愛を演技して見せる。ママのような人間は害よ。閉じ込めておくべきなのよ」

ここまで言われて、シャルロッテは表情を歪めて、両手で顔面を覆った。

「娘と母。恐ろしい関係だわ。互いにいがみ合い、憎み合って、傷つけ合う。全てが愛を理由に為される。母の傷は娘に受け継がれる。母の失望を償うのは娘。母の不幸は娘の不幸になる。ママ、教えて。娘の不幸は母の喜びになるの?」

シャルロッテは黙しているのみ。

ヘレーナの叫びが劈(つんざ)いた。

暫く時間が経って、母が口を開いた。

「私は愛情を知らない。優しさも触れ合いもぬくもりも、何一つ。気持ちを表現する手段は音楽だけだった。時々、思うのよ。自分は本当に生きているのか。生きるのは特別な才能が必要なのか。才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?そう思うと、怖いわ。自分自身の姿が恐ろしく見えるの。顔と体は年老いたわ。でも本当は、生まれてもいない。姿が見えない。あなたやヘレーナや、レオナルドの姿も。二人を産んだことは覚えているわ。ひどい痛みだったことも覚えている。でも、どんな痛みだったか思い出せない。レオナルドが言った。“現実感を持つことは一つの才能だ。多くの者は才能がない。その方が幸せだ”・・・あなたを恐れていた」
「私を?」
「本当は労わって欲しかった」
「私は子供よ?」
「娘の愛を知り、私も愛したかった。でも、あなたの要求が怖かった」
「要求なんて・・・」
「されていると思ったのよ。“母親らしさを求めないで。弱い人間よ”と言いたかった」
「本当なの?」

涙ながらの母親の静かな吐露が、そこに繋がった。

ヘレーナが自分のベッドから這い出して来た。

母に対する娘の心理的復讐劇がピークアウトに達したとき、疲弊し切った母は、娘に赦しを乞うたのである。-

「ママ」と叫ぶヘレーナ。

床を這っている。

その夜の、鋭角的に母娘が尖り切った時間が、こうして閉じていった。



3  終章 ―― 母娘の愛憎劇の後で



牧師館を後にして、列車内でのシャルロッテの言葉。

「ポール。一緒に来てくれ助かったわ。ちょっとショックでね。娘のヘレーナがいたの。前より悪くなっていた。死ねばいいのに。私、冷たいと思う?」

そんな母の思惑とは無縁に、エヴァは散歩の中で瞑想していた。

「可哀想なママ。逃げるように帰って行った。おどおどして急に老けこんだようで。頬はこけ、泣き過ぎて鼻は真っ赤だった。もう会うこともない。じきに日が落ち、寒くなる。夫と妹に夕食を作らないと。今は死ねない。命を断つのは怖い。いつか神の恵みがあって。呪縛が解かれるかも・・・」

散歩に出ているエヴァの代りに、ヘレーナはヴィクトールに叫びを結んだ。

「“愛してる”って、悲しそうな顔をして泣いていた。再会を楽しみにしてたのに。あまり期待するなと言っておくべきだった」

その後、ヘレーナは何かを訴えていたが、それが何であるか、ヴィクトールには特定できなかった。

少なくとも、ここで言語化されたヘレーナの訴えを見る限り、彼女もまた、姉の心情が痛いほど理解できているのだ。

そして何より、姉が憎悪する母の心情もまた殆ど把握できていたのである。

「シャルロッテが帰ってから、エヴァは打ちひしがれている。眠れないようだ。母に冷たく当たった自分が、どうしても許せないと・・・」

これは、ヴィクトールのナレーション。

そんなエヴァが書いた、母への手紙。

「私、ひどいことをしたわ。闇雲にママを責めて。昔の恨みで苦しめてしまった。私が悪かったの。どうか、許して。これを読んでくれるかどうかわかりません。もう、手遅れかも。でも今は、今頃になってようやく気付いたの。許しは存在すると。相手を思いやるのは不可能ではないと。互いに支え合い、労わり合えると。二度とママを失いたくない。たとえ手遅れでも、諦めないわ。私は信じているの。まだ、間に合うと」



4  母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇 ―― まとめとして①



母娘の愛憎劇を、その裸形の様相を極限まで描き切った演劇的な室内劇は、或る意味で、母に対する娘の心理的復讐劇であると見ることができる。

この復讐劇の象徴的人格像、それは一人の障害者である。

その名は、ヘレーナ。

一歳のときに母に捨てられ、思春期までに脳性麻痺を発病し、それを悪化させたが故に療養所送りになった娘である。

このヘレーナを、エヴァは施設から牧師館に引き取り、手厚い看護を継続させていた。

そのエヴァは、母のシャルロッテを牧師館に招いたのである。

事情を知らないシャルロッテが牧師館を訪れ、エヴァの案内でヘレーナと対面させられたとき、思わず呟いた。

「不意打ちね」

この言葉に包含されたネガティブな感情は、本作を貫流させる意味を持つと言っていい。

エヴァが母を呼んだのは、ヘレーナと対面させるためであった。

対面させることで、かつて自分たち姉妹を捨てて駆け落ちした母の反道徳的行為を指弾し、追い詰めたいのである。

母が捨てたものの現実のスティグマを象徴する、その人格像を当人の前に晒すことで、7年間も会うことをしなかった母に罪責感を負わせ、娘は決定的な心理的復讐を自己完結したかったのではないか。

そう思えるのだ。

過去からなお延長させている現実のスティグマを、有無を言わさず、エヴァは母に負荷させたいのだ。

その現実を見ることを拒みながらも、「愛を演技して見せる」(エヴァの言葉)母は平静さを装って見せた。

しかし、心理的復讐劇のピークアウトは、その夜にやって来た。

罵り合い、怒号が飛び、泣き叫び、へとへとになって、もうそれ以上何も言うことがないという辺りに辿り着いてもなお、娘は枯渇し切れない感情の残滓を、今度はくぐもった声で結んでいく。

最後は、母が嗚咽の中で謝罪し、赦しを乞うた。

「私の間違いを許して。やり直したい。どうすればいいか、教えて頂戴。もう、耐えられない。その憎しみに」

心身ともに疲弊し切った母は、まもなく知人の助けを借り、母娘の愛憎劇の極相を炙り出した牧師館を後にした。

その愛憎劇の中枢に竦む母を謝罪させたことで、封印していた内側の感情を相対的に濾過できた娘は、最後に、母に謝罪含みの手紙を書いた。

帰路の列車の中から、自分が訪れた長閑な風景を見遣りつつ、ほんの少し前に謝罪を結んだ母が、「愛憎劇の館」から自分を「救出」してくれた知人の前で、ヘレーナに向けたその一言を洩らしたのだ。

「死ねばいいのに」

凄い表現である。

イングマール・ベルイマン監督
しかし、ベルイマンの映像の凄みは、30代後半に、老教授の心象風景を描き切った「野いちご」(1957年製作)がそうであるように、常にこんな尖り切った表現に心理学的な説得力を与えてしまうのだ。

本作でもまた、人間の変わりにくさを抉り出した、その心象風景の凄惨なイメージは、母娘の愛憎劇が容易に軟着陸できないシビアな現実を検証したものになった。

そんな自己中心的な母でも、娘からの謝罪の手紙を読むラストカットでは、涙交じりに裸形の感情を身体化するのだ。

この振舞いは、この女の徹底したエゴイズムの発現であると見ることも可能だが、しかし、一人の人間の内側に、相手の誠実な対応に対して、率直に同化し得る人間性が同居していることの証左であるとも言える。

エゴイズムと感傷や同情、罪責感による自己嫌悪などの感情が、一個の人格の中で棲み分けることができるのだ。

それが、人間であるということだ。

母の涙は決して〈状況〉合わせの演技ではなかったし、それを指弾する娘の憤怒も、決して計画的な心的現象の逢着点であると決め付けられないのである。

濁った感情が噴き上げて、炸裂したときに形成される〈状況〉の中では、予想外のことが往々にして起こり得ると同時に、想像ラインの正反対の現象も出来し得るのだ。

この夜、母娘の愛憎劇のピークアウトの中で作られた〈状況〉もまた、そのイメージに近い何かだったかも知れない。

〈状況〉から一歩引いて客観視すれば、シャルロッテもまた、懊悩を抱える生身の人間だった。

「私は愛情を知らない。優しさも触れ合いもぬくもりも、何一つ。気持ちを表現する手段は音楽だけだった」

「私だって、あの頃は苦しんでいたのよ。背中を痛めて練習できず、仕事はキャンセル続き。人生に絶望していた」

これは、エヴァに吐露したシャルロッテの当時の胸の澱だが、強(あなが)ち嘘ではないだろう。

牧師の妻となったエヴァにも、母の懊悩が理解できない訳がない。

しかし、エヴァの懊悩の深さが、そんな母への包容力ある対応を一貫して拒絶してしまうのである。

次稿では、その辺りに言及してみよう。



5  母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇 ―― まとめとして②



元より、この復讐劇の起動点となったエヴァの喪失感。

これが、本作のドロドロの愛憎劇を最後まで支配し切っていた。

彼女は二重の意味で、深いトラウマを負っていたのである。

最も愛情を求め、それを受容する権利があることを実感し得る、思春期という難しい時期に、彼女は母から捨てられたのである。

自我のルーツである母から捨てられた子供は、「母から捨てられるしかない価値のない娘」という自己像を結んでしまうのだ。

この自己像が、芸術家である母との対比による劣等感を決定的に植え付けられ、いつしか、「生きていく価値のない子供」というネガティブな自己像を肥大させ、人生に対するポジティブな関わりを回避していく狭隘な生き方を内的に要請してしまうのである。

そして、もう一つの喪失感。

それは、ようやく安定した家庭を築けたと信じられる只中で、愛児を喪ってしまった由々しき現実。

最も可愛い盛りの4歳のエーリックを喪ってからのエヴァの人生は、PTSDに捕縛される者に、得てして多い「感覚鈍磨」の感情傾向を際立たせていった。

「エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」

これは、死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、エヴァの夫のヴィクトールがシャルロッテに語った妻の心的風景である。

エヴァの感情傾向を決定付けた、この「感覚鈍磨」の本質は、「もう、これ以上喪失感を味わいたくない」という自我防衛機構が作動したものである。

自らの感覚を鈍磨させる戦略によってしか、彼女は人生を繋げなくなってしまったのだ。

しかし、そんなエヴァが、どうしても感覚を鈍磨させることができないものがあった。

母に対する憎悪である。

「アンビバレント」という言葉が示すように、切望しても手に入れられなかった愛情は憎悪に変わりやすいのだ。

言葉を換えれば、エヴァは、憎悪に変換した感情のエネルギーを保持し得ていたのである。

この感情のエネルギーだけでも、人間は生きていけるのだ。

何より、彼女はこの二つの喪失感の原因を母に還元させていた。

だから、彼女は母に対する心理的復讐を遂行する必要があったのだろう。

少なくとも、それなしに済まない固定化されたモチベーションが、彼女の内側を不必要なまでに支配していたのである。

「自分の人生の全てを奪った母」という憎悪の物語によってギリギリに生き、それを自己完結することで、自分の過重な精神的リスクを少しでも払拭したかったのだ。

ヘレーナの存在は、エヴァにとって、エーリックという愛情対象を喪失した代替人格であったと言っていい。

そして、それ以上に、母娘の憎悪劇の象徴的存在として、彼女の中で特定的に位置付けられた人格像であった。

ヘレーナが生きている限り、母への憎悪は希釈化されないのだ。

なぜなら、ヘレーナの病状悪化の原因もまた、母にあるとエヴァは確信しているからだ。

シャルロッテがレオナルドを伴って娘たと会ったとき、ヘレーナはレオナルドに恋をした。

そこで母だけが仕事に出かけて行き、レオナルドを失望させた。

その思いを態度に表したことで、ヘレーナの病状を悪化させた、とエヴァは母に説明したのである。

以下、彼女の言葉。

「駆け落ちしたとき、ヘレーナは、まだ一歳。病状が悪化すると、療養所送り」

遂にエヴァは、ここまで母への憎悪を言語化したのだ。

「自分が傷ついた腹いせに、私を傷つけた。弱い部分を全て痛めつけ、命あるものを全て殺した・・・私だけじゃない・・・ママは自分を愛さない者を絶対に許さず、私に愛を強制した。自分の愛情を口実にして、“あなたとパパとヘレーナを愛してる”と。そして愛を演技して見せる。ママのような人間は害よ。閉じ込めておくべきなのよ」

返す返すも、凄い表現である。

然るに、自我の中枢の一画を空洞化させたエヴァの、「感覚鈍磨」と「憎悪に変換した感情エネルギー」の保持を並存する自我防衛戦略は、危うさに充ちていると言えるだろう。

母への炸裂によって、一時(いっとき)、憎悪感情が希釈化されたものの、どこまでもヘレーナが生きている限り、母への憎悪は氷解されないのだ。

ヘレーナの存在は、愛情対象の喪失の代替人格であると同時に、母娘の憎悪劇の象徴的存在なのである。

と言うより、エヴァの憎悪が結晶した人格像こそヘレーナであると言っていい。

ヘレーナとは、エヴァの内面の闇を投影した、ネガティブな象徴的人格像なのだ。

ヘレーナへの献身的な介護を通して、エヴァは自己を見つめ、封印し得ない過去を想起することで、反転して母への「憎悪に変換した感情エネルギー」を再生産させてしまうのである。

だから簡単に、エヴァの全人格的な復元と再生は予約されないのである。

ベルイマンは、そういう映像を構築してしまったのだ。

いつもながら凄い映像だった。

殆ど心理学の世界だった。

人間の愛憎の極相を精緻に抉り出し、それを二人の登場人物の会話のみで描き切ったベルイマンの映像は、ここでも、殆ど彼なしには創造し得ない芸術作品の域にまで高め上げていったのである。

(2010年7月)

1 件のコメント:

  1. この評者もすごい表現者だと思います。
    イングリッド・バーグマンは自身最初の夫との間の娘を一時捨てた格好になっていました。のち引取り、異父兄弟たちと仲良く暮らしたようです。少々本人と重なる状況ですが、最後の、母が娘に謝るシーンは、米ルマンと激しく対立し、こうはやれないと、大ゲンカしたそうです。結局は米ルマンの想定通りに、しかしバーグマンの表現で演じ切ったそうです。私もまた娘の母で、夢を娘に託し、献身しましたが娘は我が道を行き、親の願いはかないませんでした。この映画と違うのは娘は親を愛しており、親には到底受け入れられない結婚をしたことで親と疎遠になったことを辛がっていること、自己実現し自分らしさを通した結果、現在不幸だというアイロニーに陥っていることです。日本の場合は母娘関係に家父長制の影が落ちている天があります。母もまた悲しいのです。母もまたかつて悲しい娘だったし、その母の母もまた。

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